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永久砲事件
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永久砲事件
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)中山朝吉《なかやまあさきち》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三|博士《はかせ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)はり[#「はり」に傍点]
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[#3字下げ]減らない鉄[#「減らない鉄」は中見出し]
中山朝吉《なかやまあさきち》は明治鋼業の若い技師である。大学にいた時分から鋼鉄の精錬法を専門に学び、卒業するとすぐ招かれて入社した。
明治鋼業には加納《かのう》真三|博士《はかせ》という精錬学の大家がいて、朝吉はその指導をうけながら二年間を工場で働いたが、技倆を認められて独逸《ドイツ》へ派遣され、ライプチッヒ大学の附属鉄材研究所で特殊鋼の研究をすること三年、こんど加納博士が急死したという通知を受取《うけと》ったので、何もかもなげうって帰朝したのである。
日本へ上陸するとすぐ、そのまま加納博士の郷里へいって博士の墓参をしたので、彼が東京の社へ出たのは一週間の後だった。
「――ただいま帰りました」
社長室へ挨拶にいった彼は、そう云《い》って軽く頭をさげると、すぐに仕事の話へ移った。
「研究所の仕事はどうなっていますか」
「なんだい、三年も独逸《ドイツ》へいってきた者が、人の顔を見るなりもう仕事の話か」近藤社長は苦笑して、
「とにかく長い旅行で疲れているだろうから、仕事の方は一週間ばかり温泉へでもいってきてからにしたら宜《い》いだろう」
「いいえ、加納先生の墓参をして参りましたので休養は充分です。研究所の方は誰がやっていますか、すぐ行ってみたいんですが」
「和田弘太郎君が加納さんの続きをやっている。君が帰朝したら吃驚《びっくり》させることがあるって、はり[#「はり」に傍点]切っているぞ」
「結構ですね、うんと吃驚《びっくり》したいですよ」
朝吉は社長室を出た。
明治鋼業は芝浦十五号地にある。敷地五万坪の中に白堊《はくあ》五層の事務所、工場六棟、研究室二棟、それに合宿所だの食堂だのが美しい配置で並んでいる。二棟の研究室は海に面した二階建のがっちりしたもので、小さくはあるが完備した附属工場が附いていた。――第一研究室へ入っていった朝吉は、とび出してきた和田弘太郎にいきなり両手を握られた。弘太郎は朝吉の一年後輩で、同じく加納博士の下に働いている若手の技師だ。
「よう、やっと帰ってきたな、御機嫌よう」
「留守中は色々とありがとう」
「神戸へ上陸したことを新聞で読んだから、もう帰るだろうと毎日待っていたんだ。――まあなかへ入ろう」
「なにか吃驚《びっくり》させることがあるって?」
「少《すくな》くとも褒めては貰えると思うよ」
肩を抱合《だきあ》ったまま二人は研究室の中へ入った。
その室《へや》は十|米《メートル》に二十|米《メートル》ほどの広さで、三分の一のところを硬質|硝子《がらす》の壁で仕切り、狭い方が書斎、広い方が実験室になっている。書斎には書物卓子《かきものテーブル》や、書棚や、また重要書類を入れる金庫が備付《そなえつ》けてあるので、責任者のほかは出入禁止であった。――実験室の方には水洗場や、小さな電気炉のあいだに、ビイカーやレトルトや、酸素分解機などが所狭きまでに清潔な光の配置をなしている。
「さあこれを見てくれたまえ」
和田技師は実験室の方へ朝吉を導いてゆくと、電気炉の側の台においてあった一片の鋼鉄をとって相手にわたした。
「先生の研究していた加納鋼だね」
「そうだよ」
「君が完成したのか?」
「もう一歩というところで、先生に亡くなられたのだ」
和田は黙祷するように頭をたれたが、すぐまた元気な口調でつづけた。
「僕はちょっと途方にくれたよ、なにしろ君が独逸《ドイツ》へ出発したあとは、先生がほとんど一人っきりで続けておられた仕事だもの。けれどその儘《まま》にしておく訳にはいかんから頑張った。兎《と》に角《かく》一応は完成したんだ」
「実験の結果はどうだ、やってみたのか」
「いや、僕が褒めて貰いたいのはそれとは別なんだ。むろん加納鋼は実験して満足なものだったが、それとは別に、僕はいまもう一段進めた研究を完成したのさ。――これだよ」
そう行って和田弘太郎は別の一片を取上《とりあ》げて差出《さしだ》した。それは厚さ五|吋《インチ》ほどの円筒を二つに割ったようなものである。朝吉はそれをつくづく見ていたが、
「加納鋼の原理の応用だな」
「そうだ、そして打明《うちあ》けていうと、こいつは近藤社長の註文なんだ」
「――式を見せてくれないか」
「いいとも」
和田弘太郎は書斎へ入って、金庫の中から一綴《ひとつづり》の書類を取出して来た。
加納鋼というのは何か? それは簡単にいうと「減らない鉄」である。激しく動く機械の一部に使われる鉄は、熱で膨脹したり、摩擦されて減ったりしないような物でないといけない。現在でもエンジンやピストルに使われる金属は、こうした条件に適するような物で研究されているが、まだまだ不充分で、いろいろ不便な点が多いので理想的とはいえない。
加納博士の研究した鋼鉄は、要するにその条件を完全に備えたものなのだ。
[#3字下げ]歓迎午餐会[#「歓迎午餐会」は中見出し]
和田弘太郎の渡した書類を、叮嚀《ていねい》に見ていた朝吉は、なんとなく解せぬ顔つきで、
「社長はこれを何に使おうというんだ?」
「それは僕にも分らない。なんでも特に秘密を要すると云うので、僕は独力でやったよ」
「秘密でね……?」
中山朝吉は宙をにらむような眼をしたが、
