操舵手ヘボンの受難#49『決戦前日』
ヘンシェルデの話が漸く終わる頃には、5人はとっぷりと奇妙なマグラートの前で寛いでいて、本来の用件をすっかり忘れるところであった。
しかし、それをなんとか思い出した大佐は乗員の顔合わせは済んだと、ベルンやニール達にまた少し長い演説めいた激励を送ってから、ヘボンの乗った車椅子を押していって、浮きドッグを後にした。
昇降機に乗る頃には夜も更けていて、ヘボンは身体の痛みと先程の熱っぽい話の数々に眠気が一向にくる気配もなく、ただ呆然と彼女に押されるがまま塔の上層部へと上がっていく。
「どうせ顔見知りな訳だから短く済ませたかったんだが、随分と長くなってしまったね」
彼女は昇降機の縁から、ヨダ地区の夜景を眺めながらそう言った。
だが、そうは言っても元来が話し好きなのであろう彼女の性質が事を長引かせた一因であろうことはヘボンも感じていたが、あえてそれを口に出そうとは思わなかった。
「さて、ヘボン君。今度は君の身体に、少々特殊な処置を施さねばならないね。そうでもしなければ君の身体があの機体に操縦に耐えられないことは、此方も重々承知しているつもりだ。心配することは無い、実績のある治療法…というよりは応急処置だが、短期間の作戦行動なら十二分に耐えられるだろう」
彼女がどちらかと言えばヘボンよりも自分に言い聞かせるような調子で話し終える頃には、昇降機は産業塔の最上部へと達していた。
車椅子を押しながら入っていったその階層は、負傷兵達が雑多に転がされている病室とは一転して設備の整った高級そうな内装で、下手に高価なホテルよりも豪華な具合だった。
円形の広い室内には、艶のある家具が並び、産業塔独自の構造に適した配置となっている。
一見するに、高級将校用の病室であるとヘボンは感じとり、場違いな感覚を否めなかったが、そう自身について考えるよりも先に、室内の中央部にある巨大な赤い肉塊の様な物体がはみ出した長方形の箱が嫌に目についた。
「あれは…?」
それについて間抜けな声と顔つきでヘボンが問いかけると、彼女は少し面白がるかのような風に
「あれは此から君の身体に張り付ける医療器具だよ。人工肉腫で、君の今は使えない四肢の動きを補助するようにする装置さ」
そう言うと、大佐はヘボンをその肉塊の箱の前まで押していき、何気ない手付きで落ちかかっている箱の蓋を持ち上げると、箱の中は更に悍ましい事になっていた。
流石にこの手の物に抵抗がない帝国人と言えども、少しは気に触りそうなものであったが、ここ数日に見てきた化け物達と比べれば、ペットのような物だと、ヘボンは少し顔を怪訝に歪める程度だった。
「なんとしても、君にはもう一働きして貰わないとならないからね」
彼女はそう言いながら、ヘボンを車椅子から徐に降ろしながら、箱の脇にあった寝台に彼を横たえさせ、彼の身体の一部と思えるほどに巻き付いた包帯や添え木を取り外し始めた。
慣れた手付きとは言えないが、それでもずぶの素人が行うよりもその作業は適切に思えた。 剥き出しになった傷口に肉の塊が押し当てられ、それは治療するというよりはその肉腫が此方に食い付くようなものに感じられ、ヘボンは不快な感情を顔に表したが、大佐は黙々とその作業を続けていき、やがてヘボンの身体は包帯だらけから肉腫だらけになってしまった。
「これでいい。後は肉が定着するまで、安静にしていてくれ給え。必要な物があったら言っておくれ、私はずっとここにいるよ」
何か不出来な日曜大工を終わらせたあとの満足そうな顔で、彼女は対の長椅子に腰掛けて、胸ポケットから煙草を取り出して、吸うかどうか指に挟みながら此方に向けてくる。
