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猫眼石殺人事件
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猫眼石殺人事件
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)春田三吉《はるたさんきち》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)急|検《しら》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)※[#感嘆符二つ、1-8-75]
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[#3字下げ]挑戦の電話[#「挑戦の電話」は大見出し]
[#3字下げ]その一[#「その一」は中見出し]
春田三吉《はるたさんきち》は東邦日報社の記者で社会部の至宝といわれていた。――一昨年《おととし》の春、東大の法科を出るとすぐに入社したという、まだほやほやの新人だが、満二年にならぬあいだに五つの大事件を扱い、その内三つは警視庁の刑事諸君をだし抜いて、自ら事件を解決し、――その記事を紙面に連載して、帝都五百万の市民をあっといわせたものである。殊《こと》に、
「百万円の殺人事件」として知られている彼《か》の「プカゴア公使殺害事件」は、なにしろ被害者が外国公使であるため事件の迷宮入りと共にプカゴア国から百万円の賠償金を請求され、国際問題にまで発展したのであるが、春田三吉のすばらしい活躍によって、犯人がプカゴア国革命党員の一人であることを突止《つきと》め、みごとにこれを捕縛したのだから、世人は驚嘆した。この事件は当時の全国新聞紙が筆を揃えて特報したから、諸君も御存じであろうと思う。
春田三吉はまだ弱冠二十七歳である。色白の痩形で、どちらかというとのっぽ[#「のっぽ」に傍点]の方だ、煙草を喫《す》わぬかわりにいつもチュウインガムを噛んでいる。
「絶えず歯を動かしているのは、頭脳活動を明敏にするためだ」というのが彼の口癖である。
――夏でも冬でも厚手ツイードの背広ひとつで、決して外套を着たことがない、帽子は祖父《おじい》さんが洋行した時(だから明治二十三年だ)巴里《パリー》の古物屋から買ってきたという恐るべき骨董品で、天辺《てっぺん》にいくつも穴の明《あ》いているのを平気で冠《かぶ》っている――まあこういった風貌である。
この春田三吉が第四番めに手がけた、
「猫眼石殺人事件――」ほど怪奇を極めたものはあるまい。この事件では遉《さすが》の春田三吉が、社長から二度も辞表を求められたほどで、元々痩せている彼がお蔭で一貫目も体重を減らしたとぼやい[#「ぼやい」に傍点]ているくらいだ。――ここには先《ま》ずこの事件を詳しく紹介しようと思う。
諸君は「謎の侠盗」といわれている幻怪不思議な人物の事を聞いたことがあるはずだ。
彼は二年ほど前から都下の各富豪や、政治家、豪商を襲って、現金は勿論、秘蔵の数万、数十万円もする骨董宝物を奪う怪賊だ。――当局の必死の活動にもかかわらず、今日まで絶対にその正体を掴まれたことがない。もっともこの怪賊に襲われた富豪や政治家たちは、いずれも悪徳不正の連中で、そのため世間の同情は寧《むし》ろ怪賊の方に集り、
「日本のアルセーヌ・ルパン、現代の鼠小僧次郎吉――」とまで評判をとるようになった。
春田三吉も無論、この「謎の侠盗」を狙っていたのだが、他の事件に追われて、まだ手を着ける暇がなかった。ところが果然、実に思いがけなくも、侠盗の方から春田三吉に挑戦してきたのである。――
十二月も押詰《おしつま》った或る日、春田三吉が出社して社会部の自分の机へ向うと間もなく、卓上電話のベルが鳴った。(社会部の平部員で自分の机に電話を持っているのは、彼だけだ)
「ああ社会部の春田です」
「お早うございます、春田さん」社の交換手が出ると思ったら、向うはひどく嗄《しゃが》れた老人の声である。
「何誰《どなた》ですか――」
「御機嫌は如何《いかが》でございますかな」
「誰ですか君は、用事なら早く頼みますよ」
「大層な気早ですな――実はいささか興味のある御報告を申上《もうしあ》げたいと思いますので、というのは、丸ノ内の第一ホテルに上森鶴子夫人と名乗る新帰朝者……左様、一週間ほど以前ヨーロッパから帰ってきた婦人が滞在しているのを御承知でしょうな」
「それがどうしたんです」
「今日、午後八時十分、上森夫人のお部屋へ或る男が侵入します、そして夫人の宝石類と現金を頂戴することになっております」
春田三吉の第六感はその時早く、電話の相手が「謎の侠盗」ではあるまいか、――という疑いを持った。そこで電話の応待《おうたい》をしながら手早く机上のメモへ鉛筆で、
(この電話がどこからかかっているか、交換台で至急|検《しら》べろ)と書いて丸め、向うにいる給仕の机の上へぽん[#「ぽん」に傍点]と抛《ほう》った。
「それは御親切なお知らせで恐縮です」
春田はなるべく電話を長びかせようとして、態《わざ》とゆっくり構えた。「――してみると、上森夫人は貴重な宝石類を持っているわけですな」
[#3字下げ]その二[#「その二」は中見出し]
「左様、まず邦貨にして五十万円はあるでしょう、――それをすっかり頂戴しようというのです、これは警視庁へもお知らせしておきました。今夜の八時十分ですお忘れなく」
「有難《ありがと》う、ところで貴方《あなた》は――?」
「ふふふふふ」相手は嗄《しゃが》れ声で笑った。「そんなお芝居はやめましょう春田君、君はもうこちらが謎の侠盗だということを御存じじゃありませんか、――なんのために交換台へ此方《こっち》の電話を検べさせたんです?」
春田は跳上《とびあが》るほど驚いた。メモへ書いて給仕に交換台を検べさせたことが、既に相手に知られているのだ。
「ではこれで失礼」相手は嘲るようにいった。「また今夜、八時十分にお会いいたしましょう」
「ああ、ちょっと……」急いで呼び止めようとしたが、そこで電話がぷつりと切れた。
「――畜生!」春田三吉は思わず舌打をした。
「分りました」給仕が帰ってきた。
「どこから掛けていた。相手は何番だ」
「それが――隣の社長室です」
今度は春田三吉まさに椅子《いす》から跳上った。そして脱兎のような勢《いきおい》で社会部室を横切り、扉《ドア》を蹴放さんばかりにして社長室へとびこんだ。――部屋の中は森閑としている。そして、電機ヒーターに背中を炙らせながら、大きな革椅子に凭《もた》れて、社長細野平五郎氏はぐっすりと眠りこけていた。
春田三吉は直《す》ぐ廊下へとびだし、階下から玄関の受付まで走りまわって、怪しい人物の出入りを慥《たしか》めたが、ついに要領を得なかった。
「社長――社長、起きて下さい」春田は社長室へ戻ってくると、大|卓子《テーブル》を叩きながら呶鳴《どな》った。細野社長は「痩せた河馬《かば》」という綽名《あだな》をもっている、白髪頭で白い口髭があって、その名のごとく眼も体も細いくせにひどく動作が鈍い、まるで陸《おか》へあがった河馬のようである――春田の喚き声に、うすぼんやりと薄眼を明け、それから両腕を頭の上まで伸ばしながら、大きな欠伸《あくび》をして、ゆったりと椅子の上に身を起した。
「ああよく眠った。うちの新聞を読んでいると良い心持《こころもち》に眠くなるよ、全く――近頃の東邦日報はまるで眠り薬のようじゃ」
良い記事がすこしもないという皮肉だ。ふだんの春田青年なら怒りだすところである。しかし今日はもっと重大なことが持上《もちあが》っていた。
「それどころではありません社長、謎の侠盗が僕に挑戦してきました。丸ノ内第一ホテルに滞在中の上森鶴子夫人を襲って、現金と宝石類を盗むというんです、しかも今夜八時十分に決行すると時間まで予告してきました」
「――ほう、面白いな」社長の細い眼が少し大きくなった。
「面白い――なる程。それではもっと面白いことをお知らせ申しましょう。侠盗が僕に電話をかけてきたのはどこだと思います、この東邦日報社の建物の中からですよ」
「なんだと、――?」
「しかもこの部屋ですぜ」
「馬鹿なことを」
「交換台で訊《き》いて下さい。社長が眠っているあいだに、天下のお尋ね者、犯罪の王者、謎の侠盗は堂々と社長室へ乗《のり》こみ、社長の電話を使って犯罪の予告をしたんです、――こいつはすばらしい特種ですぜ」
細野社長の赧《あか》い顔がぴたりと動かなくなった。それから静かに椅子を立ち「痩せた河馬」という綽名をそのまま、ぶらぶらと室内を歩き始めた。
「――侮辱だ、許しがたき侮辱だ」
「そうですとも、犯罪者仲間の脅威の的だった東邦日報は今や侠盗の泥足で汚されたんです。こいつをスクープされたら我が社は新聞界の嗤《わら》いものです」
「春田君、捉《つかま》えろ!」社長は低い声でいった。「すぐに丸ノ内第一ホテルへいくんだ。警視庁と協力してホテルの使用人全部を調べあげろ、部屋の隅々を探れ、上森夫人の宝石を一個たりとも侠盗に渡すな」
「引受けました!」
「待て――」社長は呼止《よびと》めて、「君一人では心配だ――否、君の腕を疑るわけではないが、なにしろ相手は千軍万馬往来の怪人物だ、僕もあとから手伝いにいこう」
「どうぞ御自由に」
痩せた河馬などにこられては却《かえ》って足手|纏《まと》いだと思ったが、春田三吉は急いで社長室を出ると、チュウインガムをひとつ口へ放りこみ、帽子をひっ掴んで外へとび出した。
[#3字下げ]意外! 侠盗、夫人を殺す[#「意外! 侠盗、夫人を殺す」は大見出し]
[#3字下げ]その一[#「その一」は中見出し]
その夜の第一ホテルほど物々しい光景はなかった。ホテルのある仲通り二号地は、角|毎《ごと》に正服《せいふく》私服の警官が立番しているし、辻待のタクシーには全部刑事が乗込んで、侠盗の逃亡に備えている。ホテルは昼のうちから何度も大捜査が行われ、屋上庭園から地階の燃料庫、ボイラー室まで、隅という隅、鼠の穴にいたるまで検索された。それにも増して厳重なのは、使用人の調査だった。まず支配人から始めて部屋附の給仕、ベル給仕《ボーイ》、|お茶少女《ティーガールズ》、掃除番、帳場係り、交換手から料理人、風呂番まで、一人一人呼出して警視庁捜査課長自ら訊問にあたった。
春田三吉は勿論、この捜査に立会《たちあ》ったが、建物にも使用人にも異常のないことをたしかめた。そして遅い夕食の後三階の上森夫人の部屋へあがっていった。
上森夫人は三階の七、八、九の三部屋を借りていた。七号が応接間、八号が居間、九号が寝室で、寝室の隣が浴場になっていた。夫人は貞枝という少女の召使いと二人でこの三部屋を使っているのだ。
春田三吉は、警視庁で「鬼警部」といわれる名探偵、橋本刑事部長と共に応接室へ入っていった。鶴子夫人は年の頃二十七八、非常に美しい婦人で、むしろ凄艶《せいえん》と云《い》いたいくらい、――巴里《パリ》一流の衣装店で作らせたという贅沢《ぜいたく》な部屋着を着て、高価な香水を花のごとく体の周囲に匂わせている。
「何か怪《あやし》いものがみつかりまして――?」夫人は鬼警部に美しく微笑しながらいった。ゆったりと寝椅子に凭れて、すんなりした脚を組合《くみあわ》せているのが、なんともいえず嬌《なま》めかしい。橋本刑事部長は眩《まぶ》しそうに眼を外《そ》らして、
「いや、建物にもホテルの使用人にも怪むべき点は発見されません。――つまり、侠盗は未《ま》だこのホテルへいささかも手をつけていないのです。つまり」
「つまり――」と夫人が引取った。「侠盗は結局わたくしの宝石を盗むことはできないというわけですのね」
「仰せのとおりです、二号地区は蟻の這う隙もない厳重な警戒線で取巻《とりま》いてあるし、ホテルの内外は二十数名の警官が張込《はりこ》んでいます、侠盗が神様でないかぎり、到底この部屋へ忍びこみ、貴女《あなた》の持物へ手をつけることは不可能です、絶対に――」
「ちょっとお伺いいたしますが」と春田三吉、
「御所持の宝石類はどこへお納《しま》いですか」
「寝室ですわ」夫人はにこやかに答えた。「寝室の枕箪笥《まくらだんす》の中に入れてございます」
「もっと早く適当な銀行へでもお預けになった方がよかったですね」
「わたくし日本の警察を信じています」
「侠盗だけは別ですよ」
「馬鹿な?」鬼警部が喚いた。「アメリカや仏蘭西《フランス》なら知らぬこと、日本の警察は犯罪者に馬鹿にされるようなちゃちなもんじゃない」
「そうなって貰いたいですね」春田三吉はそういい捨てると、立っていってもう一度改めて寝室の捜査をはじめた。
寝室は四坪ほどの広さで、東側に窓、北側の壁に飾り煖炉《だんろ》があり、その脇に浴室へいく扉《ドア》がある、寝台《ベッド》は南側の壁に添っておかれ、頭のいく方に豪華な枕箪笥があった。春田三吉は床を叩いたり壁を探ってみたり、どこかに脱《ぬ》け穴がありはしないかと、三十分もかかって調べたが、結局なにも発見することはできなかった。
「どうだね、何かあったかね」春田が戻ってくると、橋本刑事部長はからかい[#「からかい」に傍点]顔で訊いた。
「君はプカゴア公使事件からこっち、だいぶ気を好《よ》くしているようだが、相手が謎の侠盗では少し荷が勝ち過ぎるぜ――また新聞記者は記者らしく、我々の捜査を嗅ぎまわっている方が安全だろう」
「有難う、橋本さん御親切は忘れませんよ」春田はにっこり笑って、「しかし僕は侠盗から呼ばれているんです、彼の好意を無にするわけにはいきませんからね」
そして春田は階下へ降りていった。
あとから手伝いにいく、といった細野社長が、どうしたわけかまだこないのである。玄関まで出てみたがやはりきた様子はなかった。時間は遠慮なくたっていく――七時、七時三十分……。
いよいよ時間は切迫してきた。三階の廊下には十五名の警官が立番に当った――応接室には、橋本刑事部長と春田三吉が頑張っている。壁の時計が八時を打った時、
「わたくし疲れていますから寝室へ退《さが》らせていただきますわ」といって鶴子夫人は起上《おきあが》った。そして二人に会釈して小間使いの少女と共に寝室へ入っていった。
[#3字下げ]その二[#「その二」は中見出し]
春田三吉はさすがに凝乎《じっ》としていることができなくなった。白昼堂々と東邦日報社の社長室を侵され、堪難《たえがた》き侮辱を与えられているのである。
春田三吉だけでなく、東邦日報社の名誉に賭けても侠盗を仕止めなければならないのだ。
「――八時五分」橋本鬼警部が呟いた。
春田青年は烈しくガムを噛みながら時計を見た――とその時、寝室から小間使いの少女が出てきた。
「どうしました?」
「はい、奥さまが葡萄酒《ぶどうしゅ》を召上《めしあが》るとおっしゃいますので……」そういって少女は廊下へ出ていった。
橋本部長は喫っていた煙草を灰皿で揉消《もみけ》した。春田三吉も噛んでいたガムを吐出《はきだ》し、愛用のステッキを握り緊《し》めた。――張切《はりき》った弓弦《ゆみづる》のような、息苦しい一秒一秒が経っていく。しかし何事もない。何事も起らなかった。
「八時十分、時間だ」鬼警部がほっとしながら呟いた。
その時である、寝室の方に何か妙な物音がしたので、春田三吉は弾かれたように――たった三歩で居間を横切りながら、寝室の扉《ドア》へ馳せつけた。そのとたんに中から、
「犬め、犬め、畜生……」と叫ぶ鶴子夫人の声が聞え、
「ユウレカ!」と妙な男の喚き声が起った。
春田は咄嗟《とっさ》に中へ跳込もうとしたが、扉《ドア》には内側から鍵がかかっていた。そこで、駈けつけてきた橋本部長と力を協《あわ》せて、扉《ドア》へどしんと体を叩きつけた。寝室の中からは再び、
「助けて――ッ」という夫人の悲鳴、とほとんど同時に、絹を裂くような断末魔の声が聞えてきた。