「これは君、加納先生の鋼鉄とはまるで用途が違うね。――実は僕も独逸《ドイツ》でこれと似通った精錬法を研究してきたんだ。いま君のを見るとずいぶんよく出来ているが……」
「まだ駄目かい?」
「駄目とは云わないが、完全だとも云えない。早速僕のと対照して実験しよう。こいつはかなり重大な仕事になると思うよ」
朝吉はそう云いながら、早くも上衣《うわぎ》を脱ごうとした。すると扉《ドア》をあけて、
「中山さん、社長がお呼びです」
と給仕が顔を出した。
「大食堂で重役さんたちの歓迎午餐会があるそうですから、直《す》ぐおいで下さいと云ってます」
「なんだもう午《ひる》か、午餐会なんてつまらぬ騒ぎは御免だな」
朝吉はにがい顔をして、脱ぎかけた上衣《うわぎ》をひっかけた。
大食堂では十五人の重役と、幹部級の職員たちが集って彼を待っていた。――時局がら、歓迎会も質素にする、という社長の言葉を初めに、重役たちの挨拶があり、職員の歓迎の辞が次から次へと続いたあと、中山朝吉は無造作に立上《たちあが》ると、
「これから一生懸命にやりたいと思います」
ぶっきら棒に一言そう云っただけで席に戻ってしまった。
食事に入ってから、朝吉は重役の中に一人、中年の外国人がまじっているのをみつけて、隣にいる社長にあれは誰かと訊《き》いた。
「ああ君はまだ知らなかったな」
社長はナプキンで口端《くちのはた》を拭きながら、
「あれはヘンリイ・ジョンソンといって、こんど我社へ二百万|弗《ドル》ほど資本をいれた加奈陀《カナダ》財団の代表者だよ」
「そうですか、気にくわぬ面をした奴ですね」
「重役の悪口は慎みたまえ」
「悪口じゃありません。感想です」
朝吉は不味《まず》そうに肉を頬張ったが、
「――時に社長」と、振返《ふりかえ》って、
「和田君にお命じになった新しい精練鋼ですね。あれは社長御自身のお考《かんがえ》なのですかそれとも他に発案者があるんですか」
「僕の案じゃない。実はね、――加納鋼の好結果を見て、あのヘンリイ・ジョンソンが研究註文を出したものなんだ」
「何に使うんです」
「汽船のスクリュー軸に使うとか云っているが、こいつさえ成功すれば、更《さら》に二百万|弗《ドル》くらい財団から投資させるそうだ」
朝吉は黙って頷いたばかりだった。
午餐会が終ると礼の言葉もそこそこに朝吉は研究室へ戻ってきた。なにか気懸りなことがあるらしく、ひどく不機嫌な様子でしばらく室内を歩き廻っていたが、――不意に書斎の扉《ドア》を開けて入ると、
「和田君、こんどの精錬鋼の結果はまだ報告してはないだろうな」
「もう一度実験してからにするつもりだ」
「日限があるのか」
「約束は来週の金曜日だよ」
「よし、それまでは報告を出さないようにしてくれ、若《も》し金曜日になっても、僕から通知があるまでは誰にも渡しちゃいかん」
「――君は何処《どこ》かへ行くのか?」
「うん、四五日休暇を貰う、大丈夫金曜日までには出てこられると思うが、君の精錬法はそれまで誰にも報告しちゃいけない。図式は金庫に納《しま》って厳重に警戒を頼む」
「なんのために、そんな大袈裟《おおげさ》な……」
「そいつは僕にもまだ分らない。しかし間もなく説明することが出来るだろう。それまでくれぐれも頼むぞ。――この材料は借りて行くよ」
そう云って、和田弘太郎の作った新しい精錬鋼を取ると、あっけにとられている友達を後にさっさと外へ出ていった。
中山朝吉はそのまま目白の自分の家に引籠《ひきこも》ってしまった。広い屋敷の中にある自分の研究室でほとんど寝食も忘れて何事か研究を始めたのである。――ところが一方会社の方では、それから三日めに近藤社長が和田を呼んで、
「頼んでおいた新精錬鋼はどうだ。よかったら結果の報告を聞きたいがね」と云った。「たしか四五日まえに君は、もう完成したと云ったように思うが」
「あの時はそう申上《もうしあ》げたのですが、実験してみましたら少し不満足なところがあるので、もう四五日待って頂きたいんです」
「それは困るね」
社長は眉をひそめて、「ジョンソン氏が急に加奈陀《カナダ》へ帰ることになったんだ。それで是非とも明日までに結果を知りたいんだ」
[#3字下げ]永久砲身[#「永久砲身」は中見出し]
「明日と仰有《おっしゃ》られても無理ですね、社長」
「その無理を通して貰いたいんだ、――と云うのはね、ジョンソン氏は第二回投資の二百万|弗《ドル》を決めるために帰国するんだ。それには新しい精錬鋼の成功を見せなければならない。和田君、我々は大陸経営のために外国資本を大いに利用しなければならぬ。しかも今度の加奈陀《カナダ》財団の投資する合計四百万|弗《ドル》は、満洲の豆粕と綿製品なんだ。いま日本にとって一番必要な『鉄』のために四百万|弗《ドル》を投資させ、その支払いは豆粕と綿製品でするという、こんな好条件の話は又とあるまい。どうかぜひ頼むよ」
「よく分りました。兎に角やってみましょう」
和田は返辞に困って社長室を出た。
彼の研究は完成しているのだ。中山朝吉から止められなかったら、すぐにも図式と製品を差出すことが出来たのである。何のために中山が止めたか分らないが、ぐずぐずしていると二百万|弗《ドル》の投資をふい[#「ふい」に傍点]にするかも知れぬ。それでは彼としても折角《せっかく》の苦心が役に立たない――和田弘太郎は研究室へ戻ると、思い切って中山に手紙を書いた。
社長の言葉と自分の立場を委《くわ》しく書いて、研究の発表をするからという文面である。手紙を書き終ったときであった。――叩《ノック》もせずに扉《ドア》を押《おし》あけて、
「やあ、いるかい」
と中山朝吉がとびこんできた。
「やあ、いま君のところへ手紙を」
「それよりまだ報告はしてないだろうな」
朝吉は相手の言葉など耳にもかけず、
「君は気が弱いから、社長に急《せ》っつかれて若しや図式を出しやしないかと気が気じゃなかったぜ、だが間に合ってよかった。さあ一緒に社長のところへ行こう」
「――どうするんだ」
「何でも宜いから来たまえ」
