操舵手ヘボンの受難『最終話』

 操舵手ヘボンの受難 『最終話』

 

 全てが終わりへ向かっていた。
   最後の晩餐にも等しい食事を終えてから、一同はそれぞれの持ち場に就き始め、ヘボンは足を引きずるようにしてマグラートへと歩を進めた。
   ヨダ地区の船着き場はその全てを遣われているかのような忙しさを見せており、次々とドッグから離陸していく艦船の数々を見送る暇すら与えなかった。
   ヘボンが搭乗するマグラートはその内の一つであるアクアルア級へ搭載されるが、持てるだけの火力を結集するために、その空母の甲板には本来であれば艦載機が乗るところを、大量の戦車群が陣取っていた。
   艦船の火砲だけではあの邪龍の装甲を破るのは難しいと判断したものと思われたが、その数は異様な程の物で、最早、空母と呼ぶには相応しくないまでの針山のような砲が満載されていた。

 「此ぐらいの砲を景気よく使えれば、戦争なんてすぐに終わるのだろうぜ」

 マグラートに覚束ない足取りでなんとか辿り着き、操縦席に収まったヘボンを迎えたのはニールの皮肉であった。
   機体の通信士である彼は既にヘボンの座席下後方に居るらしく、ヘボンはその皮肉を頭に取り付けた受信機から聞いた。
   膨らんだ硝子張りから見える景色は、前代未聞の朱色に塗られた帝国艦船の群れが飛び立つ様を写していた。
   一生のうちでこれ程までの艦船の数を同時に見たことはヘボンには無かったし、きっと此からも無いであろう。
   仮にあるとしても一片も見ようと願いもしない。

 「各員、点検しろ」

 一頻りこの光景にも見慣れてくると、ヘボンより遅れてマグラートに乗り込んだ大佐が送受信機を頭に被せつつ、自身の回りに並ぶ計器の確認をしている。
   ヘボンの方も指示に従ったが、概ね機体の計器群はコアテラの物を流用している部分が多く、確認は比較的容易かった。
   無論、見慣れぬ新式計器のような物も多少はあったが、機体を操縦する分には支障はなさそうであった。
   マグラートの見た目は異形の代物であったが、その中身は今まで押し込められてきた機体群の集大成と言えるように感じられる。
   慣熟訓練は一切行えていないが、コアテラと運用法が変わらなければ問題はなさそうに思えた。

 「飛行系統は君に任せるが、艦船に取り付く際は私が代わる。その際、君は砲手の補助になれば良い。心配することはない。これ程の火砲で攻めれば、奴も必ず墜ちる」

 大佐は少ないながらも、ある程度、操縦系統の確認などを口頭で行い、僅かな励ましの仕草も見せたが、先程まで彼女が大演説を奮っていたことを思えば、それは気休めにもならない些細な物に思えた。

 「…不安そうだな、ヘボン君?」

 彼女は自分の言葉が全くヘボンに届いていないことを、飛行帽越しにでも感じとったのか、そう指揮席から聞いてきたが、不安で無いわけが無いとヘボンは小さく頷いた。
   今までも彼女の弁舌でその気になったことは少ない。
   少なくとも他の言葉に熱狂した兵士達も、もう既にここ数週間で大半が消えたであろう。 しかし、言葉自体は特にこの段階まで達した結果、必要性は希薄になっていた。
   邪龍を墜とす事だけが生存への拙い約束であったのだ。

 「安心したまえ、これが最期なのだ。約束しよう」

 彼女は幾度も言った言葉をヘボンに吐いた。
   その声音に皮肉な調子も無ければ、真剣な色合いも薄かった。

 

 飛び立った艦船群はヨダ地区から遠ざかり、群雲の中へと突入していく。
   各々の艦船から通信が飛び交うことは無く、無線管制が敷かれていた。
   敵の座標は一定の時刻に一度だけ陽動艦隊から送られる。
   それを一度だけ受信し他艦船に伝えたら最期、後は邪龍の元へ突っ込むだけであると、至極明瞭且つ中身もへったくれもない作戦説明を数刻前にヘボン達は聞いていたが、ここまでくると小手先の作戦も不要なのであろう。
   機体を飛ばす中、ヘボンは搭乗員達が一言も発しない沈黙の中に居た。
   大佐自体は幾ら演説好きであっても、もう喋ることは何も無いと言った具合に満足そうに指揮席に収まっていて、その姿は既に仕事を終えたような雰囲気すら感じさせる。
   しかし、それは半分、当たっていることなのかも知れない。
   彼女自身は大佐にまで昇進したが、それはあくまで死人への手向け同然の物だと自ら言っていた。
   それは、この作戦において彼女は指揮する権限が突入隊への指示程度に収まっていて、階級と実際に指揮をする差が開きに開いており、実態として彼女は一小隊長の力しかもう無くなっていたのだ。
   その為、弁舌を振るって策謀の限りに思いを巡らす事に彼女は興奮を覚えていたことも有り、今の立場は一兵卒と何ら変わりがないものであった。
   そんな晴れない彼女の心情を写すかのように、機体の周囲は暗い雲が漂っていて、ヨダ地区を離陸する際には晴天であったものが、心情の暗さを曇天が表現していた。

 「…ヘボン。本当にこれで終わるのか?」

 出撃してから数時間ぶりに耳に聞こえた声はニールの重そうな声であった。

 「始まったからには終わる。終わらないにしても、一区切りはつくんじゃないか?」

 その声にヘボンも同様な調子に返した。

 

 

 しかし、暗澹とした感情の膨張は、一度の声で破裂した。

 「座標が出た」

 ニールが耳に押し当てていた受信機から発せられる指示を受け、ヘボンはその針路へと機体を捻り始め、周囲を飛んでいた友軍機達もそれと同様に向きを変えている。
   各々が吐露した心情は作戦行動への集中に変わっていった。

 

 曇天の中で一点に空いた隙間から、晴れ間が差し込んでいる空域がそこに確かに広がっていた。
   しかし、その神聖とも感じられる光景の中央に陣取っている巨体は、あまりにも冒涜的で形容しがたい邪悪な存在に思える。

 「本当にいやがった!」

 そう叫んだヘンシェルデの声には出来れば、そこに居てほしくなかった心情も感じ取れたが、それはヘボンとて同様であった。

 「針路このまま!有効射程距離に入るまで、反転行動は許さん!突っ込め!」

 大佐の声は恐怖よりも興奮が押し勝ったような具合で、今にも指揮席から立ち上がらんばかりに盛り上がっている。
   その言葉にヘボンは操縦桿をじっと正面に据えることで、それに応え、マグラートと共に冒涜的な人工的に作り上げてしまった『邪龍』へと友軍機達と共に突っ込んでいく。
   友軍機共々に機首が邪龍へ向かう頃には支援砲撃が始まっていた。
   アクアルア級の甲板からは後続の友軍戦闘機も離陸し、その傍らには追加の火砲として無理やりに積載した戦車群の砲が火を噴いた。
   単純な砲だけでなく噴進砲の類や多様で雑多な火砲が、一斉に邪龍へと向かって放たれていた。
   その暴力的な流星群を脇目に、ヘボンはマグラートの操縦席で小さく慄きの様な呻きを漏らしながら、操縦桿を強く引くことしか出来なかった。
   操縦系統はほとんどコアテラからの流用であったから、さほど難は感じられなかったが、あまりにも視界の広い丸状硝子天板は、様々な情報が一度に目に入ってきて彼の脳を酷く混乱させる。
   邪龍へとの距離が狭まってはいる筈なのだが、周囲に飛び交う砲弾と銃火が一秒一秒を長く感じさせ、気の遠くなるような距離にすら思える。
   しかし、それでも一歩ずつ等という悠長な物とは比べ物にならない速さで、攻撃隊は邪龍に迫りつつあったが、その辺りで相手からの対空射撃が始まった。
   先に砲撃を開始したのは此方からであったが、あの化け物に対する恐怖がそうさせたのか、有効射程範囲外からの砲撃を誰ともなく始めてしまったのである。
   その為、支援砲撃自体は此方の艦隊と攻撃隊の居所を、敵に派手に知らせているだけに過ぎなかった。

 

 流星群のような砲弾の群れが邪龍の付近へと炸裂し、辺りは黒煙と白煙に包まれ、龍の対空射を幾らかでも防ごうという意図もあってか炸裂した砲弾の中には濛々と煙を発生させる物も幾つかあった。
   しかし、それも焼け石に水といった具合に煙を銃弾や砲撃が貫き四散させ、攻撃隊の数機が近くで直撃を喰らって撃墜される様が尻目に見えた。

