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猫眼レンズ事件
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猫眼レンズ事件
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)微《かす》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|博士《はかせ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)だあっ[#「だあっ」に傍点]
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[#3字下げ]謎の少女[#「謎の少女」は中見出し]
かたん!
微《かす》かではあったが、なにか妙な物音がしたので、青江庄三郎《あおえしょうざぶろう》は読みさしの本を措《お》きながら寝台《ベッド》へ起直《おきなお》った。――枕机の置時計を見ると十一時である。事務室の中は森閑としずまって、時折かたかたと窓を叩く風のほかにはなんの音も聞えない。
「なんだ、風の音だったのか」
そう呟《つぶや》いて再び寝ようとすると、不意に隣の部屋でだあっ[#「だあっ」に傍点]となにか倒れる音がし、続いて絹を裂くような人の叫声《さけびごえ》が聞えた。
庄三郎は寝台《ベッド》からとび下りると、扉を蹴放すようにして廊下へ出た。そのとたんに隣の室から二人の人影がとび出して来て、危く庄三郎に突当《つきあた》りそうになった。――庄三郎はいきなり闇の中でその一人を捕えた。柔かい腕、ふっと匂う香料、おやっと思いながら素早く手を伸ばして電灯のスイッチをひねった。
ぱっと点いた電灯に照しだされたのは、守衛の峰田忠平老人、そして庄三郎が捕えたのは少女給仕の貝塚その子[#「その子」に傍点]であった。
「なんだ、峰田君にその[#「その」に傍点]ちゃんじゃないか、どうしたんだ今時分」
「こ、こ、この子が……」
忠平老人は息を喘がせながら、
「私が見廻りに来ますと、この部屋の扉が開いていましたので、覗いてみますと、誰か人が動いているものですから、てっきり賊だと思いまして」
「どうしたんだ、その[#「その」に傍点]ちゃん」
庄三郎は振返《ふりかえ》って、「此処《ここ》には大切な書類が置いてある。時間過ぎに許しもなく入ると、拳銃《ピストル》で射たれても仕方がないんだぜ。君だってそれを知っているだろう」
「――忘れ物をしたんです」
少女は眩《まぶ》しそうに庄三郎を見上げながら、手に持っていた薬壜《くすりびん》を示した。
「お母さまのお薬を忘れたんです」
「そんならちゃんと峰田君にそう云《い》って入らなくちゃいけない。もう十一時じゃないか、こんな時間に女の子が一人で出掛けて来るなんて乱暴すぎるよ」
「でもこのお薬がないと、お母さまは病気が苦しくって眠れないんです」
「そういう訳なら仕方がないさ。これからよく気をつけるんだね、――峰田君、もう宜《い》いよ」
庄三郎はそう云って守衛を去らせ、
「その[#「その」に傍点]ちゃんは此方《こっち》へ来給え、寒いところを帰るのは大変だ、熱い珈琲《コーヒー》を作ってあげるからそれを一杯飲んで行き給え」
「――でも……」
「遠慮することはないよ」
庄三郎はその子[#「その子」に傍点]を伴《つ》れて宿直室へ戻ると、手早く珈琲《コーヒー》沸しをガスにかけながら、
「お母さんの病気はながいのかね」
「ええ、――もう三年も寝たっきりなんです」
「お父さんはどうしているの?」
返辞がないので、振返ってみると少女は椅子《いす》に掛けて悲しそうにうなだれていた。
「お父さんは亡くなったの?」
「――いいえ」
微かに首を振ったままである。答えたくない様子がありありと見えるので、庄三郎はなにか深い事情があるものと思い、直《す》ぐに話を変えてしまった。
「じゃあその[#「その」に傍点]ちゃんが独りで病気のお母さんを看護してあげてるんだね、偉いなあ。その真心だけでも、きっとお母さんの病気は早く治るに違いないよ――さ、珈琲《コーヒー》が出来た」
庄三郎は熱い珈琲《コーヒー》のカップを持って、その子[#「その子」に傍点]に向合《むかいあ》った椅子に掛けた。
貝塚その子[#「その子」に傍点]は十五才である。おかっぱ頭で眼の美しい、少し顎の尖った利巧そうな顔だちであるが、口数のすくない、どこかに暗い感じのする少女であった。この「新東光学研究所」へ給仕として入社してからまだ半年そこそこしかならぬが、青江庄三郎は初めから彼女を可愛がっていて、……こんなに美しいのに、どうしていつも暗い沈んだ顔をしているのか、と常々不審に思っていたのである。その不審がようやく今夜分ったのだ。
「元気を出すんだその[#「その」に傍点]ちゃん」
庄三郎は少女が珈琲《コーヒー》を啜《すす》り終るのを待って、立上《たちあが》りながら云った。「どんなに苦しくてもまけちゃいけない、お母さんを守って確《しっか》りと生きなさい。僕に出来ることなら相談にのってあげるから、困ることがあったら遠慮なくそう云うんだ、分ったね」
「――ええ、有《あり》がとう」
「もう遅いからお帰り、送ってあげたいけど大事な宿直だから駄目だ、気をつけて行くんだよ」
少女は頷いて立上り、薬壜を大切そうに抱えながら出ようとしたが、ふと立止まると振返って、
「……青江さん」
と低い声で口早に云った。
「あの守衛さんに気をつけて下さい――」
そして燕《つばめ》のように素早く扉の外へ立去った。
[#3字下げ]猫眼レンズ[#「猫眼レンズ」は中見出し]
あの守衛に気をつけろ!