朝吉は云うより早く扉《ドア》の外へとび出していた。――社長室へ行ってみるとジョンソンがいた。
「社長――」
朝吉は無遠慮に、
「秘密のお話があるんです。この方に出ていって頂きたいんですが」
「なんだね、いま重要な話をしているんだが」
「此方《こっち》の方が重要です。十分間で結構です」
ジョンソンは若い技師の顔を腹立たしげに見ていたが、
「私ノ話、アトニシマス」
と云って朝吉を睨みつけながら出ていった。
「君の態度はいかんぞ中山君」
「待って下さい社長、実際のところジョンソンがいては具合が悪いんです。では直截にお話しますが」
と朝吉は椅子《いす》にかけながら、
「加奈陀《カナダ》財団の二百万|弗《ドル》は諦めていただきます」
「馬鹿なことを云っちゃいかん」
「馬鹿なことではありません。和田君の研究した精錬鋼が何に使われるのか、貴方《あなた》はご存じないんです、――あれは大砲の砲身ですよ」
「……冗談じゃない」
「まあ聞いて下さい」朝吉はどん[#「どん」に傍点]と卓子《テーブル》を叩いた。
「社長も現在の大砲が不備であることは御承知でしょう。十四|吋《インチ》から十六|吋《インチ》砲は約二、三百発打つと砲身がだめになります。八|吋《インチ》砲で千五百発くらい。大戦のとき独逸《ドイツ》軍が巴里《パリ》を撃ったベルタ砲などは、四十発も射つと砲身は使えなくなります」
「それは聞いて知っているよ」
「あの重い大砲を、戦地で取換えることは非常な作戦上の不便を忍ばねばなりません。それで世界各国の軍部では今、熱心に『永久に使える砲身』または少くとも『現在の何倍か使える砲身』の研究をやっています。――僕が独逸《ドイツ》へゆくとき、加納先生から命ぜられたのはこの永久砲身の研究でした」
朝吉はひと息ついてつづけた。
「ところが帰って来て、和田君の新しい精錬鋼を見ると、僕の研究していた物によく似ているんです。失礼ながら完全とは云えません、しかしそれでも砲身としては現在の五六倍の価値はあるでしょう。――これは正にジョンソンが四百万|弗《ドル》の金で盗みにきたんです。汽船のスクリュー軸に使うなどとは嘘っぱちです、奴は加納鋼の優れた成功を見て、ひそかに永久砲身の精錬法を完成させ、その秘密を加奈陀《カナダ》へ持って帰ろうとしているんです」
初めて知った事の重大さに、社長も和田弘太郎も唖然とした。これは軍器の機密である。
「社長、四百万|弗《ドル》は諦めてください」
「――むろんだ!」近藤社長は大きく頷いて、
「そう聞いては四百万が四千万でも断乎《だんこ》として断る。よく気がついてくれたな中山君、お礼をいうぞ」
「では失礼して仕事にかかります」
朝吉は微笑しながら立上った。――しかし事件はその後に待っていたのである。
[#3字下げ]書類の行方[#「書類の行方」は中見出し]
研究室へもどった二人が、書斎の扉《ドア》をあけた時、――そこにはヘンリイ・ジョンソンが蒼白い顔をして立っていた。
「あっ!」
と朝吉は驚きの声をあげた。見よ! 重要書類を入れる金庫の扉があいているではないか。朝吉は素早く背中で扉《ドア》を閉めながら、「和田君、図式の書類を見たまえ」
と叫んだ。和田弘太郎は金庫の側へ走りよって中を検《しら》べたが、
「――ない、図式がないぞ」
「おい! ジョンソン」朝吉は一歩進んで云った。
「君の盗んだ図式を出したまえ。新しい精練鋼、つまり永久砲身の精錬法を書いた図式を出したまえ」
「私ナニモ知リマセン!」
ジョンソンは冷笑しながら云った。
「私コノ建物ノ外ヲ通ッタ。変ナ人ガコノ建物カラ出ルノヲ見タ。心配シテ入ッテ見ルト金庫ガアイテイタノデス、私ナニモ知リマセン、怪シイト思ウナラ検べテ下サイ」
「白々しいことを云うな!」
朝吉は大股に近寄ると、断乎たる様子でジョンソンの身体検査を始めた。しかし図式は出て来なかった
「――裸になれ」
朝吉はいまいましそうに呶鳴《どな》った。
「ソレ貴方《アナタ》ノ権利ナイデス」ジョンソンは傲然として、「私ココデ裸ニナル義務アリマセン、警官ト社長ノ立会ヲ求メマス」
「生意気なことを云うな」
和田が怒って詰寄《つめよ》るのを、
「まあ待て、理屈は理屈だ」朝吉が押止めた、「ジョンソン、君の望みに任せよう、社長室へ一緒に来たまえ」
「何処《ドコ》ヘデモ行キマス」
又しても彼は太々《ふてぶて》しく笑った。
二人はジョンソンの腕を左右から掴み、油断なく社長の室《へや》まで連れて行った。――そして襯衣《シャツ》まで脱がせて検べたが、何処《どこ》からも図式の紙は出て来なかった。
「――そんな筈《はず》はない」
朝吉は口惜《くや》しそうに、
「此奴《こやつ》は四百万|弗《ドル》出してもあの図式が欲しかったんだ。金庫の扉があいており、図式が無くなっていたとすれば、そこにただ一人いた此奴《こいつ》が盗んだに違いないじゃないか……畜生!」
「兎に角もう一度検べてみよう」
二人は研究室へ引返した。
金庫の中は元より、室内を二時間近くもさがしたが無駄だった。ジョンソンが若しこの室《へや》の何処《どこ》かへ隠したとすれば、これだけ捜してもみつからぬ筈はない。そして彼の体にも持っていないとすると、――彼の言葉が本当なのではあるまいか。
――変ナ人が此処《ココ》カラ出テ行ッタ。
と云う彼の言葉が。
「分らん、奴が盗んだという事は慥《たしか》だ。僕はあくまでそう思う。だが盗んだ図式をどうしたか? 体にも持っていず、此処《ここ》にも隠してないとすると、どうなんだ」
「奴の云った通り、他に……」
和田が云いかけた時、給仕が入って来て、
「中山さん、社長さんがこれ以上ジョンソンさんを検べる訳にいかないから帰らせますって……」
「勝手にしろって云ってくれ」
朝吉は投出《なげだ》すように云ったが、慌てて呼止《よびと》めた。
「君はこの部屋の受持なんだな?」
「……そうです」
「手紙は何時に出した?」
給仕は不審そうに、
「毎日午前十時と午後三時に出す規定です。今日はもうさっき出してきました」
「和田君、手紙の宛名を覚えてるか」
「発信簿に控えてあります」給仕が云った。
「よし直《すぐ》に持って来い」
