☆5☆
ランダマング・ザスター図書館のロビーの階段をなかば降りたドランは、階下に銃を向けていた。
灰色のカーペットが敷かれたフロアは、まさに図書館というにふさわしい光景だった。人が二人並んで通れるくらいの通路の両脇には、本が詰め込まれた書架が軒を連ねている。障害物の多さから敵の待ち伏せを受けやすい条件が揃っているが、クランダルト帝国が誇る「補機」の防弾機構と瞬発力をもつドランたちの得意とするところだった。
カーペットに降り立ったドランは、エルヴィンとともに辺りを見回す。ついで、フォスがガチャガチャと音を鳴らして階段を降りてきた。
「クランダルト1よりアーキル1。私たち三人は先行する。アーキル3とフォウ2をよこしてくれないか。地形が複雑で、小回りのきくものが必要だ」
「アーキル1よりクランダルト1。わかった。二人を送る。更に地下があるはずだ。『閉架』を探してくれ」
図書館の構造的な特徴として、開架と閉架が挙げられる。誰でも気軽に本を閲覧できるよう、棚に本を詰め、机や椅子を並べた場所を開架という。逆に、本を収集、保管する目的のために設立され、人の出入りと閲覧を制限されるのが閉架である。
ドランがいまいるのは開架だった。この建物が図書館を模しているというのであれば、アーキリの言うとおり、閉架が存在するはずだった。
と、ズシンという音がドランの耳に飛び込んできた。書架から本が弾き飛び、紙吹雪が舞う。
「接敵(コンタークト)!」
エルヴィンが片膝をついて叫ぶ。ドランはエルヴィンの背中を掴んだ。その体制のまま、肩を盾にしてバインダーガンを構える。
立て続けにズシンズシンと音が響き、そのぶんだけ繊維の束が爆砕されていく。
「敵はどこだ。見えないぞ」
「本棚の後ろ、すでに会敵しています! 威力から大口径自動小銃と推定!」
「私たちの不利をついてきたか。だが、敵はこちらを正確に把握していない」
ドランは無線で呼びかけた。
「クランダルト1より各隊員。私たちは現在、敵を制圧中。これ以降の通信は別の方法で行うこと。以上」
ドランが通信を終了する直前、エルヴィンの胸に徹甲弾が飛び込んだ。装甲カバーを貫通した硬芯徹甲弾は、高密度セラミック・チキン拘束層で停弾した。ゴム・カーボン衝撃吸収層が、弾丸の衝撃力を押し殺す。
「被弾! 損害あり!」エルヴィンが叫ぶ。
ドランはエルヴィンをつかんだまま、彼を引きずる勢いで後ずさる。振り向いて、フォスに無線で叫んだ。
「クランダルト1からクランダルト3、後退を援護してくれ!」
だが、このときのドランには、エルヴィンが無傷であることはわかっていた。補機どうしの生体ネットワークが三人を繋いでおり、生体装甲服の状態や、搭乗者の健康状態を把握することができるのだ。ドランは、エルヴィンの健康状態に問題がないことを知りつつ、あえて彼を引きずっているのである。さらに、ドランは通信をすぐ無線通信から別のものへ切り替えた。エルヴィンへの一撃が、ドランにある確信を与えたのだ。
[クランダルト2、じっとしていろ]
その光景は、負傷した仲間をなんとか下がらせるためにあがいているように見えた。補機の重量が、ドランの迫真の演技に現実味を持たせていた。
逃げようとしているドランたちを追うため、敵が本棚から顔をのぞかせた。
「スウォーム」と呼ばれるそれらは、ミケラダスウェイアが製造した人造人間である。それらは迷彩服に身を包み、ヘッドセットを耳に装着していた。
自身に銃口が向いていないことを察知し、自動小銃を構えた「スウォーム」だったが、その指が引き金に触れることはなかった。
[クランダルト3へ、飛び込め]
隣の書架の島を補機の脚力で突っ切ったフォスが、バインダーガンで「スウォーム」の頭蓋骨に数個の正円形の穴を空けた。
バインダーガンに装填された極低初速弾薬は、静音弾薬とも呼ばれ、弾薬自体が消音機能をもつ稀な弾薬である。その機構のため、弾薬は初速が低く、貫通力は見込めない。だが、弾丸の威力が小さいわけではないのだ。