 「突撃!突撃!」

 指揮席に収まる大佐は既にそれぐらいしか言うことが無く、ヘボンに一切速度を緩めるなと圧を送ってくる。
   ここ数週間で何度も経験した死線の数々が一斉にやってきたような感覚にヘボンは襲われたが、機体に直撃しない限りこれはまるで花火を見ているようだと暢気な思いも脳裏を過ぎっていた。
   だが、不意にその残酷な花火の最中に、ヘボンの脳に不快な響きが伝わり始めた。
   この様な極度の緊張状態であるにも関わらず、一定の落ち着いた音色が頭に鳴り出し、これが何を意味するのか彼はすぐに察しが付いた。

 (あの娘が見ている)

 まるで、徐々にその異形を見せつける邪龍の表面に無数に浮かぶ目玉の群れが、一点にヘボンを見透かしているような気配を感じる。
   あの邪龍の主はヘボンに対して並々ならぬ憎悪を持っている。
   ここ数日で様々な者達から怨みを買ってきたヘボンではあるが、超常現象的な力でヘボンにその意志を伝えに来ようなどと言う者は後にも先にも、その化け物だけであろう。

 「…奴は君を狙っている。だが、手頃に外で叩き墜とそうなんて思っていないだろう。必ず自らの手中でひねり潰すことを望んでいるはずだ」

 不意にヘボンの思いを察してか、大佐が指揮席から満足そうな声を出した。

 「攻撃隊各機へ!密集隊形を取れ!」

 彼女はそう通信士のニールへ伝えながら、また無謀な陣形を取り始めた。
   ただでさえ対空射の精度が嫌でも高くなる程に距離が近くなっているというのに、敢えて的にするかのように攻撃隊を一塊に集めようとしているのだ。

 「火力を集中させるぞ、目標は敵空母砲撃口!照準しろ!」

 彼女の無謀な指示が今に始まった訳でも無いが、それに素直に従う攻撃隊の面々も如何なものかと思うが、それでもマグラートを中心にして多種多様な戦闘機が群れを成し、その機首に備えられた機関砲や榴弾砲を邪龍へと向け始めた。
   マグラートの砲手であるベルンも、ヘボンの足下で素早く照準作業を行っている様子が見える。
   だが、照準作業をしているのは味方だけではない、ヘボンは脳に響く音色が強まるに連れて、邪龍も攻撃隊へ巨大な砲口を向けているのが目視できた。

 「向こうから向いてくれれば言うことは無いな!各機、一斉射の指示を待て」

 大佐は指揮席に収まりながら、興奮が徐々に昂ぶり始めた調子に通信士へ叫んでいる。
   その際にも邪龍と攻撃隊の距離は更に縮まり、まるで大きく黒い壁のように見え、その時は近付いていた。

 「ヘボン!お前に通信を回せって!」

 その時、ニールの声が聞こえたと思った瞬間に、ヘボンの受信機に通信が入った。
   本来なら、大佐の方に個別で通信が回る物かと思ったが、それは何故かヘボンに対してだった。

 「いよいよだ。大佐を頼むぞ、ヘボン」

 「──移乗攻撃に移ったら、彼女から離れないでください」

 「…姉より長く生きて」

 「お前とは初めてだが、良い腕をしているとは聞いている、頼むぜ」

 とかなんとかいう通信が一斉にヘボンの耳に入ったので、彼はどれも聞き取ることが出来なかった。

 「はい?」

 思わず幾多の通信に聞き返すのが精一杯で、誰が何を喋っているのかもヘボンはわからなかった。これは後に判明したことでニールが通信士として未熟であったせいと、戦闘時の混乱で回線を一斉にヘボンに繋いだ事による物であった。

 「何か?」

 もう一度、ヘボンは阿呆のように聞き返したが、妙な話、通信を返された者達はそれで十分だったのかも知れない。

 「今だ!全弾撃ち尽くせ!」

 それと同時に大佐の怒号が響いて、慌ててニールがまた通信を繋ぐと、攻撃隊の各機に備わった火砲が一斉に火を噴いた。 
   照準した火砲は、砲撃口から黒い霧を吐き出し掛けていた邪龍の元へと狙い澄まされ、凄まじい火線が吸い込まれるようにその口へと入っていった。
   それと同時に邪龍の口から目映いまでの閃光が迸り、一瞬、ヘボンは眼前に広がる光に視力を奪われるかと恐れた。
   そして、僅かの合間で視界が晴れたときにはもう既に邪龍の口は大きく開け放たれ、まるで口を開きすぎて顎が外れてしまったかのようだった。

 「先発攻撃隊は速度を落として張り付け、残りは後続隊の援護だ」

 大佐は各機に指示を出しながら、ヘボンに着陸態勢を取るように命令してきた。
   今までコアテラで散々やって来た胴体着陸とも不時着とも付かない動作が、ここに来て功を成したかそのヘボンの動きは身体に染みついたような物で、とてもスムーズだった。
   マグラートに備わる腕のような翼は後部の浮遊ガスを吐き出しながら、確実な動きで飛行姿勢を崩さずに曲がり始め、邪龍の黒い肉壁を岸壁登りのような具合で爪を立てて着地する。 それと同時にベルン曹長が橋頭堡を築く為の制圧射を開始した。
   着地した邪龍の砲撃口は薄暗く人工的な物体は確認できないが、兎にも角にも牽制射撃を加えることに戸惑いはなかった。

 

 ある程度、射撃を暗闇に向けて放ってから、照明弾を撃ち出すと、その場はまるで大凡人間が造り出した兵器の中とは思えないほどの空間であった。
   それは喩えるなら人体の内部と言ったものが適当で、周囲には赤黒い肉壁とその表面には脈打つ血管の様な物が浮かんでいる。
   正しくここは邪龍の口であった。

 「各機降機しろ、マグラートを先頭に前進する」

 大佐の言葉と同時に、その口内を更に進むべく、マグラートが先頭に立ち、7・8機程口内へ着陸が出来た攻撃隊の面々が、素早く戦闘機から降りてきて、各々の手には自動小銃から爆薬に加え、歩兵携帯用の噴進砲まで引っ張り出してきている者までいる。
   飛行帽をまだ深く被っている者も居れば、煩わしくなり脱ぎ捨てている者もあり、その中には何度か見たことのある人物も混じっていることをヘボンは脇目に見た。

 「随伴歩兵から離れないように、慎重に進め。不審な者は全て攻撃しろ」

 誰が誰であるか思い出そうとした矢先に、大佐は声に興奮振りを残しながら、ヘボン西地を飛ばしてきたので、彼はその言葉通りにマグラートをゆっくりと進ませ始めた。

 

 如何に帝国人が生体器官のような代物に見慣れていようとも、ここまで生物めいた戦艦の内部などは見たことが無かったであろう。
   あくまで邪龍はシヴァ級の改造船であるという儚い認識が、この脈打つ赤黒い肉壁の空間に吸い込まれていくようであった。
   正しくこの戦艦は生きており、なんらかの意志が明確に働いていた。
   そして、それが攻撃隊の進行を阻もうとでも言うかのように、肉壁はうねりながらその形を変容させていく。

 「二時にトーチカ!」

 大佐がそう声を荒立てながら、砲手に命令する。
   しかし、トーチカと不意に彼女が形容した物は床の肉が浮かび上がって、小さな人二人分ほどの山の事であった。
   マグラートの機首を素早く捻ったヘボンではあったが、一瞬、砲手が発砲に戸惑った間に小さな山のような肉の塊は、まるで大佐の言葉通りの砲台に似た形へと姿を変えていた。
   ヘボンはその様子を薄暗い中で確かに見て、絶句したが生々しい防衛設備の出現はそれ一つだけでは無かった。
   ちょうど、その脇の床や壁からも銃眼めいた物が浮かび出ては、これらが散発的に発砲してきたのである。
   すぐさま、砲手が立て続けに砲撃を見舞い、肉壁トーチカの幾つかは肉片となって飛び散った。
   マグラートについてきた歩兵隊も攻撃を開始し、機体の脇から発砲を加え、時折、手榴弾めいた物が投げ入れられてはトーチカと銃眼を潰していく有様で、その様子自体は大佐が作戦説明の際に話したような城塞攻略といった物に違いなかった。
   ヘボンも操縦席の足下脇に備わった搭載機銃の発射ペダルを踏み込みながら、肉壁の中に火線を走らせる。
  そのままマグラートの二本足を這うようにして、邪龍の体内へと歩を進めていく。