給仕が出て行くと、朝吉は向直《むきなお》って云った。
「奴は図式を盗んだ。しかしこの部屋にも隠してないし体にも持っていない。とすると何かの方法でこの部屋から外へ持出《もちだ》す工夫をしたんだ。――何かの方法、つまり手紙さ。君の机の上には発信すべき手紙がおいてある。奴は図式をその手紙のどれか一通の中へ入れたんだ。我々が奴を裸にして検べているあいだに、図式は手紙の中へ入ったまま大威張りで郵便局へ行ってしまったんだよ」
「あ! そうか」
「僕はそう思う、その他に手段はない」
給仕が発信簿を持ってきた。――手紙を何処《どこ》と何処《どこ》へ出したかを控えておく帳簿で、これは何処《どこ》の会社でもたいていは給仕の役だ。
「――五通出したんだな」朝吉は開いて見ながら、
「よし、この宛名の家へ電話をして着いた手紙を検べて貰おう。早くしないとジョンソンの手に渡ってしまうぞ」
[#3字下げ]覆面の狙撃者[#「覆面の狙撃者」は中見出し]
五通の手紙の内、四通は市内であった。一通は満洲の鉱務局だから問題外として、すぐ四軒へ電話をかけた。
「今日送った手紙には重大秘密があるから、届いたら此方《こっち》から行くまで厳重に保管しておいてくれ」
と云う意味を繰返《くりかえ》し念をおしたのである。――そして更に郵便局へかけて、三時発信の手紙が市内で配達される時間を訊くと、
「――今夜の六時から七時のあいだです」
という返辞であった。
いちど郵便局へ差出した手紙は、発信人といえども取りもどすことは出来ない。宛名の家へ届くのを待つより他にないのである。――ジョンソンが若し図式を手紙の中へ入れたとすれば、やはりその手紙が着くのを待って奪取《うばいと》る方法しかない。
「和田君、今夜はちょいと冒険があるぜ」
「合点だ、僕はこれでも立派な補充兵だからな」
「補充兵を自慢にする奴があるかい」
二人は大声に笑った。
朝吉は社長に会って簡単に事情を話し、若い職工の中から腕っこきの者を二十人選んだうえ、それを四組に分けて手紙の行先である四軒の家へ出張させた。……ジョンソンと手紙の争奪戦があると見たからだ。そして彼もその一組に加わって出発した。
しかし、しかし、朝吉の手配にも拘わらず、四軒へ着いた手紙には図式は入っていなかった。四通とも和田の書いた手紙の他には紙片一枚も余計な物はなかったのである。
「そうか、駄目か」
電話で和田弘太郎と連絡をとって、四通とも駄目だったと知った朝吉は、張切《はりき》った力も抜けてがっかり落胆した、――彼の推察は当っていなかったのだろうか? ジョンソンは手紙を利用したのではなかったのだろうか? ではどうして図式を盗取《ぬすみと》ったのか※[#感嘆符疑問符、1-8-78] こうなると全く考えようが無い。
朝吉は職工たちを解散させて、そのまま呆然と目白の自分の家へ帰ってきた。――食事をする気も起らないので、家の者には黙ったまま自分の研究室へ入り、どっかり椅子にかけて考込《かんがえこ》んでしまった。……思えば思うほど残念だった。ジョンソンが盗んだ事は慥《たしか》だ。彼は朝吉が社長に密談を求めて、ジョンソンを室《へや》から追出《おいだ》したので、自分の野心が露顕したことを覚ったのだ。そして先手を打って研究室へ忍びこみ、図式を盗出したに相違ない。――彼は三日経つと加奈陀《カナダ》へ帰ってゆく。恐らくは永久砲の秘密をも持って……。
「畜生、どうして盗出したか、どういう方法で……それが分りさえしたら」
思わず口惜《くや》しそうにそう呟いた時、卓上電話のベルがけたたましく鳴りだした。受話器を耳にすると、
「中山君かッ」
と和田弘太郎の急込《せきこん》だ声が喚いた。「気をつけてくれ、手紙は五通じゃなかった」
「え? なんだって」
「社長に発表をせがまれて、僕は仕方なく君に相談するために手紙を書いたんだ。そこへ君がきたんで忘れていたが、その手紙を給仕が一緒に出している……私信だと思って発信簿に控えなかったのだそうだ、君のところへ手紙が行くぞ、注意してくれ」
和田弘太郎の声が終らぬうち、研究室の硝子《がらす》窓が突然、ガシャン! と砕け、
だんッだんッ。
中山は背中から拳銃《ピストル》の狙撃を喰《くら》った。あっ[#「あっ」に傍点]と悲鳴をあげながら、椅子ごと横ざまに倒れる、刹那! 扉口《とぐち》へ廻った一人の怪漢が、扉《ドア》を押あけて走り込むと、素早く卓子《テーブル》の上にあった手紙を掴む――
とたん、
「待てッ」
叫ぶより疾《はや》く、はね起きた朝吉が、怪漢の足を払うと共に右手の拳ですばらしい一撃、それこそ火の出るようなやつを相手の鼻柱の真上へ入れた。――この的確な不意打はみごとにきまった。苦痛の呻《うめ》きをあげながら倒れるやつを、のしかかって拳銃《ピストル》を奪い、覆面を取ってみると、紛れもないヘンリイ・ジョンソンである。朝吉は落ちている手紙を拾って破り、中に図式の入っているのをみると、……初めて快心の笑をうかべながら、話の途中で投出したままになっている受話器を手にした。
「おい和田君、まだいるか」
「ど、どうした、今の音はなんだ、無事か」
相手の方が取乱している。――朝吉は椅子にかけ、倒れたまま呻いているジョンソンの方へ拳銃《ピストル》をむけながら云った。
「今の音はな、ジョンソン先生の御訪問なんだ。硝子《がらす》を一枚|損《こわ》したよ、君の電話がもう十秒おくれたら、僕の背中へ風穴があいているところだった」
「怪我《けが》は? 怪我はどうだ※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「図式のことを訊かないのか、安心し給え。図式は手紙の中に入っていた。やはり僕の推察が当ったよ。――次に怪我のことだが、ジョンソン先生の鼻柱が砕けたようだ。すまないが警官と一緒に医者をつれて来てくれ。会ってからゆっくり話そう」
底本:「山本周五郎探偵小説全集 第四巻 海洋冒険譚」作品社
2008(平成20)年1月15日第1刷発行
底本の親本:「少年少女譚海」