チョークのような大きさの金属の棒が脳髄に押し込まれると、速度差で変形しながら中身をグズグズに引き裂いた。人間という生物を模倣している以上、脳幹を破壊されて生きてはいられない。「スウォーム」はカーペットに崩れ落ちた。それは背中に大型の電子機材を背負っていた。
ひと目見たドランはため息をついた。
[よくやったクランダルト3]
[ブラフはうまく機能したようです。クランダルト1]
ドランが「無線を使うな」と言った直後、フォスに向けて無線を使った意味を理解していた。すなわち、後退の援護をするのではなく、突出して「スウォーム」を排除しろという意味に捉えていたのだ。
[やはり反射無線逆探知機を使っているか。……クランダルト2への攻撃は、私を狙ったものだった]
ドランは「スウォーム」の背中の電子機材を蹴り壊した。三つのアンテナがついた箱状の機材は、基盤をもぎ取られ、電源が短絡し、配線を焼き切られて沈黙した。
室内戦において、防御側が用いる戦術の一つに、反射無線逆探知機を併用した防御術というものが存在した。
二つ以上の観測地点から同時に電波を観測することで、正確な位置を算出することができる。地震の観測に使われるごく一般的な観測方法だが、電波にも応用できるのだ。また、ドップラー観測、スペクトル解析を行うことで正確性を高めることができる。くわえて、演算装置の発達から、電波の反射波にたいしても逆算を行うことで、室内における電波の発信源を特定することができるのだ。ドランが無線機を使った瞬間、ドラン──の前にいたエルヴィンが被弾することになったのだ。とはいえ、本を貫通して届いた徹甲弾はエネルギーを喪失しており、エルヴィンに傷一つつけることはできなかったのだが。
[気を引き締めろ。これが終わりではない。どこか別の場所に敵がいる]
書架を進むドランは油断していなかった。補機だから助かったものの、生身の人間に当たれば十分に殺傷しうる威力なのだ。また、逆探は複数の機材の連携によって正確性を増すため、一つあるなら複数の逆探があるということだ。
しかし「クルカの眼」を装備したドランたちは優勢に状況を進めていた。熱源を見ることができる暗視装置は、書架の並ぶ図書館という立地条件では、素晴らしい働きをしていた。
通路の中央を進むドランに、様々な報告が流れてきた。
[クランダルト3。左翼にて『スウォーム』と接敵、制圧中]
[クランダルト2。中央にてクランダルト3を支援中……制圧完了]
そこへクルカルとヤィンギが合流した。フォスを盾にして部屋を進む。
[アーキル3。フォウ2とともに左翼にてクランダルト3を支援中。『スウォーム』は逆探を使用中。対抗策はクランダルト1を中心に展開している。間違いないか]
フォスが部屋の奥へ進むのを感じたドランは、カーペットを踏みしめて歩きだし、右から紙吹雪が舞うのを見た。書架を盾に返す刀で撃ち返すと、肩を撃たれて逃げ去る[スウォーム]が見えた。
[クランダルト1。中央にて右翼『スウォーム』と接敵、制圧中]
引き裂かれた紙がほこりのように舞い、ドランの頭上から降り注ぐ、だが、紙の繊維がドランの周りを落ちていくとき、なにかにぶつかって、それを嫌って避けるような動きをした。一瞬、陽炎のような空気の歪みが生まれ、息を吹きかけて紙を飛ばすようだった。
[クランダルト1。アーキル3へ。肯定、対抗策は有意に効果あり。継続する]
その正体は、ドランの「クルカの眼」にははっきり写っていた。指の太さくらいの管がエルヴィンとフォスに伸びているのだ。人間の目では見ることができない管。これがドランのいう「対抗策」だった。
浮遊機関。名を変えて運動量偏向装置と名のつく技術は、通信分野に一つの技術革新を促した。無線技術による情報伝達よりも大容量の通信を行う際、チューブのなかで光を反射させる光ファイバー技術が生まれた。だが、光ファイバーは無線化することができない技術であった。もちろん、電波無線が生まれるはるか昔から、光通信を無線化すること自体は行われていたことだ。光の点滅というデジタルな手法で相手に意図を伝えることができる。無線化できる。できるが、その先の、大容量データ通信に応用できるかというと難しいことで知られていた。光の直進性に起因する要素が強くはたらき、できたとしても実証実験止まりであった技術は、運動量偏向装置への理解が進むとともに、進化していった。
