名称 | 豊川国 |
人口 | 約2500万人 |
面積 | 約8万平方キロメートル |
首都 | 鹿嶋 |
主な都市 | 鹿嶋、赤羽、日光 |
公用語 | ドイツ語・日本語 |
元首 | 内閣総理大臣 |
建国 | 2021年8月4日 |
建国者 | 本田隆弘 |
元首 | 安倍晋太郎 |
体制 | 共和制 |
憲法 | 豊川国憲法 |
通貨 | ユーラ |
人口 | 49人 |
政治
閣僚名簿
役職 | 氏名 | 政党 | 備考 |
内閣総理大臣 | 安倍晋太郎 | 豊川保守の会 | 再入閣 |
外務大臣,副総理 | 及川幸久 | 豊川保守の会 | 横滑り |
官房長官,豊川復興担当 | 石原完次郎 | 豊川復興運動 | 再入閣 |
内務大臣,警察制度担当 | 大米帝国(未作成) | 社会保守党 | 再入閣 |
財務大臣,規制改革担当 | 山川和弘 | 豊川保守の会 | 留任 |
法務大臣 | 東堂勝 | 豊川保守の会 | 留任 |
国防大臣 | YOSHIKI | 豊川保守の会 | 留任 |
文部科学大臣 | 飯田佑基 | 豊川保守の会 | 留任 |
厚生労働大臣,女性活躍担当,内閣府特命担当大臣(男女共同参画) | 樋口日奈 | 豊川 | 再入閣 |
農林水産大臣,ふるさと納税担当 | 川瀬青海 | 豊川保守の会 | 留任 |
経済産業大臣,経済安全保障担当 | ケインズ | 豊川 | 初入閣 |
国土交通大臣 | 大原敬信 | 豊川 | 再入閣 |
環境大臣 | イシンコフリア | 豊川 | 初入閣 |
情報通信大臣 | 新内優香 | 豊川保守の会 | 横滑り |
内閣府特命担当大臣(鉄道,消防) | 岸田隆信 | 豊川 | 再入閣 |
内閣官房副長官 | 白布 | 豊川 |
【豊川国歴代内閣総理大臣】
初 代 木村優羅/無所属→維新の党
二 代 木村優羅/維新の党→民進党→民主党
三 代 木村優羅/無所属
四 代 大島郭栄/自由民主党
五 代 後藤輝樹/自由民主党
六 代 安倍晋太郎/自由党
七 代 後藤輝樹/自由民主党→国民民主党
八 代 後藤輝樹/国民民主党
九 代 及川幸久/豊川改進党
十 代 及川幸久/豊川改進党
十ニ代 土岐宗春/豊川改進党
十三代 後藤輝樹/豊川改進党
十四代 後藤輝樹/豊川改進党
十五代 松山俊久/豊川改進党
十六代 松山俊久/豊川改進党
十七代 安倍晋太郎/無所属
十八代
豊川国会 勢力図
初 代 木村優羅/無所属→維新の党
二 代 木村優羅/維新の党→民進党→民主党
三 代 木村優羅/無所属
四 代 大島郭栄/自由民主党
五 代 後藤輝樹/自由民主党
六 代 安倍晋太郎/自由党
七 代 後藤輝樹/自由民主党→国民民主党
八 代 後藤輝樹/国民民主党
九 代 及川幸久/豊川改進党
十 代 及川幸久/豊川改進党
十ニ代 土岐宗春/豊川改進党
十三代 後藤輝樹/豊川改進党
十四代 後藤輝樹/豊川改進党
十五代 松山俊久/豊川改進党
十六代 松山俊久/豊川改進党
十七代 安倍晋太郎/無所属
十八代
豊川国会 勢力図
党名 | 思想 | 議員数 | 代表者 |
豊川保守の会 | 中道〜右派 | 8 | 安倍晋太郎 |
豊川復興運動 | 豊川の復興 | 4 | 石原完次郎 |
社会保守党 | 中道〜右派 | 2 | 樋口日奈 |
豊川改進党 | 中道〜右派 | 1 | 石和田晃大 |
文化
勲章及び国民栄誉賞受賞者
〈大勲位菊花大綬章〉
ゆーら 大島内閣
大島椿 安倍内閣
後藤輝樹 及川内閣
及川幸久 石原内閣
〈桐花大綬章〉
後藤輝樹 安倍内閣
小林由奈 安倍内閣
安倍晋太郎 及川内閣
白石雅ニ 及川内閣