扉《ドア》は樫材の頑丈なものだったが、それでも二人が押破るまでに三分とは掛らなかったに違いない、それにも不拘《かかわらず》二人が押破った扉《ドア》と共に部屋の中へ転げこんだ時には、既に既に――そこでは惨虐な犯罪が行われた後だった。
寝台《ベッド》の横のところに、白い寝衣《ガウン》を血まみれにして上森鶴子夫人が倒れている――そしてはだけ[#「はだけ」に傍点]られた雪のような胸の、左の乳房の下にぐさ[#「ぐさ」に傍点]とばかり短刀が突刺されていた、――夫人の胸部《むね》から流れ出た血は、寝台《ベッド》のシーツから床の絨毯《じゅうたん》まで染め、更《さら》にカーペットの方まで拡がっていた。
春田三吉はひと眼見るより、すぐに隣の浴室へとびこんだ。しかしそこには誰もいない、引返して窓の鎧扉《よろいど》を調べたが、そこにも内側から鍵が掛っている――このあいだに鬼警部は、急を警戒の者に知らせて、ホテルの出入を一切禁じ、自分は寝台《ベッド》の下や置戸棚のかげを捜していた。
「何者もいない、鼠一匹いないぞ」橋本部長は狂気のように叫んだ。「こんな馬鹿なことがあるか、一方口の応接間には我々がいた。居間の外、廊下いっぱいに警官が立っている。窓も扉《ドア》も内側から鍵がかかっている。しかもその中で殺人が行われるとは?」
「事実は事実です、――そして」といいかけて、春田三吉は一足跳びに枕箪笥へ駈けつけた。「そうだ、宝石――」
「侠盗は殺人を犯した。奴の手は血で汚れたのだ。全警察力をあげても彼を捕縛するぞ、奴は殺人鬼だ」
「――待って下さい、それは違います」春田青年が部長の言葉を制した時――どこからか人の呻《うめ》く声が聞えてきた。
「おや、変な声がしますぜ」
「――うん、呻き声だな……」
「しかもこの寝室の中です」
春田三吉は声のする方へ近寄っていった。呻き声は北側から聞えてくる、春田青年は全身を耳にしてすり寄ったが、やがてその呻き声が飾り煖炉の中から聞えてくるのを知って、いきなり鉄製火架を掴み、力任せに引張った。
果然、火架ががたり[#「がたり」に傍点]と鳴ったと思うと、火床がぱくり明いて、向うに薄暗いぬけ[#「ぬけ」に傍点]道が現われた――しかもそこに誰か倒れている。
「部長、誰か倒れています」
「待て、迂闊に手出しをするな!」橋本刑事部長は素早く右手に拳銃《ピストル》を取出しながら、左手で懐中電灯をさしつけた。そのあいだに春田三吉は倒れている男を抱き起したが懐中電灯の光で相手の顔をひと眼見るなり、
「あっ!」と仰反《のけぞ》るばかりに驚きの叫びをあげた。
[#3字下げ]笑う侠盗[#「笑う侠盗」は大見出し]
[#3字下げ]その一[#「その一」は中見出し]
飾り煖炉の向うに倒れていたのは何者であったか? ――細い絹紐で厳重に縛られ、猿轡《さるぐつわ》をかまされている背広服の男。
「注意しろ、危険だぞ」
声をかけながら橋本刑事部長がさしつける懐中電灯の光で、ひと眼見るなり春田三吉は仰反るばかりに驚いた。
「あっ! 貴方《あなた》は……社長」
左様、意外にもそれは東邦日報の社長細野平五郎その人であった。春田三吉は狐につままれたような気持で、社長の縛《いましめ》をとこうとした。橋本部長はそれを見ると慌てて、
「待ち給え、――」と押止め、社長の体を寝室へ運びだして、身体検査を始めた。春田青年は呆れて、
「橋本さん、貴方《あなた》はまさか社長を疑っているんじゃないでしょうね」
「場合によれば君だって疑うぜ」
部長は吐だすようにいいながら、細野氏の体中を点検した後、縛ってあった絹紐の結び目まで叮嚀《ていねい》に調べ始めた。細野氏はさっきから身もだえしながら、早く解いてくれという合図をするのだが、部長の身体検査はまるまる十五分もかかってしまった。
「宜《よろ》しい」やかて部長の許しがでて、猿轡をとり、縛《いましめ》をとかれるや、細野平五郎氏は地だんだ[#「地だんだ」に傍点]を踏んで喚きだした。
「この鯖《さば》ども[#「ども」に傍点]、能なしの穴熊、殺人犯人を眼前にして阿呆のように儂《わし》の身体検査などしている、見ろ! 犯人は貴様たちが遊んでいる暇に悠々と逃亡したぞ、この鰊《にしん》の頭め※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
「犯人は逃げた? 何処《どこ》へ――?」
「飾り煖炉の後《うしろ》に脱《ぬ》け道があるんだ、奴は儂《わし》に疑いのかかるようにしておいて、其処《そこ》から階下《かいか》へ逃げたのだ」
「しかし出口には全部網が張ってある」
「そんな網がなん[#「なん」に傍点]になる、警官まで捉えろとはいってあるまい?」
「な、何だって?」橋本部長は眼を剥いた。細野氏は冷笑して、
「そうさ、奴は警官の服を着ていたよ」
「――しまった」橋本部長は脱兎のように跳出して行った。
果して細野平五郎氏のいう通りだった、凡《およ》そ二十分くらい前に、一人の正服警官が地下室から出てきて、
「部長の命令で警視庁へいってくる」
と云《い》い、部長用の自動車に乗って立去ったという事が分った。橋本鬼警部がどんなに、口惜《くや》しがったかはいうまでもあるまい。それから脱《ぬ》け道の捜査をしたが、それは厨房の脇から寝室の飾り煖炉へ通じているもので、元はそこに非常|梯子《はしご》があったのを、そのまま壁で塞いだものだった。
橋本部長は、犯人の乗って逃げた自動車を押えるように、全市の警察へ非常手配を命じておいて再び寝室へ戻ってきた。
「ところで細野さん、貴方《あなた》はどうしてこの寝室にきていたのか、それを伺いましょう」
「儂《わし》はもう五時間も前にきていたよ」細野氏は煙草に火をつけながら、「相手が侠盗とあっては迚《とて》も諸君の力では足りまいと思ってね、――お手伝いする積《つも》りできたんだ」
「それは光栄ですな、然《しか》しお手伝いがとんだ事になってお気の毒です」
「どう致しまして」細野氏は部長の皮肉を軽く受流《うけなが》して、「儂《わし》は此処《ここ》へきてひと通り建物を検べると、すぐにあの脱《ぬ》け道を発見した。つまり建物の構造の具合からして、どうしてもあの辺に非常梯子がなければならん、と考えたんじゃ。そこで司厨室を調べると、料理を運ぶリフトの竪穴《たてあな》に、元の非常口が横から見えていた、是《これ》だなと気がついたので、其処《そこ》から潜り込んでいくと、果して非常梯子があって三階へ通じている、――儂《わし》は音のしないように注意しながら登っていった。そしていま一歩で寝室へでようとした時、あの……上森夫人の悲鳴が起った」
細野社長はひと息ついて、「儂《わし》は急いで跳だそうと、飾り煖炉の蓋を押上げた、とたんに向うから犯人が儂《わし》の頭を殴りつけたので、不覚にも儂《わし》はそのまま倒れてしまったのだがその時――犯人が警官の服を着ているのを見たのじゃ」
「大胆不敬な奴だ」部長は歯ぎしりをして叫んだ、「だが侠盗め、こんどは殺人を犯している今までの馬鹿げた世間の同情も是で帳消しだぞ」
「いや、侠盗は殺人はしませんよ」春田三吉が断乎《だんこ》としていった。
[#3字下げ]その二[#「その二」は中見出し]
「だって現に上森夫人を……」
「侠盗は殺人をしません」春田青年は重ねていった。
「侠盗の狙ったのは『宝石』です。もしこの犯人が本当に侠盗なら、夫人を殺すより宝石を奪って逃げたはずです。ところが御覧の通り宝石には手も着けてありません」
「それは夫人に発見されたからだろう」
「僕はそう思いませんね、この事件はそんな単純なものではなさ相《そう》ですよ、夫人は犯人に襲われた時『犬め、犬め、――』と叫んでいました、それから犯人の声で『ユウレカ』というのも聞えました……この二つの言葉に何か謎があるとは思いませんか」
「まあそんな謎は其方《そっち》へとっておき給え、要するにだ、侠盗は午後八時十分に夫人の室《へや》を襲うと予告した、そしてその時間に犯罪が行われたのだ、是で犯人が侠盗であるということに疑いはあるまい、――兎《と》に角《かく》我々は侠盗を捕えてみせる、必ず奴を捕縛してみせるよ」
「そうですか、僕はまた侠盗ではないと思いますから、僕の信ずるところをやってみます」
「すると君は我々と競争する気かね」
「僕は真犯人を突止めさえすればいいんです、お手柄は部長に進呈しますよ」春田三吉は皮肉に一揖《いちゆう》して立上った。
細野社長と春田三吉がホテルをでるとき、階下の仮訊問室では、上森夫人の小間使いである可憐な少女貞枝が、刑事たちに厳しく訊問されているところだった。
「君は本当に犯人が侠盗でないと思うかね」
外へ出ると社長がいった。
「単に僕が思うだけじゃありません」春田はチュウインガムを口へ入れながら
「侠盗でないという事は事実ですよ」「どうしてじゃ?」
「神出鬼没といわれる侠盗があんなへま[#「へま」に傍点]な真似をする筈《はず》がありません。全体なんの必要があって夫人を殺すんです?」
「では犯人は誰だ」
「二つの仮定があります」春田は声をひそめて、
「第一は、侠盗に恨みを含む奴がいて、罪をなすりつけるためにやった仕事。第二は、夫人に恨みのある男、――この二つですね、僕は第二の方が有力だと思います」
「どうしてね?」
「犯人は上森夫人を襲った時『ユウレカ』と叫びました。ユウレカというのは何の事か御存知ですか?」
「知らんね、何じゃ」
「希臘《ギリシャ》の哲学者で大数学者のアレキメデスというのを御存じでしょう。アレキメデスが比重の法則を発見した時に、思わず叫んだのがこの『ユウレカ』という言葉なんです、本来その言葉にはなんの意味もないんですが、それ以来『発見したぞ』というような意味で使われるようになりました。つまり――犯人は上森夫人を『発見したぞ』と叫んだ訳です」
細野社長はひそかに舌を巻いた。
「たた分らないのは」と暫《しばら》くして春田がいった。「午後八時十分にホテルを襲うと約束した侠盗が、遂《つい》に姿を現わさなかった事ですよ」
「――何かつまり、その」と社長は低い含声《ふくみごえ》でいった。
「つまり、侠盗の方に都合の悪いことができたんじゃろ」
「とすると奴は、初めて約束を破ったことになりますね、少《すくな》くとも僕に対しては一本借りができた訳です」そう云って春田三吉は笑った。
社へ帰ると、春田三吉は直ぐに朝刊の原稿を書き始めた、それは警視庁で発表する「侠盗殺人犯」の説に対して、犯人は別にあるという事を主張するものであった。社長は十時近くまでいて帰ったが、春田は原稿が組上ってくるのを待つために残った。すると十一時十分ほど前のことである。机上の電話がジリジリと鳴ったので、受話器を取ってみると、
「やあ、――春田君」という声、
「ああ!」
と春田青年は危く跳上りそうになった。それは正に今朝聞いた侠盗の声なのだ。
「八時十分にはお眼にかかれなくて残念でしたね」
と相手は含声で云った。
「だが誤酔しないで下さい、侠盗は約束を無にするような事はありません、僕はホテルへいきましたよ、ただ意外な事件がかち[#「かち」に傍点]合ったために、宝石を頂戴することができなかっただけです、――ホテルへいったという証拠には、君が橋本部長と議論して、犯人は侠盗でないと主張して下すったのを知っています。君の頭はすばらしいです、仰有《おっしゃ》る通り僕は決して殺人などはしませんからね」
そういって侠盗はからからと笑った。
[#3字下げ]猫眼石の謎[#「猫眼石の謎」は中見出し]
[#3字下げ]その一[#「その一」は中見出し]
「さて用件です」侠盗は続けた、「貴方《あなた》は僕が殺人犯人でないと庇《かば》ってくれた、僕は実に感謝してます、そこで感謝の印に今度の事件に関する良い物を進呈しましょう」
「――何ですか」
「会ってから申しましょう、いま直ぐにきて下さい、大森の望翠楼ホテルにいます、二階の六号室で豊田といって訪ねて下されば分ります」
「君自身がいるんですか」
「侠盗自身お眼にかかりますよ、だが――決して同伴者をつれてきてはいけませんよ、もし警官でも連れてくるようだと、却って君の身が危険ですからね」
「分った、僕一人でいきましょう」
「ではお待ちしています」そこで電話は切れてしまった。
春田三吉は椅子からはね上った。侠盗が自ら会おうというのだ、警察界の謎、闇の世界の英雄、犯罪王「侠盗」と会えるのだ。
「しめた、しめた、――」
春田三吉は新しいチュウインガムを口へ抛りこむと、帽子を掴んで社をとびだそうとしたが、ふと思いかえして社長室へ戻り、大|卓子《テーブル》の抽出《ひきだし》から、社長の拳銃《ピストル》を取ってズボンの|隠し《ポケット》へ突込んだ。そして社用の自動車を命じて、一路大森へとすっ飛ばした。
「へ! 侠盗先生」春田はにやりとした、「春田三吉がどこまで甘ちゃんだと思うと間違うぜ、――殺人事件に関する手懸りを貰ったら、その後で君の体を頂戴したいもんだ」春田三吉の胸には既に満々たる闘志が燃上《もえあが》っていた。
「それにしても」
それにしても不思議なのは侠盗である。橋本部長と、犯人が侠盗であるかないかを議論したのは、あの狭い寝室の中であって、其処《そこ》には橋本鬼警部と細野社長と自分だけしかいなかった筈だ。隣の部屋は勿論、廊下にも警官がはいっていたのだから、立聴きをする隙などある筈がない、然《しか》も彼はちゃんと橋本部長と自分の議論を聞いているのだ。
「全く神出鬼没だ、何処《どこ》に隠れていたのか、あの飾り煖炉の他に脱《ぬ》け道があったのか」
遉《さすが》の春田三吉も是ばかりは見当がつかなかった。
二十分の後、車は大森の高台にある望翠楼ホテルへ着いた。受付できくと二階六号に豊田という人物が慥《たしか》にいる、名刺を通じて案内を頼むと、一応電話をかけた後、
「お眼にかかるそうですから、どうぞ」
といって宿直の給仕《ボーイ》が先に立って二階へ案内した。
愈々《いよいよ》侠盗と面会するのだ、果して侠盗とは如何《いか》なる人物であろう、また、――春田三吉は、事件の手懸りを得たら、そのあとで侠盗を捕縛する積《つもり》でいるが、侠盗はそれを知らないでいるだろうか? ――それとも侠盗が春田を呼だした事にも何か裏があるのではないだろうか? 探偵界の若手花形と、犯罪界の王者との、この歴史的な会見こそ実に未曾有の事件といわなければなるまい。――春田は二階六号室の前にきた。
「此方《こちら》でございます、どうぞ」給仕《ボーイ》は扉《ドア》を叩《ノック》して、
「お入り、――」
という返辞が聞えると、挨拶をして階下《した》へ立去った。春田三吉は部屋へ入った。
それは十|米《メートル》四方ほどの洋室で、南と東が大きな硝子《ガラス》窓になって居り、北側に窪房《アルコーブ》があってカーテンで仕切り、寝台が置いてあるという簡単なものだった。
「是はようおいでなされた」
春田が入ると、片隅の卓子《テーブル》に向っていた一人の老人が立ってきた。年の頃六十余りで、古びた羅紗《らしゃ》の背広を着け、背骨の曲った、ひどく痩せた体つきである。
「貴方《あなた》が豊田さんですか」春田青年は鋭く相手を睨みつけながら訊いた。老人はごほんと嗄《か》れた咳をして、
「はい、私は豊田さんに頼まれた者でして、貴方《あなた》様にお渡しする物を言いつかっているのでござります――どうぞおかけ」
「有難う。で……豊田さんは?」
「左様、なにか急用ができたとか仰有《おっしゃ》って、十五分ほど前におでかけなさいましたがの、なに用件は分っておりますで私から申上げまするじゃ」老人はそういって大儀そうにチョッキの|隠し《ポケット》から紙包を取出した。
春田三吉は老人の様子を穴の明くほど見戍《みまも》った。果してこの老人のいう通り、侠盗は出かけたのであろうか、それとも、――この老人こそ侠盗の変装したものではあるまいか?