架空光通信装置、──すなわち、光通信を「空に架け」る技術が登場したのだ。これは周囲の空気を「偏向」させることで、空中に光ファイバーと同じように光を反射する物体を生成することができた。もちろん、光を通過させるチューブは縦横無尽に曲げることができる。今、ドランから左翼のフォスを直線で結ぶと、彼は障害物が幾重にも重なったところにいるのだが、架空光チューブは棚と棚の間の通路をすり抜けるようにしてフォスと接続されていた。ドランの「眼」が見ているものの正体は、架空光通信装置によって空気が「偏向」され、圧縮熱で空間に投影される熱源の軌跡だった。
室内線において、防御側が反射無線逆探知機を用いるのであれば、攻撃側には架空光通信装置という切り札があった。室内戦では部隊の展開が小さく、架空光通信の恩恵を最大限に受けることができた。
万能の技術に思えるが、弱点がないわけではない。距離にたいするエネルギー効率が悪いので、有効距離が限られている。さらに、架空光通信には運動量偏向装置を稼働するための莫大なエネルギーが必要であり、長時間の駆動はできない。また、電波無線と同じように通信の網を広げようとすると、空気を「偏向」をする割合が高くなり、指数関数的にエネルギーを消耗しはじめる欠点があった。そのため、架空光通信を行っているドランは、自分の装置をハブとして、エルヴィンとフォスにしか接続していなかった。あとから合流したクルカルとヤィンギは、フォスの架空光通信に接続し、ドランへの通信を代行していた。
そうこうしているうちに、また右翼から「スウォーム」が銃撃をしてきた。ツーマンセルの一方が反射無線逆探知装置をかつぎ、もう一方は防弾ベストを装備し、大口径の自動小銃を構えていた。
[クランダルト1。中央にて右翼『スウォーム』と接敵。制圧中]
ドランは一歩後ろに下がった。一秒前にいた場所を銃弾が通り抜ける。ドランを追いかけるようにドシン、ドシンと銃弾が本を貫通し、書架を揺さぶる。
たまらず二歩三歩と下がり続けるドランだが、電波を発信していないため「スウォーム」はドランを見失い、銃撃は当てずっぽうに書架に穴を開けるだけだった。
[クランダルト2。中央にてクランダルト1を支援中]
ドランが攻撃にさらされていることを察知したエルヴィンが駆け足で戻ってきた。書架の反対から身を乗り出してドランのいるあたりを撃ちまくっている「スウォーム」を見つけると、バインダーガンを足に向けた。
カシャカシャ──
小さな音を響かせたバインダーガンから弾丸が飛び出した。「スウォーム」の膝の骨を砕くと、あっという間に「スウォーム」の体勢が崩れ、膝立ちになった。新たな脅威と認識され、大口径自動小銃の筒先がこちらに向こうとした瞬間、
カシャシャシャ──
ジンバル・アームによる正確無比な射撃が「スウォーム」の胸、喉、額に数個の穴を空けた。胸部への銃弾は防弾ベストによって停弾したが、喉と額に当たった銃弾は脊椎と脳腑を破壊した。「スウォーム」が崩れ落ちる。反射無線逆探知機をかついだ「スウォーム」は背中を向けて逃げようとしたが、エルヴィンが機材を撃つと、弾丸の持つエネルギーが機材で停弾して放出され、「スウォーム」が背中を蹴られたように倒れ込む。がら空きになった胴体と頭部に数発の弾丸を送り込むと、血を流して動かなくなった。
[クランダルト2。制圧完了]
[クランダルト1。よくやった。引き続き、地下に続く道を探れ]
ドランたちに優勢に見える戦闘を指揮しつつ、ドランは補機のなかで荒く息を吐いた。五人では右翼と中央を制圧するのが精一杯なのだ。欲を出して右翼をこの人数で抑えようとすれば、かならずどこかでほころびが出るだろう。
