田豊


田豊(でんほう)
字は元皓(げんこく)

(?-200)
謀臣と呼ぶべき権謀機略家。
若い頃から博学多才で、最初は王朝に召し出されるが、有能な人物が迫害されるのを見て官位を捨て故郷へ帰った。
袁紹に招聘され、公孫瓚討伐では田豊の機略が功を奏したという。
しかし、逢紀とは折り合いが悪く、また袁紹に対しても剛直で歯に衣着せぬ厳しい発言することがあり、次第に疎まれる。
200年、曹操が劉備を攻めた時に背後から曹操を襲えと進言したが、袁紹は息子の病気を理由に退ける。
200年2月、袁紹は南征し曹操と戦うことを決めた時、田豊・沮授は持久策、審配・郭図は積極策を出す。
田豊は「持久戦に持ち込み、軍事と農業を整備し、敵に撹乱攻撃をすれば2年のうちに勝利を得られる」と進言、その後も何度も諌める。
が、袁紹は審配・郭図らの積極策・短期決戦を選んだ。
その諌めた言により、田豊は投獄される。この報を聞いた曹操は勝利を確信したという。
田豊の読み通りに袁紹は敗北。袁紹はこの敗戦によって田豊が自分を笑い者にすることだろうと疑い殺害した。
また、正史の中では田豊殺害について、逢紀の讒言が原因だという注釈(逢紀の紹介で詳しく)もある。

曹操は「袁紹が田豊の策を採用していたらどうなったか分からない(袁紹と逆の立場になっていただろう)」と語っている。

田豊・沮授の二人は、主君を誤った悲運の軍師である、と管理人は思っている。
最終更新:2010年02月12日 10:31