 「こいつは今までと勝手が違うぜ」

 そう足元から聞こえた声は狼狽するヘンシェルデ兵長の呻きであった。
   それが周囲の状況を指している言葉とは察せられたが、今更、この邪龍の胎内ともいえる空間に足を踏み込んで生きて出られるかは誰もわからなかった。
   ヘボンの脳裏には依然として不快な音色が響いていたが、それから彼を守るかのように周囲に響く銃声と爆音と、兵士たちの怒声がその不協和音を彼の頭から遠ざけていた。

 「大佐、後続隊も橋頭保に入りました。装甲車が来ます」

 抵抗してくる腫瘍の様なトーチカを沈黙させながら、歩兵達が展開を始めると、ニールが通信内容を告げてきた。
   一斉に数で責め、邪龍の砲撃口を封じた事が功を奏したらしく、強襲揚陸艦が二隻、対空射を黙らせながら、着陸に成功したらしい。
   現に後方から空輸可能な空挺戦闘車両が唸りをあげて向かってくる音が聞こえてくる。
   火力こそがこの作戦の要であることは誰しもわかっていたが、如何に邪龍の素体であるシヴァ級が巨大であるとはいえ、揚陸戦闘機マグラートに加え、戦闘車両が3個小隊と歩兵部隊が中隊規模で展開している様は、あまりにも邪龍の無法な改造が巨大であるかを物語っていた。

 「よし、合流次第、装甲部隊を正面に立てろ。我々は突入部隊の援護に入る」

 そう大佐は指示を出しながら、辺りを見回そうとマグラートの硝子天板を開いた。
   外気に有毒な物が含まれていれば、とっくに歩兵達に影響が出る筈で、彼女は飛行帽を取っ払って士気の鼓舞を図ってかその姿を兵達に見せようとした。
   そして、そうなってくると元来の演説好きの悪癖が首をもたげたか、マグラートに搭乗していた際は脇に押しやっていた軍刀を手元に引き寄せるとそれを抜刀して立ち上がり、高らかに掲げだした。

 「臆するな、諸君!」

 そう声高に叫び始めた彼女を見て、ヘボンはトーチカからの銃火がまだ完全には沈黙していないことを鑑みて、彼女を機内へと引っ張り込もうとした。
   砲手のベルンも通信使のニールも最も彼女から距離の近いヘボンに、中に戻すようにと顔で合図を送ってくるので、これに従うしかなかったが、若干ヘボンの負傷した足に対する応急処置をした人工筋肉はまだ動きが滑らかでなく、動きにもたつきが出た。
   少し動きが遅れているとヘボンが思った瞬間、大佐の身体が不意に浮いた。
   いや、浮いたというよりは吸い込まれるような調子に体が指揮席から機外へ昇ったのだ。
   一体何が起きているのかと視線を上げると、彼女が高く掲げた軍刀に何か肉塊の様な人ほどの太さはあろうかという触手が巻き付いていた。
   この段階でまだ彼女が軍刀から手を離せばどうということは無かったのかもしれないが、元来に荒っぽい彼女はそのまま触手に気付いた段階で切り払おうとしたのかもしれない。
   しかし、思いの外、触手の肉が厚かった為か切断はおろか、振り払う事も出来ずに軍刀を伝って彼女の腕を肉塊が包み込んで上へ引っ張り上げていたのだ。

 「ヘボン君っ…」

 大佐がそう咄嗟に声を張ろうとしたときには、既に彼女は天井の肉壁の中へと姿を消していた。
   それはほとんど一瞬の出来事であり、ヘボンは勿論の事、機外の歩兵達ですらその有様を見た時は酷く狼狽した。

 「大佐殿が喰われたっ」

 思わずヘボンは呻いたが、かといってどうすればいいかもわからない。
   それと同時に他の兵士たちも恐怖と混乱に飲まれそうになった。
   この邪龍の胎内じみた悪夢の真只中にあって、大佐の姿はある程度の理性を保つことに寄与していたらしく、それが怪異とも取れる物に奪われた結果、それが崩壊しかけた。

 「──狼狽えるなっ!肉壁に注意しながら前進しろ!指揮は俺が取る!」

 しかし、鋭い声が士気崩壊を防いだ。
   声のした方に目を向ければ、後続隊から戦闘車両に乗って駆けつけた野戦服に身を包んだキベ大尉の姿があった。
   彼とはレリィグの防御戦闘時に命を助けて貰った恩人であり、更にその前の艦隊戦においても名を聞いた事がある歩兵隊の隊長であった。
   丸顔で中背中肉な容姿は変わりようがないが、髭だけはしっかりと剃ってあった。

 「マグラートを脇に寄せろ、進行方向を塞ぐな!」

 戦闘車両の車列がそのまま近付いてくると、大尉は歩兵達に防御隊形を組むように叫びながら向かってくる。
   ヘボンも気が動転しかけていたが、この言葉に慌てて機体を脇に寄せ、マグラートの傍を通り抜ける戦闘車両を見下ろした。

 「このまま、前進する!車両、前へ!」

 キベ大尉はそう叫び立てながら、兵士達を鼓舞し始めた。
   今まさに攫われた大佐のこと等、眼中に無いようであったが、他の兵士達もキベ大尉の頑なな前進命令に逆らうわけでも無く、よくよく訓練された兵隊の動きで従った。
   彼等にとって大佐はシンボル的な存在であることに変わりは無いが、すぐに彼女を救出するために行動を変更するほどの余裕が無いことは理解していたし、それが大佐の本意で無いこともわかっていたのだ。
   ヘボンも目の前で彼女が肉壁に攫われ天井の暗闇に消えた様を目の当たりにしてはいたが、キベ大尉の姿勢に逆らう気も起きず、言われるがままに歩兵隊の支援に就こうとした。

 「曹長、君達は大佐を探してくれ」

 しかし、不意にマグラートの足下まで来た大尉は下から不意にそう叫んだ。

 「?…探すと言っても何処をでありますか?」

 「歩兵隊に随行して各所をだ。マグラートは橋頭堡に残しておけ、確認した艦内図ではあれが入り込む隙間を広げるのは至難だ」

 大尉はそう言うと、ヘボン達に機体から下りるように命令した。
   これにはヘボンも面を喰らったが、立場上、大佐から指揮を引き継いだ彼からの命令に背くわけにも行かず、ヘボンも兵隊らしくそれに従うほか無かった。
   それでも、大佐を探すことについてはヘボンとニールしか不服を示さず、ベルンとヘンシェルデの方は既に歩兵携帯の装備をマグラートから降りて受け取っている。

 「…結局、こうなるのかよ」

 ニールは苦々しく吐き捨てながら、ヘボンと並び、近くに居た歩兵から拳銃や小銃を借り受けた。 元々、邪龍を攻撃するに当たっては歩兵一人一人が相当な量の火器弾薬を携行しており、その重量に根を上げかけている歩兵達が嬉々としてヘボン達に武装を渡してきた。
   その御陰で四人の装備は自動小銃に始まり携行噴進砲からと、ひどく重武装になってしまった。
   かといって、ヘボンがその多種多様な火器を扱えるわけも無く、概ねはニールと同様にその火器や弾薬を、これまた借りた雑嚢に只管に詰め込んで、最も経験豊富なベルン曹長を先頭にして、その後ろに運搬役として随行することとなった。
   これがまた酷い重量で、如何に今までの負傷した脚の銃創や骨折などを生体筋肉で補強したとしても、これは相当な苦行であった。

 「行きましょう、曹長殿」

 重量に呻くヘボンをベルンは励ましながら前進を促し、ヘンシェルデに至っては此方を嘲笑うような笑みを浮かべていた。
   だが、先頭を行く二人とてヘボンとニールが担いだ量に近い物を背負っており、これが野戦畑の者と空暮らしの者との違いかと、ヘボンは数日ぶりに肉体の頑健さの相違を味わった。 
   そこは肉の湿地帯と形容するに相応しかった。
   脚を僅かにでも踏み込めば肉に飲み込まれ、前進しようともう一歩進むためにまた酷い労力を要する。
   前進した戦闘車両の車輪もこの肉に飲み込まれ、何度も歩兵達がその後ろを力任せに押し込む作業にヘボン達も加わった。
   だが、邪龍の体内の抵抗らしい抵抗はそれぐらいのもので、橋頭堡を確保する際に現れた肉塊のトーチカや銃眼は疎らに現れはするが、その度に戦闘車両に搭載された機関砲の一掃射で消え失せる。
   逆により熾烈な抵抗を見せると皆が思っていたのと比べれば、拍子抜けと言って良いぐらいであった。