ヘボンはそれに対して軽く頷くと、彼女はまたヘボンの口に煙草を咥えさせてから、火を点けてくれた。
自身より遙かに目上の人物にこんなことをさせるほど、ヘボンは無礼な男という自覚は無かったが、少なくとも彼女に対してはこのぐらいは良いだろうという気は感じていた。
「あぁ、そうだ。言い忘れていたが、あのマグラートの機長は私が勤める」
紫煙を吸い込みながら、身体に食い付く肉の痛みを僅かにでも紛らわそうとしていた矢先に、大佐がそう出し抜けに言ったので、ヘボンは目を剥いた。
「そんなに驚くことは無いだろう?私の指揮できる艦船は、もう無くてね。近衛の連中もヨダの方も私にむざむざ新鋭艦を寄越したくはないし、勝手に墜とさせてもいけないからね。文字通り君と一緒に一番槍を勤めるわけさ」
彼女は此方の様子を面白がるように、この数週間の間に幾度も見せた笑みを浮かべ、ヘボンの口から煙草を取ると、紫煙を吐き出す余裕を作った。
「こうなってしまうと、君と初めて出会った夕暮れを思い出すね。…そうは言ってもそんな長い期間ではないのだが、濃密であったことは確かだろう?」
戯けた様に言いながら、彼女は口から取った煙草を今度は自分が吸い始めた。
「…ねぇ、ヘボン君。君はこの戦いが終わった後のことを考えたことはあるかい?いや、アーキルとの戦争はまだまだ続くだろう。随分と長くやっている戦争だからね。私達の代で終わるのかも見当が付かない…けれど、少なくとも今の戦いは時期に決着が付くだろう」
医務室とは思えないほどに天井に向けてたっぷりと煙を吐き付けては、彼女はヘボンの瞳を覗き込むような仕草をしてくる。
ヘボンは彼女の言葉をただ静かに聞いていた。
「…私はね。負けても勝っても、今はなんとでも構わない気がしているんだ。これは皆の前では口が裂けても言えないが、君にだけは言おう。君にはきっとわかるからね。…君は私の過去を一部とは言え、見て感じただろう?あのリューリアの平原こそが私のルーツだ。勿論、軍で立身出世を夢見て飛び続けたのも事実だが、その根源にはあの平原から連れ去られた母と、そして、母の面影を最も色濃く受け継いだ妹を…」
大佐はそこで言葉を切ると、少し顔を伏せて俯いた。
ヘボンは静かに話を聞いてはいたが、煙草をまだ吸い終えていないことを口惜しく感じていて、彼女の顔から何かが滴り落ちたものを見ても、そこまでどうということはなかった。
彼女が譫言のように言っている言葉の節々には、先日に見た夢の内容を連想させる単語が幾つもあったが、ヘボンはあまりにも突飛なことが起きた際には、もう深くは考えない方が精神衛生上好ましいと判断していたので、とりあえず頷くだけの反応をしていた。
「だが、結局は両方とも失ってしまった。いや、次の戦いで失う様、運命づけられているのだよ、ヘボン君」
俯いていた彼女ではあったが、ヘボンが何かそれらしい言葉を掛けようとしたときには、勝手に顔を上げて決然とした表情になっていた。
元より、馬賊出の逞しい彼女のことであるから、世界が崩壊するような事態にでもならないと心が挫けないのでは無いかとヘボンは半ば呆れた。
「君はあの時、レリィグで誓ってくれただろう?だから、最期まで私と一緒に戦い続ける義務がある筈だ」
少し赤くなった目元のまま、此方をしっかりと見据えられると、ヘボンはあのレリィグの将校室で飲み干した赤い酒を出来ることなら、腹をぶん殴って吐き戻したい衝動に駆られたが、残念ながらあの赤い酒はもう既に、彼の身体を循環する血の一部になってしまっていた。
「義務は果たします、大佐。どちらにしろ、そうするしか道はないのでしょう?」
彼はどう足掻いても、こう答えるほかは無いと思っていたが、言葉尻だけは諦めの悪さを僅かに濁らせる。