しかも、「スウォーム」の増援は右翼から来ているようなのだ。左翼と中央に布陣したドランには、右翼の状況を正確に知ることはできない。だが、さらに地下に進む階段なり、他の建物への連絡通路が見つかっていないのだ。とすれば、右翼にそれらがある可能性が非常に高かった。
「早く来いアーキル1、右翼の抑えがだれもいないぞ……」
無線に叫びたい衝動を抑えて、ドランは後ろを振り返った。エントランスに続く階段からは、誰も降りてきそうにない。
階段から離れて奥に行けば、右翼から「スウォーム」に回り込まれて、アーキリとの繋がりを失う。各個撃破されるリスクが高まる以上、このフロアで最後尾にいるドランが勇み足をするわけにはいかないのだ。それは同時に、架空光通信でつながっているエルヴィンとフォスが前進できないということである。ドランは遅々として進まない状況にままならないものを感じていた。
アーキリたちが合流したのはその五分後である。アーキリが降りてこなかった、短いようで長い空白の時間に、エントランスでは想像を絶することが起きていたのだ。
アーキリは眼の前で横たわるミシェル・ラドールの姿をまじまじと観察していた。強化繊維の縄で手足をがんじがらめに縛られた彼女は、細かに縦縞が刻まれた黒地のパンツと、同じ模様の黒地のベストを着ていた。ノースリーブのベストからのぞくシャツは、長袖のいたるところが黒く変色していた。閃光弾の燃焼で発生したすすで汚れているのだ。
「それで、この民間人のなにが気になるの。出来損ないの『スウォーム』か、そうでなければ、ただの民間人でしょう?」
同じくミシェル・ラドールを見下ろすのはガントリだ。彼女はミシェルに容赦なく銃弾を浴びせかけた張本人だった。
鎮静剤を二本打った彼女は、遠慮なくミシェルの体をまさぐって、なにか出てこないか探していた。
「化け物でもなければ、致死量ギリギリの鎮静剤を打たれて起き上がることはないでしょう……ああ、これはなに?」
ベストのポケットから小物入れを探り当てたガントリは、彼女からもぎ取った戦利品をアーキリに見せつけた。
「カードキー。これが一番の戦利品。リマークしてパンドーラ法の補助になる」
首にかけるストラップから抜き取られたそれは、ミシェル・ラドールの地位を表していた。
「司書、か。図書館の司書って、どのくらいの地位なんだ?」
「そんなの知るわけないでしょう」
他愛もないことを言い合っているうちに、ハイムが無線で要請してくる。
「メル=パゼル2からフォウ1。エレベーターに爆薬を設置したい。協力を求む」
駆けだしたクスォを横目で見ながら、アーキリはガントリに向き直る。
「そのほかには?」
「驚いたことに、クランダルト帝国臣民証がでてきたよ。こっちも名前はミシェル・ラドールで、通名はなし。二五歳。本物だったら、同定は簡単にできる」
「そのほかは?」
「IDカードのストラップについていた、極彩色の骸骨のストラップと……驚いた。こんなものに出会えるとは……」
ガントリは小物入れを開くと、これまでで一番驚愕していた。
「嘘でしょ……。マイナーズのメガネだ……。きちんと度も入ってるし、偽造品でもない。通し番号も入ってる……」
驚くガントリをよそに、アーキリはわけもわからず聞き返した。
「なにを驚いているんだ。視力矯正眼鏡がそれほど珍しいのか?」
その態度に、ガントリは呆れてため息を漏らした。
「このメガネはね。クランダルト帝国のメガネなんだよ。この意味もわからない?」
「すまんが、まったくわからない」
「じゃあこう言いかえたらわかるかな? このメガネは『マイナーズ』っていうクランダルト帝国の会社が手作りしているもので、高精度のメガネを作っている。でも、それだけじゃないんだ。メガネ屋として視力矯正眼鏡を製造しているのは、クランダルト帝国のなかで『マイナーズ』だけなんだよ。すごいでしょ? ちなみに、『マイナーズ』のメガネを盗んで闇市で売ろうとしたやつがいた。誰も買わないから二束三文の価値もないはずのメガネは、中古車を一台買ってお釣りがくるくらいの価格で売れた。けど、それを買ったのは近衛騎士団の帝都情報局経理部だった。メガネ自体に価値はないけれど、近衛騎士団がバカみたいな値段でメガネを買い戻したという話が広まると、近衛騎士団と、『マイナーズ』創始者のエイスミー・マイナーが恐ろしくて、誰もメガネを盗もうとするものはいなくなってしまった、っていう話もある」