 「これで奥まで辿り着いて爆破するのは構わねぇが、脱出するのが骨だぜ」

 ヘンシェルデが弾薬を運搬してきて息も絶え絶えなヘボンとニールに囁いた。

 「脱出を考えるのはその時で良いですよ。今更、退路についてなんて…」

 ふと、その囁きを聞き取ったようで、此方の傍に歩兵が一人立っていた。
   それは黒く長い髪を後ろで束ねて、不気味なほどに痩せた女だった。
   腰や肩には多大な量の爆薬をぶら下げ、正に人間爆弾と言った具合のフレッド准尉であった。

 「大尉に此方に合流するように言われましてね…。爆薬班は人手が足りているそうで…」

 彼女はそうどことなく悲しげに笑ってみせるが、ヘボンはこの顔を見ると不思議と総毛立つのであった。

 「准尉殿は揚陸艦で?」

 しかし、彼女に対して見慣れているベルンは気軽にそう声を掛け、紳士然として細い身体に巻き付けた爆薬の類いを背負おうとしたが、それを静かに彼女は手で制した。

 「いえ、私の仕事ですので…、橋頭堡にはマコラガを着けました。外では黒翼隊の護衛が引き返してきたそうで、大空戦のまっただ中ですよ」

 彼女はそう微笑んで見せたが、ヘボン達は橋頭堡まで辿り着いてから、外の様子を知る術が無かった。
   肉壁は厚く、振動も吸収しているのか、外の様子など何一つわからず、ここが空を飛ぶ空中艦の中だという自覚は希薄で、酷くグロテスクな洞窟の中を押し進んでいるような感覚の方が強かったのだ。

 「護衛艦隊の大半は近衛艦隊が引きつけたようですが、陽動だと気付いた連中も居たようでして…奴等も馬鹿ではないようで…」

 彼女は薄ら笑いを浮かべていたが、ヘボンは精々それになんとも気弱な笑いを返すことしか出来なかった。
   行くも地獄、戻るも地獄とはこのことだと思った。 
   そう思った時には、一旦肉の沼に嵌まった車両が押し出され、歩兵隊が前進していた。
   それを見てベルンがそれに続くように手振りでヘボン達を促した。
   すぐにそれに従おうとヘボンが歩み出した途端に、今度は一歩後の位置にあった肉の床が小さく弾け飛び銃声が鳴り響いた。
   それは先程から喧しく鳴いていた車両に搭載された機関砲のソレではなく、小火器の者と感じたが

 「伏せろっ!」

 ヘボンよりも先に吹き飛んだ床を見たニールが、彼を突き倒す形で素早く共に肉の床に倒れ込んだ。
   顔に感じる肉の感触は生暖かく、邪龍の身体の一部に身を寄せると、ずっと前から脳裏に響く不協和音が一層強まる気がする。

 「また、トーチカか?!」

 身を伏せたニールが怯えたが、ベルンとヘンシェルデは素早く周囲を警戒する姿勢を取り、フレッド准尉は此方と同様に身を伏せていた。
   歩兵隊は前進したまま肉壁の向こうへと姿を消していて、その後方にいたヘボン達は、運悪く取り残される形となってしまっていた。

 「今のは拳銃だろう」

 冷静にベルンがそう返すと、ヘボンの伏せていた近くの床がまた小さく弾け飛んだ。

 「曹長を狙っている様ですな」

 身を屈めて辺りを探る彼が自動小銃を素早く構え、発砲してきたと思わしき方向へ連射を喰らわしたが、手応えがあったようには見えなかった。
   すると、今度は伏せていた脚の付け根近くに弾が飛んできたらしく、また肉が弾け太股に当たる肉片の感触にヘボンはおののいた。

 「どっから、撃ってきやがった!?」

 ニールもすかさず、目見当で携えた小銃を発砲したが、でたらめに撃とうとする彼を伏せていたフレッド准尉が制した。

 「…相手は一人ですよ。複数いるなら、とっくに交差射撃で死んでいます」

 彼女は冷静なうえにまだ笑っていた。

 「どうも、我々をいたぶりたいようですね。…曹長、そんな相手に覚えがあるのでは?」

 「多すぎてわからないであります」

 身を伏せながら、ヘボンもニールと同じように小銃を手許に抱えようとしたが、その小銃が何処からか弾かれたようにヘボンの手から離れた。
   小銃だけを狙って撃ったらしく、銃尻に小さな穴が空いているのをヘボンは見て取って青ざめた。

 「──今のは、ほんの小手調べだ!空鬼!」

 不意に肉壁の何処からか声が反響していた。
   聞き覚えのある声のような気がヘボンにはしたが、それが誰であるか思い出せない。

 「──雑魚に用はない!そこの化け物だけ置いていけば、他は見逃してやる!」

 また何者かの声が聞こえてくるが、間違いなくヘボンだけに狙いを絞っているいることは明らかだった。
   その声の出所がハッキリとしないまま、ヘボンは身を伏せながら辺りを見回したが、周囲を囲う肉壁以外に何も見ることは出来ず、天井の方は暗く様子が窺えない。

 「誰なんだ」

 ヘボンは間の抜けた顔でそう呟いたが、この数日間であまりに多くの敵を作りすぎたために、いまいち見当が付かなかった。

 「──産業塔と言えば思い出すか?あの時の借りは返させて貰う!」

 また何処からか声が聞こえたと思った瞬間に、ヘボンの動きを封じたいのか周囲に肉片が飛び散った。
   舞った肉はヘボンの身体に掛かると、その肉は尋常でない早さで破片達が身近な物と結合し始め、瞬く間にヘボンの脚や腕の上に肉塊を形成し始めていた。
   このままじっとしていれば身体を肉壁や肉の床に取り込まれてしまうとヘボンは危機感を抱いたが、その肉沼を抜け出そうとすれば此方を動かせないようにとまた射撃が加えられる。 

  「ああ言っていることだし、置いていくか。このままだと俺達まで肉に取り込まれるぞ」

 そのヘボンの窮地を見て、憐憫の色もなく吐き捨てたのはヘンシェルデだった。
   ヘボンはそれを聞いて、顔を青くしたが、特に誰もヘンシェルデに反論しようとする者はいなかった。
   一同の顔を困惑した表情で見回しながら、ヘボンは置いていかないでくれと叫びたかったが、その声は出そうとしても出なかった。
   表情を見ると薄暗い状況でありながらも、ベルンとニールの顔には冷酷そうな色が見えず、逆に此方に安堵するように励ますような気配が感じられた。
   この数日間でヘボンは様々な人間の表情や声を間近で感じたが、その感応力が彼等は決して自分を見捨てないと言う信頼を与えていた。
   少なくとも、何度も窮地を救って貰ったベルンに至っては絶対的とも言って良い信頼があった。
   そう思うとヘボンは哀れらしい声を上げつつも、彼等を肉壁の向こうへと見送った。

 

 途端に今まで身体に纏わり付いた肉片がヘボンを拘束するかのように、四肢を締め上げてきた。
   それと同時に暗闇から低い笑い声が響いて、近くの肉壁が盛り上がったかと思うと、そこから異形の怪物が姿を現した。
   それは人間より一回り大きく、肉塊に丸く包まれていたが、蜘蛛の様な骨張った脚を持っていて、ヘボンから見て肉塊の正面から、まだ人間の者らしい脚が他の脚によって支えられるようにして立っている。
   その怪物が此方へある程度近寄ると、肉塊から人の腕のような物が飛び出てきて、その腕は既に大半を肉に飲まれているものの唯一の文明的な生体式拳銃の銃口を此方へ向けてきた。 

