曹操


曹操(そうそう)
字は孟徳(もうとく)

(155-220)
正史において主人公の扱い。なので、ここでも少しだけ詳しく。
と、言っても書き出せば長くなるので、掻い摘んで箇条書き。

幼名は吉利(きつり)、または阿瞞(あまん)。
前漢初代皇帝である劉邦の腹心、曹参の子孫。
だが、曹操の祖父が宦官の為に父親が夏侯氏から養子となり、実際には直系ではない。
諡号は太祖。三国志では、曹操のことを全て「太祖」と記している。

とにかく若い頃から、ずる賢い。
  • 子供の頃、遊び呆けていた曹操を、叔父が父親にたびたび忠告していた。ある時、曹操は叔父の前でひきつけを起こした振りをして叔父を慌てさせた。父親がやってくると、曹操はケロリとして「叔父さんは僕を嫌って、いつも悪く言うのです」。それ以来、父親は叔父を信用しなくなったという。
  • 袁紹とは若い頃から付き合いがあり、二人して新婚の花嫁を略奪しに行ったが失敗。追っ手がかかる中、袁紹が茨の中で転んでしまった。トゲの痛みで動けないでいると、曹操が「犯人はここにいる」と大声で叫び、袁紹は痛みを忘れてトゲから脱出した。

  • 人物批評する者に自分のことを尋ねたところ「治世の能臣、乱世の奸雄」と評され、喜んだ。

  • 20歳で役所の仕事に就き、着実に出世コースを歩む。
  • 30歳の時、黄巾の乱が起き、潁川(という地方)の賊を討伐。その後、太守に任命されるが、突然引退宣言。故郷で狩や読書しながら隠居暮らし。
  • 実験を握った董卓に協力を要請されるも、嫌って都を脱出。
  • 189年12月、私財を投じて董卓討伐の兵を集め旗揚げする。190年に袁紹を盟主とした反董卓連合に参戦するが、董卓軍が協力で誰も先に戦おうとしない。曹操はやむなく進軍するが敗れる。結局、連合軍は分裂する。
  • 192年、青州の黄巾軍100万が進軍し、刺史が殺され曹操が牧となる。黄巾軍と戦い大打撃を受けながらも、やっとのことで撃ち破り黄巾軍を追い詰めた。そして降伏すると自軍に吸収。「青州兵」と名づけた。
ちょうどその頃に、人材が曹操の下に集まり始めた。
  • 同じ頃、陶謙により父親が殺害される(曹操と対立していたからという理由。他に説として財産目当てで陶謙の部下に殺された、というのがある)。これに対して曹操は、192年・193年と2回陶謙征伐を行い、徐州で無差別の殺戮を行っている(これが演義での悪役として決定付けた)。
  • 196年、帝を擁して大将軍に任命され、都を移す。この時、劉備が呂布に負けて曹操の下に逃げ込んだ。配下の程昱は「劉備は最後まで人の下にいる人間ではない」と進言し始末することを進言したが、「今は英雄の心を掌握する時期だから」と動かず厚遇する。
  • 同じ年に『屯田制』を開始([第15話]で出ました)。農耕専門の農民を広く集めて100万石の穀物を収穫可能にした。
  • 197年、張繍を降伏させるが、裏切られる。逃走の際に、長男曹昂と配下の典韋を失った。
  • 198年、張繍・劉表連合軍を破り、呂布を捕らえて処刑した。
  • 199年、袁術を討伐、再び張繍を降伏させている。張繍は配下になっているところなどを見ると、度量の大きさを感じざるを得ない。
  • 劉備に兵を持たせた為に反旗を翻されるが、200年に破り、劉備は袁紹の下に逃げ込んだ。
  • 官渡の戦いは袁紹の項にて詳しくあるので割愛。
ただ、曹操軍側で2つほど列挙。
  • 味方の食料が乏しくなり敗色濃厚になった時、流石の曹操も弱気になり、都で留守をしていた軍師荀彧に「帰りたい」と、手紙を送っている。それに対して荀彧は励ましの返書を送り、曹操は踏みとどまった。
  • 袁紹軍から奪った戦利品の中には、袁紹軍と内通していた自軍の手紙が多数にあった。曹操は「わしですらどうなるかわからなかったというのに、他の者達では…」と焼き捨てた。
  • 208年、曹操は丞相となり、孫権軍と対峙する。しかし、長い遠征による疾病で兵を失い大敗。呉側『呉書』では、呉の将である黄蓋が偽りの投降をして曹操軍の船団に近づき火を放った、とある。
これが『赤壁の戦い』である。連環の計や苦肉の策という言葉が出てくるのもこの戦い。
統一まであと一歩だったが、この戦いで遠退く。しかし、勢力基盤が揺るいだ訳ではない。
  • 211年、馬超の反乱の討伐に赴く。あわや、という場面もあったが、「離間の計」により馬超と韓遂の仲を割いて撃ち破った。
  • 212年、孫権と戦い、再び反乱をした馬超を討伐。
  • 215年、張魯を降伏させた。
  • 217年、再び孫権と戦う。
  • 219年、劉備に漢中という土地を奪われるが、孫権軍と連合して関羽を滅ぼした。
そして、220年1月23日に亡くなった。66歳。


負ける時は派手に負けるが、それでも勝率が高い為に三国一の国力を手に入れた。
とある本によると、勝率は8割6分5厘。
もの凄い勝率。

三国志ファンの中では 『人材コレクター』という愛称をつけられている。
有能な者なら、敵であろうが身分が低かろうが品行に問題があろうが、すぐに「欲しい」と言うところからなんだが、これで人生に花が咲いた人もいれば、狂わされてしまった人もいる。
その反面、自分の意志に反する者は、功労者でも容赦なく処分していた。
とにかく、立派な英雄なんだが、面白おかしく描かれやすい人である。
最終更新:2010年02月10日 21:38