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曠野の落日
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曠野の落日
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)柳川《やながわ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)友|桃川龍朗《ももかわたつお》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ]
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別れて甲州へ離れるとしても、一度は柳川《やながわ》にも逢っておかねばなるまいし、父母とももう少し和解して行きたいと思ったので、東京の伯父の家がすっかり片付いたら、一月ほどでも横浜へ行っていよう、と清田《きよた》は心のうちで決めていた。
秋元清二郎《あきもとせいじろう》や、高木有吉《たかぎゆうきち》などが二日隔くらいずつには訪ねて来ては、なにかといろいろ旅のしたくを手伝ってくれていたが、清田には、いろいろな感情のうえからして、少なからず相手の心をさげすむと同時に、かなり激しい被優越感を感じた。……何をこやつらが俺を自分たちの幸福のためにいいかげん使っておきながら、さてもうすっかり安全となったところで俺を投げ出そうというんじゃないか…心のどこかでムラムラと以上のような言葉が頭をもたげて、今眼の前に自分の書物の片付けをしている二人をほとんどなぐりつけたいくらいに思い出した…。
「清田君、志津子《しずこ》が君に話したいと云っていたようだったがね……」
「そうかい、だけれど僕はもうそんな暇はないんだ。君からでももし用事があるんなら甲州のほうへでも手紙を出すように云ってくれたまえ、……今さら用などあるはずがないがな……」
清田は志津子と名を聞いただけでさえ、むしゃくしゃしてきてならぬので、多少口汚なく云ってのけてから、友人たちに引き遷り通知の手紙に筆を運ばせた……その言葉を聞いた秋元は清田が下を向いて書いているその横顔にちょっと眼をやってから、冷笑的な笑いを唇のあたりへわずかに漂わせて、ふいと傍に顔を外らせた……。
「秋元君も高木君もきょうだけでいいよ、君たちだって役所があるんだからね、僕のためにそういつまで来てもらってもすまないし、君たち自身にとったってあまりいいことではないからね」
清田がその何本目かの手紙を書き終わったときにこう云った言葉が、ガランとした裏二階のこの部屋いっぱいにひびき渡ると、二人とも不意に顔を上げてまじまじと彼の顔を見守るのであった。
「それから、秋元君が、僕の今度の旅立ちに際してわけの分らないこととしてお問《たず》ねだけれど、それは僕が甲州へ帰ってからお手紙で精しくお話しよう。とにかくだね、僕の今の状態なら、もちろん銀行でもってだよ、未来もないではない。いろいろな方面からみると、今の生活は希望に満ち満ちていたんだ。だけれど僕は君たちと別れねばならなくなってきた。僕以外の人なら今の僕の地位にあるとすればけっして無謀な挙には出ないだろう、だけれどだ、だけれど僕はこうして諸君と去って行こうするのだ。……しかし僕は敗北したのじゃーない。……敗北したのじゃーないよ」
清田の語尾はここで切れた。清田は、H町の田内《たうち》から送ってよこした、別離の詩、を手にしながら云った。秋元は手元の本をいじくりながら清田のほうにせまい額を見せて、うつ向きながら聞いている。高木はこれも清田の本を取り上げてでたらめなページを繰りながら聞いていた。
「僕の今までの生活は希望に満ちていた、と今云ったね。……そうだ、たしかにそれに違いなかった。そして僕はそれを満足して享けていたんだ。思えば空虚なものさ。……だけれど僕は妙に悟ったのでもないよ、君たちの考えようはどんなでもよいのだけれど、僕の去ったあとで、また僕が何ごとかをしでかしたときに……もちろんこれはわからぬが……君たちが、アアやはり清田も凡人だった、と強く思われまいためなんだ。僕はけっして聖者生活を欲しはしない。それよりも、僕はごく、凡人に落ちたいくらいなんだからねえ。だがまあいいさ、人間は生きていけるんだ。せめて青春のあいだだけでも、授けられた生を享楽するんだね」
最後の言葉が、清田自身の耳には、敗残者! と強くひびいた。清田はぞうとして何気なく秋元の顔を見た。自分から志津子を奪い取った、秋元の眼は冷たい鋭い眼で清田の胸のあたりを白眼《にら》んでいた。清田はその眼に何でもかでも投げつけてやりたくなってきた。
三人はしばらく重苦しい沈黙に包まれてしまった。銀座に近いこのあたりは、少しの沈黙にも、遠くを行く電車の轟きだの、物売りの声だのが、ひびいてくる。それをば耳にしながら、富士の曠野の粛厳さを思って、たまらなく、好旅の心がわき上がった。暮色蒼然たる曠野の影、尽きざる大地の香り、天然の色濃き原野の幻寂しい空想は落ち着いて眼の底にこびりつくのである。清田は、そのまだ見ぬ大地に対して心の底から歓喜の情を捧げた。