  「…久しぶりだな、空鬼。俺が誰だか、ようやくわかっただろう?」

 怪物は男性らしい声音で此方に喋り掛けたが、その声質は酷く濁った物で、大凡、人間の出せる物とは違っていた。

 「…申し訳ないのですが、さっぱり…」

 それを聞いてヘボンは恐怖が勝ってはいたが、なんとも申し訳なさそうに言うしか無かった。実際にあんな姿をしていては肉親であろうとわからないだろう。
   その返事を聞いて、怪物は怒ったらしくまたも射撃を加え、ヘボンの周囲を弾き飛ばして、更に彼の身体に肉片を浴びせてきた。

 「…リュッカーだ。耳目省の産業塔では後れを取ったが、今度はそうはいかん」

 ある程度、此方をいたぶると怪物は満足したのか、そう名乗った。
   言われてみると確かに、あの産業塔の螺旋階段で出くわした事のある黒翼隊の拳銃使いであることがヘボンは漸く思い出せたが、別にだからといってなんなのかとも思った。

 「お前だけはこの手で仕留めねば気が済まん」

 「しかし、何もその様な姿にならなくても…」

 拳銃を向けながら、異形の姿で一歩一歩と距離を詰めてくるリュッカーと思わしい怪物に対し、ヘボンは頭だけを向けながら、震える口先で呟くのが精一杯だった。
   あの彼が身につけていると言うより取り込まれている肉塊は、きっと生体防護服の一種であろうが、それは如何にも人間性を犠牲にしている代物と思われた。
   大方、アルブレヒトが着込んでいた物よりも何段か質の悪い物で、一度着込めば肉体が一体化してしまうような物であろう。
   そこまでして自分に復讐を果たしたいのかと、ヘボンは怪物の姿よりも、その執念を恐れた。

 「あの雑魚共と一緒くたに始末されてはつまらないからな。今頃、のこのこと奥へ行った歩兵共は殲滅されているだろうさ」

 リュッカーは不気味な声音で低く笑うと、銃口をしっかりとヘボンの顔へと向けてくる。
   しかし、一発で済ませるつもりはないのであろう。
   異様な形をした腕だとしても、長い年月を掛けて鍛えた腕は健在なのか、そのグロテスクな腕で彼は器用に生体式拳銃を何度も何度も素早く回転させた。
   それを見てヘボンは身の毛がよだったが、四肢に幾ら力を込めても自身だけではどうしようもなかった。
   迫る銃口は微動だにせずヘボンへ向けられ、何度ともなく味わった死の恐怖をまざまざとヘボンは感じた。
   しかし、その恐怖に対して抵抗しようという気概は本能的にまだヘボン備わっていて、四肢は確かに肉片によって封じられていたが、負傷した足に装着させられていた人工筋肉がまだ完全に同化しきっていなかった。
   ヘボンが必死に脚に力を籠めると肉片と人工筋肉が共に剥がれ、勢い余って肉から飛び出したヘボンの脚が怪物の銃口を僅かに蹴り上げた。
   あまりの恐怖と興奮にヘボンの脚は負傷していた痛みも忘れていたし、まだ鎮痛剤の効能もあってか足に力を籠めると腕の拘束もなんとか脱せられた。
   兎に角、少しでも怪物から遠ざかろうと体は肉の沼を這い出し、僅かながらリュッカー少尉であった物から距離が出来た。

 「往生際が悪いぜ」

 怪物はくぐもった笑い声をあげたが、その笑い声をかき消すかのように、何処からかポンっと間の抜けた音が響いたかと思うと、怪物の胸元に何かが刺さった。
   そして、その何かが何処からか飛来したものだとヘボンが思った瞬間に、怪物の胴体が炸裂して、辺りに肉片が飛び散った。

 「擲弾か…」

 ヘボンはそう呻きながら、今の攻撃は自分を助けるために小銃から放たれた擲弾であると認識した。

 「曹長殿!ご無事で」

 力なくその場にヘボンがまたへたり込むと、暗闇から肉壁の先へ姿を消したと思っていた、ベルン曹長たちが声を上げながら引き返してきた。

 「相手が見える位置まで出てくるまで、引きつけたのが良かったですな」

 他人事のようにベルンは言いながら、擲弾を放ったばかりの自動小銃を肩に担ぎながら、ヘボンを抱き起して肉から脱するのを手伝い始める。

 「俺達がバカ正直に逃げたと思うとは、経験が足りねぇな」

 此方が立ち上がる頃には、ヘンシェルデ兵長が脇に立って、真っ先にヘボンを置いていこうと言い出した割にはいけしゃあしゃあと言っていた。

 「黒翼隊の奴等は若い士官ばかりだ。無理もないだろう…無駄死にだ」

 ベルンがそう珍しく憐れみを込めた様な声音で呟いたが、それを一同から少し離れた位置に立っていたフレッド准尉が遮った。

 「驚きましたね。まだ、生きていますよ?形だけは…」

 彼女はそう言いながら、肉の床を指さすとそこには怪物の肉片から、人間の上半身が転がっていた。
   リュッカー少尉の残骸であろうと思ったが、その残骸は千切れた個所が床の肉と結合し、四肢が無くなり身動きは取れなそうだが、肩で息をしている。
   擲弾を胸元で炸裂したというのに、その物体にはまだ意識があるようだった。

 「どういうことだ!どういうことなんだ!これは!」

 そう叫んでいるのはリュッカー少尉自身であった。
   その顔は苦痛や激痛に歪むわけでもなく、酷い困惑した調子であった。

 「…邪龍が生かしているのか?」

 あまりに異様な光景に慄きながら、ニールが小銃を少尉へと向けていた。

 「いえ、残り滓まで搾り取ろうというのでしょう…」

 フレッドが小銃を構えたニールを制し、様子を見るように促すと、リュッカー少尉は激しく何かを喚きたてていたが、まもなくその言語は理解不能な呻きに変わり、上半身を包んでいた肉が少尉の全てを飲み込んだ。

 「ここは大きな消化器官なのか?」

 ニールが顔を青くしながら呻いた。

 「邪龍の内部は全てそうなのかもしれません。すると、大佐ももう…」

 フレッドはそう言葉を切ったが、今更一同は逃げ出すことも出来なかった。

 

  ヘボンは人工筋肉の一部が剥がれて、足取りは先程よりも重くなっていたが、辛うじて行軍についていくことは出来た。
  一行は先行した歩兵隊の後を追おうとしたが、暫く進むと肉壁がそびえたち、通路の様な物が見当たらない。

「先行部隊の足取りが途絶えた…と、いうよりは塞がれたぞ」

  先頭に立っていたベルンが肉の上に僅かに残る痕跡を確認しながら言った。
  引き返すにしても無事に戻れるかどうかは見当もつかなかったし、連絡を取ろうにも通信機をヘボンとニールで持ってはいたが、この邪龍の胎内でマトモに通信が出来たことは一度もなかった。

「…どのみち、通路は作る事になると思っていましたから…」

   ベルンを肉壁から下がらせると、フレッドが素早く前に立って、全身に括りつけていた爆薬の一部を設置し始めた。
   彼女は卓越した動きで、肉壁の厚みが薄そうな個所見当をつけ、素早く爆薬を肉へ張り付けると一同に下がるように指示してから起爆した。
   それなりの爆音から察するに相当な量を仕掛けたに違いないが、それでも黒煙が止むと肉壁に開いた穴は人二人分程度の大きさでしかなく、近付いてみてみるとこの穴も徐々に塞がろうとしている。

 これは邪龍の自己回復力が凄まじい事を物語っていて、ヘボンは改めてこの邪龍と言う化け物が生きているのだと感じえなかった。
   その空いた穴を一同は肉に飲み込まれないように、素早くも慎重に潜り抜けると、肉壁が通路を塞いでいて、フレッド准尉の持ってきた爆薬以外にも、ヘボンとニールが背負っていた分も使いながら、何度か隔壁を爆破し邪龍の奥へと進んでいった。
   進むたびに戦闘の跡が見受けられ、ヘボンがリュッカー少尉に襲われている間に先行部隊は更に奥へと血を流しながら進み続けたらしく、各所に爆薬で潰されたと思わしい肉のトーチカや銃眼に加えて、リュッカー程ではないにしろ一部を生体防護服に身を包んだ黒翼隊兵士の死体や、友軍歩兵の後送も出来ずに捨て置かれた死体があったが、これ等はほとんどが肉に飲み込まれていて、大凡、もっと数があったのであろうが、それらは既に完全に肉の中に取り込まれたのであろうことが窺えた。
  そして、一行は歩測にして邪龍の最奥と思わしい個所の壁を爆破して、そこへ侵入した。
   肉壁の向こうには同じような臓器めいた空間が広がっていたが、そこはまだ全てが肉と言う訳ではなく何か鉄骨とも動物性の骨とも形容できる妙な柱に覆われた場であった。