貝塚その子[#「その子」に傍点]の言葉は庄三郎を驚かした。気をつけろとはどういう意味なのか。条田忠平老人はもう二年も実直に勤めている、身寄《みより》のない独身者で、酒呑みの癖があるほかには道楽もせず、社員たちの評判もいいし、殊《こと》に研究所長の藤井清一|博士《はかせ》にはひどくお気入《きにいり》であった。
「どうして気をつけろと云うのか」
庄三郎は寝室《ベッド》へあがりながら、
「なにか訳があるのかも知れない。人の好《よ》い老人だという評判をとっていながら、実はそうでない悪者だという例も沢山《たくさん》ある、――とにかく注意しよう」
とひそかに決心した。
そのあくる朝であった。庄三郎が弁当屋の運んで来た朝食をたべ終って、事務室へ入るのと殆《ほとん》ど同時に、藤井清一博士が大股に入って来て、鞄《かばん》や帽子を大|卓子《テーブル》の上へ投出《なげだ》しながら、いきなり庄三郎に向って、
「おい青江君、この社の中に間諜《スパイ》がいるぞ」
と云った。
「……なんですか先生、いきなり」
「此処《ここ》には間諜《スパイ》がいるんだ」
博士はそう繰返《くりかえ》した。
藤井清一博士はまだ五十そこそこであるが、鬢髪《びんぱつ》にはもう白いものが見え、小柄な敏捷そうな体つきにも、ながい研究生活の疲れが窺われる。然《しか》し気力はますます旺《さか》んなもので、この数年間というもの「第十九号特殊レンズ」の研究に殆ど不眠不休の努力を続けているのであった。
「一体どんな事があったのですか」
「――君は」
と博士は椅子を近寄せながら云った。
「いま研究している第十九号特殊レンズが、どんな性能の物か知っているか」
「存じません!」
「本当に知らんか」
「先生のほかには誰も知らないでしょう」
「その筈《はず》だ。儂《わし》のほかには一番近しい助手の君にさえ知らせないで来た。『特殊レンズ十九号』の性能に就《つい》ては、その研究者である藤井清一ただ独りしか知っていない筈なんだ。――ところがこれを見給え」
博士は手鞄《てかばん》の中から、タイプライターで打った一通の紙片を取出《とりだ》して青江に渡した。
「アメリカの科学雑誌『世界新報』に掲載された記事だそうな。今朝ニューヨークにいる友人から無電で知らせてよこしたのだ」
「拝見します」
庄三郎はその英文を読んだ。
[#ここから2字下げ]
日本に於《おい》て猫眼レンズ完成
予《かね》て世界的光学研究者として知られている藤井清一博士は、数年来その研究所に籠《こも》って特殊レンズの完成を急いでいるが、これは夜間撮影に用いられる猫眼レンズであって、なんらの人造光の補助を要せず、日光の下に於けると同様、完全にして且《か》つ精確に映像を撮ることの出来るものてある。これは間もなく完成するであろうが、軍事的効果だけを考えてもその出現は世界の驚異であろう。
[#ここで字下げ終わり]
「これは事実なのですか、先生」
「事実だ――
博士は苛々《いらいら》と肩を揺上《ゆりあ》げた。
「どんな闇夜でも写真の撮れるレンズ、電灯の光がなくても、マグネシウムを焚かなくても、月の光や星の光がなくても、完全に撮影の出来るレンズを儂《わし》は完成したんだ。――
平時ならこれを発表して世界を驚かしてやるのだが、こういう時期のことだし、殊に儂はこのレンズが完成したらすぐ軍当局へ献納する積《つも》りで、君たちにも秘密を守って来たのだ。それが……いつかこの通り国外へ知れている」
「どうしたという訳でしょう」
「まだレンズの構造が盗まれていないだけ幸いだった。これからは人の出入《でいり》をもっと厳重に注意してくれ」
「承知しました。然し誰でしょう一体――」
「誰も彼もない、みんな間諜《スパイ》だと思え。怪しい奴があったら遠慮なくひっ捕えるんだ。いいか、遠慮なくやるんだぞ」
庄三郎は黙って頷いた。
博士がこの社の中に間諜《スパイ》がいると云ったとき、庄三郎は直ぐ昨夜の出来事を思い出したのである。殊にその子[#「その子」に傍点]の云った謎のような言葉を!
――守衛さんに気をつけて下さい。
そうだ。峰田老人にはなにか後暗いところがあるに違いない、そしてその子[#「その子」に傍点]はそれに就て知っているところがあるのだ。――庄三郎は事務室を出て、この研究室の受付へ行ってみた、然しもう九時近いのにその子[#「その子」に傍点]はまだ出社していなかった。
[#3字下げ][#中見出し]その子[#「その子」に傍点]の急報[#中見出し終わり]
「母親の病気でも悪いのかしら」
そう思って、戻ろうとすると、入口の扉の硝子《がらす》越しに、工場の方へ行く門のところで、守衛の峰田老人が浮浪者《ルンペン》のような男と立話をしているのが見えた。――普通ならそのまま見のがすところだったが、注意し始めていた時なので、庄三郎はじっと二階様子を窺っていた。
峰田老人はそんな事とも知らず、浮浪者《ルンペン》のような男と暫《しばら》く話していた後、なにか小さな紙包《かみづつみ》を渡した。男はそれを素早くポケットへ捩込《ねじこ》むと、追われるような足取りで立去った。
庄三郎はすぐ廊下を西のはずれの方へ走って行った。そこには守衛の控室《ひかえしつ》がある。峰田老人はもう夜勤が終ったから帰る筈だ。――庄三郎は控室の脇から外へ出ると、向うからやって来た峰田老人の前へ立塞がって、
「峰田君、いまの男は何者だ」といきなり訊《き》いた。
「は? ――いまの……」
「いま君と話をしていたのは誰だと訊いているのだ。君が渡したあの紙包みの中にはなにが入っていたんだ」
峰田老人は明《あきら》かに狼狽した様子だった。
「な、なに、ちょっとした知合《しりあい》の者です。もと勤めていた会社の、友達です」
「紙包みの中に入っていたのは?」
「――お金です」
老人は低い声で呟くように、「ひどく困っているんだそうで、訪ねて来られたものですから、少しばかりやりましたのです」
「嘘じゃあるまいね!」
「――と、仰有《おっしゃ》いますと、なにか私が」
「いや!」
庄三郎は冷やかに、「実はこの研究所の中の秘密を、外部へ洩らす不届きな奴があるらしいんだ。国賊のような奴がね」
「…………」
老人はぶるっと身震いをした。
「念のために云って置くが、君も充分気をつけた方が宜いよ。そうしないと……」
「違います青江さん、この峰田はそんな悪者ではありません。いまのは本当に私の友達で、お金を貰いに来たんです。私は決してそんな研究所の秘密を探るの洩らすのという大それた事は致しませんよ、どうか誤解しないで下さい」
「君だとは云わない。ただ注意するようにと云ったまでのことだ」
そう云って庄三郎は踵《きびす》を返した。
峰田は嘘を云っている――庄三郎はそう考えた。――昔の友達が金を借りにくるにしてはこんな朝の時間を選ぶのは変だ。もっと人の眼につかない時に来られる筈である。然《しか》も「この研究所の中に国賊のような奴がいる」と云った時、明かに身震いをした。
――よし、見張ってやるぞ!
と庄三郎はひそかに拳を握った。相手の見当がつけば尻尾を押える法はいくらでもある。すでに十九号レンズの注能を探り出したからには、これで止《よ》す筈はない。必ず「レンズ構造」を盗もうとするに違いはないのだ。そこを狙って逆に正体を現わしてやる。むろん、これは峰田老人一人の仕事ではあるまい。うしろから老人を操る大物がいるであろう、それも一緒に捕えなくてはならん!