「是でこざります」老人は紙包を差出《さしだ》した。
[#3字下げ]その二[#「その二」は中見出し]
春田三吉は紙包を受取った。披《ひら》いてみると中から女持ちの指環《ゆびわ》が一個出てきた。
「――指環ですね」
「左様で……」
それは台が白金で、大きな猫眼石《キャッツアイ》が入っている、そして環の周囲には羅典《ラテン》語で、
《猫の眼は太陽の光の如く汝《なんじ》の動静を看視す、汝、偽る勿《なか》れ》と書いてあった。
「で、――是をどうしろというのですか」
「つまり、豊田さんが仰有《おっしゃ》るのはこうですじゃ、――」老人は咳をして、「その指環は飾り煖炉の脱《ぬ》け道に落ちていたので、明《あきら》かに犯人が落としていったものに相違ない、――私には何が何やら分りませんがの、貴方にはお分りじゃろうと云っとられました」
「――なる程」春田は頷いて、指環を紙に包むと、上衣《うわぎ》の内|隠し《ポケット》へ確《しっか》りと納《しま》って。
「さて、――」と向直《むきなお》った、「是で第一の用件はすんだ訳ですね、御好意は感謝します、こんな重大な手懸りがある以上、必ず近いうちに上森夫人の殺人犯人は突止めてみせますよ」
「……はあ――」
「ところで第二の用件です」
春田三吉はずいと椅子を寄せる振《ふり》をしながら、いきなり右足で相手の椅子の足を力任せに前へ引いた。不意を喰った相手は椅子と共に、だっ[#「だっ」に傍点]と仰反《あおむけ》に倒れる。
「な、何をなさる」と驚いて跳起《はねおき》ようとするところを、春田は飛鳥のようにとび掛って押えつけた。
「き、気でも違ったか」
「気は慥《たしか》だ、侠盗先生、うまく化けた積《つもり》だろうが、春田三吉の眼は少しばかり見えるぜ、動くな!」
「ち、違う、わし[#「わし」に傍点]は唯《ただ》――」
「黙れ」春田は叫びざま、相手の上衣《うわぎ》の両袖を掴んで半分ほど引抜き、それを後で確りと結び合せてしまった。何のことはない狂人病院で狂人に衣《き》せる狭容衣《きょうようぎ》の形である。
「もうじたばたしても駄目だぜ」春田は相手を壁へ凭せかけておいて、勝誇《かちほこ》ったように立上った。
「君の変装は実に巧《たくみ》だったが、一つだけ失敗だよ、教えてあげようかね、それは君の靴さ」いわれて老人は恟《ぎょっ》とした。
「はっははは今更見たって無駄だ、そのように背骨の曲っている人間は、必ず靴の前が減っている筈だ。ところが君のを見ると寧ろ後の方が磨り減っているじゃないか、――つまり君の背骨は曲っていない証拠さ」
「うーむ」老人は思わず呻き声をあげた。
「どうだい、もう泥を吐いても宜《よ》かろう」
「参った、参ったよ春田君」老人は遂に兜を脱いだ。
「殺人犯人が侠盗でないというのを聞いて、実は君の眼に敬服していたんだが、君は予想以上に頭が働く、正に僕の敗北だ、兜を脱ぐよ、――ところで、こう勝敗がついた以上は、もう自由にしてくれるだろうな」
「どう致しまして」春田は冷笑した、「僕は警官じゃありません、犯人捕縛の手伝いこそするが、放免する権利は与えられていませんからね」「然しまさか僕を警察へ」
「渡しますとも、さぞ警視庁では喜ぶことでしょう、きっと橋本部長は昇進しますぜ」
「馬鹿な、そんな事ができるか」侠盗は叫んだ、「僕を警視庁へ渡したって、上森夫人の殺害犯人は捕まりゃせんぜ、彼奴《きゃつ》はそこらあたりの犯罪者とは種が違う、彼奴《きゃつ》と戦えるのはこの『侠盗』あるのみなんだ」
「貴方《あなた》は春田三吉を忘れていますよ」
「駄目だ、君の腕にも敬服するが、奴だけは君の手にも負えない、――第一君は『猫眼石』の指環に彫ってあった、あの羅典《ラテン》語の意味が分ったか」「なに、直ぐ分りますさ」「冗談じゃない、羅典《ラテン》語の辞典を引いている内に、第二の殺人事件が持上るぜ」
「な、なんだって?」春田はぎくりとした。
「第二、第三の殺人事件だ」「嘘だ!」
「証拠がある」「見せ給え」
「見せる、だから僕を自由にしてくれ」
「いかん!」春田は冷笑った、「そんな手に乗る僕じゃない。先に証拠を拝見しよう」
「――仕方がない」
侠盗は諦めて、「あの机の一番下の抽出《ひきだし》を明けてみ給え、そこに小さな筐《はこ》がある、それを出してきてくれ」
「宜し、動くな、動くと――」
そういって春田は拳銃《ピストル》を取出し安全錠を外して見せながら、机の前へ跼《かが》んで一番下の抽出《ひきだし》を明けた、――抽出《ひきだし》は湿気を食ったとみえてなかなか開かなかったが、両手で力任せに引くとようやく開いた。と――その刹那であった。抽出《ひきだし》が開いた瞬間、内側から黒い鉄製の罠がとび出して、ガチリ[#「ガチリ」に傍点]とばかり春田三吉の両手をはさ[#「はさ」に傍点]んでしまった、
「――ああ!」と叫んだが遅い、頑丈な罠は、恐ろしい力で両手を噛緊《かみし》め、引いても押してもびくとも動かぬ。
「あっはははははまさに主客転倒だね」侠盗はさも愉快そうに笑いながら立上ってきた。
[#3字下げ]謎の指環[#「謎の指環」は大見出し]
[#3字下げ]その一[#「その一」は中見出し]
「おい春田《はるた》君、春田君!」耳許《みみもと》で呼ばれる声に、ふと気づいた三吉は、眼をあけようとしたが、頭の中がひどく痛むし、恐ろしく眩《まぶし》いので、しばらくは低く呻《うな》り声をあげるばかりだった。
「もう一本注射を打ってみて下さい」細野社長の声だ。
「いやもう大丈夫です」
そういっているのは社の雇い医師である。――春田三吉はそう思いながら、それからおよそ十分ほどは、夢とも現《うつつ》ともつかず、うつらうつらしていたが、やがて次第にはっきりと覚めてきた。そして頭を振向《ふりむ》けてみると、そこは見覚えのある東邦日報社の医務室で、自分は寝台《ベッド》にいるし、枕元には細野社長と医師が心配そうに立っていた。
「あ、社長でしたか」
「気がついたね。――気分はどうだ」
「それより僕はどうしてこんな処へきているんです、たしか……僕は大森の」
「望翠楼ホテルだろう」
「そうです、あそこで侠盗と――」
「君の負けだったらしいな」
社長はにやりと笑って、医師へ振返り、
「もう結構です、どうか帰って下さい」といった。――そして医師が立去《たちさ》ると枕元へ椅子《いす》をよせてきて、
「二時間ほど前に儂《わし》の家へ電話がかかってきた、無論侠盗からさ、――君が望翠楼ホテルの二階六号室にいるから迎えにこいというんだ、そこで編輯《へんしゅう》部の者を二三人|伴《つ》れていってみると君が倒れていたという訳なんだ」
「――畜生!」三吉は歯噛みをした。全警察界のお尋ね者、犯罪の王者たる侠盗を完全に捕縛しながら、ほんの些細な油断のために、どたん場で取逃《とりにが》すばかりか、逆にこっちが翻弄された形になってしまったのだ。
「こんな手紙がおいてあったぜ」口惜《くや》しそうな三吉の様子を見ながら、社長は一通の手紙をわたした。
「到れている君の胸の上においてあったのだ、至急と上書がしてある」
三吉は手早く封を切ってみた。――手紙はタイプライターで打ったもので、
「――こんな失礼をする積《つもり》はなかったが、眼には眼という俚諺《りげん》がある、僕の親切に対する君の返礼の仕方が不作法に過ぎたから、こんなことになったのだ、責めるなら自分を責め給え。……さて、親切ついでにもう一つ君に教える、すぐ警視庁へいって、留置されている少女貞枝(殺害された上森夫人の侍女)に会い給え、そして僕の進呈した猫眼石の指環《ゆびわ》を見せるのだ、これは極《ご》く内密に行わなければいけない。そして一刻も速きを要する、君は必ずなにか得るものがあるだろう。侠盗」
三吉は寝台の上へはね起きた。
「社長、僕の上衣《うわぎ》をとって下さい」
「どうするんだ」
「早く、訳は後で話します」
社長が「痩せた河馬《かば》」の本性を出してのろくさと立上り、手当をするために医者の脱がした三吉の上衣《うわぎ》を、椅子の背からとってやると、待《まち》かねていた三吉は外側の|隠し《ポケット》からまずチュウインガムを一つ取って口へ抛《ほう》りこみ、内側の|隠し《ポケット》に紙へ包んだ猫眼石の指環のあるのを慥《たしか》めると、
「――占《し》めた」といいながら寝台から跳下《とびお》りた。
呆れている社長を後に、帽子をひっ掴んで社を出ると、戸外はまだようやく朝の光が動きはじめたばかりで、野菜を積んだ車などが、石敷道をがらがら通っている有様《ありさま》だった。――四辻まで走ってタクシーを拾い、警視庁へ乗りつけると、いきなり駈けこんで、
「橋本さんはいますか」と受付へ叫んだ。
「課長室にいられます」
「有難う」三吉は階段を跳上って刑事課長室の扉《ドア》を叩いた――橋本鬼課長はいた、
「やあお早う、どうしたい」
「お願いです」春田三吉は課長の腕を掴んで引立《ひきた》てるようにしながら、「上森夫人の侍女の貞枝という少女にすぐ会わせて下さい。大急ぎです」
「なんのために会うんだ」
「第二の殺人事件を防ぐためです」
「――※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」鬼課長は眼を剥いて起上《たちあが》った。
[#3字下げ]その二[#「その二」は中見出し]
地下室になっている拘留室まで、薄暗い石の廊下を曲り、曲りいくあいだ、三吉の胸は怒濤のように騒ぎたっていた。――昨夜、望翠楼ホテルで謎の侠盗は、
「続いて第二の殺人事件が起るぞ」といった。そして手紙にも、――貞枝と会うことは一刻も速く……と書いてある。もし遅れたらどうしようと思うと、二分とかからないその道次《みち》が、千里もいくようにもどかし[#「もどかし」に傍点]かった。
「比室《ここ》だ、――」橋本課長はそういって、第二十三号拘留室の前で立止まった。
看視人がきて、鍵を明《あ》ける、薄暗い部屋の中に、茫然と横《よこた》わっていた少女は、扉《ドア》のあく気配を知って、怯《おび》えたように跳起《はねお》きた、――三吉は課長にことわって、自分一人だけ拘留室の中へ入ってくると扉《ドア》をぴたりと、閉めて、
「貞枝さん、――とおつしゃいましたね」と声をかけた。貞枝は痩形の眼の涼《すずし》い、おちょぼ唇《ぐち》をした美しい少女で、昨日から警官たちの訊問ですっかり怖気《おじけ》がついたらしく、おどおどした様子で三吉を見上げている。
「そんなに怖がることはありません、僕は東邦日報という新聞社の記者で、決して貴女《あなた》を疑っている訳ではないのです、――貞枝さんのお家はどこですか」
「――はい、あたくし……あの、孤児《みなしご》ですの、アメリカで上森夫人に助けていただき、一緒に日本へ帰ってまいりました」
「そうですか、では日本に御親類があるかないかも御存じないのですね」
「――ええ」貞枝はそっと袖口で眼を拭いた。
「お気毒《きのどく》でしかし御安心なさい、もし貴女《あなた》さえよければ、僕がなんでも御相談に乗りますよ、名刺を差上《さしあ》げておきますから、ここを出たらぜひ訪ねていらっしゃい」
「ありがとう存じます」
「そこで、さっそくですが、貴女《あなた》にお訊ねしたいことがあるんです」そういって春田三吉は猫眼石の指環を取出し、少女の眼前《めのまえ》へ差出した、
「これは上森夫人の殺された現場《げんじょう》に落ちていた物ですが、これについて何かお心当りはありませんか、――?」
少女の顔色はさっと変わった。
「こ、これが……彼処《あそこ》に?」
「なにか心当りがありませんか」
「やっぱり、――やっぱり、――」少女は怯えたように身を慄《ふる》わせた。
「どうしたんです、貞枝さん」
「ま、松井男爵が危いんです!」
「え、――松井さん?」
「外務大臣の松井さんです、早くなんとかしてあげて下さい、でないと殺されます」
今度は春田三吉が仰天した。――松井男爵は欧羅巴《ヨーロッパ》の某大国で大使をしていたが、先月はじめ、アメリカを廻って帰国すると同時に、一躍外務大臣の栄職についた人である。
「どうして松井外相が殺されるんですか」
「猫眼石の指環です。あたくし桑港《サンフランシスコ》で上森夫人のお供をして、XXX国領事の夜会へまいりました、――その時、XXX国領事と松井外相とのあいだに、少しばかり口論がありました。その場は上森夫人が仲へ入って無事に納まったのですけれど、松井男爵はすぐお帰りになられました、そのお帰りになる時……XXX国領事は、――今夜の記念に! といって猫眼石の指環を男爵にお渡ししたんですの」
貞枝はひと息ついて語りつづけた。
「その時、猫眼石の指環を貰ったのは三人いました、一人は男爵で他の二人は、上森夫人と加奈陀《カナダ》汽船会社のランドンという船長です、――ところが」
「――?」
「あたくし達が加奈陀《カナダ》汽船のコンドル号で日本へ帰る途中、そのランドン船長は、太平洋の真中《まんなか》で煙のように消えてしまいました。船の人達は海へ堕《お》ちたのだといっていましたが、いま考えると誰かに殺されたに相違ありません、――船長の部屋には謎のように彼《あ》の猫眼石の指環が遺されてありました。そして、上森夫人の殺された時にも猫眼石……二人つづけて怪《あや》しい死態《しにざま》をしたとすれば、今度は同じ猫眼石を持っている松井外相の番ではないでしょうか、春田さま」
少女の話を聞くうちに、春田三吉は事件の秘密が少しずつ分るように思われてきた。
桑港《サンフランシスコ》におけるXXX国領事の夜会、――領事と松井男爵の口論、――三つの猫眼石。事件の核心はここにある、操っている絲《いと》はXXX国領事だ。これは考えていたよりも大事件だぞ……そう思った三吉は、
「ありがとう、お蔭で大分はっきりしてきました、貴女《あなた》のいうとおり、本当に今度は松井外相に危険があるかも知れません、失礼します」春田三吉は立上って、
「繰返《くりかえ》していいますが、警視庁から出されたら、すぐ僕のところへ訪ねていらっしゃいよ、決して悪いようにはしませんからね」
「ありがとう存じます、――」
頼もしげに、うるんだ眸子《ひとみ》で見上げる少女を残して、三吉は脱兎のように廊下へとび出して行った。
[#3字下げ]第二の殺人事件[#「第二の殺人事件」は大見出し]
[#3字下げ]その一[#「その一」は中見出し]
「大臣に会わせて下さい」永田町にある外務大臣官邸の玄関で、春田三吉は喚きたてていた。
「議会まえでお急《いそ》がしいから、大臣は一切面会はなさいません」
「しかし、どうしても五分間のうちに会わなければならんのだ」
「駄目です」受付は頑強に拒絶して動かない。
「よろしい」三吉は頷いて、例の「猫眼石の指環」を取出し、「ではこれを持っていってこういい給え、国家の重大事について御面会したいと、――名刺はこれだ、急いで頼む」
猫眼石の指環が興味を唆《そそ》ったか、玄関子は不承不承に奥へ去ったが、今度はひどく慌てて戻ると、
「御面会なさるそうです、どうぞ」と云《い》いながら応接室へ案内した。
外相松井男爵は小柄の肥った体で、眼の鋭い、口髭の濃い、いかにも精悍な感じのする人物だった。――つかつかと応接室へ入ってくると、いきなり指環を差出して、
「君か、この指環を持ってきたのは」と立ったままでいう、まるで豹が咆えるような声である。
「その指環に御記憶がございましょう?」
「どうして知っている、――」
「閣下」春田三吉は椅子から起って、
「猫眼石の指環を貰ったのは三名、閣下を除いて他の二人は殺されました」
「――何じゃと?」外相の眼がぎらりと光った。春田三吉は一歩前へ出て、
「桑港《サンフランシスコ》における夜会で、XXX国領事が三名の人物にこの指環を贈ったのです、一個は松井閣下、一個は加奈陀《カナダ》汽船のランドン船長、もう一個は上森夫人、――ところが日本へ廻航中ランドン船長は太平洋上で謎の死を遂げ、上森夫人は第一ホテルの寝室で刺殺されてしまったのです。しかも……両者とも現場《げんじょう》に『猫眼石の指環』を残して」
「矢張《やっぱ》りそうか、――」外相は唇を噛《かみ》しめながら、
「それで、君のきた理由は?」
「閣下、――三人の内二人は殺されました。とすると今度は、閣下の身に万一のことでも」
「わははははは」松井外相は豪傑笑いをして、「君、ここは日本だぜ、フランスでもイギリスでもない、一国の外務大臣がそう易々……」といいかけた時、田浦次官が入ってきて、
「閣下、首相から至急のお手紙です」と云って一通の書面を差出した。
「うむ、」――至急といわれて、外相はすぐ書面の封を切って読み下したが、見る見るその顔に朱を注いだと思うと
「怪《け》しからん、脅迫状じゃ」と喚いた。
「――閣下」と春田三吉が乗出《のりだ》す、外相は手紙を三吉に渡しながら、
「君の予言が的中した、見給え」
「拝見します」三吉は手紙を披いた。見ると青色の書簡紙へ赤のインクで、
[#ここから2字下げ]
――今夜、午後八時十分、閣下の生命《いのち》を頂戴|仕《つかまつ》る。
いかなる防禦をなさるとも、我等の手より免るるを得ざるべし。侠盗。
[#ここで字下げ終わり]
「あ! ――侠盗※[#感嘆符二つ、1-8-75]」三吉は愕然とした。「午後八時十分」といえば上森夫人の殺害された時刻と同じである。しかし、――侠盗という署名は疑わしい、決して人を殺さぬはずの侠盗、世の悪を懲《こら》し、弱者を救う侠盗が何のために外相を殺す必要があろう。
「嘘だ!」春田三吉は叫んだ。「侠盗というのは嘘です閣下、――第一、閣下の身辺に危険の迫っていることを、僕に知らせてくれたのは侠盗なんです。それが閣下を狙うはずはありません」
「そんな事は何方《どっち》でもよい。田浦君、――すぐ警視庁へ電話をかけて、一応この手紙を見せておいてくれ給え、しかし特に警戒の必要はないから!」
「いや閣下」春田青年は強く遮ぎって、
「これは単なる脅迫状ではありません、ぜひとも厳重な警戒を――」