「これは…」

  最も先に穴を潜ったベルンはその場に立ち尽くし、空間を見て絶句した。
  ヘボンは重たい脚を必死に動かして、辛うじて一行の最後に穴を抜けたが、その空間を見てベルンと同じように狼狽えた。
  先行部隊はこの空間で全滅してしまったように見えた。
  肉の床に半ば覆われるような形で戦闘車両群は擱座(かくざ)していたし、随伴歩兵達も死体となって肉に飲み込まれ、腕や足やその一部が床からはみ出ていた。
  しかし、キベ大尉の率いた部隊はそれでも果敢に戦ったのだろう。
  リュッカー少尉達のあの怪物めいた歩兵部隊の死骸も辺りには散らばっていて、それらも肉に飲み込まれる様な、半ば相打ちめいた状況になっていた。
  凄惨な戦場は何度も見てきたが、ここまでグロテスクな物は初めてだった。
  肉に飲み込まれた負傷者たちは、先程のリュッカーの様に何か呻いていたが、それもやがて聞き取れない言語に成り果てて、肉に完全に飲み込まれる様子をヘボン達は数歩前で目撃した。
  思わず吐き気を催すような光景にヘボンは前屈みになり、隣にいたニールも同様であったが、彼との違いはヘボンの脳裏に響き続けている不協和音がより一層増していると言う事だった。

 「あの娘が…あの娘が呼んでいる…」

 ヘボンは譫言を呟きながら、その場に突っ伏してしまった。
   頭が重くなって痛みを訴えている。

 「ヘボン!しっかりしろ!」

 そうニールの励ましが聞こえてきたが、ヘボンの意識は薄くなり始めている。
   正常な脳が働いていれば、このような光景から気を遠ざけようとするのは当然の摂理なのかもしれないが、だとしてもヘボンは自身の意識が沈む前に、周りの光景自体が沈んでいくような感覚を覚えていた。
   そして、それは現実に起きていることでヘボンが突っ伏している間に、周囲の肉が意思を持つが如く、一同の脚をその肉の中へ引きずり込み始めたのだ。
   誰しもが肉から抜け出そうとしたが、それは敵わない。
   精々、ヘボンを当初の内に起こそうとしていたニールが彼に寄り添っていた位であったが、何故かフレッド准尉もヘボンの傍で彼の身体を起こそうとしていた。
   それを感じる頃には意識がまた遠のいていった。

 

 次に意識が醒めた時には辺りは暗闇に包まれていた。
   今まで居た邪龍の胎内でも朧げな照明弾の明かり等はあったが、それが全く無い真の暗闇にヘボンは放り出されていた。
   体は依然として重たいものの、まだ自らの脚で立てることはハッキリしていた。

 「フレッド准尉!ベルン軍曹!ニール!…みんなっ…」

 ヘボンは皆を探して叫んだが、返答はない。
   ただただ体が重たい感覚と、脳裏にひりつくような既視感が身を蝕んでいた。
   これは、この状態は今まで、時折見てきた悪夢の一環であることが、ヘボンは瞬時に理解できた。
   だが、ここまで来て、自分は呑気に眠りこけてはいないだろう。
   遂に、その悪夢が現実となってその最奥たる地点へ自分は到達してしまったのだと、ヘボンは痛感すると同時に全身が恐怖に震え始めた。
   そして、すぐに暗闇からの違和感を感じ取って、それから身を守るようにその場にしゃがみ込みたくなってしまった。

 (あの娘が見ている!)

 暗闇からの視線を感じて、ヘボンはその方向を見ようとも思わなかったが、痛烈なまでに自身に向けられる視線から逃れる事は出来なかった。
   不意に空間が真っ黒な瞼の様に見開かれた。
   そこには人間の何倍があろうか定かではないが、巨大な瞳が存在して、それがヘボンを見つめていたのだ。
   突如として襲い来る怪異にヘボンは声にもならない恐怖を吐き出そうとしたが、その瞳に睨まれては意識が遠のく事すら許されないようであった。
   その瞳が何であるのか、ヘボンは理解していたし、瞳は名乗るまでもなく、頭に直接響く様な不協和音を声として彼に語り掛けてきた。

 「───」

 それは言葉にならない冷たい憎悪の嵐であった。
   言語として理解する前に、圧倒的な敵意と破壊衝動がヘボンの体全体に向けられている様だった。
   今にもこの体を引き裂いてやろうという意思が感じられ、暗闇の中で強烈な力がヘボンの四肢に伝わった。
   今までの悪夢の中で味わった物の中で最も現実的な痛みだ。
   大方、暗闇の中で肉の触手の様な物が大佐を攫ったときの様に、ヘボンを磔にするかのような力で引っ張っているのだろう。
   だが、そんな事が思いついても、ヘボンは文字通り手も足も出なかった。
   邪龍は、あの娘は、言葉にならない言葉で憎悪をヘボンに伝え、圧倒的ともいえる力でその復讐を果たそうとしている様だった。
   先程のリュッカー少尉の様に全身を千切られるのであろうと、ヘボンは凄まじい恐怖の中でもどこか間の抜けたことを考えていた。
   ここが自らの終着点なのだという自覚が強くあった。
   様々な者たちの助けを借りて、全てを終わらせに来たというのに、最後はたった一人で彼女の復讐心を満たしながら肉片へと変わるのかと思った。
   せめて、そう思うと復讐者の姿だけを見てやろうという気が起きた。
   今更、どのような名状しがたい化け物が出てこようと、死に行く己は何も怖くないと、激痛の中で開き直る意思が芽生えた。
   そう思うとヘボンは巨大な瞳を睨みつけた。
   暗闇でぼんやりとはしているが、その光輝く瞳は、形こそすれ目玉のようであるが、それは半透明の巨大円状の海月みたいに見えた。
   その海月部分中央の瞳部分には何か脳味噌のような物があることがわかり、それに幾重にも細い線が繋がっている。

 「これが…これが、お前の正体か」

 ヘボンは自嘲気味に呟いた。
   ここにきて、ヘボンの肉体は痛みに慣れ始めていた。
   この数週間で拷問の様に味わい続けさせられたことが、彼の身体というよりも精神をふてぶてしくさせていた。

 「夢で逢った時は、幼気に見えたが、実情は生体器官と一緒なんだな」

 それは素直な感想だった。

 「漸く、今になって、私のあの機体に入っている物がなんだったのか、わかった気がする…お前と一緒だ…」

 その呟きを口にすると、不思議と四肢を引きちぎろうとしていた力が弱まるのを感じた。
   邪龍の脳はヘボンの様子を見て、当惑ともいえる反応を示している気がヘボンにはした。
   だが、此方の頭は何故か澄んだような爽やかな感慨がある。
   今まで不思議だったことが全て結びついて、言葉に出来ない問いの答えがようやく出た様な気がしていた。

 「お前に出来るなら、私にも出来る」

 そう口が勝手に動いた辺りから、顔全体が厚く火照る様な熱気を帯びだしていることにヘボンは気付いた。
   それは先日に近衛兵達の前で、起きた現象に酷似していた。
   顔に刻まれた模様がきっと遂に何かの意味を持ったのであろう。
   ヘボンが生存するために強く念じれば『ソレ』は応えた。
   途端に目の前の暗闇に瞳以上の光がヘボンの背後から差し込んだ。
   差し込んだというよりはねじ込んだと言った方が正しいかもしれない。
   この空間は邪龍が起こす悪夢ではなく、現実での出来事であったが、光をその空間へねじ込んできたのはマグラートであった。
   その機体は肉壁をその前足の様な翼の先端に備えられた鋭利な三本爪で、肉壁を手術するかのような要領で切り裂き、その鼻先にある主砲を邪龍の瞳へと向けていた。
   何が起きているのかヘボンは不思議とも思わなかった。
   この時ばかりは理性的な判断が一切つかず、ただ、強く生きることを念じるがままであった。
   その念じる行為がヘボンの中で最高潮に達した瞬間、マグラートは主砲を器用にヘボンの身体をすり抜けるようにして邪龍の瞳へ向け、発射炎の被害などお構いなしに、その瞳へと砲撃を行った。
   一度の砲撃で片は付いた。
   邪龍の瞳は一瞬にして粉々に飛び散り、あの瞳の中にあった脳味噌は小指の先ほども破片を残してはいないだろう。
   そして、瞳が飛び散った瞬間にまるで心臓を止められたかのように、邪龍は動きを止めたらしい。
   今までヘボンの四肢を掴んでいた触手は力をなくして、彼を肉の床へと落とした。
   彼はまだ意識が半分ハッキリとしていたが、もう半分の今起きた事はほとんど、どうでもよくなっていた。
   辺りは今までの暗闇が嘘かの様な具合で、グロテスクな事に変わりはないが、旧式の生体器官室の様な雰囲気にまで落ち着いていた。
   この空間にはヘボンとマグラートだけしか、もう居ないように思われたが、ヘボンが辺りを見回すと肉に半ば埋め込まれて意識を失っているベルン達が見えた。