庄三郎はその手段を色々と考えた。――然しそれより早く、事件は思わぬ方から発展してしまったのである。
その日の午後三時頃であった。庄三郎が研究室で新しいレンズの分光試験をしていると、入口の扉が開いて誰か入って来る気配がした。――振返って見ると給仕のその子[#「その子」に傍点]である。
「その[#「その」に傍点]ちゃんじゃないか」
庄三郎は試験台から離れながら、
「どうしたんだ。お母さんの具合が悪いなら休んで宜いぜ」
「違うんです、青江さん」
その子[#「その子」に傍点]の声は震えていた。「あたし、お知らせに来たんです。大変な事をみつけました。それで早く青江さんに来て頂きたいと思って走って来たんだす」
「――なんだ、大変な事って?」
「一緒に来て下さい。お話は途中でします」
庄三郎は頷くと、宿直室の机から拳銃《ピストル》を取出し、ポケットへ突込んでその子[#「その子」に傍点]と一緒に研究所を出た。
「さあ、大変な事って何だか聞こう」
「青江さん御存じない? 研究所の秘密を外へ洩らしている悪者がいること」
「――少しは知っている」
「あたしは前から感付いていたわ、それで絶えず注意していたんです。今日お休みしたのはその悪者の根城をみつけたからなの」
「君が? 君が独りでみつけたのか?」
庄三郎は驚いて立止った。
「鎌倉|河岸《がし》の空き倉庫です。そして今はその仲間が一人もいないんです。だから早く行って検《しら》べて頂こうと思ったんです」
「そうか、よくやって呉《く》れた。急ごう」
それ以上訊くのもどかし[#「もどかし」に傍点]かった。庄三郎はその子[#「その子」に傍点]を急《せ》きたてながら、丁度《ちょうど》来かかった自動車を呼止《よびと》めて乗った。
[#3字下げ][#中見出し]意外の陥穽《おとしあな》[#中見出し終わり]
車を鎌倉|河岸《がし》で捨てると、その子[#「その子」に傍点]は先に立って河岸《かし》沿いに一丁ほど行き、左手にある古ぼけた煉瓦建《れんがだて》の倉庫の前で立止った。……二階建の相当に大きなものであるが、もう長いこと使わないとみえて、煉瓦が所々崩れ、屋根瓦もめくれている。
「――此方《こっち》から入るのよ」
そう云って、その子[#「その子」に傍点]は横へ廻ると、以前には番人でも出入りしたらしい小さな扉口《とぐち》がある、それを押して中へ入った。
庄三郎は拳銃《ピストル》を右手に握って、闇の中を少女のあとから進んで行く。凡《およ》そ十歩ばかり行くと扉に突当った。
「――この中です」
その子[#「その子」に傍点]が囁《ささや》いた。
「大丈夫、まだ誰も来ていません」
「よし、退《ど》き給え」
庄三郎は燐寸《マッチ》を取出して火を点けながら、静かに部屋の中へ入って行った。刹那! いま入った扉が、
がたんッ
と烈しく閉まり、外からがちり[#「がちり」に傍点]と鍵をかける音がした。
「あっ!」
と云って身を翻《ひるが》えしざま扉へとびついたが、樫《かし》造りの頑丈な扉はもうびくともしなかった。二度、三度、力任せに全身を叩きつけたけれど、防火扉の最も厳重なものなので微塵《みじん》も動かない。
「――その[#「その」に傍点]ちゃん、その[#「その」に傍点]ちゃん」
庄三郎は絶叫した。
「どうしたんだ、その[#「その」に傍点]ちゃん、誰かそこにいるのか、それとも君が閉めたのか、君が僕を――」
返辞はない。扉の向うはもうひっそりとしている。考えるまでもなかった。その子[#「その子」に傍点]が彼を閉籠《とじこ》めたのだ。庄三郎は十五の少女にまんまと陥穽《おとしあな》へ叩込《たたきこ》まれたのだ。
「――残念だ!」
怒りと口惜《くや》しさに身が震えた。
凡《すべ》てが逆だった。怪しいのは峰田老人ではなくて少女貝塚その子[#「その子」に傍点]であった。あの晩、――母親の薬を忘れたと云って無断で事務室へ入って来たのは、「猫眼レンズの構造」を盗むのが目的だったかも知れない。それで自分に疑いをかけられるのを避けるために、態《わざ》と峰田老人を怪しませるようなことを云ったのであろう。
「そうだ! 今までそれに気付かなかったのは馬鹿だった。大馬鹿だった」
庄三郎は歯噛みをしながら、鍵のところを狙って拳銃《ピストル》をぶっ放した。
がん! がん※[#感嘆符二つ、1-8-75] がん※[#感嘆符二つ、1-8-75]
火花が美しく闇を截《き》った。然しその部分は鋼鉄で作られてあるので、拳銃《ピストル》の弾丸ぐらいでは破れそうにもなかった。
「――待てよ」
庄三郎は逆上した気持を鎮めながら、
「この倉庫は河岸《かし》に建っている。横から入って右へ十歩あまり来た。するとこの部屋の外は川になっている筈だ。この壁の一重外は川なんだ……そうか、よし!」
庄三郎は決然と頷き、手探りで煉瓦の壁を撫で始めた。すでに古朽ちて空家《あきや》になっている建物だ。然も煉瓦にはゆるみ[#「ゆるみ」に傍点]が出ている、旨く一つでも取抜くことが出来たら、その一部に穴を開けるのは不可能ではあるまい!