それを聞いた大佐は、この変わらないヘボンの態度に安堵を覚えたのか、また皮肉げな笑みを浮かべて小さく頷いて、此方に休むようにと促してから、部屋の隅にある此方の寝台よりも寝心地の良さそうなソファに真っ先に進んでいって眠りこけてしまった。
途端に先程まで彼女の騒がしい心情吐露から、薄ら寒いような静寂が室内に訪れた。
ヘボンとしても休みたい気持ちは勿論あったが、元々、傷病兵の合間で眠りこけようとした矢先に呼び出されて運ばれて、ヘンシェルデの長話に付き合わされ、挙げ句の果てにはラーバ大佐の話と肉腫にまで取り憑かれてしまっては、休めと言われてもヘボンの感覚は中々に眠ろうとはしてくれなかった。
それでも、一時は休もうと目を何度か閉じたが、その度に何か張り詰めた神経を更に挑発するかのように、室外から何か物音を聞いて、ヘボンはまだ寝ることが出来なかった。
いくら何でも近衛艦隊とヨダ地区艦隊が詰めているこの地域に、敵が早々に攻めてくることはありえないと思っていたが、つい先日にラッシジアの穴蔵で味わった様な精神的な侵攻が無いとは断じきれなかった。
後者についてはどんな壁も距離も関係が無いように思え、自身が寝ることによってそれが迫ってくる気がして、気が気では無かった。
その為、部屋の外で何か物音がして、戸口に誰かが立っているのを見た際は大人げも無く彼女に助けを求めようとしたが、あまりに驚いたために口が無用に大きく開くだけで悲鳴らしい悲鳴は出せなかった。
その人影は薄暗くなった室内の窓から差し込む月光を浴びて、朧気な形で立っていて、意識をはっきりと保たねばしっかり目視できそうにない。
だが、恐怖に身の毛がよだっているヘボンに対して、人影はそっと小さく
「ボンボン」
と声を発した。
その言葉を聞いて、ヘボンは人影が何者であるのか察し、
「…ヨトギ君か?」
そう小さく声を掛けると人影は頷いているように見えた。
だが、その影はあのヨトギ少年にしては妙に高く膨らんだ形をしていて、月光にその姿が当たっていても何か黒いものが塗れているかのように判然としない。
「ヨトギ君なのか?」
もう一度、ヘボンは不安になって声を発したが、それはもう一度頷いたように頭が僅かに蠢いただけに見える。
これは退っ引きならない事態かもしれないと、本能的な危機を感じたヘボンは何か武器になる物は無いかと、ろくすっぽも動かない腕で辺りを弄ったが、この部屋には元よりそんなものは置かれていそうにない。
「ヘボン」
影はそう小さく呟くと、此方へ近寄ってきた。
その声音は既にヨトギ少年の空元気ともつかない高い叫びでは無く、幾重の声を複合させたような名状しがたい響きだった。
本来であれば常人を更に狂気に追い遣るような声音であったが、それを聞いてヘボンは冷静さを取り戻した。
「ヘボン。少しの間ではあるが、君には別れを告げなければならない」
「クルカマンっ!」
ヘボンはその影が近付いて、明瞭な姿を取る前になんとも旧い友達に再会したような驚愕と感嘆が入り交じった声を喉からひねり出していた。
窓から差し込む月光はその歪な生物の姿を明瞭に映し出し、その巨大な人型クルカのような異形の者は、さも当たり前かのようにヘボンの横へと親しそうに腰掛けた。
「別れとはなんだ。今までだって、そう何度も現れたりはしなかったじゃないか」
ヘボンは今までの狂気じみた恐怖も忘れて、この身体が思い通りに動くことならば、上半身を起こして彼と握手を交わしたい一心だった。
「そう言われてみれば、そうだ。確かに君とはここ最近、近すぎて、この姿の記憶をわすれるところだった」
「近すぎただって?ずっと私の中にいたんじゃないのか?」
ヘボンの困惑した顔にクルカマンは灰色の頭を振った。