 「おい!大丈夫か!」

 不意にヘボンはマグラートの股下から声を掛けられた。
   振り返ると、重武装の歩兵達が何人か束になって機体の下から此方へ向かってくる。

 「橋頭保の確保に残っていたのだが、この機体が急に動き出したから追ってきた」

 兵士の内の一人がヘボンを抱き起しながら、酷く狼狽した表情でそう言ったが、ヘボンは返答のしようもなかった。
   既にマグラートは今までと同じ半無機物の様に固まっていたし、今いる場所が不可解なだけで、その姿はドッグにある様と何ら変わらなかった。

 「…よくわからんが、もう、邪龍は動かないだろう。早くここから出よう」

 ヘボンは起きた事は脇に置いておいて、兵士にそう呼びかけた。
   実際に邪龍がこれで死んだのかは、脳裏にもう不協和音が響いていないことが、その証拠に思えた。
   どちらにしても兵士たちはこの場に長居するつもりはなかった。
   無駄なお喋りに耽る時間などはもうなく、ベルン達もお互いに肉の中から這い出すと、ヘボンの周りに集まり言葉を掛けあう訳でもなく、マグラートの様子を見ていた。
   一行は既に理解不能な事が立て続けに身の回りで起きていたものだから、邪龍の中から飛び出して現実世界へと帰りたくなっていた。
   肉の床に半ば埋まっている兵士達を引きずり出さねばならなかったが、その行為は手早く終わらせることが出来た。
   邪龍の活動が停止したことにより、肉が兵士を飲み込むことを止めたらしかった。
   だが、それは一概に安堵できる状態ではない。
   邪龍の活動が停止したと言う事は、既に浮遊することが出来ないという事ではないかという危惧がどの兵士の頭の中にもあったのだ。
   当初は数人ほど見るからに息のある者を肉の床から救出していたが、徐々に救出活動よりも脱出することが優先され、この邪龍の心臓部ともいえる空間に残る兵士は僅かになっていった。

 

 「──ヘボン君」

 誰かヘボンを呼び止める者があった。
   声のした方へ咄嗟に顔を向けると、ヘボンは思わず口を小さく開けて驚いた。
   それは、攫われたラーバ大佐に違いなかったが、彼女の半身は肉の壁に埋まっていた。

 「よくやったね。これで勤めを果たせたわけだ」

 彼女は体が半分飲みこまれていても、そんなことな意に介していない様子で、普段の陽気な調子をまだ保っていた。

 「奴は…奴はもう確実に死んだだろうが、君を引き裂く様を特等席で私に見せようと思ったんだろう。不思議な事に、あれだけ君と夢で見た奴の姿はもうどこにもなかったんだ。声も思念も私にはか細くしか感じられなかった…」

 どんな状況においても彼女はお喋りが好きなのだと、ヘボンは半ば呆れながら大佐の言葉を聞いた。

 「あまりにも強すぎる憎悪の肉に、奴も飲み込まれたんだ。…そして、私も…」

 「大佐…」

 「ヘボン君。君には散々、付き合ってもらったが、任務から解放するよ」

 そう彼女は寂し気に言って、目を伏せたが、近寄ったヘボンの片足を、まだ肉に飲み込まれていない片腕で強く握っていた。
   その手を離してヘボンを見送ろうなどと言う意思は、そこからは感じられなかった。

 「大佐…」

 「今までご苦労だった。原隊に戻れるかは今更言うまでも…」

 「大佐、お手を…」

 目伏せたままで何やら喋っている彼女に対し、ヘボンはなんとも申し訳なさそうに腕を離してもらえるように促したが、その腕は固く握られていた。
   無言で助けを求めているのだと言う事は、ヘボンには痛いほどよくわかったが、あの時の様に彼女を引っ張り上げる事が出来るとは思えなかった。
   いっそのこと、彼女と心中してしまうのかとも脳裏に一瞬過りそうになったが、そこまでの義理はもうないだろうと冷めた考えがヘボンを狂気と冷静の半々と言ったところの具合にした。

 「フレッド准尉!」

 ヘボンは後ろで既に大佐の墓前を前にして黙祷しているかのような死神に声を掛けた。
   彼女は声を掛けられると、伏せていた顔を持ち上げたが、此方が何を求めているのか察したらしい。

 「綺麗に千切ることは出来ますでしょうか?」

 彼の口調は平静であったが、その言葉を聞いて大佐は伏せていた目をひん剥いた。
   彼女も此方が何をしようとしているのか理解したのだが、今まで平静さを保ち続けた表情が俄かに揺らいだ。
   ヘボンとしてはこの数週間というもの彼女に振り回され続けた事を鑑みれば、この程度はまだ忠義者の範疇に収まると算段した。

 「綺麗にとは言いませんが…、少なくとも4割は生きれるでしょうね…」

 そう答えたフレッド准尉の笑みにヘボンは初めて同意するように微笑む事が出来た。

 「ヘボン君っ!准尉!何を…」

 大佐は遂に狼狽した声を出した。
   しかし、ヘボンはそれに答えず、数歩後へ引きさがると、後はフレッド准尉が爆薬を彼女の肉に取り込まれた半身から出来る限り離して少量の爆薬を設置した。
   炸薬をギリギリの量にまで調整し、大佐を爆圧で殺さない程度の量にする必要がある。
   その手の事についてフレッド准尉は専門家であり、少なくともこの邪龍攻略作戦においては、肉の隔壁を破る際にその能力を存分に発揮していた。
   ヘボンよりも遥かにフレッドとの付き合いの長い大佐の方が、彼女の腕前をよく知っているとは思うが、それを自らで試すことになろうと流石に思わなかったらしい。

 「准尉…」

 大佐は流石に、泣き喚いて部下を制止させようとまでしなかったが、それでもこの極限の状況で張り詰めた表情を彼女へと向けていた。

 「大佐殿…貴女は何があっても皆の元に戻って、我々の身の振り方についてお指図して頂かねばなりません…。まぁ…四肢についてはあの者を頼ればよいかと…」

 准尉は囁くように微笑みながら、爆薬を起爆した。
   肉の血飛沫と小さな爆炎がほぼ同時に上がったように、ヘボンには見えた。

 

 ヘボン達はそのままマグラートに搭乗し、機体を始動させると、文字通り這うようにして邪龍から脱出を図った。
   経路は既に歩兵やこのマグラートが勝手に作ったのであろう物を利用し、迷路のようにも感じられた邪龍の胎内を一直線に突っ切る事が出来た。
   途中で生き残っていた歩兵隊や後続の車両部隊とも合流したが、不思議な事に邪龍の胎内には敵の姿がもう誰一人も確認することは出来ない。
   まるで邪龍が死んだと同時に、艦内の全ての生き物が死んでしまったかの様にすら思える。
   いや、正確に言えばヘボン達と味方以外に敵対する者として生きていたのは邪龍だけだったのかもしれない。
   そんな感慨に耽りながら、ヘボンは操縦席から橋頭保の強襲揚陸艦に歩兵隊や車両が慌ただしく離脱する様を見ていた。

 彼らが先に逃げ出さない限りは、マグラート一機が抜け出る隙間すらそこには無かったからだ。

 「…本当に信じられないぜ。終わったんだな」

 通信席からニールが困惑と歓喜が織り交ざったような調子で、ヘボンに話しかけてくる。
   ヘボンは力強く頷いたが、本当にこれで終われるのかと何処か腑に落ちない物があった。