石原完次郎 及川内閣
〈旭日大綬章〉
ルナ 安倍内閣
川瀬青海 安倍内閣
渋谷楓 安倍内閣
白石雅ニ 安倍内閣
アドルフ 及川内閣
小池百合子 及川内閣
〈国民栄誉賞〉
黒猫大和の亡霊 安倍内閣
ゆーら 大島内閣
大島椿 安倍内閣
後藤輝樹 及川内閣
及川幸久 石原内閣
〈桐花大綬章〉
後藤輝樹 安倍内閣
小林由奈 安倍内閣
安倍晋太郎 及川内閣
白石雅ニ 及川内閣
石原完次郎 及川内閣
〈旭日大綬章〉
ルナ 安倍内閣
川瀬青海 安倍内閣
渋谷楓 安倍内閣
白石雅ニ 安倍内閣
アドルフ 及川内閣
小池百合子 及川内閣
〈国民栄誉賞〉
黒猫大和の亡霊 安倍内閣
歴史
第一章「古代の我が国」
- 先史時代
豊川国に人が移り住み始めたのは六千年前と呼ばれています。
主に当時陸で繋がっていたシチリア島から渡ってきた人々が多く、稀にスペインなどから泳いできた人々や、地中海を渡ってきた人もいました。
豊川は住みやすい気候だったため、多くの人が移り住みました。
しかし豊川では小麦などの穀物が自生して居なかったため、長らくは狩猟を中心とする生活が続いていました。
またこの時豊川北部で「サポネヤ」と言う国の王だった「エルブヒシ」はヨーロッパへ使節を送り、金印を貰っています(豊川国立歴史博物館蔵)
主に当時陸で繋がっていたシチリア島から渡ってきた人々が多く、稀にスペインなどから泳いできた人々や、地中海を渡ってきた人もいました。
豊川は住みやすい気候だったため、多くの人が移り住みました。
しかし豊川では小麦などの穀物が自生して居なかったため、長らくは狩猟を中心とする生活が続いていました。
またこの時豊川北部で「サポネヤ」と言う国の王だった「エルブヒシ」はヨーロッパへ使節を送り、金印を貰っています(豊川国立歴史博物館蔵)
第二章「古代文明の到来とローマ帝国への服属」
- 西暦100年頃、我が国に初めてローマ帝国の使者である「ユリヌス」が現れ、小麦などの食物や革の防具など、様々な文化が伝わりました。
これを利用して南部に存在した「アメホペ王国」の王であるアルメナキは我が国を統一しました。この時初めて我が国は、ひとつの国となりました。
- 統一されたとはいえ未熟な国家であった我が国をローマ帝国から守ろうとしたのが、アルメナキの摂政(政治を司る役職)であったマスバヴァです。
彼はローマ帝国へ服従をする代わり、ローマ帝国から大量の技術や機械、文化を輸入しました。
この後900年ほどはアルメナキの子孫による王朝が続きます。
この後900年ほどはアルメナキの子孫による王朝が続きます。
第三章「神聖ローマ帝国の侵攻」
- 1022年、神聖ローマ帝国に侵攻された我が国は一瞬にして神聖ローマ帝国領とされ、神聖ローマ帝国による統治が始まりました。
この時旧公用語であるドイツ語が流入しました。
第四章「オーストリア・ハンガリー帝国による植民地化」
- 神聖ローマ帝国崩壊後、神聖ローマ帝国生まれの貴族であるシューヴェルゲンを王とした王朝が100年ほど続いていましたが、1852年、オスマン帝国による侵攻が始まります。この時シューヴェルゲンの孫である「ムシュタイン」は即座に降伏し、オスマン帝国下となってしまいました。
しかしオスマン帝国が支配して僅か5日後、オーストリアハンガリー帝国とオスマン帝国の「イスタンブール条約」によってオーストリアハンガリー帝国領となります。
この際北部ではインフラ開発が進められました。
また、避寒地として多数の人々が豊川に移り住みました。
この際北部ではインフラ開発が進められました。
また、避寒地として多数の人々が豊川に移り住みました。
番外編「豊川の芸術」