1939(昭和14)年2月
初出:「少年少女譚海」
1939(昭和14)年2月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)中山朝吉《なかやまあさきち》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三|博士《はかせ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)はり[#「はり」に傍点]
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[#3字下げ]減らない鉄[#「減らない鉄」は中見出し]
中山朝吉《なかやまあさきち》は明治鋼業の若い技師である。大学にいた時分から鋼鉄の精錬法を専門に学び、卒業するとすぐ招かれて入社した。
明治鋼業には加納《かのう》真三|博士《はかせ》という精錬学の大家がいて、朝吉はその指導をうけながら二年間を工場で働いたが、技倆を認められて独逸《ドイツ》へ派遣され、ライプチッヒ大学の附属鉄材研究所で特殊鋼の研究をすること三年、こんど加納博士が急死したという通知を受取《うけと》ったので、何もかもなげうって帰朝したのである。
日本へ上陸するとすぐ、そのまま加納博士の郷里へいって博士の墓参をしたので、彼が東京の社へ出たのは一週間の後だった。
「――ただいま帰りました」
社長室へ挨拶にいった彼は、そう云《い》って軽く頭をさげると、すぐに仕事の話へ移った。
「研究所の仕事はどうなっていますか」
「なんだい、三年も独逸《ドイツ》へいってきた者が、人の顔を見るなりもう仕事の話か」近藤社長は苦笑して、
「とにかく長い旅行で疲れているだろうから、仕事の方は一週間ばかり温泉へでもいってきてからにしたら宜《い》いだろう」
「いいえ、加納先生の墓参をして参りましたので休養は充分です。研究所の方は誰がやっていますか、すぐ行ってみたいんですが」
「和田弘太郎君が加納さんの続きをやっている。君が帰朝したら吃驚《びっくり》させることがあるって、はり[#「はり」に傍点]切っているぞ」
「結構ですね、うんと吃驚《びっくり》したいですよ」
朝吉は社長室を出た。
明治鋼業は芝浦十五号地にある。敷地五万坪の中に白堊《はくあ》五層の事務所、工場六棟、研究室二棟、それに合宿所だの食堂だのが美しい配置で並んでいる。二棟の研究室は海に面した二階建のがっちりしたもので、小さくはあるが完備した附属工場が附いていた。――第一研究室へ入っていった朝吉は、とび出してきた和田弘太郎にいきなり両手を握られた。弘太郎は朝吉の一年後輩で、同じく加納博士の下に働いている若手の技師だ。
「よう、やっと帰ってきたな、御機嫌よう」
「留守中は色々とありがとう」
「神戸へ上陸したことを新聞で読んだから、もう帰るだろうと毎日待っていたんだ。――まあなかへ入ろう」
「なにか吃驚《びっくり》させることがあるって?」
「少《すくな》くとも褒めては貰えると思うよ」
肩を抱合《だきあ》ったまま二人は研究室の中へ入った。
その室《へや》は十|米《メートル》に二十|米《メートル》ほどの広さで、三分の一のところを硬質|硝子《がらす》の壁で仕切り、狭い方が書斎、広い方が実験室になっている。書斎には書物卓子《かきものテーブル》や、書棚や、また重要書類を入れる金庫が備付《そなえつ》けてあるので、責任者のほかは出入禁止であった。――実験室の方には水洗場や、小さな電気炉のあいだに、ビイカーやレトルトや、酸素分解機などが所狭きまでに清潔な光の配置をなしている。
「さあこれを見てくれたまえ」
和田技師は実験室の方へ朝吉を導いてゆくと、電気炉の側の台においてあった一片の鋼鉄をとって相手にわたした。
「先生の研究していた加納鋼だね」
「そうだよ」
「君が完成したのか?」
「もう一歩というところで、先生に亡くなられたのだ」
和田は黙祷するように頭をたれたが、すぐまた元気な口調でつづけた。
「僕はちょっと途方にくれたよ、なにしろ君が独逸《ドイツ》へ出発したあとは、先生がほとんど一人っきりで続けておられた仕事だもの。けれどその儘《まま》にしておく訳にはいかんから頑張った。兎《と》に角《かく》一応は完成したんだ」
「実験の結果はどうだ、やってみたのか」
「いや、僕が褒めて貰いたいのはそれとは別なんだ。むろん加納鋼は実験して満足なものだったが、それとは別に、僕はいまもう一段進めた研究を完成したのさ。――これだよ」
そう行って和田弘太郎は別の一片を取上《とりあ》げて差出《さしだ》した。それは厚さ五|吋《インチ》ほどの円筒を二つに割ったようなものである。朝吉はそれをつくづく見ていたが、
「加納鋼の原理の応用だな」
「そうだ、そして打明《うちあ》けていうと、こいつは近藤社長の註文なんだ」
「――式を見せてくれないか」
「いいとも」
和田弘太郎は書斎へ入って、金庫の中から一綴《ひとつづり》の書類を取出して来た。
加納鋼というのは何か? それは簡単にいうと「減らない鉄」である。激しく動く機械の一部に使われる鉄は、熱で膨脹したり、摩擦されて減ったりしないような物でないといけない。現在でもエンジンやピストルに使われる金属は、こうした条件に適するような物で研究されているが、まだまだ不充分で、いろいろ不便な点が多いので理想的とはいえない。
加納博士の研究した鋼鉄は、要するにその条件を完全に備えたものなのだ。
[#3字下げ]歓迎午餐会[#「歓迎午餐会」は中見出し]
和田弘太郎の渡した書類を、叮嚀《ていねい》に見ていた朝吉は、なんとなく解せぬ顔つきで、
「社長はこれを何に使おうというんだ?」
「それは僕にも分らない。なんでも特に秘密を要すると云うので、僕は独力でやったよ」
「秘密でね……?」
中山朝吉は宙をにらむような眼をしたが、
「これは君、加納先生の鋼鉄とはまるで用途が違うね。――実は僕も独逸《ドイツ》でこれと似通った精錬法を研究してきたんだ。いま君のを見るとずいぶんよく出来ているが……」