「馬鹿なこんな、下らぬ脅しに一々怯えていた日には、外務大臣などは務まらん。――君は桑港《サンフランシスコ》で、儂《わし》とXXX国領事と口論したことが事件の原因を作ったもの……と思っているらしいが、そんな事は有り得ない、あの時|儂《わし》は、XXX国の東洋政策を論難したので、そのために殺されるなんて馬鹿なことがあるはずはないのだ。どうか出しゃばら[#「出しゃばら」に傍点]んでくれ」そういって外相は大股に立去った。
[#3字下げ]その二[#「その二」は中見出し]
首相官邸における閣議に出て、松井外相が帰ってきたのはその夜八時二十分前だった。
「橋本課長がお待ちしています」
主事が出迎えながら囁《ささや》いた。
「何処《どこ》にいる?」
「応接間です」
「よし、誰がきても会わんからな」
「かしこまりました」
大臣はつかつかと応接室へ入って行った。そこには警視庁の橋本刑事課長が待兼ねていて、外相の顔を見るなり、
「さっそくですが閣下」と急《せ》きこんでいった。
「今夜の警戒は警視庁の方へお任せ願います、閣下は軽く見ておいでですが、あの脅迫状は必ず実行されますぞ」
「では警戒しても無駄じゃないか」
外相は革張の深椅子へどかりと腰を下しながらいった。
「第一ホテルの事件を調べさせたらあの時も怪賊は八時十分を予告した。警視庁は全能力をあげて、蟻の這い出る隙もないまでに警戒網を張った、――しかし、怪賊は悠々と仕事をしてしまったそうではないか」
「それについては弁解は致しませぬ、しかし今夜は是非とも……」
「無駄だ、が、――まあそんなに、心配なら勝手にし給え。なあに何もありやせんさ」剛腹な外相はそういいながら応接室を出ていった。――橋本刑事課長はすぐさま官邸を辞して、外へ出た。外にはもう二時間もまえから厳重な警戒陣が張廻《はりめぐ》らされていたが、刑事課長は更《さら》に警官の数を二倍にすることを命じた。一方松井外務大臣は、応接室を出ると、その足で次官室を訪れ、
「これから二時間ばかり仕事を片付けるから、誰も部屋へ入らぬように頼む、面会者があっても取次ぎをせんでくれ」
「承知致しました」
「君は十時までここにいて貰おう、仕事が片付いたら夜食を一緒にするから」
そういって次官室を去ると、廊下の突当《つきあた》りになっている大臣の事務室へと入っていった。大臣室は十メートル四方の洋間で、東側に煖炉《だんろ》があり、それに近く大型の事務|卓子《テーブル》がおかれてある。南がフランス窓で、これには厳重に鎧扉《よろいど》が下されてあった。
大臣が入っていって、今しも卓子《テーブル》に向ってかけようとした時であった、――不意に室内の電灯がぱっと消えたと思うと、
「あ――!」と驚く大臣の背後から、何者とも知れずがっちりと羽交絞めにした者がある。
「だ、誰だ」
「叱《し》ッ声を立てない方がよろしい!」
怪漢は外相の耳許で囁いた、「……それから、あの書類をお出しなさい、急ぎますぞ」
「あの書類とは――?」
「桑港《サンフランシスコ》で、上森夫人から渡された書類です」
松井外相は愕然として、相手を突放そうと身を藻掻《もが》いたが、怪漢は非常な腕力で抑え込み、ずるずると垂帷《カーテン》の蔭へ引摺っていった。
「さあ、何処《どこ》にありますか」
「知らん、そんな物は忘れた」
「受取《うけと》ったことはたしかですね」
「――そうかも知れん、――君は誰だ?」
「思出《おもいだ》して下さレもう五分しか時間がありません、上森夫人から受取った書類は何処《どこ》にありますか」
「…………」
外相は何か低い声で答えた。そして垂帷《カーテン》の蔭はひっそりと鎮《しずま》ってしまった。
外務大臣官邸の大臣室にひそんでいた怪人物、水も洩らさぬ警戒陣をどう潜って、どうして、大臣室へ侵入したのであろうか――、このあいだにも時計の針は進んで、午後八時五分を過ぎていた。
不意に大臣室の電灯がぱっと点いた。
そして、――見よ、大型事務|卓子《テーブル》には、松井外務大臣が俯向《うつむ》いてせっせと何か書き物をしているではないか。
どうした事であろう? あの怪人物はどこへいったのか、松井外相はどうして人をも呼ばず、平然と事務を執《と》っているのか? ――この謎を解くまえに、我々は大臣室の窓の外を見るとしよう。
窓の外に、ぴったり身を寄せて、さっきから室内の様子を見戍《みまも》っている青年があった云うまでもなく春田三吉だ。
「――八時十分ジャスト」
腕時計を見て呟《つぶや》きながら、そっと右手の拳銃《ピストル》を執直《とりなお》した。その刹那であった、――突然
プス! プス※[#感嘆符二つ、1-8-75] プス※[#感嘆符二つ、1-8-75]
と消音銃の射撃音が聞えたと思うと、春田三吉の頭上の鎧扉《よろいど》が砕け飛び、フランス窓の硝子《ガラス》が粉微塵《こなみじん》になって、弾丸《たま》は松井外相の体へ霰《あられ》のように集中した。
「あっ――、ッ」春田三吉は、松井外相の体が横さまに倒れるのを見ながら茫然と立竦《たちすく》んだ
[#3字下げ]追撃[#「追撃」は大見出し]
[#3字下げ]その一[#「その一」は中見出し]
消音銃の猛射を浴びて松井外相の倒れる姿を見た三吉は、
「しまった!」思わず喚いて振返った。
消音銃の弾道は彼の耳許をかすめた、振返って見ると丁度《ちょうど》正面に、道を隔てて林政局の建物がある、――その二階の窓の一つが、今しも内側から閉まるところだった。
「あすこから射った、犯人はあすこにいる」
気付くのと、行動を起すのと同時だ。――二|呎《フィート》近い塀を飛鳥のように乗越える、警戒の警官隊はまだ事件を知らぬのか、道の上にはまだ誰も見えなかった。
春田三吉は脱兎の如く林政局の横手へ廻り、通用口から建物の中へ踏込《ふみこ》んだ。丁度その時、正面にある階段を、二人の男が足早に下りてくるのと、ばったり眼を見合せた。
――此奴《こいつ》らだ! と三吉が感づく、刹那! 相手の一人がいきなり持っていた銃を挙げて射つ、
「どっこい」三吉はひらり跳退きざま右手の拳銃《ピストル》を狙い撃ちに浴びせた。
タンタンタン タンタン※[#感嘆符二つ、1-8-75]
「ひ――※[#感嘆符二つ、1-8-75]」悲鳴と共に、銃を持った方がだだだだッ、凄《すさま》じい物音をたてながら階段を転げ落ちた。三吉は大股に部屋を走りぬけると、狼狽して階段を駈け戻ろうとする一人を、跳躍して後からばっと組附《くみつ》いた。
相手は五|呎《フィート》あまりの小柄な奴だったが、恐ろしい膂力《りょりょく》で、必死に組附く三吉の手をふり放して行こうとする、三吉は夢中で相手の足を掴んだ、こいつが見事にきまった、怪漢の本は階段の手摺を押砕《おしくだ》きながら、撞《どう》! と下の広間《ホール》へ墜落した。三吉も続いて跳下りると、起上ろうとする奴を体当りにたっ[#「たっ」に傍点]と突倒し、
「外には警官隊がいるんだ、神妙にしろ」と押伏せる。
「くそっ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
相手は英語で喚くと、すばらしい力ではね起きる、三吉がひっ掴む手を、強引に良《ひき》ずったまま二三歩、と! 不意に足を返すや、右手の拳で三吉の顎へ、火の出るような鈎撃《フック》を叩きつけた。
「あっ!」くらくらっと眩暈《めまい》を感じてよろめく、隙、怪漢はたたたと階段を駈登《かけのぼ》った。
「うぬ、逃がすかッ」三吉は猛然と後を追った。
怪漢は二階から三階へ上った、そして三階の窓から外へ脱出すると、予《かね》て見て置いたらしく、裏手に接して建っている煖房《だんぼう》用煙突へとび移って、するすると、鉄梯子《てつばしご》を下りた。――そして三吉がその後から伝い下り、裏手の塀を乗越えた時、ひと足違いで怪漢は、裏通りに待たせてあった自動車へとび乗り、凄じい速力で走り去るところだった。
「残念ッ」叫んで、足を宙に二三十メートル追ったが、忽《たちま》ちぐんぐん距離ができた、――と葵坂通《あおいざかどおり》へ出たとたんに、一台の空車《あきぐるま》が通りかかったので三吉は身を跳《おど》らせてとひ乗り
「向うへ行く車を追ってくれ、早く」と呶鳴《どな》った。
「ど、どうしたんです」
「スパイだ、急げ!」
「スパイ? ――合点です」
運転手は全速力を出した。
向うの車は気違いのように走った。溜池を赤坂見附へ出て、紀尾井坂を上り、更に四谷見附から麹町《こうじまち》へ入って、参謀本部から日比谷の方へ向う。
「分らん、変な方へ行きゃあがる」
呟いていると、意外や※[#感嘆符二つ、1-8-75] 車はXX署の前でぴたりと停った。
「あ、警察の前で……」
仰天する三吉。車がぎぎぎぎと軋《きし》りながら停まるのを待って、転げるようにとび下りて駈けつける、――覗いて見ると運転手のいない車の中に一人の男が倒れていた。
「どうしました旦那」後から来た運転手が声をかける、
「君、済まないが手を貸してくれ」
「よし来た」運転手に手伝わせて、倒れている男を引出してみると、雁字搦《がんじがら》みに縛られている。
「あ、此奴《こいつ》だ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」正に、林政局の二階から松井外相を狙撃した外国人である。――意外な結果に春田三吉は呆然と声をのんだ。
[#3字下げ]その二[#「その二」は中見出し]
謎だ、謎だ。全体これは何としたことであろう。――春田三吉は二人の兇漢を襲撃し、一人を拳銃《ピストル》で撃倒《うちたお》した。そして残る一人を追いつめてきた。兇漢は待たせてあった車に乗って逃げた。林政局の裏からここまで――寸刻も眼を放さず追い詰めてきた。ところが……兇漢を乗せた車はXX署の前で停り、運転手のいない車の中に、当の兇漢は縛られて倒れていたのだ。
「――誰が縛ったのだ、いつ?」
三吉は夢に夢見る心地で呟いた。
「おや、旦那――ここになにか手紙のようなものがありますぜ」
怪漢の体を抱え下した運転手が、そう云って――男の胸のところを指さした。縛られている男の上衣《うわぎ》の下に、一枚のカードが挿込《さしこ》んである、三吉は手早く取上げて読んだ。
[#ここから3字下げ]
おめでとう、春田三吉君。
君の活躍はすばらしかった、此奴《こいつ》はアンドレイ・ブブノフと云う名でXXX国機密員の腕利きだし、君が射倒した奴は単に「レバーのA」と呼ばれている有名な暗殺団の一人だ。――詳しいことは此奴《こいつ》を調べれば分るだろう、君はこれら二名を仕止めたのだ、多分君は今月から昇給だぜ、……もう一度おめでとう。
[#地から1字上げ]侠盗こと(日本ルパン)
[#ここで字下げ終わり]
「う――む、侠盗か」三吉は思わず感嘆の呻《うめ》きをあげた。
運転手と二人で、兇漢を署の中へ担ぎ込むと、三吉は直《す》ぐ警官の一人に男を引渡して、外務大臣官邸の警戒本部へ電話をかけ、橋本課長を呼んだ。
「課長は居られません」返辞は簡単だった。
「居ないって? どうしたんだ※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「三十分ほど前にそちらへ帰られました」
三吉は電話を切った。と――側にいた警官の一人が、
「あ、課長ならお部屋にいますよ」
と注意した。「然《しか》し重要な用務があるから誰も来てはいかんと云う申付《もうしつ》けです」
「ちぇッ、こちらこそ重要なんだせ」
舌打をしたが仕方がない、三吉はどっかり椅子へ腰をかけた。チュウインガムを噛みながら先《ま》ず考えたのは「侠盗」のことであった。実に不思議な人物である、――今度の事件では最初から三吉は侠盗に助けられてきた、蔭になり日向《ひなた》になり三吉のために助力してくれた。なんのためだ、……なんの必要があってこんなに三吉を助けるのであろうか。
「――そこに、謎がある」
三吉は腕組をした。
なんのために蔭武者として活躍したか、それを判断するのが先だ。彼も一個の法律破壊者である。何か目当《めあて》がなくて無駄骨折りをする訳がない、――「では何が目当か?」
そう呟いた時、三吉の頭へピン[#「ピン」に傍点]と閃めいたものがある。
「――上森夫人の宝石」
三吉は椅子から跳上った。
「そうだ、この事件の最初に侠盗は『上森夫人の宝石を頂戴する』といっていたではないか、――奴の目的物はあの巨万の宝石だ。そしてその宝石筐《ほうせきばこ》はいま……この警察署に保管されている」
春田三吉の眼がきらりと光った――と、その時玄関の方から遽《あわただ》しい跫音《あしおと》が聞えて、二人の部下を従えた橋本課長が現われた。仰天したのは三吉ばかりではない、内勤警官は眼をぱちくりさせて、「あ、課長さん」と叫んだ、「貴方《あなた》は外出なすったんですか」
「何を寝呆《ねぼ》けているんだ、僕が外相官邸へ警戒に行ったのを知らんのか」
「然し二十分ほど前に帰られて、誰も来てはならんと仰有《おっしゃ》って課長室へお入りなさった筈《はず》ですが」
「なに? ――僕が帰った※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
鬼橋本の顔がさっと蒼くなった。――三吉は事態を察した。二十分まえに課長室へ入ったのは偽者である。課長に変装して入込《いりこ》んだのだ、――とすると、それは「侠盗」以外にあり得ない。
「――課長!」三吉は大声に、「直ぐXX署の廻りへ非常線を張って下さい、貴方《あなた》に化けて課長室へ侵入したのは侠盗です」
「――何のために」
「上森夫人の宝石を取るためです」
「そうかッ」橋本課長は喚くなり、厳戒を命じて、脱兎の如く課長室へ殺到したが――扉《ドア》を明けると、意外にも偽の橋本は悠々と卓子《テーブル》に向って何かしている。
「――いたッ」と三吉が喚く、
「今度こそ逃がすな!」
橋本鬼警部はだっ[#「だっ」に傍点]と相手に突っかかった。相手は不意を衝《つ》かれて手も足も出ない。椅子と共に仰向《あおむけ》に使れるところを、とび掛った橋本課長は、有無を云わさずつかまえてしまった。
[#3字下げ]左様なら春田君[#「左様なら春田君」は大見出し]
[#3字下げ]その一[#「その一」は中見出し]
「どうだ、動いてみろ侠盗!」
橋本課長は相手を椅子へかけさせて、さも得意そうに喚いた。
「天下の侠盗もこうなっては惨めなものさ、悪業《あくぎょう》の酬《むく》い了挙に到るというところだ、どうだ、何とかいわぬか」
「ば、ば、馬鹿者、馬鹿者どもッ」
「おおやかましい、声が高過ぎるぞ」
「己《おれ》は、己《おれ》は……」
まるで捕われたライオンのように呶号《どごう》し、荒れ狂い始めた。橋本課長は舌打ちをして、
「黙れ、黙れというに、此奴《こいつ》!」
と振返り、「こいつをつれていけ」
と命じた。そして部下の者が尚《なお》も叫び狂う侠盗を連去《つれさ》ると――どっかり椅子にかけて、
「春田君、まあ掛け給え」
と云った、「階下《した》で君の捕縛したスパイを見たよ、それから林政局に倒れていた奴も連行してきた、傷か? ――傷は太腿《ふともも》の貫通創だから大したことはないさ」
「で……松井外相はどうしました?」
「ははははは、君も外相が射たれたと思っているんだね」課長は愉快そうに笑った。
「何ですって、課長」
「つまらぬ茶番さ。僕は今度こそ兇漢を捕えようと思ったから、外相と相談して態《わざ》と奴等を誘《おび》き寄せたのだ」
「だって現に消音銃に射たれて――」
「あれは人形さ」
刑事課長はにやりとした、「僕は東京一の人形師に命じて外相の人形を造らせておいて、松井男爵が入ってくると直ぐ電灯を消して人形を椅子にかけさせたのだ。奴等はそんなこととも知らず、人形を射殺して安心していたと云う訳だ。いや大笑いだよ」
課長は腹を揺《ゆす》って笑った。
「今度の事件は君の推察通りだ。XXX国政府が政治上の機密の洩れる事を怖れたのが原因で、上森夫人は、――実はXXX国の女スパイだったんだ」
「え、あの夫人がXXX国のスパイ?」
「あの美しい顔をひと皮剥けば、憎むべき売国奴の正体が現われただろう。――然し桑港《サンフランシスコ》領事館の夜会の時、彼《あ》の女は松井男爵の鋭い眼に睨まれて、一堪《ひとたま》りもなく兜を脱ぎ、今までのスパイの役目を捨てて正しい日本人に返る事を誓ったのだ。この事情は直ぐXXX国の密偵に探知された。それで、上森夫人がスパイをして稼いだ巨額の富と宝石を持って帰国するのを追跡し、遂に之《これ》を殺害してしまい更にその事情を知っている松井男爵をも暗殺しようとしたんだ、――猫眼石の指環は要するに『暗殺の標識』だったのさ」
「課長はそんな事も御存じだったんですか」
「驚いたかね、はっははははは」
鬼警部は愉快そうに、「然し犯人捕縛の功名は君にして[#「して」に傍点]やられたよ、いずれ君には特賞があるだろう――ところで」と振返って、
「あの偽者が宝石に手を着けたかどうか調べなければなるまい、――おい村田君、保管倉庫から上森夫人の宝石筐を持って来てくれ給え、大急ぎだ。……おや、春田君は帰るかい」
「もう僕には用が無さそうだし、それに帰って朝刊の記事を書かなきゃなりません。どうも失礼しました」
「じゃあ失敬、いずれ賞与の通知をあげるよ」
春田三吉は課長室を出た。
毎《いつ》も平々凡々たる橋本刑事課長が、今日はなんとすばらしい敏腕振りを発揮したことだろう。今度の事件が国際スパイ問題から起った――ということは、自分だけ知っている事だと思っていたのに、あの課長は既に何も彼《か》も明察していたのだ。それに……あの偽《に》せ課長の侠盗を取押えた腕前はどうだ。
「橋本課長も立派なもんだぞ」
三吉は自分の手で侠盗を捕えようと思っていたのである、それを課長に先手を打たれたのだから少なからず癪だった。
社へ帰ったのは深夜一時に近かった。編輯部では待機の姿勢で、殆《ほとん》ど全員が待構えていた。東邦日報社独占の「上森夫人殺人事件、猫眼石の謎――踊る暗殺スパイ団」という特大記事を朝刊に載せるためである。
「社長はいるか」机へ向いながら三吉が訊《き》いた。
「さっき電話が掛ってきましたよ、なんでも一時半までには帰るそうです」
「宜《よ》し、帰られたら知らしてくれ」