「……それで?」
ブランドに関して驚くべき造詣(ぞうけい)を発揮するガントリをとめる手段はなかった。アーキリは、とりあえず話を聞いておくことにした。
『「メガネをかけた』という、旧態依然と同じ意味の言葉がクランダルト帝国にあるとおり、クランダルト帝国では視力矯正は生体手術で完結するんだ。目玉を正常に動作するものに入れ替えてしまうのが一般的で、数日の入院で施術することができる。近視も遠視も乱視も色弱も、ありとあらゆる眼球の異常が、眼を移植するだけで解決する。そんな国でメガネをかけている人はどういう人だと思う? 慣用句はそれを、現代に合わない感覚といって旧態依然の意味を与えた。でも、現実を見れば、いまクランダルト帝国でメガネをかけているのは、特異な眼球の異常によって、移植で解決しない難病の人なんだ。そんな彼らのために、帝国できちんと店舗を構えてメガネを販売している店舗、それが『マイナーズ』っていうわけ。つまり──」
そこまで話してから、ガントリはいきなり口を閉じた。心なしか顔が赤いようにみえるのは、話しすぎたことを恥じているのかもしれない。今度は冷静な口調で話を再開する。
「……つまり、クランダルト帝国に住んでいて、メガネをかけている人は、とんでもなく、チョー珍しいんだよ。人物を同定するうえで、これに勝る証拠はないんだ」
一通り聞き終わったアーキリは、ガントリの話した内容から、釈然としないなにかを感じた。アーキリが知るかぎり、ミケラダスウェイアは民間人をこのような場所に招いたりはしない。つねに「スウォーム」に頼り、ものごとを動かしてきた。そう思うと、アーキリの頭のなかで違和感が大きくなりつつあった。
「とにかく、スカイバードメッシュ通信をつなげてくれ。調べなければいけないことがある」
「了解了解。さっそく始めよう」
ガントリは背中の機材を下ろした。ワリウネクル諸島連合の最南端にある、ちっぽけな島からの通信信号は航空生物であるスカイバードが受信し、専用の信号に置き換えられた。スカイバードどうしのネットワークを経由した信号は、クランダルト帝国の機密データベースの扉を叩いた。
「平時にこういうことができたら楽しいんだろうけどね」
「君の国の諜報戦部隊は、いつも、こういうことをやっているんだろう、メルパゼル1」
「あら、お互い様。あなたの国は結構強引なことをするよね。ドランもそうだけど……ミケラダスウェイアとかいう怪盗を長いこと追っているようだったし、アーキル1も薄暗い過去を持っているんじゃなくて?」
「そこを突かれると痛いな。それにしても……怪盗。怪盗ね」
「情報怪盗ミケラダスウェイア。いい語感でしょう? あ、回答が返ってきた」
データベースにアクセスしたとはいいつつも、ガントリがしたことは、発見した証拠をもとに、データベースの管理者に「ミシェル・ラドールはどのような人物か」と問いかけただけである。
その返答として、開示されたミシェル・ラドールの情報の羅列を見たガントリは身震いした。
「おおっと……かの国の司書たちは素晴らしい働きをしたね。この短時間でこの情報量を開示してくるとは……。最初から彼女を監視していたとしか思えないよ」
「あるいは、全国民をここまで監視しているか……考えるのはよしたほうがいいな」
ミシェル・ラドールを示すデータは、帝国臣民証とメガネの通し番号とともに、実在する人物であることを物語っていた。
「彼女の人生に幸あれかし。帝国大学を卒業して商社に就職。在籍中のはず……なんだけれど。なぜかここにいるんだよね」
ガントリは与えられた情報を細かく分析する。
「どこかの時点で変化があったはずだ」