「いやいや、何度も言うが、そうではないんだ。君は私とずっと会っているんだ。君は踊り手と再会を果たし、運命の紡ぎ手を引き寄せることに成功した。如何にその脆弱な身体を瀕死のスクムシのように這いつくばせながらも、あの古の邪法と対峙して一歩も退かなかった。漸く、その苦労が報われるときが近付いているが、それと比例して君と私は離れなければならないのだ」
相も変わらず妙な言葉遣いをする異形の者に対して、ヘボンは全く合点のいかない顔をしたが、そんなことなど些細なこととばかりに、クルカマンは話を続けるのであった。
「だが、私の依り代は君の傍にいるだろう。どの様な形であるにしろ、結果的には君を守るように運命付けられているのだ。だが、歌い手は君が守らなければならないぞ。君にそんなつもりは毛頭ないにしてもだ」
「歌い手?」
「そうとも、ここまで来れば、君は本能でそれが誰か察しているはずだ。私は教えられない、これ以上の干渉は龍の娘に悟られることになる」
クルカマンの言っていることがさっぱりとわからないが、ヘボンはついこの前に、彼と同じ様な語り口の何かに会った気がしていた。
それは夢の中で見た歪な少女である気がしたが、何を話していたかはよく覚えていない。
「歌い手をなんとしても守るのだ。それが君のその身を以て果たす使命なのだ」
折り重なった声はそう語り、ヘボンに何を考えているのか全く悟られそうに無い丸い目を静かに向けている。
「あぁ、しかし、ヘボン。もうこの姿で居られる時間は少ない。きっと、もう君とこうして話せる機会はないかもしれない」
「そんな寂しいことは言わないでくれ、クルカマン」
ヘボンは先程の大佐が感傷的になった時よりも、遙かに同情的にクルカマンに接していた。 彼は異形の者にしても、間違いなくヘボンの心の友であった。
「ありがとう、ヘボン。もし、また会えたらフライミードの」
そう言い残して視界の景色に不意な暗転が訪れた。
ヘボンはまだ何か彼に言いたいことがあったが、強く念じても身体と意識から力が抜けていく感覚に襲われ、ただ歌い手の件とフラミードの事だけが強く脳裏に残った。
翌朝にヘボンが覚醒したとき、事態は緩やかに進行していた。
窓の外では新鋭艦の群れが発着場に整然と居並び、ヨダ地区にある艦船が全て集められたかのような物量であった。
その光景を窓から眺められるほどに、覚醒したと同時にヘボンの身体は自由に動かせるようになっていた。
あの応急処置と言われ施された肉腫が、ヘボンの肉と骨の代用品として一時的に働いていてくれるらしく、その事にもヘボンは当初、驚愕はしたが、もっと驚いたことは、昨晩まで部屋に居たのは自身と大佐の二人だけだったはずが、今は室内には厳つくも崩れた軍服姿の男女達が和気藹々と詰めている事だった。
ヘボンは彼等に起こされた訳では無かったが、彼等がやたらめったら吐き出す紫煙の香りに無理矢理起こされたのだ。
「よぉ、曹長。ご機嫌如何ってなもんだ」
窓の外の景色を眺めていると、ヘボンの背後からここ数週間で何度も聞いた頼もしい濁声が掛けられた。
「元気です。ミュラー少尉もお変わりなさそうで」
そうヘボンは振り返って答えながら、室内を埋め尽くす男女達を怪訝に見ていた。
起きたときには既にヘボンは壁際に追い遣られていたので、誰かが寝台ごと動かしたらしい。
「あぁ、元気だ。おまけにもう一暴れ出来そうでワクワクしてる」
楽しげに少尉は言いながら、本当に興奮しているのか気前よく胸ポケットから煙草を取りだして、それを口に暢気に咥えて見せた。
「…勝算はあるのでありますか?」
「あるさ。無くてもやるがな」