三吉は鉛筆を取上げ、チュウインガムを口へ抛り込んでさらさらと原稿を書き始めた。
[#3字下げ]その二[#「その二」は中見出し]
三十分ほど夢中で書いた。
「――社長が帰られました」
と給仕が知らせにきたが、耳にもかけず書き続けている、書く側から原稿は工場へ運ばれて行くのだ。――すると間もなく、
「お茶をおあがりなさいませ」という声がした。
「よし、そこへ置け」返辞をしたがふと振返ると、
「や、――君か」
と三吉は驚いて鉛筆を置いた、――それは上森夫人の侍女貞枝であった。
「お言葉に甘えて伺っていました」
「宜かった宜かった、あれから直ぐ社へきていたんだね」
「はい――」少女は悲しげに、「他に頼る者もありませんし御親切なお言葉に従ってこちらへ参ったんですの」
「それが一番良いんだ」
三吉は少女の手を握って、「君も今度の事件ではさぞ心を痛めたろう、これからは僕と社長で、きっと君を仕合せにしてあげるよ」
「――済みませぬ」
「元気をだして。さあ――笑うんだ、君の美しい顔は笑うのがいちばん似合っている、今夜から僕を兄だと思い給え――」
「春田さま」少女は思わず三吉の手を熱く握りかえすのだった。――その時、卓上電話の鈴がけたたましく鳴った。
「ああ春田です」三吉が受話器を取ると、
「やあ春田君だね、記事はできたかい」
「――あっ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
三吉は仰天した。相手の声は紛れもない侠盗ではないか。
「はっはははは、驚いたかね、勿論――拙者は『日本ルパン』の侠盗だよ」
「君はXX署を出たのか?」
「出たのかって? 左様、XX署の警官諸君は、一斉に敬礼して僕を送出《おくりだ》して呉《く》れたよ。何故《なぜ》ならば、――僕は橋本課長の服装をちょっと借りていたからね」
「……訳が分らん」
「ご尤《もっと》も、それでは簡単に話してあげよう、つまり一言にして云えば、――さっき後から現われたのが偽の課長、即ち拙者だったのさ」
「なんだって※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「先に帰っていたのが本物で、後から二人の部下を従えて現われたのが実は侠盗だったという訳さ、――君がそれに気付かなかったのは意外だよ、何故《なぜ》って、運転手に化けてブブノフを縛り、XX署の前で君に引渡したのは拙者だ、それは君が知っていたろう、ところが課長はそれより二十分もまえに課長室へ帰っていた、――若《も》しそれが侠盗ならブブノフを縛る訳には行かん筈じゃないか? どうだね」
「う――む」
「呻ったね、はっは。人間はひどく驚くと呻る外に手を知らぬらしい、拙者が君と一緒に課長室へ行った時、――あの鬼警部もひどく驚いて、いや恟《びっく》り仰天して呻るだけだった。そうだろう誰だって自分の外に自分が現われたら仰天するさ、課長は呻り、喚き、暴れたんだ。拙者はその暇に先生を退却させて、――ひと仕事したのさ」
事情が判《はっ》きりした。――なんたる奇智、なんたる大胆、侠盗は自ら刑事課長に化け、本当の刑事課長を、みんごと「偽者」にしてしまったのであった。
「ところで拙者が何故こんな悪戯《いたずら》をしたか改めて説明する要はあるまいな? ――約束通り上森夫人の宝石は頂戴したよ、拙者は『宝石を貰う』と誓った、だからそれを実行したのさ、君が帰るとき拙者は『宝石筐を持ってこい』と云っていたろう、――あれをそのまま頂戴してきたんだ、いずれこの金は、東北地方の貧民救済事業に寄附するよ。じゃあ是で失敬、また事件があったら仲よくやろうな、春田青年万歳」
電話はがちゃりと切れた。
侠盗は「宝石」を取った。日本ルパンは最後のどたん場で見事な芝居に成功したのである――三吉は鉛筆を措《お》いて社長室へとび込んで行った。
「――社長!」社長は相変らず革椅子に長くなって、ぐうぐう眠っていた。――と、不意に三吉はびくっ[#「びくっ」に傍点]と身慄いをした。何故《なぜ》かしらん、眠っている社長の姿を見た刹那、
――若しや侠盗はこの社長ではないか。
と云う気がしたのである。しかし直ぐその馬鹿な考えを打消《うちけ》し、社長の眠りを覚まさぬように注意しながら、そっと戻った。
「今度は逃した、然しいつか必ず侠盗の正体をあばき出してやる、日本ルパンの手に手錠を嵌《は》めて見せるぞ」
三吉は拳を握って呟いた、――工場では、既に「猫眼石殺人事件」の記事が半ば刷上《すりあが》っていた。
底本:「山本周五郎探偵小説全集 第二巻 シャーロック・ホームズ異聞」作品社
2007(平成19)年11月15日第1刷発行
底本の親本:「少年少女譚海」
1937(昭和12)年1月~4月
初出:「少年少女譚海」
1937(昭和12)年1月~4月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)春田三吉《はるたさんきち》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)急|検《しら》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)※[#感嘆符二つ、1-8-75]
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[#3字下げ]挑戦の電話[#「挑戦の電話」は大見出し]
[#3字下げ]その一[#「その一」は中見出し]
春田三吉《はるたさんきち》は東邦日報社の記者で社会部の至宝といわれていた。――一昨年《おととし》の春、東大の法科を出るとすぐに入社したという、まだほやほやの新人だが、満二年にならぬあいだに五つの大事件を扱い、その内三つは警視庁の刑事諸君をだし抜いて、自ら事件を解決し、――その記事を紙面に連載して、帝都五百万の市民をあっといわせたものである。殊《こと》に、
「百万円の殺人事件」として知られている彼《か》の「プカゴア公使殺害事件」は、なにしろ被害者が外国公使であるため事件の迷宮入りと共にプカゴア国から百万円の賠償金を請求され、国際問題にまで発展したのであるが、春田三吉のすばらしい活躍によって、犯人がプカゴア国革命党員の一人であることを突止《つきと》め、みごとにこれを捕縛したのだから、世人は驚嘆した。この事件は当時の全国新聞紙が筆を揃えて特報したから、諸君も御存じであろうと思う。
春田三吉はまだ弱冠二十七歳である。色白の痩形で、どちらかというとのっぽ[#「のっぽ」に傍点]の方だ、煙草を喫《す》わぬかわりにいつもチュウインガムを噛んでいる。
「絶えず歯を動かしているのは、頭脳活動を明敏にするためだ」というのが彼の口癖である。
――夏でも冬でも厚手ツイードの背広ひとつで、決して外套を着たことがない、帽子は祖父《おじい》さんが洋行した時(だから明治二十三年だ)巴里《パリー》の古物屋から買ってきたという恐るべき骨董品で、天辺《てっぺん》にいくつも穴の明《あ》いているのを平気で冠《かぶ》っている――まあこういった風貌である。
この春田三吉が第四番めに手がけた、
「猫眼石殺人事件――」ほど怪奇を極めたものはあるまい。この事件では遉《さすが》の春田三吉が、社長から二度も辞表を求められたほどで、元々痩せている彼がお蔭で一貫目も体重を減らしたとぼやい[#「ぼやい」に傍点]ているくらいだ。――ここには先《ま》ずこの事件を詳しく紹介しようと思う。
諸君は「謎の侠盗」といわれている幻怪不思議な人物の事を聞いたことがあるはずだ。
彼は二年ほど前から都下の各富豪や、政治家、豪商を襲って、現金は勿論、秘蔵の数万、数十万円もする骨董宝物を奪う怪賊だ。――当局の必死の活動にもかかわらず、今日まで絶対にその正体を掴まれたことがない。もっともこの怪賊に襲われた富豪や政治家たちは、いずれも悪徳不正の連中で、そのため世間の同情は寧《むし》ろ怪賊の方に集り、
「日本のアルセーヌ・ルパン、現代の鼠小僧次郎吉――」とまで評判をとるようになった。
春田三吉も無論、この「謎の侠盗」を狙っていたのだが、他の事件に追われて、まだ手を着ける暇がなかった。ところが果然、実に思いがけなくも、侠盗の方から春田三吉に挑戦してきたのである。――
十二月も押詰《おしつま》った或る日、春田三吉が出社して社会部の自分の机へ向うと間もなく、卓上電話のベルが鳴った。(社会部の平部員で自分の机に電話を持っているのは、彼だけだ)
「ああ社会部の春田です」
「お早うございます、春田さん」社の交換手が出ると思ったら、向うはひどく嗄《しゃが》れた老人の声である。
「何誰《どなた》ですか――」
「御機嫌は如何《いかが》でございますかな」
「誰ですか君は、用事なら早く頼みますよ」
「大層な気早ですな――実はいささか興味のある御報告を申上《もうしあ》げたいと思いますので、というのは、丸ノ内の第一ホテルに上森鶴子夫人と名乗る新帰朝者……左様、一週間ほど以前ヨーロッパから帰ってきた婦人が滞在しているのを御承知でしょうな」
「それがどうしたんです」
「今日、午後八時十分、上森夫人のお部屋へ或る男が侵入します、そして夫人の宝石類と現金を頂戴することになっております」
春田三吉の第六感はその時早く、電話の相手が「謎の侠盗」ではあるまいか、――という疑いを持った。そこで電話の応待《おうたい》をしながら手早く机上のメモへ鉛筆で、
(この電話がどこからかかっているか、交換台で至急|検《しら》べろ)と書いて丸め、向うにいる給仕の机の上へぽん[#「ぽん」に傍点]と抛《ほう》った。
「それは御親切なお知らせで恐縮です」
春田はなるべく電話を長びかせようとして、態《わざ》とゆっくり構えた。「――してみると、上森夫人は貴重な宝石類を持っているわけですな」
[#3字下げ]その二[#「その二」は中見出し]
「左様、まず邦貨にして五十万円はあるでしょう、――それをすっかり頂戴しようというのです、これは警視庁へもお知らせしておきました。今夜の八時十分ですお忘れなく」
「有難《ありがと》う、ところで貴方《あなた》は――?」
「ふふふふふ」相手は嗄《しゃが》れ声で笑った。「そんなお芝居はやめましょう春田君、君はもうこちらが謎の侠盗だということを御存じじゃありませんか、――なんのために交換台へ此方《こっち》の電話を検べさせたんです?」
春田は跳上《とびあが》るほど驚いた。メモへ書いて給仕に交換台を検べさせたことが、既に相手に知られているのだ。
「ではこれで失礼」相手は嘲るようにいった。「また今夜、八時十分にお会いいたしましょう」
「ああ、ちょっと……」急いで呼び止めようとしたが、そこで電話がぷつりと切れた。
「――畜生!」春田三吉は思わず舌打をした。
「分りました」給仕が帰ってきた。
「どこから掛けていた。相手は何番だ」
「それが――隣の社長室です」
今度は春田三吉まさに椅子《いす》から跳上った。そして脱兎のような勢《いきおい》で社会部室を横切り、扉《ドア》を蹴放さんばかりにして社長室へとびこんだ。――部屋の中は森閑としている。そして、電機ヒーターに背中を炙らせながら、大きな革椅子に凭《もた》れて、社長細野平五郎氏はぐっすりと眠りこけていた。
春田三吉は直《す》ぐ廊下へとびだし、階下から玄関の受付まで走りまわって、怪しい人物の出入りを慥《たしか》めたが、ついに要領を得なかった。
「社長――社長、起きて下さい」春田は社長室へ戻ってくると、大|卓子《テーブル》を叩きながら呶鳴《どな》った。細野社長は「痩せた河馬《かば》」という綽名《あだな》をもっている、白髪頭で白い口髭があって、その名のごとく眼も体も細いくせにひどく動作が鈍い、まるで陸《おか》へあがった河馬のようである――春田の喚き声に、うすぼんやりと薄眼を明け、それから両腕を頭の上まで伸ばしながら、大きな欠伸《あくび》をして、ゆったりと椅子の上に身を起した。
「ああよく眠った。うちの新聞を読んでいると良い心持《こころもち》に眠くなるよ、全く――近頃の東邦日報はまるで眠り薬のようじゃ」
良い記事がすこしもないという皮肉だ。ふだんの春田青年なら怒りだすところである。しかし今日はもっと重大なことが持上《もちあが》っていた。
「それどころではありません社長、謎の侠盗が僕に挑戦してきました。丸ノ内第一ホテルに滞在中の上森鶴子夫人を襲って、現金と宝石類を盗むというんです、しかも今夜八時十分に決行すると時間まで予告してきました」
「――ほう、面白いな」社長の細い眼が少し大きくなった。
「面白い――なる程。それではもっと面白いことをお知らせ申しましょう。侠盗が僕に電話をかけてきたのはどこだと思います、この東邦日報社の建物の中からですよ」
「なんだと、――?」
「しかもこの部屋ですぜ」
「馬鹿なことを」
「交換台で訊《き》いて下さい。社長が眠っているあいだに、天下のお尋ね者、犯罪の王者、謎の侠盗は堂々と社長室へ乗《のり》こみ、社長の電話を使って犯罪の予告をしたんです、――こいつはすばらしい特種ですぜ」
細野社長の赧《あか》い顔がぴたりと動かなくなった。それから静かに椅子を立ち「痩せた河馬」という綽名をそのまま、ぶらぶらと室内を歩き始めた。
「――侮辱だ、許しがたき侮辱だ」
「そうですとも、犯罪者仲間の脅威の的だった東邦日報は今や侠盗の泥足で汚されたんです。こいつをスクープされたら我が社は新聞界の嗤《わら》いものです」
「春田君、捉《つかま》えろ!」社長は低い声でいった。「すぐに丸ノ内第一ホテルへいくんだ。警視庁と協力してホテルの使用人全部を調べあげろ、部屋の隅々を探れ、上森夫人の宝石を一個たりとも侠盗に渡すな」
「引受けました!」
「待て――」社長は呼止《よびと》めて、「君一人では心配だ――否、君の腕を疑るわけではないが、なにしろ相手は千軍万馬往来の怪人物だ、僕もあとから手伝いにいこう」
「どうぞ御自由に」
痩せた河馬などにこられては却《かえ》って足手|纏《まと》いだと思ったが、春田三吉は急いで社長室を出ると、チュウインガムをひとつ口へ放りこみ、帽子をひっ掴んで外へとび出した。
[#3字下げ]意外! 侠盗、夫人を殺す[#「意外! 侠盗、夫人を殺す」は大見出し]
[#3字下げ]その一[#「その一」は中見出し]
その夜の第一ホテルほど物々しい光景はなかった。ホテルのある仲通り二号地は、角|毎《ごと》に正服《せいふく》私服の警官が立番しているし、辻待のタクシーには全部刑事が乗込んで、侠盗の逃亡に備えている。ホテルは昼のうちから何度も大捜査が行われ、屋上庭園から地階の燃料庫、ボイラー室まで、隅という隅、鼠の穴にいたるまで検索された。それにも増して厳重なのは、使用人の調査だった。まず支配人から始めて部屋附の給仕、ベル給仕《ボーイ》、|お茶少女《ティーガールズ》、掃除番、帳場係り、交換手から料理人、風呂番まで、一人一人呼出して警視庁捜査課長自ら訊問にあたった。
春田三吉は勿論、この捜査に立会《たちあ》ったが、建物にも使用人にも異常のないことをたしかめた。そして遅い夕食の後三階の上森夫人の部屋へあがっていった。
上森夫人は三階の七、八、九の三部屋を借りていた。七号が応接間、八号が居間、九号が寝室で、寝室の隣が浴場になっていた。夫人は貞枝という少女の召使いと二人でこの三部屋を使っているのだ。
春田三吉は、警視庁で「鬼警部」といわれる名探偵、橋本刑事部長と共に応接室へ入っていった。鶴子夫人は年の頃二十七八、非常に美しい婦人で、むしろ凄艶《せいえん》と云《い》いたいくらい、――巴里《パリ》一流の衣装店で作らせたという贅沢《ぜいたく》な部屋着を着て、高価な香水を花のごとく体の周囲に匂わせている。
「何か怪《あやし》いものがみつかりまして――?」夫人は鬼警部に美しく微笑しながらいった。ゆったりと寝椅子に凭れて、すんなりした脚を組合《くみあわ》せているのが、なんともいえず嬌《なま》めかしい。橋本刑事部長は眩《まぶ》しそうに眼を外《そ》らして、
「いや、建物にもホテルの使用人にも怪むべき点は発見されません。――つまり、侠盗は未《ま》だこのホテルへいささかも手をつけていないのです。つまり」
「つまり――」と夫人が引取った。「侠盗は結局わたくしの宝石を盗むことはできないというわけですのね」
「仰せのとおりです、二号地区は蟻の這う隙もない厳重な警戒線で取巻《とりま》いてあるし、ホテルの内外は二十数名の警官が張込《はりこ》んでいます、侠盗が神様でないかぎり、到底この部屋へ忍びこみ、貴女《あなた》の持物へ手をつけることは不可能です、絶対に――」
「ちょっとお伺いいたしますが」と春田三吉、
「御所持の宝石類はどこへお納《しま》いですか」
「寝室ですわ」夫人はにこやかに答えた。「寝室の枕箪笥《まくらだんす》の中に入れてございます」
「もっと早く適当な銀行へでもお預けになった方がよかったですね」
「わたくし日本の警察を信じています」
「侠盗だけは別ですよ」
「馬鹿な?」鬼警部が喚いた。「アメリカや仏蘭西《フランス》なら知らぬこと、日本の警察は犯罪者に馬鹿にされるようなちゃちなもんじゃない」
「そうなって貰いたいですね」春田三吉はそういい捨てると、立っていってもう一度改めて寝室の捜査をはじめた。
寝室は四坪ほどの広さで、東側に窓、北側の壁に飾り煖炉《だんろ》があり、その脇に浴室へいく扉《ドア》がある、寝台《ベッド》は南側の壁に添っておかれ、頭のいく方に豪華な枕箪笥があった。春田三吉は床を叩いたり壁を探ってみたり、どこかに脱《ぬ》け穴がありはしないかと、三十分もかかって調べたが、結局なにも発見することはできなかった。
「どうだね、何かあったかね」春田が戻ってくると、橋本刑事部長はからかい[#「からかい」に傍点]顔で訊いた。
「君はプカゴア公使事件からこっち、だいぶ気を好《よ》くしているようだが、相手が謎の侠盗では少し荷が勝ち過ぎるぜ――また新聞記者は記者らしく、我々の捜査を嗅ぎまわっている方が安全だろう」
「有難う、橋本さん御親切は忘れませんよ」春田はにっこり笑って、「しかし僕は侠盗から呼ばれているんです、彼の好意を無にするわけにはいきませんからね」