庄三郎は拳銃《ピストル》を逆に持直《もちなお》した。
それから四時間の後である。
出社した峰田老人が、守衛服に着換えて研究室を見廻りに行くと、藤井博士の部屋にまだ電灯がついていた。
――消し忘れたのかと思いながら、扉を開けてみると博士はまだ卓子《テーブル》の前にかけて仕事をしていた。
「おや、失礼を致しました。もうお帰りかと思ったものですから」
「いま何時だ」
「はい七時二十分ほど過ぎました」
「青江が見えないんだ」
博士は不機嫌に云った。「三時頃どこかへ出て行ったそうだが、いまだに帰って来ない。こんな事は曾《かつ》てないのに怪《け》しからぬ奴だ」
「――もうお帰りなさいましては……?」
「儂《わし》か? いや帰らん、青江が戻るまでは此処《ここ》におる、儂《わし》に構わんで宜《よろ》しい」
「はい」
老人は会釈して扉を閉めた。――然しその扉は再び開いて、三人の怪漢がつかつかと押入《おしい》って来た。何《いず》れも汚い身装《みなり》で、覆面をし、手に手に鋭い両刃の短剣を握っていた。
「なんだ、何者だ!」
博士は愕然として、然し科学者の落着《おちつき》だけは失わず、そう云いなから片手の指てそっと呼鈴を押そうとした。
「動くな、その手を引込めろ」
怪漢の一人が喚いた。「でないとこの短剣がおまえさんの胸へ飛んで行くぞ」
博士は手を引いた。
二人の男が進寄《すすみよ》って来て、左右から博士の腕を掴み、恐ろしい力で捩上《ねじあ》げながら椅子の背へ縛りつけた。――仕事は素早く行われた。二人が博士を縛っているあいだに、一人は博士のポケットから鍵束を抜取《ぬきと》り、部屋の隅にある大金庫の扉を開けて、中から「猫眼レンズの構造」を記した密封の書類を奪取《うばいと》った。
[#3字下げ]哀しき身の上[#「哀しき身の上」は中見出し]
その時である、扉がさっと開いて、
「早く、早く」
と叫びながら、少女その子[#「その子」に傍点]が走入《はせい》って来た。三人の怪漢が恟《ぎょっ》として振返ると、その子[#「その子」に傍点]は書類を持っている男の側へ走り寄って、
「いまそこへ警官がやって来ました」
「なに警官?」
「その書類をあたしに下さい、あたしなら疑われずに出られます。早く貴方《あなた》たちはその窓から出て、工場の裏から逃げて下さい」
「――駄目だ」
窓へ走った一人が何をみつけたか大声に、
「此方《こっち》にはもう手が廻っているらしいぞ」
「よし、では横庭へ出ろ」
書類をその子[#「その子」に傍点]に渡して三人は、廊下へ出て横庭へぬける窓の方へ駈けつけた。――そのあいだに、書類を掴んだ少女は受付から外へ、脱兎の如く走りだしたが、いま当《まさ》に門を出ようとする刹那! うしろから追って来た人影が、拳銃《ピストル》をあげて狙い射ちに一発、
だあん!
凄《すさま》じい銃声と共に、
「――あっ」
と云って毬のようにその子[#「その子」に傍点]は顛倒《てんとう》した。
しめた[#「しめた」に傍点]とばかり走《は》せつけた人影は、倒れているその子[#「その子」に傍点]の側へ来ると、書類を取返しながらぐいと少女の腕を掴んだ。その子[#「その子」に傍点]は苦しげに顔をあげたが、
「あ! 青江さん」
「青江だ、庄三郎だよ。驚いたかい?」
少女は呻《うめ》きながら突伏した。庄三郎はそれをぐいと引起すようにして云った。
「弾丸《たま》は脛《すね》をかすったばかりだ。そんなに苦しそうにすることはないよ。最後のどたん場で失敗したな? あの倉庫は壊れかかっていた、煉瓦を抜いて河岸《かし》の方から出て来たのさ。これから僕を檻禁《かんきん》するならもっと丈夫な建物を選ぶんだな」
「青江さん、あなたは……彼処《あすこ》に待っていて下されば、よかったんです」
その子[#「その子」に傍点]はわっと泣きながら云った。
「そうすれば君には都合がよかったろうさ」
「違います。あたしはこの書類を持って彼処《あそこ》へ行くつもりでした。嘘は云いません。それでなければ青江さんは殺されたんです」
「――なんだって?」
「今夜、悪人たちは、あなたを殺して書類を盗むつもりだったんです。だからあたしは青江さんをあんな処へ押籠めました。そして悪い奴をうまく騙《だま》して書類を手に入れ、あなたの処へ持って行く気でいたんです」
「馬鹿な、それを知っているなら面倒なことをせずに、ひとこと僕に話せば警官を呼んで……」
「それは出来ません」
「なぜ出来ない」
「……お父さんが可哀そうです。お父さんを罪人にすることは出来ませんでした」
少女の言葉は庄三郎の胸を刺した。
「お父さんとは、誰だ?」
「守衛の峰田です。あの人が、あたしの九つの年にお母さんとあたしを捨てて行った本当の父なのです」
そこまで云うと、その子[#「その子」に傍点]は張詰《はりつ》めた気がゆるんだものか、がくりと庄三郎の腕のなかへ失神して倒れた。
複雑した事情はここにはっきり[#「はっきり」に傍点]とした。
ずっと前に峰田老人は職務上の過《あやまち》から、僅《わず》かな罪に問われたことを恥じて妻と娘を捨てたまま行衛《ゆくえ》をくらました。それから六年、娘と父は計らずもこの「新東光学」の社で再会したのである。然し峰田は自分の前身が娘の不仕合わせになってはならぬと思い、父娘の名乗《なのり》もせずにいたのだった。――そこへ父の悪い友が現われ、藤井博士の研究を探りだせと強要した。承知しなければ以前の罪を娘に知らせると脅したので、峰田は仕方なくその命にしたがった。
然しその子[#「その子」に傍点]はいつかこの事情を知った。そして父に再び罪を犯させないために、懸命に邪魔をして来たのである。いっかの夜も、薬を忘れたと云いながら、実は父がレンズ構造の書類を盗もうとするのを防いだのだった。
悪人たちは事のはかどらぬのに業をにやし、遂《つい》に峰田を強要して研究所へ押入り、宿直の青江を殺しても書類を盗出《ぬすみだ》そうと計ったのである。――その子[#「その子」に傍点]はこれを知ったので、青江に怪我《けが》をさせまいと思い、空き倉庫の中へ閉籠めておいて、自分は悪人たちを騙し、書類を奪って青江に渡したうえ、父や母と共に満洲へでも新しい生活を求めて去ろうとしたのだ。
然し、庄三郎が早く倉庫を脱出したため、その子[#「その子」に傍点]の計画は無駄になった。彼女は脛にかすり傷を受け、父は悪人たちと共に、庄三郎の呼んで置いた警官に捕えられてしまったのである。
「――先生、事情はこうです」
二三日経ったある朝、庄三郎は博士に向って熱心に云った。
「書類は無事だったのですから、その子[#「その子」に傍点]の哀れな望みをかなえてやって下さい。峰田老人が罪にならずに済むように計《はから》ってやって下さいませんか」
「いいとも、彼が悪人でないことは分っている。これに懲りて再びこんな過はしないだろう。罪にならぬように奔走してあげるよ」
「それからもう一つです。足の傷が治ったらあの少女を元の通り使って頂きたいんです。あの子は役に立ちますよ」
「たしかだね。――君を閉籠めた手際などはみごとなものだよ」
博士はからからと笑った。
「それを云われると辛いです」
「なに、辛そうな顔でもないぞ。――まあ病院へ行って安心させてやり給え。峰田もその子[#「その子」に傍点]も元通り使ってやるからって。……さあ、儂《わし》からだと云ってこれで花を買って行ってくれ」
博士はそう云って、何枚かの紙幣を投出した。
底本:「山本周五郎探偵小説全集 第五巻 スパイ小説」作品社
2008(平成20)年2月15日第1刷発行
底本の親本:「少年少女譚海」
1939(昭和14)年3月
初出:「少年少女譚海」
1939(昭和14)年3月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)微《かす》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|博士《はかせ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)だあっ[#「だあっ」に傍点]
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[#3字下げ]謎の少女[#「謎の少女」は中見出し]
かたん!