古来は自然信仰から作られた「デサレ」(土偶)が作られました。
また中世に入ると名所の多い豊川に風景画家たちが現れるようになり、早川県などは風景画家達に「宝庫」とまで言われました。近世では「ネイコフの夕焼け」(ボストン美術館蔵)などドイツの影響を受けた作品(ゲルマニズム)が発達します。
さらに近代になると日本の同化政策に伴い、「ヤポネズム」が発達します。代表作は秋方八雲(アドルフ・シューリヴィルク)の「こちらを見つめる少女とその母親」(秋方八雲記念美術館蔵)などです。
さらに近代になると日本の同化政策に伴い、「ヤポネズム」が発達します。代表作は秋方八雲(アドルフ・シューリヴィルク)の「こちらを見つめる少女とその母親」(秋方八雲記念美術館蔵)などです。
第五章「第一次世界大戦と日本による同化政策」
1914年、オーストリアハンガリー帝国の皇太子がサラエボで暗殺されました。これがきっかけで第一次世界大戦が勃発します。
オーストリアハンガリー帝国(三国同盟)として参戦したわが国は、敗戦後日本の租借地となりました。
この際日本による強引な同化政策が進められ、創氏改名や日本式の住居への強制移住などが行われました。
しかし日本はインフラ等を整備しました。
この際日本による強引な同化政策が進められ、創氏改名や日本式の住居への強制移住などが行われました。
しかし日本はインフラ等を整備しました。
第六章「独立と南北分裂、そして内戦」
1945年、日本の敗戦によって豊川は独立するはずでした。しかし話がまとまらず、ドイツ語話者の「シューリブルク人民共和国」と日本語話者の「南豊川共和国」に分裂し、島は南北で別れてしまいます。
両国ともが島の統一を狙っていたため常に仲が悪く、シューリブルクはソ連を、南豊川はアメリカを後ろ盾にしており、南北冷戦(東西冷戦)の最前線でした。
しかし1979年、シューリブルクが南豊川の鷹宮へ侵攻、豊川内戦が始まります。
互いに米ソに援助を求めますが、両国は代理戦争を避けるためなかなか動こうとせず、内戦は泥沼化しました。
そして国力を互いに使い果たした両国は、合わせて19個の国に分裂する事となります。
しかし1979年、シューリブルクが南豊川の鷹宮へ侵攻、豊川内戦が始まります。
互いに米ソに援助を求めますが、両国は代理戦争を避けるためなかなか動こうとせず、内戦は泥沼化しました。
そして国力を互いに使い果たした両国は、合わせて19個の国に分裂する事となります。
第七章「19共和国時代と現在の豊川の建国」
豊川、シューリブルクは国力を使い果たしました。
それが発端となり我が国は19個に分裂することとなります。
2005年、豊川とシューリブルクはなおも争っていました。
そしてこの時、長引く戦争に不満を募らせた各都市で独立運動が巻き起こります。
それは異常なスピードで波及し、そして豊川、シューリブルク含め19個の国に分裂しました。
しかしこれを機に2006年、シューリブルクと豊川は白紙講和に成功し、またシューリブルクでは民主主義運動が加速し、ついにシューリブルクは民主主義国家になりました。(シューリブルク共和国の誕生)
現在の豊川の建国者であるゆーらの父、「木村康一」率いる豊川統一派は付近にいた国と次々に合併し、最終的には南豊川と北部で同様に勢力を取り戻した「ネイコフ民主共和国」のみとなります。
このまま統一するかと思っていた矢先…2020年に清水康一が急逝。
しかしこれを聞き日本から帰ってきた清水康一の娘、木村優羅がネイコフとの交渉を成功させます。(鹿嶋条約)
これにより豊川は晴れて統一されました。
豊川、シューリブルクは国力を使い果たしました。