少し不安げにヘボンは少尉の横顔を眺め問いかけたが、煙草に火を点けるその横顔には決然とした物があった。
「諸君、おはよう」
そう大声を張って、大佐が部屋に姿を現した。
昨晩までの見慣れた朱色の将校服から、階級が臨時に上がった為もあってか、朱色と白く染め抜いた帯を肩に掛けた少々特異な装いの軍服姿になっている。
彼女の挨拶に室内にごった返していたゴロツキ同然の兵隊達は、柄に似合わぬ整然とした動きで敬礼を返す。
これに窓際のヘボンと少尉も混じっているが、大佐は窓際に突っ立つことが出来ているヘボンを見ると満足げな笑みを向け、壁を背にしながら、兵隊達に演説を打ち始めた。
もう何度も彼女の口から尊大な長文句を聞いているような気がするが、今回ばかりは最期の戦いになるという事を幾度も強調し、兵隊達に対しては恩賞がどうこうと言うよりも、祖国の趨勢が如何に大事であるかを語っていた。
今更、この場に居て新兵めいた熱気を起こし、それに歓声を上げるような兵隊はこの部屋には一人もいなかった。
ただ、押し黙って煙草を燻らせ、半ば死んだような瞳で大佐を見つめていた。
各々に死線をくぐり抜けてきた古参達ばかりであることは、言われなくてもヘボンには窺い知れた。
「さて、前置きはこの程度にして、本題の作戦説明に入る」
そう彼女が言い出すまでたっぷり半時は経った様な気がしたが、兵隊達は辛抱強く待っていた。
「敵勢力の旗艦である邪龍を撃滅することが、我々第十三特殊空域旅団に与えられた最期の使命だ。諸君も既にある程度は聞き及んでいるとは思うが、移乗攻撃隊はこの私が勤める。諸君達はこれを援護し、隙を見て邪龍に突入し、内部核に爆薬を仕掛けて脱出する。極々単純至極な内容だ」
言葉尻に皮肉を込めながら、大佐は壁に掛けられた垂れ幕の装置を弄くって、何かの図面を兵隊達に披露した。
一見したところ、それはシヴァ級の物であることは窺えるが、その図面には書き足したような筆跡の後が所狭しと並び膨張していて、通常規格のシヴァ級の2・3倍はありそうな規模だった。
「通常のシヴァ級でも内部は連絡通路が隙間なく並んでいるが、目標の邪龍内部は度重なる改修によって、下手な要塞内部よりも広大で複雑な状態になっている。更に耳目省から入手した暗号文書の解読が先日に終了し、その情報と統合したところ、内部通路の具合は常に変化するとのことだ」
この説明には流石に押し黙っていた兵隊達も当惑したが、誰それに聞かれる前に大佐は素早く答えた
「我々の乗り込む艦船の生体器官よりも遙かに巨大な物だと思えば良い。この邪龍は基本となるシヴァ級を骨として、まるで筋肉と臓器のように生体器官を覆っているのだ。よって、我々はこの臓器の中へ突入し帰還しなければならない」
彼女の説明に兵隊達は更に困惑して、中には絶句したような表情をした者も居たが、大佐はそれに対して笑みを浮かべた。
「問題ない。寧ろ、頑強な装甲板に覆われているわけではないのだから、突破は比較的容易だ。邪龍の動力源である内部核へ達する為には相当量の爆薬を用意してある。移乗攻撃隊にはフレッド准尉が率いる工兵中隊も続く計画だ」
大佐はそう言いながら、いつの間にか背後に控えていた、影は薄いが顔の影はとても濃い女性士官を指差した。
ミュラー少尉が生還していたのだから、彼女もきっと無事であったのだろうと言うことはなんとはなしにヘボンは思っていたが、突然に現れるとどうにも心臓に悪かった。
「爆薬だけのみに頼ってはいられない。邪龍に対する橋頭堡を築ければ、アクアルア級二隻に搭載する砲戦車ゲシュを主軸とした戦車中隊と歩兵一個中隊も投入する」
心臓に悪いついでに、大佐が紡ぐ説明には不穏な色が浮かび続けている。
「…つまり、攻城戦でも行おうってわけか?」