微《かす》かではあったが、なにか妙な物音がしたので、青江庄三郎《あおえしょうざぶろう》は読みさしの本を措《お》きながら寝台《ベッド》へ起直《おきなお》った。――枕机の置時計を見ると十一時である。事務室の中は森閑としずまって、時折かたかたと窓を叩く風のほかにはなんの音も聞えない。
「なんだ、風の音だったのか」
そう呟《つぶや》いて再び寝ようとすると、不意に隣の部屋でだあっ[#「だあっ」に傍点]となにか倒れる音がし、続いて絹を裂くような人の叫声《さけびごえ》が聞えた。
庄三郎は寝台《ベッド》からとび下りると、扉を蹴放すようにして廊下へ出た。そのとたんに隣の室から二人の人影がとび出して来て、危く庄三郎に突当《つきあた》りそうになった。――庄三郎はいきなり闇の中でその一人を捕えた。柔かい腕、ふっと匂う香料、おやっと思いながら素早く手を伸ばして電灯のスイッチをひねった。
ぱっと点いた電灯に照しだされたのは、守衛の峰田忠平老人、そして庄三郎が捕えたのは少女給仕の貝塚その子[#「その子」に傍点]であった。
「なんだ、峰田君にその[#「その」に傍点]ちゃんじゃないか、どうしたんだ今時分」
「こ、こ、この子が……」
忠平老人は息を喘がせながら、
「私が見廻りに来ますと、この部屋の扉が開いていましたので、覗いてみますと、誰か人が動いているものですから、てっきり賊だと思いまして」
「どうしたんだ、その[#「その」に傍点]ちゃん」
庄三郎は振返《ふりかえ》って、「此処《ここ》には大切な書類が置いてある。時間過ぎに許しもなく入ると、拳銃《ピストル》で射たれても仕方がないんだぜ。君だってそれを知っているだろう」
「――忘れ物をしたんです」
少女は眩《まぶ》しそうに庄三郎を見上げながら、手に持っていた薬壜《くすりびん》を示した。
「お母さまのお薬を忘れたんです」
「そんならちゃんと峰田君にそう云《い》って入らなくちゃいけない。もう十一時じゃないか、こんな時間に女の子が一人で出掛けて来るなんて乱暴すぎるよ」
「でもこのお薬がないと、お母さまは病気が苦しくって眠れないんです」
「そういう訳なら仕方がないさ。これからよく気をつけるんだね、――峰田君、もう宜《い》いよ」
庄三郎はそう云って守衛を去らせ、
「その[#「その」に傍点]ちゃんは此方《こっち》へ来給え、寒いところを帰るのは大変だ、熱い珈琲《コーヒー》を作ってあげるからそれを一杯飲んで行き給え」
「――でも……」
「遠慮することはないよ」
庄三郎はその子[#「その子」に傍点]を伴《つ》れて宿直室へ戻ると、手早く珈琲《コーヒー》沸しをガスにかけながら、
「お母さんの病気はながいのかね」
「ええ、――もう三年も寝たっきりなんです」
「お父さんはどうしているの?」
返辞がないので、振返ってみると少女は椅子《いす》に掛けて悲しそうにうなだれていた。
「お父さんは亡くなったの?」
「――いいえ」
微かに首を振ったままである。答えたくない様子がありありと見えるので、庄三郎はなにか深い事情があるものと思い、直《す》ぐに話を変えてしまった。
「じゃあその[#「その」に傍点]ちゃんが独りで病気のお母さんを看護してあげてるんだね、偉いなあ。その真心だけでも、きっとお母さんの病気は早く治るに違いないよ――さ、珈琲《コーヒー》が出来た」
庄三郎は熱い珈琲《コーヒー》のカップを持って、その子[#「その子」に傍点]に向合《むかいあ》った椅子に掛けた。
貝塚その子[#「その子」に傍点]は十五才である。おかっぱ頭で眼の美しい、少し顎の尖った利巧そうな顔だちであるが、口数のすくない、どこかに暗い感じのする少女であった。この「新東光学研究所」へ給仕として入社してからまだ半年そこそこしかならぬが、青江庄三郎は初めから彼女を可愛がっていて、……こんなに美しいのに、どうしていつも暗い沈んだ顔をしているのか、と常々不審に思っていたのである。その不審がようやく今夜分ったのだ。
「元気を出すんだその[#「その」に傍点]ちゃん」
庄三郎は少女が珈琲《コーヒー》を啜《すす》り終るのを待って、立上《たちあが》りながら云った。「どんなに苦しくてもまけちゃいけない、お母さんを守って確《しっか》りと生きなさい。僕に出来ることなら相談にのってあげるから、困ることがあったら遠慮なくそう云うんだ、分ったね」
「――ええ、有《あり》がとう」
「もう遅いからお帰り、送ってあげたいけど大事な宿直だから駄目だ、気をつけて行くんだよ」
少女は頷いて立上り、薬壜を大切そうに抱えながら出ようとしたが、ふと立止まると振返って、
「……青江さん」
と低い声で口早に云った。
「あの守衛さんに気をつけて下さい――」
そして燕《つばめ》のように素早く扉の外へ立去った。
[#3字下げ]猫眼レンズ[#「猫眼レンズ」は中見出し]
あの守衛に気をつけろ!