「わかってるって……ああ、これだ。三年前に有給休暇を取得、旅券を受領。人事異動にともなうパンノニア南部、リューレンニへの国外転勤辞令、と。」
「誘拐されて、名義を背乗りされた可能性があるな。替え玉の偽物が律儀に在籍しているかも怪しい。パンノニア南部でリューレンニといえば……都市部はいいが、郊外と周縁部は典型的な発展途上地域だったな」
ガントリは振り返って、アーキリに羨望の眼差しを向けた。
「詳しいね、アーキル1は行ったことあるの? 私は海外旅行とか、数えるほどもなくてさ」
アーキリは「ちょっと仕事でな、内容は答えられない」と、軽く鼻を掻いて言った。軍人が「内容を言えないような仕事」と言ったら、その意味は一つしかない。彼がそれ以上話したくないことを察したガントリは、すぐに話題をミシェル・ラドールのことに戻した。
「おっと、今のは聞かなかったことにするよ。たしかに、商社の現地法人が人員の管理を怠っていたら、蒸発していてもわからない。それにほら。これじゃあ、彼女が失踪しても本社は気づかないよ」
アーキリも、彼女が指さした情報を見るために「どれだ」と、身を乗り出した。
「これだよ。彼女の人事異動記録。人事課、情報管理課、そして異動辞令」
「それがなんだ?」
「わからない? これは実質的な左遷だよ。情報管理課って、資料編集室とか、社史編纂室とか言われることが多くて、使えない人材をとりあえず放り込んでおくところ、って意味なんだ」
「ははぁ、左遷した人物を呼び戻すわけない、ということか」
「大正解……ん?」
したり顔のガントリは、ふと、ミシェル・ラドールの病歴にある、おかしな記述を目に留めた。
「ねえ、アーキル1。この『解離性健覚症』ってわかる? 健忘症なら知っているんだけど」
「医学の専門番組を見たことはあるか? それは過億念症候群という病気の一種で……つまり、完全記憶能力のことを指すんだ」
一呼吸ほどのあいだに、完全記憶能力、という言葉がガントリの脳に染み込む。直後、彼女は体が飛び上がりそうなほど驚いた。
「ちょっと待って、完全記憶能力って言った!? そんな超能力があり得るの?」
「待て待て。近年の症例だが、きちんと医学的に認知されつつある。それに、超能力めいているが、れっきとした疾患なんだぞ」
「記憶したことを忘れない能力が、病気だとでも? それなら、『異常に物覚えがいいだけ』の人も病気だってことにならないの?」
ガントリの質問攻撃にたじろいだアーキリは、記憶を呼び起こすように眼を左右に動かしてから口を開いた。
「分類があるんだ。『異常に物覚えがいいだけ』の場合、医学的に〈HSAM〉と呼ばれる。『過度な自伝的記憶能力』という意味だ。ただ、これは完全記憶能力ではない。ある一日の場面で見た雲の形、道路のマンホールの模様。着ている服の縫い跡の数。日常生活で覚えなくていいと思ったものを覚えていられない。覚えていたいと思ったものだけを覚えている能力なんだ」
「じゃあ、完全記憶能力は覚えなくてもいいものでさえ覚えてしまう能力ってこと?」
まさにガントリの予測は的を射ていた。完全記憶能力をもつものは、自分が見たもの、聞いたもの、五感のあらゆる感覚が得たフィードバックを、記憶せずにはいられない。そして忘却されることを許さない能力であり──すなわち呪いなのだ。人間の記憶は、得た情報を格納し、整理し、展開することで成立する。ときに忘却して思い出せなくなるのは記憶神経学的に正常な動作である。だが、それが成立しなくなった場合、人間の脳は恐ろしい「最適化」を始めるのだ。
「ご明察。そして、完全記憶能力をもつものは、例外なく『解離性健覚症』を発症する。完全記憶能力によって物忘れを起こすんだ。皮肉なことに、な。」
忘れないものがなにを忘れるというのだろうか。話の流れが急に変わったことで、理解が追いつかないガントリが「え?」と声を漏らした。アーキリはミシェル・ラドールの頬を優しく撫でた。