誰彼ともなく、そんな声が聞こえた。
それは当人にとっては苦い呟きのようであったが、この室内では良く響いて聞こえた。
それを耳に入れた大佐はいよいよ興奮してきたらしく、背後にある図面を激しく叩き始めながら、また演説めいた熱のある声を張り上げる。
「正しく。正しく、その通りだ。火力と勢いに任せて邪龍を墜とすのだ。しかし、問題はそれを行うためには、まず、邪龍の周囲を守っている黒翼隊に加え、連邦軍事顧問団を遠ざけなくてはならない。この護衛戦力に対しての陽動は近衛艦隊とヨダ地区艦隊が総結集して引き受ける事となった。だが、邪龍は元々、単一でも多数の敵を撃滅する事が可能なことは諸君も知っているだろう?先の空戦において、我々を離散するまでに追い詰められたあの憎々しい雲のことだ。その正体について、これも暗号文書の解読成功によって掴む事が出来た。ここにいる一部の者はご存じだと思うから、詳しい説明は省くが、あの黒雲は『夜虫弾』の強化発展型の兵器であることが判明した。そうは言っても規模も威力も夜虫弾とは比べものにならない。あの兵器は目標光に反応して向かって飛行していって爆発する仕組みであったが、あの黒雲は…暗号文書の記載では『雷雲』と明記されているので今後はそう呼称する」
一気に喋り続けた為に、大佐は脇にあった机から水差しを取って、一呑みに杯を飲み干すと、一息ついてからまた話し始めた。
「兎に角、あの雷雲は我々の生体器官が持つ熱量に反応して飛行し、反応温度に達すると霧状の物質なっている爆薬が反応炸裂するのだ。さながら、雲の中で走る雷光のようにな。これを防ぐ手立ては、特殊な保護材を混入させた塗装剤を機体に塗布して反応を遅延させる他ない。その為、黒翼隊機は保護材の効果を最も発揮できるように、あの様な色になっているのだ。御陰で国中の塗装屋が好景気に潤っている次第な訳だ」
大佐の言葉尻は室内の兵士達を少し湧かせたが、不穏な内容はそのままに頭に響いてくる。
「我々がそれに対抗するためには、一撃で雷雲の発射口を黙らせるほか無い。陽動艦隊によって、敵護衛が大多数移動すれば、そこへ一気に火力を集中させる。機会は一度きりだ。此を逃せば次は無い。前回の艦隊戦よりも悲惨な被害を被るだろうし、十中八九殲滅される。最早、再起する手は無い」
そう言い終えると、彼女は少し間を開けてから口を開いた。
「しかし、諸君にはこの作戦を成功させるだけの実力と闘志を兼ね備えていることを、私はよく知っている。これまで生き延びてきたその悪運強さに、この帝国の運命を今一度賭けるのだ!ミーレ・インペリウム!」
自信の満ちた声と共に彼女はそう締めくくり、一同を強く鼓舞した。
彼女が最期に叫ぶと共に室内にいた兵士達が皆一様に叫び立て、士気は充ち満ちているように感じられたが、ヘボンの隣にいたミュラー少尉は彼と同じように押し黙っていた。
彼等だけで無く、何人かは大佐に批判的でないにしても、冷めた心情を持っている感がヘボンには感じられた。
先の艦隊戦の時も酷い惨状を呈していたが、今回はそれの規模が大きくなった分、より一層質が悪くなったように思えた。
作戦説明が済むと、一同は下階層の広間へと移され、そこで食事を取ることになった。
最後の晩餐とも思われてか、ヨダ地区の貴族料理人に腕を振るわせた豪勢な代物が、円状の広間に沿って作られた中央の大食台に並べられている。
小宴会の前に一同の中央に立ち、大佐が厳かに何かを述べていたが、そんな事など気にも留めずにヘボンは自由に腕や足が動く合間に食事を胃に入れてしまおうと、少尉の影に隠れて飯を取ろうとした。
しかし、少尉自体もヘボンと同じ魂胆であったので、この動きはあまり上手くいかなかった。