貝塚その子[#「その子」に傍点]の言葉は庄三郎を驚かした。気をつけろとはどういう意味なのか。条田忠平老人はもう二年も実直に勤めている、身寄《みより》のない独身者で、酒呑みの癖があるほかには道楽もせず、社員たちの評判もいいし、殊《こと》に研究所長の藤井清一|博士《はかせ》にはひどくお気入《きにいり》であった。
「どうして気をつけろと云うのか」
庄三郎は寝室《ベッド》へあがりながら、
「なにか訳があるのかも知れない。人の好《よ》い老人だという評判をとっていながら、実はそうでない悪者だという例も沢山《たくさん》ある、――とにかく注意しよう」
とひそかに決心した。
そのあくる朝であった。庄三郎が弁当屋の運んで来た朝食をたべ終って、事務室へ入るのと殆《ほとん》ど同時に、藤井清一博士が大股に入って来て、鞄《かばん》や帽子を大|卓子《テーブル》の上へ投出《なげだ》しながら、いきなり庄三郎に向って、
「おい青江君、この社の中に間諜《スパイ》がいるぞ」
と云った。
「……なんですか先生、いきなり」
「此処《ここ》には間諜《スパイ》がいるんだ」
博士はそう繰返《くりかえ》した。
藤井清一博士はまだ五十そこそこであるが、鬢髪《びんぱつ》にはもう白いものが見え、小柄な敏捷そうな体つきにも、ながい研究生活の疲れが窺われる。然《しか》し気力はますます旺《さか》んなもので、この数年間というもの「第十九号特殊レンズ」の研究に殆ど不眠不休の努力を続けているのであった。
「一体どんな事があったのですか」
「――君は」
と博士は椅子を近寄せながら云った。
「いま研究している第十九号特殊レンズが、どんな性能の物か知っているか」
「存じません!」
「本当に知らんか」
「先生のほかには誰も知らないでしょう」
「その筈《はず》だ。儂《わし》のほかには一番近しい助手の君にさえ知らせないで来た。『特殊レンズ十九号』の性能に就《つい》ては、その研究者である藤井清一ただ独りしか知っていない筈なんだ。――ところがこれを見給え」
博士は手鞄《てかばん》の中から、タイプライターで打った一通の紙片を取出《とりだ》して青江に渡した。
「アメリカの科学雑誌『世界新報』に掲載された記事だそうな。今朝ニューヨークにいる友人から無電で知らせてよこしたのだ」
「拝見します」
庄三郎はその英文を読んだ。
[#ここから2字下げ]
日本に於《おい》て猫眼レンズ完成
予《かね》て世界的光学研究者として知られている藤井清一博士は、数年来その研究所に籠《こも》って特殊レンズの完成を急いでいるが、これは夜間撮影に用いられる猫眼レンズであって、なんらの人造光の補助を要せず、日光の下に於けると同様、完全にして且《か》つ精確に映像を撮ることの出来るものてある。これは間もなく完成するであろうが、軍事的効果だけを考えてもその出現は世界の驚異であろう。
[#ここで字下げ終わり]
「これは事実なのですか、先生」
「事実だ――
博士は苛々《いらいら》と肩を揺上《ゆりあ》げた。
「どんな闇夜でも写真の撮れるレンズ、電灯の光がなくても、マグネシウムを焚かなくても、月の光や星の光がなくても、完全に撮影の出来るレンズを儂《わし》は完成したんだ。――
平時ならこれを発表して世界を驚かしてやるのだが、こういう時期のことだし、殊に儂はこのレンズが完成したらすぐ軍当局へ献納する積《つも》りで、君たちにも秘密を守って来たのだ。それが……いつかこの通り国外へ知れている」
「どうしたという訳でしょう」
「まだレンズの構造が盗まれていないだけ幸いだった。これからは人の出入《でいり》をもっと厳重に注意してくれ」
「承知しました。然し誰でしょう一体――」
「誰も彼もない、みんな間諜《スパイ》だと思え。怪しい奴があったら遠慮なくひっ捕えるんだ。いいか、遠慮なくやるんだぞ」
庄三郎は黙って頷いた。
博士がこの社の中に間諜《スパイ》がいると云ったとき、庄三郎は直ぐ昨夜の出来事を思い出したのである。殊にその子[#「その子」に傍点]の云った謎のような言葉を!
――守衛さんに気をつけて下さい。
そうだ。峰田老人にはなにか後暗いところがあるに違いない、そしてその子[#「その子」に傍点]はそれに就て知っているところがあるのだ。――庄三郎は事務室を出て、この研究室の受付へ行ってみた、然しもう九時近いのにその子[#「その子」に傍点]はまだ出社していなかった。
[#3字下げ][#中見出し]その子[#「その子」に傍点]の急報[#中見出し終わり]
「母親の病気でも悪いのかしら」
そう思って、戻ろうとすると、入口の扉の硝子《がらす》越しに、工場の方へ行く門のところで、守衛の峰田老人が浮浪者《ルンペン》のような男と立話をしているのが見えた。――普通ならそのまま見のがすところだったが、注意し始めていた時なので、庄三郎はじっと二階様子を窺っていた。
峰田老人はそんな事とも知らず、浮浪者《ルンペン》のような男と暫《しばら》く話していた後、なにか小さな紙包《かみづつみ》を渡した。男はそれを素早くポケットへ捩込《ねじこ》むと、追われるような足取りで立去った。
庄三郎はすぐ廊下を西のはずれの方へ走って行った。そこには守衛の控室《ひかえしつ》がある。峰田老人はもう夜勤が終ったから帰る筈だ。――庄三郎は控室の脇から外へ出ると、向うからやって来た峰田老人の前へ立塞がって、
「峰田君、いまの男は何者だ」といきなり訊《き》いた。
「は? ――いまの……」
「いま君と話をしていたのは誰だと訊いているのだ。君が渡したあの紙包みの中にはなにが入っていたんだ」
峰田老人は明《あきら》かに狼狽した様子だった。
「な、なに、ちょっとした知合《しりあい》の者です。もと勤めていた会社の、友達です」
「紙包みの中に入っていたのは?」
「――お金です」
老人は低い声で呟くように、「ひどく困っているんだそうで、訪ねて来られたものですから、少しばかりやりましたのです」
「嘘じゃあるまいね!」
「――と、仰有《おっしゃ》いますと、なにか私が」
「いや!」
庄三郎は冷やかに、「実はこの研究所の中の秘密を、外部へ洩らす不届きな奴があるらしいんだ。国賊のような奴がね」
「…………」
老人はぶるっと身震いをした。
「念のために云って置くが、君も充分気をつけた方が宜いよ。そうしないと……」
「違います青江さん、この峰田はそんな悪者ではありません。いまのは本当に私の友達で、お金を貰いに来たんです。私は決してそんな研究所の秘密を探るの洩らすのという大それた事は致しませんよ、どうか誤解しないで下さい」
「君だとは云わない。ただ注意するようにと云ったまでのことだ」
そう云って庄三郎は踵《きびす》を返した。
峰田は嘘を云っている――庄三郎はそう考えた。――昔の友達が金を借りにくるにしてはこんな朝の時間を選ぶのは変だ。もっと人の眼につかない時に来られる筈である。然《しか》も「この研究所の中に国賊のような奴がいる」と云った時、明かに身震いをした。
――よし、見張ってやるぞ!
と庄三郎はひそかに拳を握った。相手の見当がつけば尻尾を押える法はいくらでもある。すでに十九号レンズの注能を探り出したからには、これで止《よ》す筈はない。必ず「レンズ構造」を盗もうとするに違いはないのだ。そこを狙って逆に正体を現わしてやる。むろん、これは峰田老人一人の仕事ではあるまい。うしろから老人を操る大物がいるであろう、それも一緒に捕えなくてはならん!