「まだ駄目かい?」
「駄目とは云わないが、完全だとも云えない。早速僕のと対照して実験しよう。こいつはかなり重大な仕事になると思うよ」
朝吉はそう云いながら、早くも上衣《うわぎ》を脱ごうとした。すると扉《ドア》をあけて、
「中山さん、社長がお呼びです」
と給仕が顔を出した。
「大食堂で重役さんたちの歓迎午餐会があるそうですから、直《す》ぐおいで下さいと云ってます」
「なんだもう午《ひる》か、午餐会なんてつまらぬ騒ぎは御免だな」
朝吉はにがい顔をして、脱ぎかけた上衣《うわぎ》をひっかけた。
大食堂では十五人の重役と、幹部級の職員たちが集って彼を待っていた。――時局がら、歓迎会も質素にする、という社長の言葉を初めに、重役たちの挨拶があり、職員の歓迎の辞が次から次へと続いたあと、中山朝吉は無造作に立上《たちあが》ると、
「これから一生懸命にやりたいと思います」
ぶっきら棒に一言そう云っただけで席に戻ってしまった。
食事に入ってから、朝吉は重役の中に一人、中年の外国人がまじっているのをみつけて、隣にいる社長にあれは誰かと訊《き》いた。
「ああ君はまだ知らなかったな」
社長はナプキンで口端《くちのはた》を拭きながら、
「あれはヘンリイ・ジョンソンといって、こんど我社へ二百万|弗《ドル》ほど資本をいれた加奈陀《カナダ》財団の代表者だよ」
「そうですか、気にくわぬ面をした奴ですね」
「重役の悪口は慎みたまえ」
「悪口じゃありません。感想です」
朝吉は不味《まず》そうに肉を頬張ったが、
「――時に社長」と、振返《ふりかえ》って、
「和田君にお命じになった新しい精練鋼ですね。あれは社長御自身のお考《かんがえ》なのですかそれとも他に発案者があるんですか」
「僕の案じゃない。実はね、――加納鋼の好結果を見て、あのヘンリイ・ジョンソンが研究註文を出したものなんだ」
「何に使うんです」
「汽船のスクリュー軸に使うとか云っているが、こいつさえ成功すれば、更《さら》に二百万|弗《ドル》くらい財団から投資させるそうだ」
朝吉は黙って頷いたばかりだった。
午餐会が終ると礼の言葉もそこそこに朝吉は研究室へ戻ってきた。なにか気懸りなことがあるらしく、ひどく不機嫌な様子でしばらく室内を歩き廻っていたが、――不意に書斎の扉《ドア》を開けて入ると、
「和田君、こんどの精錬鋼の結果はまだ報告してはないだろうな」
「もう一度実験してからにするつもりだ」
「日限があるのか」
「約束は来週の金曜日だよ」
「よし、それまでは報告を出さないようにしてくれ、若《も》し金曜日になっても、僕から通知があるまでは誰にも渡しちゃいかん」
「――君は何処《どこ》かへ行くのか?」
「うん、四五日休暇を貰う、大丈夫金曜日までには出てこられると思うが、君の精錬法はそれまで誰にも報告しちゃいけない。図式は金庫に納《しま》って厳重に警戒を頼む」
「なんのために、そんな大袈裟《おおげさ》な……」
「そいつは僕にもまだ分らない。しかし間もなく説明することが出来るだろう。それまでくれぐれも頼むぞ。――この材料は借りて行くよ」
そう云って、和田弘太郎の作った新しい精錬鋼を取ると、あっけにとられている友達を後にさっさと外へ出ていった。
中山朝吉はそのまま目白の自分の家に引籠《ひきこも》ってしまった。広い屋敷の中にある自分の研究室でほとんど寝食も忘れて何事か研究を始めたのである。――ところが一方会社の方では、それから三日めに近藤社長が和田を呼んで、
「頼んでおいた新精錬鋼はどうだ。よかったら結果の報告を聞きたいがね」と云った。「たしか四五日まえに君は、もう完成したと云ったように思うが」
「あの時はそう申上《もうしあ》げたのですが、実験してみましたら少し不満足なところがあるので、もう四五日待って頂きたいんです」
「それは困るね」
社長は眉をひそめて、「ジョンソン氏が急に加奈陀《カナダ》へ帰ることになったんだ。それで是非とも明日までに結果を知りたいんだ」
[#3字下げ]永久砲身[#「永久砲身」は中見出し]
「明日と仰有《おっしゃ》られても無理ですね、社長」
「その無理を通して貰いたいんだ、――と云うのはね、ジョンソン氏は第二回投資の二百万|弗《ドル》を決めるために帰国するんだ。それには新しい精錬鋼の成功を見せなければならない。和田君、我々は大陸経営のために外国資本を大いに利用しなければならぬ。しかも今度の加奈陀《カナダ》財団の投資する合計四百万|弗《ドル》は、満洲の豆粕と綿製品なんだ。いま日本にとって一番必要な『鉄』のために四百万|弗《ドル》を投資させ、その支払いは豆粕と綿製品でするという、こんな好条件の話は又とあるまい。どうかぜひ頼むよ」
「よく分りました。兎に角やってみましょう」
和田は返辞に困って社長室を出た。
彼の研究は完成しているのだ。中山朝吉から止められなかったら、すぐにも図式と製品を差出すことが出来たのである。何のために中山が止めたか分らないが、ぐずぐずしていると二百万|弗《ドル》の投資をふい[#「ふい」に傍点]にするかも知れぬ。それでは彼としても折角《せっかく》の苦心が役に立たない――和田弘太郎は研究室へ戻ると、思い切って中山に手紙を書いた。
社長の言葉と自分の立場を委《くわ》しく書いて、研究の発表をするからという文面である。手紙を書き終ったときであった。――叩《ノック》もせずに扉《ドア》を押《おし》あけて、
「やあ、いるかい」
と中山朝吉がとびこんできた。
「やあ、いま君のところへ手紙を」
「それよりまだ報告はしてないだろうな」
朝吉は相手の言葉など耳にもかけず、
「君は気が弱いから、社長に急《せ》っつかれて若しや図式を出しやしないかと気が気じゃなかったぜ、だが間に合ってよかった。さあ一緒に社長のところへ行こう」
「――どうするんだ」
「何でも宜いから来たまえ」
朝吉は云うより早く扉《ドア》の外へとび出していた。――社長室へ行ってみるとジョンソンがいた。
「社長――」
朝吉は無遠慮に、
「秘密のお話があるんです。この方に出ていって頂きたいんですが」
「なんだね、いま重要な話をしているんだが」