 「護衛艦隊は邪龍の動きが止まったことを知って、六王湖方面へ撤退しているそうだ。邪龍護衛の黒翼隊も同様だそうだ」

 そんな不安を抱えるヘボンを他所に、ニールは嬉々として通信を読み上げている。
   全てが上首尾に進んだのであろう、通信機からも歓喜が漏れ出してくる気配がする。
   しかし、そうであっても何かをヘボンは忘れている気がした。
   先日に感じたどす黒い物がまだなにか心に残っている気がする。

 「…気付いたか、ヘボン君」

 不意に、指揮席から声が降ってきた。
   振り仰げば、そこには両足を失った大佐がそこへ収まっている。
   彼女の両足は既に肉に飲み込まれており、ヘボンの脚に付けられた人口肉腫の様な物を爆風によって千切れた個所へ応急処置的に張り付けて失血を防いだ。
   それでも通常の人間ならとっくに意識を失っていそうなものだが、大量の戦闘興奮剤を彼女へ打ち込み、半ば朦朧として顔色も土気色ではあるが、なんとか彼女は生きている。
   本来なら強襲揚陸艦に乗った衛生兵に担ぎ込まれるべきなのだが、意地でも彼女はマグラートから離れないと意志を明確に示してきた。

 「まだ私達には決着を付けねばならぬ奴がいるのだが…それがいないのだよ」

 彼女はぼんやりとした声音でそう言いながら、視線は虚ろに機外へ向けられている。

 「レマ・ニエン少佐の事でありますか…?」

 「そうだ。奴が出てくれば近衛艦隊も多大な損害を被っただろう…。しかし、そんな報は受けていないし、かといって邪龍の周りにも、あの女はいなかった…」

 「…きっと、六王湖の方面へ脱したのでは…?」

 彼女の危惧はヘボンの言葉にならない不安をズバリ言い当てていた。
   確かに、あの黒い海月の様な魔物に駆った復讐鬼と出くわしていない。
   別にヘボンにとっては居ないなら居ないで好都合であったので、意識の外に捨てようとしていたのであろう。
   それが彼女の虚ろな言葉で意識内に蘇ってきていた。

 「どうかな…。邪龍の中に居た黒翼隊の連中はもう人間ではなかった。取り込まれ、手足のように操られていたが…あの女は…」

 彼女は思い返すように、自分に言い聞かせるように言葉を反芻していた。
   それを聞くとヘボンの背中にゾクリと冷たい物が走る気がした。

 「…ベルン軍曹、主砲はまだ使えますか?」

 警戒に越したことは無いと思い、ヘボンは既に悪寒じみたものを感じながら、足下のベルンに聞いてみた。

 「問題ありません。どうしました?」

 「いえ、装填を…」

 そう言いかけて、ヘボンは悪寒の波が一斉に自分の身体に襲い来るような感覚を覚え、本能的な恐怖に反応するかのように首を横に捻った。
   後方を確認することは出来ないが、機体側面外に何か黒い触手の様な一瞬見えた。

 「装填!装填!装填!」

 それを感じた瞬間にヘボンは半狂乱となって叫びながら、マグラートの機首を後方へと反転させようとした。
   途端に目の前に黒い触手の群れが群がって、マグラートの機首が無理やりにねじ上げられる。
   とてつもない力に機体は大きく揺らぎ、機内のそこら中に体をぶつけた為に、痛みに呻く誰かの声が聞こえた。

 「…やはり…まだ…」

 指揮席で腕に必死に力を込めながら、席から落ちまいとする大佐は、自身の目の前に広がる黒い翼に唸った。
   それは黒い触手を全身から生やした、先日に艦隊を襲った黒い海月の化け物であったが、その体面は今にも朽ちかけようとしている様子が、なんとか体を上に押し上げるヘボンの目にも飛び込んできた。
   邪龍の肉壁の中から、最後の力を振り絞って這出てきたそれは、触手を幾重にもマグラートに絡めて、此方を逃すまいとしがみ付こうとしてくる。

 「主砲を放て!早く!」

 指揮席にしがみつきながら、大佐は何振り構わず、鎮静剤の薬効が全て吹き飛んだかのように叫びたてた。

 「往生際の悪い女だ…。お前には渡さんぞ!」

 大佐は叫ぶだけでは物足りなくなったのか、片腕で拳銃嚢から拳銃を振り抜いて、無駄に見える発砲を繰り返した。
   あの黒い化け物を駆る少佐であった者のしぶとさに驚くが、此方の脚を失ったばかりでまだ尚、暴れたりない様な大佐の姿にもヘボンは呆気にとられた。
   その際に黒い化け物の表面から触手に包み込まれながらも、何か人影の様な物が這い出して来るのをヘボンは確かに見た。
   それが本当にあの少佐であるのか、ヘボンは確認しようと目を凝らそうとしたが、その前にマグラートの主砲が、器用に機首を捩じりながら化け物へ砲口を向け、唸りを上げた。

 

   閃光が目の前に走ったと同時に、今まで橋頭保の肉の上に爪を喰い込ませていたマグラートが不意にバランスを崩して落下し始めた。
   既に朽ちようとしていたあの黒い化け物の肉体を砲弾が貫通し、更に死んだ邪龍の最も薄い底部を貫いたらしい。
   床が抜けるようにしてマグラートは空に放り出された。
   しかし、両翼をヘボンは素早く開き切り、飛行体型に切り替えながらこの窮地を脱する事が出来た。
   邪龍の底部から空へ飛び去るまでの合間に、周囲に邪龍の素体であるシヴァ級の残骸とも肉片とも取れない物が落ちていき、その中にはあの黒い化け物と思わしきものも見えたが、ヘボンはこうなってしまってはいちいち目にとめようとも思わなかった。
   今はこの状況を切り抜ける事だけが全てであった。

 

   暫くして、ヘボンは辺りを夕焼けが包む様な草原の上にマグラートを着陸させ、機体から吐き出されるように機を降り、地に足を付けて漸く安堵した。
   ヘボンも他の者と同じように機から下りようとしたが、マグラートの構造上、指揮席の大佐から降りないと、ヘボンは操縦席から外に出ることが出来ない構造となっていた。
   こうして地面に足を置けると、一日掛けて起きた、あの戦いが何でもなかったかのように思えないでもないが、ヘボン達の着陸した位置からでも墜落した邪龍の残骸から吹き上がる黒煙が、山脈の麓でまだ濛々と上がっている様が戦いを物語っている。
   その黒煙の上空では勝利した近衛艦隊と、ヨダ地区艦隊がちょうど二つに分かれるようにして、それぞれの母港へと戻ろうとしている様であった。
   その光景を一同は見上げていると、マグラートの近くへ同じように邪龍の難を脱した戦闘機や強襲揚陸艦が次々に着陸してくる。
   そんな彼らを出迎えるようにして、大佐はマグラートの指揮席の天板を開き、まだ意識がハッキリしているのか敬礼を着陸する生還者たちへ向けていた。

「ヘボン君、終わったね」

   彼女はそう短く発し、夕焼けの空に歓喜とも哀愁とも付かない表情を向けている。

  「この騒乱はきっと、帝国の長い歴史の中に記されることは無いだろうね」

  彼女の呟きを聞きながら、ヘボンは煙草を吸おうと此方も天板を僅かに開けた。
  長い事、煙草をまともに吸っていなかったような気がした。

「我々の存在も公に記される事も無いだろう…。ベルン達はラーバ家の私兵として吸収出来るが…、君はあまりに多くの事を知ってしまったからね。原隊というより、帝都にも戻る事は出来ないだろう」

 火を点けて紫煙を吸い込み始めた時に聞こえてくる彼女の言葉に、ヘボンは特に驚く事も無かった。
   多分、この言葉はレリィグの一室で彼女の言葉を飲み込んだ辺りで予想していた結果だった。

 「…どうだね?君さえよければ…」

  紫煙を吐き出しながら、同じように空を見上げるヘボンにラーバは問いかけてきたが、ヘボンはその顔に対して煙草の吸い口を差し出していた。

   彼女はその対応に僅かながらに戸惑った色を浮かべたが、すぐに陽気に微笑むとその吸い口に口を付けて紫煙を同じように吐き出した。

  夕闇になりつつある空を紫煙が彩り、二人は迫る夜が凄惨な戦いの跡を隠してくれることを祈った。

「…良い夜になるぞ」

ツェツェーリエ・フォン・ラーバ大佐のそんな呟きを聞いて、ヘボンはその言葉に聞き覚えを感じて、緩く笑みを浮かべた。

 

最終更新:2022年12月29日 12:08