庄三郎はその手段を色々と考えた。――然しそれより早く、事件は思わぬ方から発展してしまったのである。
その日の午後三時頃であった。庄三郎が研究室で新しいレンズの分光試験をしていると、入口の扉が開いて誰か入って来る気配がした。――振返って見ると給仕のその子[#「その子」に傍点]である。
「その[#「その」に傍点]ちゃんじゃないか」
庄三郎は試験台から離れながら、
「どうしたんだ。お母さんの具合が悪いなら休んで宜いぜ」
「違うんです、青江さん」
その子[#「その子」に傍点]の声は震えていた。「あたし、お知らせに来たんです。大変な事をみつけました。それで早く青江さんに来て頂きたいと思って走って来たんだす」
「――なんだ、大変な事って?」
「一緒に来て下さい。お話は途中でします」
庄三郎は頷くと、宿直室の机から拳銃《ピストル》を取出し、ポケットへ突込んでその子[#「その子」に傍点]と一緒に研究所を出た。
「さあ、大変な事って何だか聞こう」
「青江さん御存じない? 研究所の秘密を外へ洩らしている悪者がいること」
「――少しは知っている」
「あたしは前から感付いていたわ、それで絶えず注意していたんです。今日お休みしたのはその悪者の根城をみつけたからなの」
「君が? 君が独りでみつけたのか?」
庄三郎は驚いて立止った。
「鎌倉|河岸《がし》の空き倉庫です。そして今はその仲間が一人もいないんです。だから早く行って検《しら》べて頂こうと思ったんです」
「そうか、よくやって呉《く》れた。急ごう」
それ以上訊くのもどかし[#「もどかし」に傍点]かった。庄三郎はその子[#「その子」に傍点]を急《せ》きたてながら、丁度《ちょうど》来かかった自動車を呼止《よびと》めて乗った。
[#3字下げ][#中見出し]意外の陥穽《おとしあな》[#中見出し終わり]
車を鎌倉|河岸《がし》で捨てると、その子[#「その子」に傍点]は先に立って河岸《かし》沿いに一丁ほど行き、左手にある古ぼけた煉瓦建《れんがだて》の倉庫の前で立止った。……二階建の相当に大きなものであるが、もう長いこと使わないとみえて、煉瓦が所々崩れ、屋根瓦もめくれている。
「――此方《こっち》から入るのよ」
そう云って、その子[#「その子」に傍点]は横へ廻ると、以前には番人でも出入りしたらしい小さな扉口《とぐち》がある、それを押して中へ入った。
庄三郎は拳銃《ピストル》を右手に握って、闇の中を少女のあとから進んで行く。凡《およ》そ十歩ばかり行くと扉に突当った。
「――この中です」
その子[#「その子」に傍点]が囁《ささや》いた。
「大丈夫、まだ誰も来ていません」
「よし、退《ど》き給え」
庄三郎は燐寸《マッチ》を取出して火を点けながら、静かに部屋の中へ入って行った。刹那! いま入った扉が、
がたんッ
と烈しく閉まり、外からがちり[#「がちり」に傍点]と鍵をかける音がした。
「あっ!」
と云って身を翻《ひるが》えしざま扉へとびついたが、樫《かし》造りの頑丈な扉はもうびくともしなかった。二度、三度、力任せに全身を叩きつけたけれど、防火扉の最も厳重なものなので微塵《みじん》も動かない。
「――その[#「その」に傍点]ちゃん、その[#「その」に傍点]ちゃん」
庄三郎は絶叫した。
「どうしたんだ、その[#「その」に傍点]ちゃん、誰かそこにいるのか、それとも君が閉めたのか、君が僕を――」
返辞はない。扉の向うはもうひっそりとしている。考えるまでもなかった。その子[#「その子」に傍点]が彼を閉籠《とじこ》めたのだ。庄三郎は十五の少女にまんまと陥穽《おとしあな》へ叩込《たたきこ》まれたのだ。
「――残念だ!」
怒りと口惜《くや》しさに身が震えた。
凡《すべ》てが逆だった。怪しいのは峰田老人ではなくて少女貝塚その子[#「その子」に傍点]であった。あの晩、――母親の薬を忘れたと云って無断で事務室へ入って来たのは、「猫眼レンズの構造」を盗むのが目的だったかも知れない。それで自分に疑いをかけられるのを避けるために、態《わざ》と峰田老人を怪しませるようなことを云ったのであろう。
「そうだ! 今までそれに気付かなかったのは馬鹿だった。大馬鹿だった」
庄三郎は歯噛みをしながら、鍵のところを狙って拳銃《ピストル》をぶっ放した。
がん! がん※[#感嘆符二つ、1-8-75] がん※[#感嘆符二つ、1-8-75]
火花が美しく闇を截《き》った。然しその部分は鋼鉄で作られてあるので、拳銃《ピストル》の弾丸ぐらいでは破れそうにもなかった。
「――待てよ」
庄三郎は逆上した気持を鎮めながら、
「この倉庫は河岸《かし》に建っている。横から入って右へ十歩あまり来た。するとこの部屋の外は川になっている筈だ。この壁の一重外は川なんだ……そうか、よし!」
庄三郎は決然と頷き、手探りで煉瓦の壁を撫で始めた。すでに古朽ちて空家《あきや》になっている建物だ。然も煉瓦にはゆるみ[#「ゆるみ」に傍点]が出ている、旨く一つでも取抜くことが出来たら、その一部に穴を開けるのは不可能ではあるまい!