そして春田は階下へ降りていった。
あとから手伝いにいく、といった細野社長が、どうしたわけかまだこないのである。玄関まで出てみたがやはりきた様子はなかった。時間は遠慮なくたっていく――七時、七時三十分……。
いよいよ時間は切迫してきた。三階の廊下には十五名の警官が立番に当った――応接室には、橋本刑事部長と春田三吉が頑張っている。壁の時計が八時を打った時、
「わたくし疲れていますから寝室へ退《さが》らせていただきますわ」といって鶴子夫人は起上《おきあが》った。そして二人に会釈して小間使いの少女と共に寝室へ入っていった。
[#3字下げ]その二[#「その二」は中見出し]
春田三吉はさすがに凝乎《じっ》としていることができなくなった。白昼堂々と東邦日報社の社長室を侵され、堪難《たえがた》き侮辱を与えられているのである。
春田三吉だけでなく、東邦日報社の名誉に賭けても侠盗を仕止めなければならないのだ。
「――八時五分」橋本鬼警部が呟いた。
春田青年は烈しくガムを噛みながら時計を見た――とその時、寝室から小間使いの少女が出てきた。
「どうしました?」
「はい、奥さまが葡萄酒《ぶどうしゅ》を召上《めしあが》るとおっしゃいますので……」そういって少女は廊下へ出ていった。
橋本部長は喫っていた煙草を灰皿で揉消《もみけ》した。春田三吉も噛んでいたガムを吐出《はきだ》し、愛用のステッキを握り緊《し》めた。――張切《はりき》った弓弦《ゆみづる》のような、息苦しい一秒一秒が経っていく。しかし何事もない。何事も起らなかった。
「八時十分、時間だ」鬼警部がほっとしながら呟いた。
その時である、寝室の方に何か妙な物音がしたので、春田三吉は弾かれたように――たった三歩で居間を横切りながら、寝室の扉《ドア》へ馳せつけた。そのとたんに中から、
「犬め、犬め、畜生……」と叫ぶ鶴子夫人の声が聞え、
「ユウレカ!」と妙な男の喚き声が起った。
春田は咄嗟《とっさ》に中へ跳込もうとしたが、扉《ドア》には内側から鍵がかかっていた。そこで、駈けつけてきた橋本部長と力を協《あわ》せて、扉《ドア》へどしんと体を叩きつけた。寝室の中からは再び、
「助けて――ッ」という夫人の悲鳴、とほとんど同時に、絹を裂くような断末魔の声が聞えてきた。
扉《ドア》は樫材の頑丈なものだったが、それでも二人が押破るまでに三分とは掛らなかったに違いない、それにも不拘《かかわらず》二人が押破った扉《ドア》と共に部屋の中へ転げこんだ時には、既に既に――そこでは惨虐な犯罪が行われた後だった。
寝台《ベッド》の横のところに、白い寝衣《ガウン》を血まみれにして上森鶴子夫人が倒れている――そしてはだけ[#「はだけ」に傍点]られた雪のような胸の、左の乳房の下にぐさ[#「ぐさ」に傍点]とばかり短刀が突刺されていた、――夫人の胸部《むね》から流れ出た血は、寝台《ベッド》のシーツから床の絨毯《じゅうたん》まで染め、更《さら》にカーペットの方まで拡がっていた。
春田三吉はひと眼見るより、すぐに隣の浴室へとびこんだ。しかしそこには誰もいない、引返して窓の鎧扉《よろいど》を調べたが、そこにも内側から鍵が掛っている――このあいだに鬼警部は、急を警戒の者に知らせて、ホテルの出入を一切禁じ、自分は寝台《ベッド》の下や置戸棚のかげを捜していた。
「何者もいない、鼠一匹いないぞ」橋本部長は狂気のように叫んだ。「こんな馬鹿なことがあるか、一方口の応接間には我々がいた。居間の外、廊下いっぱいに警官が立っている。窓も扉《ドア》も内側から鍵がかかっている。しかもその中で殺人が行われるとは?」
「事実は事実です、――そして」といいかけて、春田三吉は一足跳びに枕箪笥へ駈けつけた。「そうだ、宝石――」
「侠盗は殺人を犯した。奴の手は血で汚れたのだ。全警察力をあげても彼を捕縛するぞ、奴は殺人鬼だ」
「――待って下さい、それは違います」春田青年が部長の言葉を制した時――どこからか人の呻《うめ》く声が聞えてきた。
「おや、変な声がしますぜ」
「――うん、呻き声だな……」
「しかもこの寝室の中です」
春田三吉は声のする方へ近寄っていった。呻き声は北側から聞えてくる、春田青年は全身を耳にしてすり寄ったが、やがてその呻き声が飾り煖炉の中から聞えてくるのを知って、いきなり鉄製火架を掴み、力任せに引張った。
果然、火架ががたり[#「がたり」に傍点]と鳴ったと思うと、火床がぱくり明いて、向うに薄暗いぬけ[#「ぬけ」に傍点]道が現われた――しかもそこに誰か倒れている。
「部長、誰か倒れています」
「待て、迂闊に手出しをするな!」橋本刑事部長は素早く右手に拳銃《ピストル》を取出しながら、左手で懐中電灯をさしつけた。そのあいだに春田三吉は倒れている男を抱き起したが懐中電灯の光で相手の顔をひと眼見るなり、
「あっ!」と仰反《のけぞ》るばかりに驚きの叫びをあげた。
[#3字下げ]笑う侠盗[#「笑う侠盗」は大見出し]
[#3字下げ]その一[#「その一」は中見出し]
飾り煖炉の向うに倒れていたのは何者であったか? ――細い絹紐で厳重に縛られ、猿轡《さるぐつわ》をかまされている背広服の男。
「注意しろ、危険だぞ」
声をかけながら橋本刑事部長がさしつける懐中電灯の光で、ひと眼見るなり春田三吉は仰反るばかりに驚いた。
「あっ! 貴方《あなた》は……社長」
左様、意外にもそれは東邦日報の社長細野平五郎その人であった。春田三吉は狐につままれたような気持で、社長の縛《いましめ》をとこうとした。橋本部長はそれを見ると慌てて、
「待ち給え、――」と押止め、社長の体を寝室へ運びだして、身体検査を始めた。春田青年は呆れて、
「橋本さん、貴方《あなた》はまさか社長を疑っているんじゃないでしょうね」
「場合によれば君だって疑うぜ」
部長は吐だすようにいいながら、細野氏の体中を点検した後、縛ってあった絹紐の結び目まで叮嚀《ていねい》に調べ始めた。細野氏はさっきから身もだえしながら、早く解いてくれという合図をするのだが、部長の身体検査はまるまる十五分もかかってしまった。
「宜《よろ》しい」やかて部長の許しがでて、猿轡をとり、縛《いましめ》をとかれるや、細野平五郎氏は地だんだ[#「地だんだ」に傍点]を踏んで喚きだした。
「この鯖《さば》ども[#「ども」に傍点]、能なしの穴熊、殺人犯人を眼前にして阿呆のように儂《わし》の身体検査などしている、見ろ! 犯人は貴様たちが遊んでいる暇に悠々と逃亡したぞ、この鰊《にしん》の頭め※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
「犯人は逃げた? 何処《どこ》へ――?」
「飾り煖炉の後《うしろ》に脱《ぬ》け道があるんだ、奴は儂《わし》に疑いのかかるようにしておいて、其処《そこ》から階下《かいか》へ逃げたのだ」
「しかし出口には全部網が張ってある」
「そんな網がなん[#「なん」に傍点]になる、警官まで捉えろとはいってあるまい?」
「な、何だって?」橋本部長は眼を剥いた。細野氏は冷笑して、
「そうさ、奴は警官の服を着ていたよ」
「――しまった」橋本部長は脱兎のように跳出して行った。
果して細野平五郎氏のいう通りだった、凡《およ》そ二十分くらい前に、一人の正服警官が地下室から出てきて、
「部長の命令で警視庁へいってくる」
と云《い》い、部長用の自動車に乗って立去ったという事が分った。橋本鬼警部がどんなに、口惜《くや》しがったかはいうまでもあるまい。それから脱《ぬ》け道の捜査をしたが、それは厨房の脇から寝室の飾り煖炉へ通じているもので、元はそこに非常|梯子《はしご》があったのを、そのまま壁で塞いだものだった。
橋本部長は、犯人の乗って逃げた自動車を押えるように、全市の警察へ非常手配を命じておいて再び寝室へ戻ってきた。
「ところで細野さん、貴方《あなた》はどうしてこの寝室にきていたのか、それを伺いましょう」
「儂《わし》はもう五時間も前にきていたよ」細野氏は煙草に火をつけながら、「相手が侠盗とあっては迚《とて》も諸君の力では足りまいと思ってね、――お手伝いする積《つも》りできたんだ」
「それは光栄ですな、然《しか》しお手伝いがとんだ事になってお気の毒です」
「どう致しまして」細野氏は部長の皮肉を軽く受流《うけなが》して、「儂《わし》は此処《ここ》へきてひと通り建物を検べると、すぐにあの脱《ぬ》け道を発見した。つまり建物の構造の具合からして、どうしてもあの辺に非常梯子がなければならん、と考えたんじゃ。そこで司厨室を調べると、料理を運ぶリフトの竪穴《たてあな》に、元の非常口が横から見えていた、是《これ》だなと気がついたので、其処《そこ》から潜り込んでいくと、果して非常梯子があって三階へ通じている、――儂《わし》は音のしないように注意しながら登っていった。そしていま一歩で寝室へでようとした時、あの……上森夫人の悲鳴が起った」
細野社長はひと息ついて、「儂《わし》は急いで跳だそうと、飾り煖炉の蓋を押上げた、とたんに向うから犯人が儂《わし》の頭を殴りつけたので、不覚にも儂《わし》はそのまま倒れてしまったのだがその時――犯人が警官の服を着ているのを見たのじゃ」
「大胆不敬な奴だ」部長は歯ぎしりをして叫んだ、「だが侠盗め、こんどは殺人を犯している今までの馬鹿げた世間の同情も是で帳消しだぞ」
「いや、侠盗は殺人はしませんよ」春田三吉が断乎《だんこ》としていった。
[#3字下げ]その二[#「その二」は中見出し]
「だって現に上森夫人を……」
「侠盗は殺人をしません」春田青年は重ねていった。
「侠盗の狙ったのは『宝石』です。もしこの犯人が本当に侠盗なら、夫人を殺すより宝石を奪って逃げたはずです。ところが御覧の通り宝石には手も着けてありません」
「それは夫人に発見されたからだろう」
「僕はそう思いませんね、この事件はそんな単純なものではなさ相《そう》ですよ、夫人は犯人に襲われた時『犬め、犬め、――』と叫んでいました、それから犯人の声で『ユウレカ』というのも聞えました……この二つの言葉に何か謎があるとは思いませんか」
「まあそんな謎は其方《そっち》へとっておき給え、要するにだ、侠盗は午後八時十分に夫人の室《へや》を襲うと予告した、そしてその時間に犯罪が行われたのだ、是で犯人が侠盗であるということに疑いはあるまい、――兎《と》に角《かく》我々は侠盗を捕えてみせる、必ず奴を捕縛してみせるよ」
「そうですか、僕はまた侠盗ではないと思いますから、僕の信ずるところをやってみます」
「すると君は我々と競争する気かね」
「僕は真犯人を突止めさえすればいいんです、お手柄は部長に進呈しますよ」春田三吉は皮肉に一揖《いちゆう》して立上った。
細野社長と春田三吉がホテルをでるとき、階下の仮訊問室では、上森夫人の小間使いである可憐な少女貞枝が、刑事たちに厳しく訊問されているところだった。
「君は本当に犯人が侠盗でないと思うかね」
外へ出ると社長がいった。
「単に僕が思うだけじゃありません」春田はチュウインガムを口へ入れながら
「侠盗でないという事は事実ですよ」「どうしてじゃ?」
「神出鬼没といわれる侠盗があんなへま[#「へま」に傍点]な真似をする筈《はず》がありません。全体なんの必要があって夫人を殺すんです?」
「では犯人は誰だ」
「二つの仮定があります」春田は声をひそめて、
「第一は、侠盗に恨みを含む奴がいて、罪をなすりつけるためにやった仕事。第二は、夫人に恨みのある男、――この二つですね、僕は第二の方が有力だと思います」
「どうしてね?」
「犯人は上森夫人を襲った時『ユウレカ』と叫びました。ユウレカというのは何の事か御存知ですか?」
「知らんね、何じゃ」
「希臘《ギリシャ》の哲学者で大数学者のアレキメデスというのを御存じでしょう。アレキメデスが比重の法則を発見した時に、思わず叫んだのがこの『ユウレカ』という言葉なんです、本来その言葉にはなんの意味もないんですが、それ以来『発見したぞ』というような意味で使われるようになりました。つまり――犯人は上森夫人を『発見したぞ』と叫んだ訳です」
細野社長はひそかに舌を巻いた。
「たた分らないのは」と暫《しばら》くして春田がいった。「午後八時十分にホテルを襲うと約束した侠盗が、遂《つい》に姿を現わさなかった事ですよ」
「――何かつまり、その」と社長は低い含声《ふくみごえ》でいった。
「つまり、侠盗の方に都合の悪いことができたんじゃろ」
「とすると奴は、初めて約束を破ったことになりますね、少《すくな》くとも僕に対しては一本借りができた訳です」そう云って春田三吉は笑った。
社へ帰ると、春田三吉は直ぐに朝刊の原稿を書き始めた、それは警視庁で発表する「侠盗殺人犯」の説に対して、犯人は別にあるという事を主張するものであった。社長は十時近くまでいて帰ったが、春田は原稿が組上ってくるのを待つために残った。すると十一時十分ほど前のことである。机上の電話がジリジリと鳴ったので、受話器を取ってみると、
「やあ、――春田君」という声、
「ああ!」
と春田青年は危く跳上りそうになった。それは正に今朝聞いた侠盗の声なのだ。
「八時十分にはお眼にかかれなくて残念でしたね」
と相手は含声で云った。
「だが誤酔しないで下さい、侠盗は約束を無にするような事はありません、僕はホテルへいきましたよ、ただ意外な事件がかち[#「かち」に傍点]合ったために、宝石を頂戴することができなかっただけです、――ホテルへいったという証拠には、君が橋本部長と議論して、犯人は侠盗でないと主張して下すったのを知っています。君の頭はすばらしいです、仰有《おっしゃ》る通り僕は決して殺人などはしませんからね」
そういって侠盗はからからと笑った。
[#3字下げ]猫眼石の謎[#「猫眼石の謎」は中見出し]
[#3字下げ]その一[#「その一」は中見出し]
「さて用件です」侠盗は続けた、「貴方《あなた》は僕が殺人犯人でないと庇《かば》ってくれた、僕は実に感謝してます、そこで感謝の印に今度の事件に関する良い物を進呈しましょう」
「――何ですか」
「会ってから申しましょう、いま直ぐにきて下さい、大森の望翠楼ホテルにいます、二階の六号室で豊田といって訪ねて下されば分ります」
「君自身がいるんですか」
「侠盗自身お眼にかかりますよ、だが――決して同伴者をつれてきてはいけませんよ、もし警官でも連れてくるようだと、却って君の身が危険ですからね」
「分った、僕一人でいきましょう」
「ではお待ちしています」そこで電話は切れてしまった。
春田三吉は椅子からはね上った。侠盗が自ら会おうというのだ、警察界の謎、闇の世界の英雄、犯罪王「侠盗」と会えるのだ。
「しめた、しめた、――」
春田三吉は新しいチュウインガムを口へ抛りこむと、帽子を掴んで社をとびだそうとしたが、ふと思いかえして社長室へ戻り、大|卓子《テーブル》の抽出《ひきだし》から、社長の拳銃《ピストル》を取ってズボンの|隠し《ポケット》へ突込んだ。そして社用の自動車を命じて、一路大森へとすっ飛ばした。
「へ! 侠盗先生」春田はにやりとした、「春田三吉がどこまで甘ちゃんだと思うと間違うぜ、――殺人事件に関する手懸りを貰ったら、その後で君の体を頂戴したいもんだ」春田三吉の胸には既に満々たる闘志が燃上《もえあが》っていた。
「それにしても」
それにしても不思議なのは侠盗である。橋本部長と、犯人が侠盗であるかないかを議論したのは、あの狭い寝室の中であって、其処《そこ》には橋本鬼警部と細野社長と自分だけしかいなかった筈だ。隣の部屋は勿論、廊下にも警官がはいっていたのだから、立聴きをする隙などある筈がない、然《しか》も彼はちゃんと橋本部長と自分の議論を聞いているのだ。
「全く神出鬼没だ、何処《どこ》に隠れていたのか、あの飾り煖炉の他に脱《ぬ》け道があったのか」
遉《さすが》の春田三吉も是ばかりは見当がつかなかった。
二十分の後、車は大森の高台にある望翠楼ホテルへ着いた。受付できくと二階六号に豊田という人物が慥《たしか》にいる、名刺を通じて案内を頼むと、一応電話をかけた後、
「お眼にかかるそうですから、どうぞ」
といって宿直の給仕《ボーイ》が先に立って二階へ案内した。
愈々《いよいよ》侠盗と面会するのだ、果して侠盗とは如何《いか》なる人物であろう、また、――春田三吉は、事件の手懸りを得たら、そのあとで侠盗を捕縛する積《つもり》でいるが、侠盗はそれを知らないでいるだろうか? ――それとも侠盗が春田を呼だした事にも何か裏があるのではないだろうか? 探偵界の若手花形と、犯罪界の王者との、この歴史的な会見こそ実に未曾有の事件といわなければなるまい。――春田は二階六号室の前にきた。
「此方《こちら》でございます、どうぞ」給仕《ボーイ》は扉《ドア》を叩《ノック》して、
「お入り、――」
という返辞が聞えると、挨拶をして階下《した》へ立去った。春田三吉は部屋へ入った。
それは十|米《メートル》四方ほどの洋室で、南と東が大きな硝子《ガラス》窓になって居り、北側に窪房《アルコーブ》があってカーテンで仕切り、寝台が置いてあるという簡単なものだった。
「是はようおいでなされた」
春田が入ると、片隅の卓子《テーブル》に向っていた一人の老人が立ってきた。年の頃六十余りで、古びた羅紗《らしゃ》の背広を着け、背骨の曲った、ひどく痩せた体つきである。
「貴方《あなた》が豊田さんですか」春田青年は鋭く相手を睨みつけながら訊いた。老人はごほんと嗄《か》れた咳をして、
「はい、私は豊田さんに頼まれた者でして、貴方《あなた》様にお渡しする物を言いつかっているのでござります――どうぞおかけ」
「有難う。で……豊田さんは?」
「左様、なにか急用ができたとか仰有《おっしゃ》って、十五分ほど前におでかけなさいましたがの、なに用件は分っておりますで私から申上げまするじゃ」老人はそういって大儀そうにチョッキの|隠し《ポケット》から紙包を取出した。
春田三吉は老人の様子を穴の明くほど見戍《みまも》った。果してこの老人のいう通り、侠盗は出かけたのであろうか、それとも、――この老人こそ侠盗の変装したものではあるまいか?