それが発端となり我が国は19個に分裂することとなります。
2005年、豊川とシューリブルクはなおも争っていました。
そしてこの時、長引く戦争に不満を募らせた各都市で独立運動が巻き起こります。
それは異常なスピードで波及し、そして豊川、シューリブルク含め19個の国に分裂しました。
しかしこれを機に2006年、シューリブルクと豊川は白紙講和に成功し、またシューリブルクでは民主主義運動が加速し、ついにシューリブルクは民主主義国家になりました。(シューリブルク共和国の誕生)
現在の豊川の建国者であるゆーらの父、「木村康一」率いる豊川統一派は付近にいた国と次々に合併し、最終的には南豊川と北部で同様に勢力を取り戻した「ネイコフ民主共和国」のみとなります。
このまま統一するかと思っていた矢先…2020年に清水康一が急逝。
しかしこれを聞き日本から帰ってきた清水康一の娘、木村優羅がネイコフとの交渉を成功させます。(鹿嶋条約)
これにより豊川は晴れて統一されました。
豊川国建国からの出来事まとめ
2月9日 | 大島内閣総辞職 |
6月12日 | 第1次後藤内閣成立。同日中に後藤内閣不信任案が可決。 |
8月15日 | 豊川議会解散 |
8月19日 | 第6代内閣総理大臣に安倍晋太郎氏。 |
10月2日 | 安倍総理が出国。内閣総理大臣臨時代理による職務代行が始まる |
10月4日 | 第7代内閣総理大臣に後藤輝樹氏。 |
10月11日 | 豊川議会解散 |
10月23日 | アドルフ氏が議員辞職。 |
10月28日 | 木村氏が議員辞職。 |
11月16日 | 豊川改進党党首の及川幸久氏が第9代内閣総理大臣に選出される。 |
12月12日 | 議長にyoshiki氏、副議長に國友氏が選出される。 |
12月20日 | 国会議員を無能と発言した石原農水相を処分するための会議が設置される。 |
12月21日 | 豊川憲法に反しない範囲で日本国の法律を適用できる、豊川国の法律に関する法律が可決。 |
12月30日 | 旭日大綬章がアドルフ元国防相、小池百合子元官房長官に、桐花大綬章が安倍元総理、白石元副総理、石原元議長に授与される。 |
1月3日 | 玉川国、藤沢国、烏門国を吸収合併。 |
1月6日 | 豊川農業協同組合(TA)が設立される。 |
1月8日 | 改正公職選挙法が成立。 |
1月9日 | 豊川議会が解散。 |
1月19日 | 第5回豊川議会議員選挙が終了。豊川改進党が13議席を獲得。 |
1月19日 | 東和グループが日清食品を買収。 |
1月22日 | yoshiki議長が再選。 |
1月23日 | 及川幸久氏が第10代内閣総理大臣に選出される。 |
1月28日 | 京葉国で1月クーデターが発生。 |
1月29日 | 豊川サッカーリーグが開幕。 |
1月31日 | 岸川元首相の2か月間の入国停止と勲章の一時剥奪が閣議決定される。 |
2月2日 | 2022年度予算案が成立。 |
2月4日 | yoshiki議長が入院。 |
2月4日 | 中華民国との国交を断絶 |
2月6日 | 豊川電信電話株式会社設置法が成立。 |
2月7日 | 在台湾大使館を閉鎖。 |
2月7日 | 政党交付金法が成立。 |
2月8日 | 豊川改進党と国民民主党が事実上の合流 |
2月9日 | 鹿嶋証券取引所が設立される。 |
2月14日 | 及川内閣補充人事が行われる |
3月15日 | 新元号「繁稲」発表 |
3月18日 | 第1次石原内閣成立 |
3月20日 | 及川元総理に大勲位菊花大勲章を授与 |
5月16日 | 第4次後藤内閣成立 |
7月6日 | 国会解散 |