庄三郎は拳銃《ピストル》を逆に持直《もちなお》した。
それから四時間の後である。
出社した峰田老人が、守衛服に着換えて研究室を見廻りに行くと、藤井博士の部屋にまだ電灯がついていた。
――消し忘れたのかと思いながら、扉を開けてみると博士はまだ卓子《テーブル》の前にかけて仕事をしていた。
「おや、失礼を致しました。もうお帰りかと思ったものですから」
「いま何時だ」
「はい七時二十分ほど過ぎました」
「青江が見えないんだ」
博士は不機嫌に云った。「三時頃どこかへ出て行ったそうだが、いまだに帰って来ない。こんな事は曾《かつ》てないのに怪《け》しからぬ奴だ」
「――もうお帰りなさいましては……?」
「儂《わし》か? いや帰らん、青江が戻るまでは此処《ここ》におる、儂《わし》に構わんで宜《よろ》しい」
「はい」
老人は会釈して扉を閉めた。――然しその扉は再び開いて、三人の怪漢がつかつかと押入《おしい》って来た。何《いず》れも汚い身装《みなり》で、覆面をし、手に手に鋭い両刃の短剣を握っていた。
「なんだ、何者だ!」
博士は愕然として、然し科学者の落着《おちつき》だけは失わず、そう云いなから片手の指てそっと呼鈴を押そうとした。
「動くな、その手を引込めろ」
怪漢の一人が喚いた。「でないとこの短剣がおまえさんの胸へ飛んで行くぞ」
博士は手を引いた。
二人の男が進寄《すすみよ》って来て、左右から博士の腕を掴み、恐ろしい力で捩上《ねじあ》げながら椅子の背へ縛りつけた。――仕事は素早く行われた。二人が博士を縛っているあいだに、一人は博士のポケットから鍵束を抜取《ぬきと》り、部屋の隅にある大金庫の扉を開けて、中から「猫眼レンズの構造」を記した密封の書類を奪取《うばいと》った。
[#3字下げ]哀しき身の上[#「哀しき身の上」は中見出し]
その時である、扉がさっと開いて、
「早く、早く」
と叫びながら、少女その子[#「その子」に傍点]が走入《はせい》って来た。三人の怪漢が恟《ぎょっ》として振返ると、その子[#「その子」に傍点]は書類を持っている男の側へ走り寄って、
「いまそこへ警官がやって来ました」
「なに警官?」
「その書類をあたしに下さい、あたしなら疑われずに出られます。早く貴方《あなた》たちはその窓から出て、工場の裏から逃げて下さい」
「――駄目だ」
窓へ走った一人が何をみつけたか大声に、
「此方《こっち》にはもう手が廻っているらしいぞ」
「よし、では横庭へ出ろ」
書類をその子[#「その子」に傍点]に渡して三人は、廊下へ出て横庭へぬける窓の方へ駈けつけた。――そのあいだに、書類を掴んだ少女は受付から外へ、脱兎の如く走りだしたが、いま当《まさ》に門を出ようとする刹那! うしろから追って来た人影が、拳銃《ピストル》をあげて狙い射ちに一発、
だあん!
凄《すさま》じい銃声と共に、
「――あっ」
と云って毬のようにその子[#「その子」に傍点]は顛倒《てんとう》した。
しめた[#「しめた」に傍点]とばかり走《は》せつけた人影は、倒れているその子[#「その子」に傍点]の側へ来ると、書類を取返しながらぐいと少女の腕を掴んだ。その子[#「その子」に傍点]は苦しげに顔をあげたが、
「あ! 青江さん」
「青江だ、庄三郎だよ。驚いたかい?」
少女は呻《うめ》きながら突伏した。庄三郎はそれをぐいと引起すようにして云った。
「弾丸《たま》は脛《すね》をかすったばかりだ。そんなに苦しそうにすることはないよ。最後のどたん場で失敗したな? あの倉庫は壊れかかっていた、煉瓦を抜いて河岸《かし》の方から出て来たのさ。これから僕を檻禁《かんきん》するならもっと丈夫な建物を選ぶんだな」
「青江さん、あなたは……彼処《あすこ》に待っていて下されば、よかったんです」
その子[#「その子」に傍点]はわっと泣きながら云った。
「そうすれば君には都合がよかったろうさ」
「違います。あたしはこの書類を持って彼処《あそこ》へ行くつもりでした。嘘は云いません。それでなければ青江さんは殺されたんです」
「――なんだって?」
「今夜、悪人たちは、あなたを殺して書類を盗むつもりだったんです。だからあたしは青江さんをあんな処へ押籠めました。そして悪い奴をうまく騙《だま》して書類を手に入れ、あなたの処へ持って行く気でいたんです」
「馬鹿な、それを知っているなら面倒なことをせずに、ひとこと僕に話せば警官を呼んで……」
「それは出来ません」
「なぜ出来ない」
「……お父さんが可哀そうです。お父さんを罪人にすることは出来ませんでした」
少女の言葉は庄三郎の胸を刺した。
「お父さんとは、誰だ?」
「守衛の峰田です。あの人が、あたしの九つの年にお母さんとあたしを捨てて行った本当の父なのです」
そこまで云うと、その子[#「その子」に傍点]は張詰《はりつ》めた気がゆるんだものか、がくりと庄三郎の腕のなかへ失神して倒れた。
複雑した事情はここにはっきり[#「はっきり」に傍点]とした。
ずっと前に峰田老人は職務上の過《あやまち》から、僅《わず》かな罪に問われたことを恥じて妻と娘を捨てたまま行衛《ゆくえ》をくらました。それから六年、娘と父は計らずもこの「新東光学」の社で再会したのである。然し峰田は自分の前身が娘の不仕合わせになってはならぬと思い、父娘の名乗《なのり》もせずにいたのだった。――そこへ父の悪い友が現われ、藤井博士の研究を探りだせと強要した。承知しなければ以前の罪を娘に知らせると脅したので、峰田は仕方なくその命にしたがった。
然しその子[#「その子」に傍点]はいつかこの事情を知った。そして父に再び罪を犯させないために、懸命に邪魔をして来たのである。いっかの夜も、薬を忘れたと云いながら、実は父がレンズ構造の書類を盗もうとするのを防いだのだった。
悪人たちは事のはかどらぬのに業をにやし、遂《つい》に峰田を強要して研究所へ押入り、宿直の青江を殺しても書類を盗出《ぬすみだ》そうと計ったのである。――その子[#「その子」に傍点]はこれを知ったので、青江に怪我《けが》をさせまいと思い、空き倉庫の中へ閉籠めておいて、自分は悪人たちを騙し、書類を奪って青江に渡したうえ、父や母と共に満洲へでも新しい生活を求めて去ろうとしたのだ。
然し、庄三郎が早く倉庫を脱出したため、その子[#「その子」に傍点]の計画は無駄になった。彼女は脛にかすり傷を受け、父は悪人たちと共に、庄三郎の呼んで置いた警官に捕えられてしまったのである。
「――先生、事情はこうです」
二三日経ったある朝、庄三郎は博士に向って熱心に云った。
「書類は無事だったのですから、その子[#「その子」に傍点]の哀れな望みをかなえてやって下さい。峰田老人が罪にならずに済むように計《はから》ってやって下さいませんか」
「いいとも、彼が悪人でないことは分っている。これに懲りて再びこんな過はしないだろう。罪にならぬように奔走してあげるよ」
「それからもう一つです。足の傷が治ったらあの少女を元の通り使って頂きたいんです。あの子は役に立ちますよ」
「たしかだね。――君を閉籠めた手際などはみごとなものだよ」
博士はからからと笑った。
「それを云われると辛いです」
「なに、辛そうな顔でもないぞ。――まあ病院へ行って安心させてやり給え。峰田もその子[#「その子」に傍点]も元通り使ってやるからって。……さあ、儂《わし》からだと云ってこれで花を買って行ってくれ」
博士はそう云って、何枚かの紙幣を投出した。
底本:「山本周五郎探偵小説全集 第五巻 スパイ小説」作品社
2008(平成20)年2月15日第1刷発行
底本の親本:「少年少女譚海」
1939(昭和14)年3月
初出:「少年少女譚海」
1939(昭和14)年3月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