「此方《こっち》の方が重要です。十分間で結構です」
ジョンソンは若い技師の顔を腹立たしげに見ていたが、
「私ノ話、アトニシマス」
と云って朝吉を睨みつけながら出ていった。
「君の態度はいかんぞ中山君」
「待って下さい社長、実際のところジョンソンがいては具合が悪いんです。では直截にお話しますが」
と朝吉は椅子《いす》にかけながら、
「加奈陀《カナダ》財団の二百万|弗《ドル》は諦めていただきます」
「馬鹿なことを云っちゃいかん」
「馬鹿なことではありません。和田君の研究した精錬鋼が何に使われるのか、貴方《あなた》はご存じないんです、――あれは大砲の砲身ですよ」
「……冗談じゃない」
「まあ聞いて下さい」朝吉はどん[#「どん」に傍点]と卓子《テーブル》を叩いた。
「社長も現在の大砲が不備であることは御承知でしょう。十四|吋《インチ》から十六|吋《インチ》砲は約二、三百発打つと砲身がだめになります。八|吋《インチ》砲で千五百発くらい。大戦のとき独逸《ドイツ》軍が巴里《パリ》を撃ったベルタ砲などは、四十発も射つと砲身は使えなくなります」
「それは聞いて知っているよ」
「あの重い大砲を、戦地で取換えることは非常な作戦上の不便を忍ばねばなりません。それで世界各国の軍部では今、熱心に『永久に使える砲身』または少くとも『現在の何倍か使える砲身』の研究をやっています。――僕が独逸《ドイツ》へゆくとき、加納先生から命ぜられたのはこの永久砲身の研究でした」
朝吉はひと息ついてつづけた。
「ところが帰って来て、和田君の新しい精錬鋼を見ると、僕の研究していた物によく似ているんです。失礼ながら完全とは云えません、しかしそれでも砲身としては現在の五六倍の価値はあるでしょう。――これは正にジョンソンが四百万|弗《ドル》の金で盗みにきたんです。汽船のスクリュー軸に使うなどとは嘘っぱちです、奴は加納鋼の優れた成功を見て、ひそかに永久砲身の精錬法を完成させ、その秘密を加奈陀《カナダ》へ持って帰ろうとしているんです」
初めて知った事の重大さに、社長も和田弘太郎も唖然とした。これは軍器の機密である。
「社長、四百万|弗《ドル》は諦めてください」
「――むろんだ!」近藤社長は大きく頷いて、
「そう聞いては四百万が四千万でも断乎《だんこ》として断る。よく気がついてくれたな中山君、お礼をいうぞ」
「では失礼して仕事にかかります」
朝吉は微笑しながら立上った。――しかし事件はその後に待っていたのである。
[#3字下げ]書類の行方[#「書類の行方」は中見出し]
研究室へもどった二人が、書斎の扉《ドア》をあけた時、――そこにはヘンリイ・ジョンソンが蒼白い顔をして立っていた。
「あっ!」
と朝吉は驚きの声をあげた。見よ! 重要書類を入れる金庫の扉があいているではないか。朝吉は素早く背中で扉《ドア》を閉めながら、「和田君、図式の書類を見たまえ」
と叫んだ。和田弘太郎は金庫の側へ走りよって中を検《しら》べたが、
「――ない、図式がないぞ」
「おい! ジョンソン」朝吉は一歩進んで云った。
「君の盗んだ図式を出したまえ。新しい精練鋼、つまり永久砲身の精錬法を書いた図式を出したまえ」
「私ナニモ知リマセン!」
ジョンソンは冷笑しながら云った。
「私コノ建物ノ外ヲ通ッタ。変ナ人ガコノ建物カラ出ルノヲ見タ。心配シテ入ッテ見ルト金庫ガアイテイタノデス、私ナニモ知リマセン、怪シイト思ウナラ検べテ下サイ」
「白々しいことを云うな!」
朝吉は大股に近寄ると、断乎たる様子でジョンソンの身体検査を始めた。しかし図式は出て来なかった
「――裸になれ」
朝吉はいまいましそうに呶鳴《どな》った。
「ソレ貴方《アナタ》ノ権利ナイデス」ジョンソンは傲然として、「私ココデ裸ニナル義務アリマセン、警官ト社長ノ立会ヲ求メマス」
「生意気なことを云うな」
和田が怒って詰寄《つめよ》るのを、
「まあ待て、理屈は理屈だ」朝吉が押止めた、「ジョンソン、君の望みに任せよう、社長室へ一緒に来たまえ」
「何処《ドコ》ヘデモ行キマス」
又しても彼は太々《ふてぶて》しく笑った。
二人はジョンソンの腕を左右から掴み、油断なく社長の室《へや》まで連れて行った。――そして襯衣《シャツ》まで脱がせて検べたが、何処《どこ》からも図式の紙は出て来なかった。
「――そんな筈《はず》はない」
朝吉は口惜《くや》しそうに、
「此奴《こやつ》は四百万|弗《ドル》出してもあの図式が欲しかったんだ。金庫の扉があいており、図式が無くなっていたとすれば、そこにただ一人いた此奴《こいつ》が盗んだに違いないじゃないか……畜生!」
「兎に角もう一度検べてみよう」
二人は研究室へ引返した。
金庫の中は元より、室内を二時間近くもさがしたが無駄だった。ジョンソンが若しこの室《へや》の何処《どこ》かへ隠したとすれば、これだけ捜してもみつからぬ筈はない。そして彼の体にも持っていないとすると、――彼の言葉が本当なのではあるまいか。
――変ナ人が此処《ココ》カラ出テ行ッタ。
と云う彼の言葉が。
「分らん、奴が盗んだという事は慥《たしか》だ。僕はあくまでそう思う。だが盗んだ図式をどうしたか? 体にも持っていず、此処《ここ》にも隠してないとすると、どうなんだ」
「奴の云った通り、他に……」
和田が云いかけた時、給仕が入って来て、
「中山さん、社長さんがこれ以上ジョンソンさんを検べる訳にいかないから帰らせますって……」
「勝手にしろって云ってくれ」
朝吉は投出《なげだ》すように云ったが、慌てて呼止《よびと》めた。
「君はこの部屋の受持なんだな?」
「……そうです」
「手紙は何時に出した?」
給仕は不審そうに、
「毎日午前十時と午後三時に出す規定です。今日はもうさっき出してきました」
「和田君、手紙の宛名を覚えてるか」
「発信簿に控えてあります」給仕が云った。
「よし直《すぐ》に持って来い」
給仕が出て行くと、朝吉は向直《むきなお》って云った。