「脳が記憶を整理できなくなるんだ。忘れることができず、積み重なった情報に圧迫され続ける。脳は情報に溺れ……ついに、画期的な方法で記憶を格納しようとする。それが、アンカーパターン記憶回復法だ。あるものを感じたとき、それに紐づいた情報を思い出す。船から垂れる鎖を見たら、その先に錨を連想するのと同じだ。と同時に、それ以外のことで錨を思い出せなくなることがある」
例えば、家の納屋にあるのこぎりを考えてほしい。解離性健覚症にかかった完全記憶能力者は、それを「木を切る道具」であると定義しているので、屋根を修理したいときは、一秒とかからずのこぎりを見つけることができる。一方で、友人から「楽器に使うのこぎりを探している」と言われたとき、彼はのこぎりの場所をまったく思い出せなくなるどころか、「のこぎり」の意味さえ理解できなくなる。健忘症にも似た症状は、解離性健覚症としては初期も初期の影響である。最後は、人格の形成にかかわる記憶をアンカーパターン記憶回復法に巻き込んでしまうのだ。自身の成り立ちが記憶という積み木の集積体なのなら、その言動は積み木の頂点に乗ったものである。外から受けた刺激によって記憶の積み木が勝手に引き出され、しまわれるようになったら、人格は崩れていくだろう。
「ひどいものだと、自分で自分がなにをしているのか、わからなくなってしまうんだよ。健忘症のようにね。医学界では、能力の代償であるとも言われている。脳がすべてを覚えようとして……」
アーキリはその続きを言おうとしなかった。頬を撫でる手が止まる。ガントリは、彼女に打った二つの注射痕を撫でた。ミシェル・ラドールの重篤な症状を聞かされ、一転して彼女への辛辣な態度を軟化させていた。「どうしたの?」と問いかけるガントリの声は、アーキリの耳に届かなかった。時間にして数秒だったが、アーキリが重い口を開いた。
「……ところで、メル=パゼル1はさっき『司書たち』と言ったな?」
突然のことでガントリは反応が遅れた。
「え、ええ。クランダルト帝国のデータベースの先にいる情報提供者、のことで合ってる?」
「そうだ」アーキリの鋭い眼光がガントリを通り過ぎ、ミシェルに向けられた。
「司書の仕事が、データベースを整理し、必要な情報を適切な分量だけ提供する作業に従事するものであるとするのであれば──」
前提を共有するアーキリに、ガントリは軽く頷いた。
「──なら、完全記憶能力者が『パスト・ポスト』に収集された情報をすべて把握して、自身の意のままに操れるのなら。それは『司書』というんじゃないのか?」
静かに紡がれる言葉に、ガントリの背筋は凍った。アーキリの額からじわりと汗の珠がいくつもこぼれた。
完全記憶能力と司書、この組み合わせは、これまで「パスト・ポスト」への攻撃が致命的な打撃を与えられない答えかもしれなかった。情報収集施設を破壊しても「パスト・ポスト」の活動が止まったことはない。しかも、失われた情報をまた得ようとする行動が見られないのだ。得た情報を破壊するという遅滞戦術が失敗する理由が、なんらかの方法で膨大な情報を脳裏に焼き付けた完全記憶能力者の存在にあるとしか思えなかった。
司書という言葉は、こちらが考える以上に、ミケラダスウェイアにとって重い意味があるのだ。そう考えているうちに、ふと、アーキリのなかで渦巻いていた、ある種の疑念が確信に変わった。答えを得たアーキリの行動は早かった。
「これはまたとないチャンスだ。なんとしてもミシェル・ラドール女史を連れ帰るぞ」
固まったままのガントリの肩を叩く。はっとした彼女は、またとないチャンスに声がうわずった。
「そうだね。彼女を確保すれば『パスト・ポスト』の運営に致命的なダメージを与えられる。それだけじゃない。彼女から逆に『パスト・ポスト』の情報を得ることができるかもしれない」
「ああ……、これでミケラダスウェイアに一泡吹かせてやれそうだ。ただ、今は都合が悪い。司書室に放り込んでおこう。トリップワイヤは持っているか?」
「私は爆発物の専門家じゃないよ。フォウ1に任せるから、呼んでくる」