「是でこざります」老人は紙包を差出《さしだ》した。
[#3字下げ]その二[#「その二」は中見出し]
春田三吉は紙包を受取った。披《ひら》いてみると中から女持ちの指環《ゆびわ》が一個出てきた。
「――指環ですね」
「左様で……」
それは台が白金で、大きな猫眼石《キャッツアイ》が入っている、そして環の周囲には羅典《ラテン》語で、
《猫の眼は太陽の光の如く汝《なんじ》の動静を看視す、汝、偽る勿《なか》れ》と書いてあった。
「で、――是をどうしろというのですか」
「つまり、豊田さんが仰有《おっしゃ》るのはこうですじゃ、――」老人は咳をして、「その指環は飾り煖炉の脱《ぬ》け道に落ちていたので、明《あきら》かに犯人が落としていったものに相違ない、――私には何が何やら分りませんがの、貴方にはお分りじゃろうと云っとられました」
「――なる程」春田は頷いて、指環を紙に包むと、上衣《うわぎ》の内|隠し《ポケット》へ確《しっか》りと納《しま》って。
「さて、――」と向直《むきなお》った、「是で第一の用件はすんだ訳ですね、御好意は感謝します、こんな重大な手懸りがある以上、必ず近いうちに上森夫人の殺人犯人は突止めてみせますよ」
「……はあ――」
「ところで第二の用件です」
春田三吉はずいと椅子を寄せる振《ふり》をしながら、いきなり右足で相手の椅子の足を力任せに前へ引いた。不意を喰った相手は椅子と共に、だっ[#「だっ」に傍点]と仰反《あおむけ》に倒れる。
「な、何をなさる」と驚いて跳起《はねおき》ようとするところを、春田は飛鳥のようにとび掛って押えつけた。
「き、気でも違ったか」
「気は慥《たしか》だ、侠盗先生、うまく化けた積《つもり》だろうが、春田三吉の眼は少しばかり見えるぜ、動くな!」
「ち、違う、わし[#「わし」に傍点]は唯《ただ》――」
「黙れ」春田は叫びざま、相手の上衣《うわぎ》の両袖を掴んで半分ほど引抜き、それを後で確りと結び合せてしまった。何のことはない狂人病院で狂人に衣《き》せる狭容衣《きょうようぎ》の形である。
「もうじたばたしても駄目だぜ」春田は相手を壁へ凭せかけておいて、勝誇《かちほこ》ったように立上った。
「君の変装は実に巧《たくみ》だったが、一つだけ失敗だよ、教えてあげようかね、それは君の靴さ」いわれて老人は恟《ぎょっ》とした。
「はっははは今更見たって無駄だ、そのように背骨の曲っている人間は、必ず靴の前が減っている筈だ。ところが君のを見ると寧ろ後の方が磨り減っているじゃないか、――つまり君の背骨は曲っていない証拠さ」
「うーむ」老人は思わず呻き声をあげた。
「どうだい、もう泥を吐いても宜《よ》かろう」
「参った、参ったよ春田君」老人は遂に兜を脱いだ。
「殺人犯人が侠盗でないというのを聞いて、実は君の眼に敬服していたんだが、君は予想以上に頭が働く、正に僕の敗北だ、兜を脱ぐよ、――ところで、こう勝敗がついた以上は、もう自由にしてくれるだろうな」
「どう致しまして」春田は冷笑した、「僕は警官じゃありません、犯人捕縛の手伝いこそするが、放免する権利は与えられていませんからね」「然しまさか僕を警察へ」
「渡しますとも、さぞ警視庁では喜ぶことでしょう、きっと橋本部長は昇進しますぜ」
「馬鹿な、そんな事ができるか」侠盗は叫んだ、「僕を警視庁へ渡したって、上森夫人の殺害犯人は捕まりゃせんぜ、彼奴《きゃつ》はそこらあたりの犯罪者とは種が違う、彼奴《きゃつ》と戦えるのはこの『侠盗』あるのみなんだ」
「貴方《あなた》は春田三吉を忘れていますよ」
「駄目だ、君の腕にも敬服するが、奴だけは君の手にも負えない、――第一君は『猫眼石』の指環に彫ってあった、あの羅典《ラテン》語の意味が分ったか」「なに、直ぐ分りますさ」「冗談じゃない、羅典《ラテン》語の辞典を引いている内に、第二の殺人事件が持上るぜ」
「な、なんだって?」春田はぎくりとした。
「第二、第三の殺人事件だ」「嘘だ!」
「証拠がある」「見せ給え」
「見せる、だから僕を自由にしてくれ」
「いかん!」春田は冷笑った、「そんな手に乗る僕じゃない。先に証拠を拝見しよう」
「――仕方がない」
侠盗は諦めて、「あの机の一番下の抽出《ひきだし》を明けてみ給え、そこに小さな筐《はこ》がある、それを出してきてくれ」
「宜し、動くな、動くと――」
そういって春田は拳銃《ピストル》を取出し安全錠を外して見せながら、机の前へ跼《かが》んで一番下の抽出《ひきだし》を明けた、――抽出《ひきだし》は湿気を食ったとみえてなかなか開かなかったが、両手で力任せに引くとようやく開いた。と――その刹那であった。抽出《ひきだし》が開いた瞬間、内側から黒い鉄製の罠がとび出して、ガチリ[#「ガチリ」に傍点]とばかり春田三吉の両手をはさ[#「はさ」に傍点]んでしまった、
「――ああ!」と叫んだが遅い、頑丈な罠は、恐ろしい力で両手を噛緊《かみし》め、引いても押してもびくとも動かぬ。
「あっはははははまさに主客転倒だね」侠盗はさも愉快そうに笑いながら立上ってきた。
[#3字下げ]謎の指環[#「謎の指環」は大見出し]
[#3字下げ]その一[#「その一」は中見出し]
「おい春田《はるた》君、春田君!」耳許《みみもと》で呼ばれる声に、ふと気づいた三吉は、眼をあけようとしたが、頭の中がひどく痛むし、恐ろしく眩《まぶし》いので、しばらくは低く呻《うな》り声をあげるばかりだった。
「もう一本注射を打ってみて下さい」細野社長の声だ。
「いやもう大丈夫です」
そういっているのは社の雇い医師である。――春田三吉はそう思いながら、それからおよそ十分ほどは、夢とも現《うつつ》ともつかず、うつらうつらしていたが、やがて次第にはっきりと覚めてきた。そして頭を振向《ふりむ》けてみると、そこは見覚えのある東邦日報社の医務室で、自分は寝台《ベッド》にいるし、枕元には細野社長と医師が心配そうに立っていた。
「あ、社長でしたか」
「気がついたね。――気分はどうだ」
「それより僕はどうしてこんな処へきているんです、たしか……僕は大森の」
「望翠楼ホテルだろう」
「そうです、あそこで侠盗と――」
「君の負けだったらしいな」
社長はにやりと笑って、医師へ振返り、
「もう結構です、どうか帰って下さい」といった。――そして医師が立去《たちさ》ると枕元へ椅子《いす》をよせてきて、
「二時間ほど前に儂《わし》の家へ電話がかかってきた、無論侠盗からさ、――君が望翠楼ホテルの二階六号室にいるから迎えにこいというんだ、そこで編輯《へんしゅう》部の者を二三人|伴《つ》れていってみると君が倒れていたという訳なんだ」
「――畜生!」三吉は歯噛みをした。全警察界のお尋ね者、犯罪の王者たる侠盗を完全に捕縛しながら、ほんの些細な油断のために、どたん場で取逃《とりにが》すばかりか、逆にこっちが翻弄された形になってしまったのだ。
「こんな手紙がおいてあったぜ」口惜《くや》しそうな三吉の様子を見ながら、社長は一通の手紙をわたした。
「到れている君の胸の上においてあったのだ、至急と上書がしてある」
三吉は手早く封を切ってみた。――手紙はタイプライターで打ったもので、
「――こんな失礼をする積《つもり》はなかったが、眼には眼という俚諺《りげん》がある、僕の親切に対する君の返礼の仕方が不作法に過ぎたから、こんなことになったのだ、責めるなら自分を責め給え。……さて、親切ついでにもう一つ君に教える、すぐ警視庁へいって、留置されている少女貞枝(殺害された上森夫人の侍女)に会い給え、そして僕の進呈した猫眼石の指環《ゆびわ》を見せるのだ、これは極《ご》く内密に行わなければいけない。そして一刻も速きを要する、君は必ずなにか得るものがあるだろう。侠盗」
三吉は寝台の上へはね起きた。
「社長、僕の上衣《うわぎ》をとって下さい」
「どうするんだ」
「早く、訳は後で話します」
社長が「痩せた河馬《かば》」の本性を出してのろくさと立上り、手当をするために医者の脱がした三吉の上衣《うわぎ》を、椅子の背からとってやると、待《まち》かねていた三吉は外側の|隠し《ポケット》からまずチュウインガムを一つ取って口へ抛《ほう》りこみ、内側の|隠し《ポケット》に紙へ包んだ猫眼石の指環のあるのを慥《たしか》めると、
「――占《し》めた」といいながら寝台から跳下《とびお》りた。
呆れている社長を後に、帽子をひっ掴んで社を出ると、戸外はまだようやく朝の光が動きはじめたばかりで、野菜を積んだ車などが、石敷道をがらがら通っている有様《ありさま》だった。――四辻まで走ってタクシーを拾い、警視庁へ乗りつけると、いきなり駈けこんで、
「橋本さんはいますか」と受付へ叫んだ。
「課長室にいられます」
「有難う」三吉は階段を跳上って刑事課長室の扉《ドア》を叩いた――橋本鬼課長はいた、
「やあお早う、どうしたい」
「お願いです」春田三吉は課長の腕を掴んで引立《ひきた》てるようにしながら、「上森夫人の侍女の貞枝という少女にすぐ会わせて下さい。大急ぎです」
「なんのために会うんだ」
「第二の殺人事件を防ぐためです」
「――※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」鬼課長は眼を剥いて起上《たちあが》った。
[#3字下げ]その二[#「その二」は中見出し]
地下室になっている拘留室まで、薄暗い石の廊下を曲り、曲りいくあいだ、三吉の胸は怒濤のように騒ぎたっていた。――昨夜、望翠楼ホテルで謎の侠盗は、
「続いて第二の殺人事件が起るぞ」といった。そして手紙にも、――貞枝と会うことは一刻も速く……と書いてある。もし遅れたらどうしようと思うと、二分とかからないその道次《みち》が、千里もいくようにもどかし[#「もどかし」に傍点]かった。
「比室《ここ》だ、――」橋本課長はそういって、第二十三号拘留室の前で立止まった。
看視人がきて、鍵を明《あ》ける、薄暗い部屋の中に、茫然と横《よこた》わっていた少女は、扉《ドア》のあく気配を知って、怯《おび》えたように跳起《はねお》きた、――三吉は課長にことわって、自分一人だけ拘留室の中へ入ってくると扉《ドア》をぴたりと、閉めて、
「貞枝さん、――とおつしゃいましたね」と声をかけた。貞枝は痩形の眼の涼《すずし》い、おちょぼ唇《ぐち》をした美しい少女で、昨日から警官たちの訊問ですっかり怖気《おじけ》がついたらしく、おどおどした様子で三吉を見上げている。
「そんなに怖がることはありません、僕は東邦日報という新聞社の記者で、決して貴女《あなた》を疑っている訳ではないのです、――貞枝さんのお家はどこですか」
「――はい、あたくし……あの、孤児《みなしご》ですの、アメリカで上森夫人に助けていただき、一緒に日本へ帰ってまいりました」
「そうですか、では日本に御親類があるかないかも御存じないのですね」
「――ええ」貞枝はそっと袖口で眼を拭いた。
「お気毒《きのどく》でしかし御安心なさい、もし貴女《あなた》さえよければ、僕がなんでも御相談に乗りますよ、名刺を差上《さしあ》げておきますから、ここを出たらぜひ訪ねていらっしゃい」
「ありがとう存じます」
「そこで、さっそくですが、貴女《あなた》にお訊ねしたいことがあるんです」そういって春田三吉は猫眼石の指環を取出し、少女の眼前《めのまえ》へ差出した、
「これは上森夫人の殺された現場《げんじょう》に落ちていた物ですが、これについて何かお心当りはありませんか、――?」
少女の顔色はさっと変わった。
「こ、これが……彼処《あそこ》に?」
「なにか心当りがありませんか」
「やっぱり、――やっぱり、――」少女は怯えたように身を慄《ふる》わせた。
「どうしたんです、貞枝さん」
「ま、松井男爵が危いんです!」
「え、――松井さん?」
「外務大臣の松井さんです、早くなんとかしてあげて下さい、でないと殺されます」
今度は春田三吉が仰天した。――松井男爵は欧羅巴《ヨーロッパ》の某大国で大使をしていたが、先月はじめ、アメリカを廻って帰国すると同時に、一躍外務大臣の栄職についた人である。
「どうして松井外相が殺されるんですか」
「猫眼石の指環です。あたくし桑港《サンフランシスコ》で上森夫人のお供をして、XXX国領事の夜会へまいりました、――その時、XXX国領事と松井外相とのあいだに、少しばかり口論がありました。その場は上森夫人が仲へ入って無事に納まったのですけれど、松井男爵はすぐお帰りになられました、そのお帰りになる時……XXX国領事は、――今夜の記念に! といって猫眼石の指環を男爵にお渡ししたんですの」
貞枝はひと息ついて語りつづけた。
「その時、猫眼石の指環を貰ったのは三人いました、一人は男爵で他の二人は、上森夫人と加奈陀《カナダ》汽船会社のランドンという船長です、――ところが」
「――?」
「あたくし達が加奈陀《カナダ》汽船のコンドル号で日本へ帰る途中、そのランドン船長は、太平洋の真中《まんなか》で煙のように消えてしまいました。船の人達は海へ堕《お》ちたのだといっていましたが、いま考えると誰かに殺されたに相違ありません、――船長の部屋には謎のように彼《あ》の猫眼石の指環が遺されてありました。そして、上森夫人の殺された時にも猫眼石……二人つづけて怪《あや》しい死態《しにざま》をしたとすれば、今度は同じ猫眼石を持っている松井外相の番ではないでしょうか、春田さま」
少女の話を聞くうちに、春田三吉は事件の秘密が少しずつ分るように思われてきた。
桑港《サンフランシスコ》におけるXXX国領事の夜会、――領事と松井男爵の口論、――三つの猫眼石。事件の核心はここにある、操っている絲《いと》はXXX国領事だ。これは考えていたよりも大事件だぞ……そう思った三吉は、
「ありがとう、お蔭で大分はっきりしてきました、貴女《あなた》のいうとおり、本当に今度は松井外相に危険があるかも知れません、失礼します」春田三吉は立上って、
「繰返《くりかえ》していいますが、警視庁から出されたら、すぐ僕のところへ訪ねていらっしゃいよ、決して悪いようにはしませんからね」
「ありがとう存じます、――」
頼もしげに、うるんだ眸子《ひとみ》で見上げる少女を残して、三吉は脱兎のように廊下へとび出して行った。
[#3字下げ]第二の殺人事件[#「第二の殺人事件」は大見出し]
[#3字下げ]その一[#「その一」は中見出し]
「大臣に会わせて下さい」永田町にある外務大臣官邸の玄関で、春田三吉は喚きたてていた。
「議会まえでお急《いそ》がしいから、大臣は一切面会はなさいません」
「しかし、どうしても五分間のうちに会わなければならんのだ」
「駄目です」受付は頑強に拒絶して動かない。
「よろしい」三吉は頷いて、例の「猫眼石の指環」を取出し、「ではこれを持っていってこういい給え、国家の重大事について御面会したいと、――名刺はこれだ、急いで頼む」
猫眼石の指環が興味を唆《そそ》ったか、玄関子は不承不承に奥へ去ったが、今度はひどく慌てて戻ると、
「御面会なさるそうです、どうぞ」と云《い》いながら応接室へ案内した。
外相松井男爵は小柄の肥った体で、眼の鋭い、口髭の濃い、いかにも精悍な感じのする人物だった。――つかつかと応接室へ入ってくると、いきなり指環を差出して、
「君か、この指環を持ってきたのは」と立ったままでいう、まるで豹が咆えるような声である。
「その指環に御記憶がございましょう?」
「どうして知っている、――」
「閣下」春田三吉は椅子から起って、
「猫眼石の指環を貰ったのは三名、閣下を除いて他の二人は殺されました」
「――何じゃと?」外相の眼がぎらりと光った。春田三吉は一歩前へ出て、
「桑港《サンフランシスコ》における夜会で、XXX国領事が三名の人物にこの指環を贈ったのです、一個は松井閣下、一個は加奈陀《カナダ》汽船のランドン船長、もう一個は上森夫人、――ところが日本へ廻航中ランドン船長は太平洋上で謎の死を遂げ、上森夫人は第一ホテルの寝室で刺殺されてしまったのです。しかも……両者とも現場《げんじょう》に『猫眼石の指環』を残して」
「矢張《やっぱ》りそうか、――」外相は唇を噛《かみ》しめながら、
「それで、君のきた理由は?」
「閣下、――三人の内二人は殺されました。とすると今度は、閣下の身に万一のことでも」
「わははははは」松井外相は豪傑笑いをして、「君、ここは日本だぜ、フランスでもイギリスでもない、一国の外務大臣がそう易々……」といいかけた時、田浦次官が入ってきて、
「閣下、首相から至急のお手紙です」と云って一通の書面を差出した。
「うむ、」――至急といわれて、外相はすぐ書面の封を切って読み下したが、見る見るその顔に朱を注いだと思うと
「怪《け》しからん、脅迫状じゃ」と喚いた。
「――閣下」と春田三吉が乗出《のりだ》す、外相は手紙を三吉に渡しながら、
「君の予言が的中した、見給え」
「拝見します」三吉は手紙を披いた。見ると青色の書簡紙へ赤のインクで、
[#ここから2字下げ]
――今夜、午後八時十分、閣下の生命《いのち》を頂戴|仕《つかまつ》る。
いかなる防禦をなさるとも、我等の手より免るるを得ざるべし。侠盗。
[#ここで字下げ終わり]
「あ! ――侠盗※[#感嘆符二つ、1-8-75]」三吉は愕然とした。「午後八時十分」といえば上森夫人の殺害された時刻と同じである。しかし、――侠盗という署名は疑わしい、決して人を殺さぬはずの侠盗、世の悪を懲《こら》し、弱者を救う侠盗が何のために外相を殺す必要があろう。
「嘘だ!」春田三吉は叫んだ。「侠盗というのは嘘です閣下、――第一、閣下の身辺に危険の迫っていることを、僕に知らせてくれたのは侠盗なんです。それが閣下を狙うはずはありません」
「そんな事は何方《どっち》でもよい。田浦君、――すぐ警視庁へ電話をかけて、一応この手紙を見せておいてくれ給え、しかし特に警戒の必要はないから!」
「いや閣下」春田青年は強く遮ぎって、
「これは単なる脅迫状ではありません、ぜひとも厳重な警戒を――」
「馬鹿なこんな、下らぬ脅しに一々怯えていた日には、外務大臣などは務まらん。――君は桑港《サンフランシスコ》で、儂《わし》とXXX国領事と口論したことが事件の原因を作ったもの……と思っているらしいが、そんな事は有り得ない、あの時|儂《わし》は、XXX国の東洋政策を論難したので、そのために殺されるなんて馬鹿なことがあるはずはないのだ。どうか出しゃばら[#「出しゃばら」に傍点]んでくれ」そういって外相は大股に立去った。
[#3字下げ]その二[#「その二」は中見出し]
首相官邸における閣議に出て、松井外相が帰ってきたのはその夜八時二十分前だった。
「橋本課長がお待ちしています」
主事が出迎えながら囁《ささや》いた。
「何処《どこ》にいる?」
「応接間です」
「よし、誰がきても会わんからな」
「かしこまりました」
大臣はつかつかと応接室へ入って行った。そこには警視庁の橋本刑事課長が待兼ねていて、外相の顔を見るなり、
「さっそくですが閣下」と急《せ》きこんでいった。
「今夜の警戒は警視庁の方へお任せ願います、閣下は軽く見ておいでですが、あの脅迫状は必ず実行されますぞ」
「では警戒しても無駄じゃないか」
外相は革張の深椅子へどかりと腰を下しながらいった。
「第一ホテルの事件を調べさせたらあの時も怪賊は八時十分を予告した。警視庁は全能力をあげて、蟻の這い出る隙もないまでに警戒網を張った、――しかし、怪賊は悠々と仕事をしてしまったそうではないか」
「それについては弁解は致しませぬ、しかし今夜は是非とも……」
「無駄だ、が、――まあそんなに、心配なら勝手にし給え。なあに何もありやせんさ」剛腹な外相はそういいながら応接室を出ていった。――橋本刑事課長はすぐさま官邸を辞して、外へ出た。外にはもう二時間もまえから厳重な警戒陣が張廻《はりめぐ》らされていたが、刑事課長は更《さら》に警官の数を二倍にすることを命じた。一方松井外務大臣は、応接室を出ると、その足で次官室を訪れ、
「これから二時間ばかり仕事を片付けるから、誰も部屋へ入らぬように頼む、面会者があっても取次ぎをせんでくれ」
「承知致しました」
「君は十時までここにいて貰おう、仕事が片付いたら夜食を一緒にするから」
そういって次官室を去ると、廊下の突当《つきあた》りになっている大臣の事務室へと入っていった。大臣室は十メートル四方の洋間で、東側に煖炉《だんろ》があり、それに近く大型の事務|卓子《テーブル》がおかれてある。南がフランス窓で、これには厳重に鎧扉《よろいど》が下されてあった。
大臣が入っていって、今しも卓子《テーブル》に向ってかけようとした時であった、――不意に室内の電灯がぱっと消えたと思うと、