「奴は図式を盗んだ。しかしこの部屋にも隠してないし体にも持っていない。とすると何かの方法でこの部屋から外へ持出《もちだ》す工夫をしたんだ。――何かの方法、つまり手紙さ。君の机の上には発信すべき手紙がおいてある。奴は図式をその手紙のどれか一通の中へ入れたんだ。我々が奴を裸にして検べているあいだに、図式は手紙の中へ入ったまま大威張りで郵便局へ行ってしまったんだよ」
「あ! そうか」
「僕はそう思う、その他に手段はない」
給仕が発信簿を持ってきた。――手紙を何処《どこ》と何処《どこ》へ出したかを控えておく帳簿で、これは何処《どこ》の会社でもたいていは給仕の役だ。
「――五通出したんだな」朝吉は開いて見ながら、
「よし、この宛名の家へ電話をして着いた手紙を検べて貰おう。早くしないとジョンソンの手に渡ってしまうぞ」
[#3字下げ]覆面の狙撃者[#「覆面の狙撃者」は中見出し]
五通の手紙の内、四通は市内であった。一通は満洲の鉱務局だから問題外として、すぐ四軒へ電話をかけた。
「今日送った手紙には重大秘密があるから、届いたら此方《こっち》から行くまで厳重に保管しておいてくれ」
と云う意味を繰返《くりかえ》し念をおしたのである。――そして更に郵便局へかけて、三時発信の手紙が市内で配達される時間を訊くと、
「――今夜の六時から七時のあいだです」
という返辞であった。
いちど郵便局へ差出した手紙は、発信人といえども取りもどすことは出来ない。宛名の家へ届くのを待つより他にないのである。――ジョンソンが若し図式を手紙の中へ入れたとすれば、やはりその手紙が着くのを待って奪取《うばいと》る方法しかない。
「和田君、今夜はちょいと冒険があるぜ」
「合点だ、僕はこれでも立派な補充兵だからな」
「補充兵を自慢にする奴があるかい」
二人は大声に笑った。
朝吉は社長に会って簡単に事情を話し、若い職工の中から腕っこきの者を二十人選んだうえ、それを四組に分けて手紙の行先である四軒の家へ出張させた。……ジョンソンと手紙の争奪戦があると見たからだ。そして彼もその一組に加わって出発した。
しかし、しかし、朝吉の手配にも拘わらず、四軒へ着いた手紙には図式は入っていなかった。四通とも和田の書いた手紙の他には紙片一枚も余計な物はなかったのである。
「そうか、駄目か」
電話で和田弘太郎と連絡をとって、四通とも駄目だったと知った朝吉は、張切《はりき》った力も抜けてがっかり落胆した、――彼の推察は当っていなかったのだろうか? ジョンソンは手紙を利用したのではなかったのだろうか? ではどうして図式を盗取《ぬすみと》ったのか※[#感嘆符疑問符、1-8-78] こうなると全く考えようが無い。
朝吉は職工たちを解散させて、そのまま呆然と目白の自分の家へ帰ってきた。――食事をする気も起らないので、家の者には黙ったまま自分の研究室へ入り、どっかり椅子にかけて考込《かんがえこ》んでしまった。……思えば思うほど残念だった。ジョンソンが盗んだ事は慥《たしか》だ。彼は朝吉が社長に密談を求めて、ジョンソンを室《へや》から追出《おいだ》したので、自分の野心が露顕したことを覚ったのだ。そして先手を打って研究室へ忍びこみ、図式を盗出したに相違ない。――彼は三日経つと加奈陀《カナダ》へ帰ってゆく。恐らくは永久砲の秘密をも持って……。
「畜生、どうして盗出したか、どういう方法で……それが分りさえしたら」
思わず口惜《くや》しそうにそう呟いた時、卓上電話のベルがけたたましく鳴りだした。受話器を耳にすると、
「中山君かッ」
と和田弘太郎の急込《せきこん》だ声が喚いた。「気をつけてくれ、手紙は五通じゃなかった」
「え? なんだって」
「社長に発表をせがまれて、僕は仕方なく君に相談するために手紙を書いたんだ。そこへ君がきたんで忘れていたが、その手紙を給仕が一緒に出している……私信だと思って発信簿に控えなかったのだそうだ、君のところへ手紙が行くぞ、注意してくれ」
和田弘太郎の声が終らぬうち、研究室の硝子《がらす》窓が突然、ガシャン! と砕け、
だんッだんッ。
中山は背中から拳銃《ピストル》の狙撃を喰《くら》った。あっ[#「あっ」に傍点]と悲鳴をあげながら、椅子ごと横ざまに倒れる、刹那! 扉口《とぐち》へ廻った一人の怪漢が、扉《ドア》を押あけて走り込むと、素早く卓子《テーブル》の上にあった手紙を掴む――
とたん、
「待てッ」
叫ぶより疾《はや》く、はね起きた朝吉が、怪漢の足を払うと共に右手の拳ですばらしい一撃、それこそ火の出るようなやつを相手の鼻柱の真上へ入れた。――この的確な不意打はみごとにきまった。苦痛の呻《うめ》きをあげながら倒れるやつを、のしかかって拳銃《ピストル》を奪い、覆面を取ってみると、紛れもないヘンリイ・ジョンソンである。朝吉は落ちている手紙を拾って破り、中に図式の入っているのをみると、……初めて快心の笑をうかべながら、話の途中で投出したままになっている受話器を手にした。
「おい和田君、まだいるか」
「ど、どうした、今の音はなんだ、無事か」
相手の方が取乱している。――朝吉は椅子にかけ、倒れたまま呻いているジョンソンの方へ拳銃《ピストル》をむけながら云った。
「今の音はな、ジョンソン先生の御訪問なんだ。硝子《がらす》を一枚|損《こわ》したよ、君の電話がもう十秒おくれたら、僕の背中へ風穴があいているところだった」
「怪我《けが》は? 怪我はどうだ※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「図式のことを訊かないのか、安心し給え。図式は手紙の中に入っていた。やはり僕の推察が当ったよ。――次に怪我のことだが、ジョンソン先生の鼻柱が砕けたようだ。すまないが警官と一緒に医者をつれて来てくれ。会ってからゆっくり話そう」
底本:「山本周五郎探偵小説全集 第四巻 海洋冒険譚」作品社
2008(平成20)年1月15日第1刷発行
底本の親本:「少年少女譚海」
1939(昭和14)年2月
初出:「少年少女譚海」
1939(昭和14)年2月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