ミシェル・ラドールを肩に背負ったアーキリは、司書室の奥、扉からは見えない壁に彼女を横たえた。すぐクスォが司書室に飛び込んできて、彼女の背中に爆薬を設置した。
「下がってください」クスォが言う間にも、幾重にもトリップワイヤが部屋中に張り巡らされた。しかし、それは一種の囮。本命は、物陰にねじ込まれた赤外線センサだ。ミシェル・ラドールを奪還しようと「スウォーム」が侵入すれば、逆に彼女を失うことになる。
ミシェル・ラドールの喪失は、一見して「ブックエンド」隊にとっても痛手に見えるかもしれないが、施設を破壊すればいいアーキリたちにとって、彼女の生死は必須条件ではない。その割り切りがなせる行動だった。また、「スウォーム」が爆弾を無力化して異変が伝われば、エントランスから侵入した「スウォーム」との挟み撃ちを察知することができる。一種の打算的行為でもあった。
そうこうしているうちに、階段から階下を見張っていたベスチが無線でアーキリを呼び出した。
「アーキル2からアーキル1。階下ではクランダルト1が右翼から包囲されつつあります。左翼と中央だけではもう抑えきれません。それに──」
とっさに無線機を切ったベスチは、壁から覗かせた顔を引っ込めた。くぐもった銃声とともに、階段の塗壁(ぬりかべ)がごっそりと脱落する。戦況の悪化にたまらず無線を使ったベスチに、反射無線逆探知機の補助を受けた射撃が襲いかかった。
「敵を制圧中、障害物が厚すぎます!」
ベスチがバインダーガンで応射する。書架の後ろにいる人影に狙いを定めたが、書架に当たった極低初速弾薬はエネルギーのすべてを本に吸い尽くされて停弾した。彼の言うとおり「スウォーム」によって右翼からドランたちが追い立てられている。その圧力が階段の前まで来ているのだ。
「メル=パゼル1と2は架空光通信装置を用意してくれ。階を降りたらクランダルト組につなぐんだ。行くぞ」
ガントリとハイムはアーキリの後ろにつけると、肩を二度叩いた。いつでも行けるという合図である。先に階段を降りようとするクスォは、振り返ると、手に持つ散弾銃を見せつけた。
「今度も『チョークレス』の出番ですか? リシュを宣言していただければ、いかようにもします」
リシュとは、パルエの国際信号における「爆撃」や「致命的な破壊活動」を意味する言葉だ。クスォは言外に、工兵機材として持ちこんだ「チョークレス」を、対人戦闘に使わせろと言っているのだった。
アーキリも、バインダーガンの不利は十分に承知していた。クスォの用いる「チョークレス」の火力は是も否もなく、あるだけ欲しい局面だ。
「わかった。リシュを宣言する。敵の装備を『チョークレス』で破壊しろ。フォウ1」
「了解!」
すました顔から一転してどう猛な笑顔を見せたクスォは、さっそく階段を降りていった。ガントリとハイムは呆れ顔である。
「車のハンドルを握ると性格が変わる人っているよね。2」
「1もそんなこと言わない。でも、散弾銃を握ると人が変わったように攻撃的になるのは、パルエ広しといえど、フォウ王国人だけだと思うよ」
「あんなのが他にいてたまるもんですか。それに、貫通力が足りないのは散弾銃も同じことでしょう。なんであんなウキウキしていられるんだろう、2はわかる?」
「さっぱりだよ」
「でしょうねぇ」
そうではないのだ。と、アーキルは言いたかった。経験の浅いガントリとハイムにはフォウ王国の散弾銃に掲げる理念がわからないのだ。
散弾銃は鉛や鉄の散弾を撃ち出すごくありふれた銃でありながら、フォウ王国においては、それだけではすまない万能兵器(マルチツール)なのだ。古来のフォウ王国人にとって、野の獣を狩る仕事道具であり、意思疎通をする通信機であり、厚い装甲に覆われた憎き旧兵器を打ち倒す最終兵器である。それは今でも同じことなのだ。
ただ、ガントリとハイムに説明している時間はない。「スウォーム」の圧力は、刻一刻と戦況を押し返そうとドランたちに迫っている。
「行くぞ。『チョークレス』がどう働くかはその目で見ろ」
「了解」「了解」
アーキリは開架へと続く階段を降りていった。