「あ――!」と驚く大臣の背後から、何者とも知れずがっちりと羽交絞めにした者がある。
「だ、誰だ」
「叱《し》ッ声を立てない方がよろしい!」
怪漢は外相の耳許で囁いた、「……それから、あの書類をお出しなさい、急ぎますぞ」
「あの書類とは――?」
「桑港《サンフランシスコ》で、上森夫人から渡された書類です」
松井外相は愕然として、相手を突放そうと身を藻掻《もが》いたが、怪漢は非常な腕力で抑え込み、ずるずると垂帷《カーテン》の蔭へ引摺っていった。
「さあ、何処《どこ》にありますか」
「知らん、そんな物は忘れた」
「受取《うけと》ったことはたしかですね」
「――そうかも知れん、――君は誰だ?」
「思出《おもいだ》して下さレもう五分しか時間がありません、上森夫人から受取った書類は何処《どこ》にありますか」
「…………」
外相は何か低い声で答えた。そして垂帷《カーテン》の蔭はひっそりと鎮《しずま》ってしまった。
外務大臣官邸の大臣室にひそんでいた怪人物、水も洩らさぬ警戒陣をどう潜って、どうして、大臣室へ侵入したのであろうか――、このあいだにも時計の針は進んで、午後八時五分を過ぎていた。
不意に大臣室の電灯がぱっと点いた。
そして、――見よ、大型事務|卓子《テーブル》には、松井外務大臣が俯向《うつむ》いてせっせと何か書き物をしているではないか。
どうした事であろう? あの怪人物はどこへいったのか、松井外相はどうして人をも呼ばず、平然と事務を執《と》っているのか? ――この謎を解くまえに、我々は大臣室の窓の外を見るとしよう。
窓の外に、ぴったり身を寄せて、さっきから室内の様子を見戍《みまも》っている青年があった云うまでもなく春田三吉だ。
「――八時十分ジャスト」
腕時計を見て呟《つぶや》きながら、そっと右手の拳銃《ピストル》を執直《とりなお》した。その刹那であった、――突然
プス! プス※[#感嘆符二つ、1-8-75] プス※[#感嘆符二つ、1-8-75]
と消音銃の射撃音が聞えたと思うと、春田三吉の頭上の鎧扉《よろいど》が砕け飛び、フランス窓の硝子《ガラス》が粉微塵《こなみじん》になって、弾丸《たま》は松井外相の体へ霰《あられ》のように集中した。
「あっ――、ッ」春田三吉は、松井外相の体が横さまに倒れるのを見ながら茫然と立竦《たちすく》んだ
[#3字下げ]追撃[#「追撃」は大見出し]
[#3字下げ]その一[#「その一」は中見出し]
消音銃の猛射を浴びて松井外相の倒れる姿を見た三吉は、
「しまった!」思わず喚いて振返った。
消音銃の弾道は彼の耳許をかすめた、振返って見ると丁度《ちょうど》正面に、道を隔てて林政局の建物がある、――その二階の窓の一つが、今しも内側から閉まるところだった。
「あすこから射った、犯人はあすこにいる」
気付くのと、行動を起すのと同時だ。――二|呎《フィート》近い塀を飛鳥のように乗越える、警戒の警官隊はまだ事件を知らぬのか、道の上にはまだ誰も見えなかった。
春田三吉は脱兎の如く林政局の横手へ廻り、通用口から建物の中へ踏込《ふみこ》んだ。丁度その時、正面にある階段を、二人の男が足早に下りてくるのと、ばったり眼を見合せた。
――此奴《こいつ》らだ! と三吉が感づく、刹那! 相手の一人がいきなり持っていた銃を挙げて射つ、
「どっこい」三吉はひらり跳退きざま右手の拳銃《ピストル》を狙い撃ちに浴びせた。
タンタンタン タンタン※[#感嘆符二つ、1-8-75]
「ひ――※[#感嘆符二つ、1-8-75]」悲鳴と共に、銃を持った方がだだだだッ、凄《すさま》じい物音をたてながら階段を転げ落ちた。三吉は大股に部屋を走りぬけると、狼狽して階段を駈け戻ろうとする一人を、跳躍して後からばっと組附《くみつ》いた。
相手は五|呎《フィート》あまりの小柄な奴だったが、恐ろしい膂力《りょりょく》で、必死に組附く三吉の手をふり放して行こうとする、三吉は夢中で相手の足を掴んだ、こいつが見事にきまった、怪漢の本は階段の手摺を押砕《おしくだ》きながら、撞《どう》! と下の広間《ホール》へ墜落した。三吉も続いて跳下りると、起上ろうとする奴を体当りにたっ[#「たっ」に傍点]と突倒し、
「外には警官隊がいるんだ、神妙にしろ」と押伏せる。
「くそっ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
相手は英語で喚くと、すばらしい力ではね起きる、三吉がひっ掴む手を、強引に良《ひき》ずったまま二三歩、と! 不意に足を返すや、右手の拳で三吉の顎へ、火の出るような鈎撃《フック》を叩きつけた。
「あっ!」くらくらっと眩暈《めまい》を感じてよろめく、隙、怪漢はたたたと階段を駈登《かけのぼ》った。
「うぬ、逃がすかッ」三吉は猛然と後を追った。
怪漢は二階から三階へ上った、そして三階の窓から外へ脱出すると、予《かね》て見て置いたらしく、裏手に接して建っている煖房《だんぼう》用煙突へとび移って、するすると、鉄梯子《てつばしご》を下りた。――そして三吉がその後から伝い下り、裏手の塀を乗越えた時、ひと足違いで怪漢は、裏通りに待たせてあった自動車へとび乗り、凄じい速力で走り去るところだった。
「残念ッ」叫んで、足を宙に二三十メートル追ったが、忽《たちま》ちぐんぐん距離ができた、――と葵坂通《あおいざかどおり》へ出たとたんに、一台の空車《あきぐるま》が通りかかったので三吉は身を跳《おど》らせてとひ乗り
「向うへ行く車を追ってくれ、早く」と呶鳴《どな》った。
「ど、どうしたんです」
「スパイだ、急げ!」
「スパイ? ――合点です」
運転手は全速力を出した。
向うの車は気違いのように走った。溜池を赤坂見附へ出て、紀尾井坂を上り、更に四谷見附から麹町《こうじまち》へ入って、参謀本部から日比谷の方へ向う。
「分らん、変な方へ行きゃあがる」
呟いていると、意外や※[#感嘆符二つ、1-8-75] 車はXX署の前でぴたりと停った。
「あ、警察の前で……」
仰天する三吉。車がぎぎぎぎと軋《きし》りながら停まるのを待って、転げるようにとび下りて駈けつける、――覗いて見ると運転手のいない車の中に一人の男が倒れていた。
「どうしました旦那」後から来た運転手が声をかける、
「君、済まないが手を貸してくれ」
「よし来た」運転手に手伝わせて、倒れている男を引出してみると、雁字搦《がんじがら》みに縛られている。
「あ、此奴《こいつ》だ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」正に、林政局の二階から松井外相を狙撃した外国人である。――意外な結果に春田三吉は呆然と声をのんだ。
[#3字下げ]その二[#「その二」は中見出し]
謎だ、謎だ。全体これは何としたことであろう。――春田三吉は二人の兇漢を襲撃し、一人を拳銃《ピストル》で撃倒《うちたお》した。そして残る一人を追いつめてきた。兇漢は待たせてあった車に乗って逃げた。林政局の裏からここまで――寸刻も眼を放さず追い詰めてきた。ところが……兇漢を乗せた車はXX署の前で停り、運転手のいない車の中に、当の兇漢は縛られて倒れていたのだ。
「――誰が縛ったのだ、いつ?」
三吉は夢に夢見る心地で呟いた。
「おや、旦那――ここになにか手紙のようなものがありますぜ」
怪漢の体を抱え下した運転手が、そう云って――男の胸のところを指さした。縛られている男の上衣《うわぎ》の下に、一枚のカードが挿込《さしこ》んである、三吉は手早く取上げて読んだ。
[#ここから3字下げ]
おめでとう、春田三吉君。
君の活躍はすばらしかった、此奴《こいつ》はアンドレイ・ブブノフと云う名でXXX国機密員の腕利きだし、君が射倒した奴は単に「レバーのA」と呼ばれている有名な暗殺団の一人だ。――詳しいことは此奴《こいつ》を調べれば分るだろう、君はこれら二名を仕止めたのだ、多分君は今月から昇給だぜ、……もう一度おめでとう。
[#地から1字上げ]侠盗こと(日本ルパン)
[#ここで字下げ終わり]
「う――む、侠盗か」三吉は思わず感嘆の呻《うめ》きをあげた。
運転手と二人で、兇漢を署の中へ担ぎ込むと、三吉は直《す》ぐ警官の一人に男を引渡して、外務大臣官邸の警戒本部へ電話をかけ、橋本課長を呼んだ。
「課長は居られません」返辞は簡単だった。
「居ないって? どうしたんだ※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「三十分ほど前にそちらへ帰られました」
三吉は電話を切った。と――側にいた警官の一人が、
「あ、課長ならお部屋にいますよ」
と注意した。「然《しか》し重要な用務があるから誰も来てはいかんと云う申付《もうしつ》けです」
「ちぇッ、こちらこそ重要なんだせ」
舌打をしたが仕方がない、三吉はどっかり椅子へ腰をかけた。チュウインガムを噛みながら先《ま》ず考えたのは「侠盗」のことであった。実に不思議な人物である、――今度の事件では最初から三吉は侠盗に助けられてきた、蔭になり日向《ひなた》になり三吉のために助力してくれた。なんのためだ、……なんの必要があってこんなに三吉を助けるのであろうか。
「――そこに、謎がある」
三吉は腕組をした。
なんのために蔭武者として活躍したか、それを判断するのが先だ。彼も一個の法律破壊者である。何か目当《めあて》がなくて無駄骨折りをする訳がない、――「では何が目当か?」
そう呟いた時、三吉の頭へピン[#「ピン」に傍点]と閃めいたものがある。
「――上森夫人の宝石」
三吉は椅子から跳上った。
「そうだ、この事件の最初に侠盗は『上森夫人の宝石を頂戴する』といっていたではないか、――奴の目的物はあの巨万の宝石だ。そしてその宝石筐《ほうせきばこ》はいま……この警察署に保管されている」
春田三吉の眼がきらりと光った――と、その時玄関の方から遽《あわただ》しい跫音《あしおと》が聞えて、二人の部下を従えた橋本課長が現われた。仰天したのは三吉ばかりではない、内勤警官は眼をぱちくりさせて、「あ、課長さん」と叫んだ、「貴方《あなた》は外出なすったんですか」
「何を寝呆《ねぼ》けているんだ、僕が外相官邸へ警戒に行ったのを知らんのか」
「然し二十分ほど前に帰られて、誰も来てはならんと仰有《おっしゃ》って課長室へお入りなさった筈《はず》ですが」
「なに? ――僕が帰った※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
鬼橋本の顔がさっと蒼くなった。――三吉は事態を察した。二十分まえに課長室へ入ったのは偽者である。課長に変装して入込《いりこ》んだのだ、――とすると、それは「侠盗」以外にあり得ない。
「――課長!」三吉は大声に、「直ぐXX署の廻りへ非常線を張って下さい、貴方《あなた》に化けて課長室へ侵入したのは侠盗です」
「――何のために」
「上森夫人の宝石を取るためです」
「そうかッ」橋本課長は喚くなり、厳戒を命じて、脱兎の如く課長室へ殺到したが――扉《ドア》を明けると、意外にも偽の橋本は悠々と卓子《テーブル》に向って何かしている。
「――いたッ」と三吉が喚く、
「今度こそ逃がすな!」
橋本鬼警部はだっ[#「だっ」に傍点]と相手に突っかかった。相手は不意を衝《つ》かれて手も足も出ない。椅子と共に仰向《あおむけ》に使れるところを、とび掛った橋本課長は、有無を云わさずつかまえてしまった。
[#3字下げ]左様なら春田君[#「左様なら春田君」は大見出し]
[#3字下げ]その一[#「その一」は中見出し]
「どうだ、動いてみろ侠盗!」
橋本課長は相手を椅子へかけさせて、さも得意そうに喚いた。
「天下の侠盗もこうなっては惨めなものさ、悪業《あくぎょう》の酬《むく》い了挙に到るというところだ、どうだ、何とかいわぬか」
「ば、ば、馬鹿者、馬鹿者どもッ」
「おおやかましい、声が高過ぎるぞ」
「己《おれ》は、己《おれ》は……」
まるで捕われたライオンのように呶号《どごう》し、荒れ狂い始めた。橋本課長は舌打ちをして、
「黙れ、黙れというに、此奴《こいつ》!」
と振返り、「こいつをつれていけ」
と命じた。そして部下の者が尚《なお》も叫び狂う侠盗を連去《つれさ》ると――どっかり椅子にかけて、
「春田君、まあ掛け給え」
と云った、「階下《した》で君の捕縛したスパイを見たよ、それから林政局に倒れていた奴も連行してきた、傷か? ――傷は太腿《ふともも》の貫通創だから大したことはないさ」
「で……松井外相はどうしました?」
「ははははは、君も外相が射たれたと思っているんだね」課長は愉快そうに笑った。
「何ですって、課長」
「つまらぬ茶番さ。僕は今度こそ兇漢を捕えようと思ったから、外相と相談して態《わざ》と奴等を誘《おび》き寄せたのだ」
「だって現に消音銃に射たれて――」
「あれは人形さ」
刑事課長はにやりとした、「僕は東京一の人形師に命じて外相の人形を造らせておいて、松井男爵が入ってくると直ぐ電灯を消して人形を椅子にかけさせたのだ。奴等はそんなこととも知らず、人形を射殺して安心していたと云う訳だ。いや大笑いだよ」
課長は腹を揺《ゆす》って笑った。
「今度の事件は君の推察通りだ。XXX国政府が政治上の機密の洩れる事を怖れたのが原因で、上森夫人は、――実はXXX国の女スパイだったんだ」
「え、あの夫人がXXX国のスパイ?」
「あの美しい顔をひと皮剥けば、憎むべき売国奴の正体が現われただろう。――然し桑港《サンフランシスコ》領事館の夜会の時、彼《あ》の女は松井男爵の鋭い眼に睨まれて、一堪《ひとたま》りもなく兜を脱ぎ、今までのスパイの役目を捨てて正しい日本人に返る事を誓ったのだ。この事情は直ぐXXX国の密偵に探知された。それで、上森夫人がスパイをして稼いだ巨額の富と宝石を持って帰国するのを追跡し、遂に之《これ》を殺害してしまい更にその事情を知っている松井男爵をも暗殺しようとしたんだ、――猫眼石の指環は要するに『暗殺の標識』だったのさ」
「課長はそんな事も御存じだったんですか」
「驚いたかね、はっははははは」
鬼警部は愉快そうに、「然し犯人捕縛の功名は君にして[#「して」に傍点]やられたよ、いずれ君には特賞があるだろう――ところで」と振返って、
「あの偽者が宝石に手を着けたかどうか調べなければなるまい、――おい村田君、保管倉庫から上森夫人の宝石筐を持って来てくれ給え、大急ぎだ。……おや、春田君は帰るかい」
「もう僕には用が無さそうだし、それに帰って朝刊の記事を書かなきゃなりません。どうも失礼しました」
「じゃあ失敬、いずれ賞与の通知をあげるよ」
春田三吉は課長室を出た。
毎《いつ》も平々凡々たる橋本刑事課長が、今日はなんとすばらしい敏腕振りを発揮したことだろう。今度の事件が国際スパイ問題から起った――ということは、自分だけ知っている事だと思っていたのに、あの課長は既に何も彼《か》も明察していたのだ。それに……あの偽《に》せ課長の侠盗を取押えた腕前はどうだ。
「橋本課長も立派なもんだぞ」
三吉は自分の手で侠盗を捕えようと思っていたのである、それを課長に先手を打たれたのだから少なからず癪だった。
社へ帰ったのは深夜一時に近かった。編輯部では待機の姿勢で、殆《ほとん》ど全員が待構えていた。東邦日報社独占の「上森夫人殺人事件、猫眼石の謎――踊る暗殺スパイ団」という特大記事を朝刊に載せるためである。
「社長はいるか」机へ向いながら三吉が訊《き》いた。
「さっき電話が掛ってきましたよ、なんでも一時半までには帰るそうです」
「宜《よ》し、帰られたら知らしてくれ」
三吉は鉛筆を取上げ、チュウインガムを口へ抛り込んでさらさらと原稿を書き始めた。
[#3字下げ]その二[#「その二」は中見出し]
三十分ほど夢中で書いた。
「――社長が帰られました」
と給仕が知らせにきたが、耳にもかけず書き続けている、書く側から原稿は工場へ運ばれて行くのだ。――すると間もなく、
「お茶をおあがりなさいませ」という声がした。
「よし、そこへ置け」返辞をしたがふと振返ると、
「や、――君か」
と三吉は驚いて鉛筆を置いた、――それは上森夫人の侍女貞枝であった。
「お言葉に甘えて伺っていました」
「宜かった宜かった、あれから直ぐ社へきていたんだね」
「はい――」少女は悲しげに、「他に頼る者もありませんし御親切なお言葉に従ってこちらへ参ったんですの」
「それが一番良いんだ」
三吉は少女の手を握って、「君も今度の事件ではさぞ心を痛めたろう、これからは僕と社長で、きっと君を仕合せにしてあげるよ」
「――済みませぬ」
「元気をだして。さあ――笑うんだ、君の美しい顔は笑うのがいちばん似合っている、今夜から僕を兄だと思い給え――」
「春田さま」少女は思わず三吉の手を熱く握りかえすのだった。――その時、卓上電話の鈴がけたたましく鳴った。
「ああ春田です」三吉が受話器を取ると、
「やあ春田君だね、記事はできたかい」
「――あっ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
三吉は仰天した。相手の声は紛れもない侠盗ではないか。
「はっはははは、驚いたかね、勿論――拙者は『日本ルパン』の侠盗だよ」
「君はXX署を出たのか?」
「出たのかって? 左様、XX署の警官諸君は、一斉に敬礼して僕を送出《おくりだ》して呉《く》れたよ。何故《なぜ》ならば、――僕は橋本課長の服装をちょっと借りていたからね」
「……訳が分らん」
「ご尤《もっと》も、それでは簡単に話してあげよう、つまり一言にして云えば、――さっき後から現われたのが偽の課長、即ち拙者だったのさ」
「なんだって※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「先に帰っていたのが本物で、後から二人の部下を従えて現われたのが実は侠盗だったという訳さ、――君がそれに気付かなかったのは意外だよ、何故《なぜ》って、運転手に化けてブブノフを縛り、XX署の前で君に引渡したのは拙者だ、それは君が知っていたろう、ところが課長はそれより二十分もまえに課長室へ帰っていた、――若《も》しそれが侠盗ならブブノフを縛る訳には行かん筈じゃないか? どうだね」
「う――む」
「呻ったね、はっは。人間はひどく驚くと呻る外に手を知らぬらしい、拙者が君と一緒に課長室へ行った時、――あの鬼警部もひどく驚いて、いや恟《びっく》り仰天して呻るだけだった。そうだろう誰だって自分の外に自分が現われたら仰天するさ、課長は呻り、喚き、暴れたんだ。拙者はその暇に先生を退却させて、――ひと仕事したのさ」
事情が判《はっ》きりした。――なんたる奇智、なんたる大胆、侠盗は自ら刑事課長に化け、本当の刑事課長を、みんごと「偽者」にしてしまったのであった。
「ところで拙者が何故こんな悪戯《いたずら》をしたか改めて説明する要はあるまいな? ――約束通り上森夫人の宝石は頂戴したよ、拙者は『宝石を貰う』と誓った、だからそれを実行したのさ、君が帰るとき拙者は『宝石筐を持ってこい』と云っていたろう、――あれをそのまま頂戴してきたんだ、いずれこの金は、東北地方の貧民救済事業に寄附するよ。じゃあ是で失敬、また事件があったら仲よくやろうな、春田青年万歳」
電話はがちゃりと切れた。
侠盗は「宝石」を取った。日本ルパンは最後のどたん場で見事な芝居に成功したのである――三吉は鉛筆を措《お》いて社長室へとび込んで行った。
「――社長!」社長は相変らず革椅子に長くなって、ぐうぐう眠っていた。――と、不意に三吉はびくっ[#「びくっ」に傍点]と身慄いをした。何故《なぜ》かしらん、眠っている社長の姿を見た刹那、
――若しや侠盗はこの社長ではないか。
と云う気がしたのである。しかし直ぐその馬鹿な考えを打消《うちけ》し、社長の眠りを覚まさぬように注意しながら、そっと戻った。
「今度は逃した、然しいつか必ず侠盗の正体をあばき出してやる、日本ルパンの手に手錠を嵌《は》めて見せるぞ」
三吉は拳を握って呟いた、――工場では、既に「猫眼石殺人事件」の記事が半ば刷上《すりあが》っていた。
底本:「山本周五郎探偵小説全集 第二巻 シャーロック・ホームズ異聞」作品社
2007(平成19)年11月15日第1刷発行
底本の親本:「少年少女譚海」
1937(昭和12)年1月~4月
初出:「少年少女譚海」
1937(昭和12)年1月~4月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