「清田君はもう少しここにいられないのかな。僕にしても秋元にしても、まだ君にいてもらう必要はじゅうぶんあるし、H町の流金の郡に対しても我々は君の現在を欲しているんだ。……だけれど僕たちは、僕たちの虚栄心の、また満足の手段として君を視ることは悪いことだと思う」高木は持ち前の神経質らしいおどおどした眼で、上眼を使ってちょいちょい清田の顔を見ながら云った……しかし清田は心の底で、ふふんと嘲笑したきり何とも云ってやらなかった。
「さようだとも、我々はここで君の前途を祝福している。それが清田君を救ける、ただひとつの我々の誠心なんだからね」
高木に向かってとも清田に向かってともなく秋元は本を見ながら云った。そうして、二人はまたいろいろとそこらを片付け始めるのであった。
秋元は清田より二つ歳下の十六であり、高木は一つ下の十七であった。この二人とも、勤めの身であった。秋元はS省に出ていたし、高木はT省に出ていた。
「大きな偽善者めら、凱歌を上げろ。俺を幸福の手段にして、打ち離して、それでも偽善者めは、凱歌を上げようというのだろう。……しかし俺だって人間だぞ、敗北したままで終わらないということは、きさまらがまだ青春の夢に陶酔しているうちに、俺が見知らせてくれることだ、空虚な青春の声を上げて、凱歌を上げるがよい」
清田は炎えるような声で、自が身に叫んだ。彼の腕には力強い血がうずき廻った。そして、彼の頭は熱にひたされた。うつ向いて本を片付けている二人の男の真上から、心の炎を、これでもかというように吐きかけた。
「これだけですか?」
突然秋元は一山に積み上げた雑誌だの本だのを見ながら云った。そしてふと清田の顔を見た。彼の眼は秋元の見上げた眼とハタと会った、二人の眼は離れなかった。秋元の眼は優越に輝いていた。清田の眼は敗北に衰えていた。……しかし秋元はその清田の眼から激しい怒りを見つけ出すと、急に眼を外らせた。
「もうそれだけでしょう。君たちはもういいから帰ってくれたまえ。僕これから独りですることがあるからね。それから君たち帰りがけに、門野《かどや》君のところと山村《やまむら》君のところへ行って、もしぜひ逢いたいなら、明朝二時間ほどあるから来るように云ってくれたまえ」
清田は二人に向かってこう云った。二人はちょうど片付け終わった身体を起こしながらこれを聞いたが、秋元は清田に云った。
「じゃ、志津子様にも逢うんですね」
そしてその眼はたしかに、弱者をあわれむ光に満ちていた。
「逢いたいと云うのだからね……。それに、もうお互いの永別なんだ、ちょっとだけでも逢っておこうよ」
清田はつとめて笑った。
「ですが清田君、我々にも御出立の時間を教えてくれませんか、ぜひ御送りはするつもりですから……それで、門野や山村や僕や秋元で送別会でもやろうかと思っているのですけれど、それはいかがでしょう」秋元の肩に手をかけながら、高木が云った。高木の眼は清田と差し向かうときいつも、下に落ちた。……そして、それは明らかに罪の責に会っているのに違いなかった。高木のほうが人間らしい、と思った。
「いや会なんて大げさなものは止しにしたほうがよいだろうと思う、いわば敗北の旅立ちなんだからね」
こう云って寂しく笑った清田の顔を、秋元と高木はしげしげと見守った。
「とにかく僕も人間である以上、けっして地に折り敷かれたままではいない。僕はかならず僕がいるだけのことを仕上げて見せるつもりだ。君たちには君たちの仕事がある、僕には僕の仕事がある、お互いに仕事を仕上げていくのだ」
「さようです。僕らは清田君の成功を待っています。そして合わせて僕の罪をもゆるしてほしいと思います」
高木は涙沈んだ声で云い出した。秋元はふいと傍らを向いてしまった。清田は何となく寂寥を感じ始めたと同時に、高木に対する嫌悪の情が、幾分ずつか解けてゆくのを知った。……こんなことでどうする、俺は馬鹿の上にも馬鹿を見るぞ、涙にだまされるな、涙にしてやられたってだめだぞ……心の隅のほうで鋭い声がした。清田は一度思い返して、うつ向いている高木を上からねめ下ろすようにして云った。
「そんなことは君だけ一人で考えているべきことではないだろうか。僕は君をまだ許さない、君だって許してもらって気持のよいこともないだろうと思う。我々の生活は苦しみなんだ。楽しみの後には必ず苦しみがくる。これはかならずしも君の場合を指して云うのじゃないよ、僕にしたって、あるいはまた秋元君にしてだってね。……まだまだ我々は苦しみ足りないんだ、これから大きい人間苦が、心の底から押し寄せてくるだろう。仕でかしたことは後へ戻るものか、突きつめてしまうんだね。僕は伊保子《いほこ》のことについても、また志津子のことについても何も云わない。ただ、僕は君たちの生活がより幸福化されることを祈っているばかりなんだ」
秋元は白々しく顔を外向けたままだった。高木は細い首を見せてうなだれており、ちょっとした重苦しい沈黙が三人のお互いの心に浮かび上がった。
「今日はこれで帰りたまえ……」
清田がこう云うと、秋元はふと気が付いたように高木の肩へ手をかけて、唇端に薄い微笑の波を漂わせながら、云った。
「さあ帰ろう」
それから二人は割合にさっぱりと礼をして出て行った。……出て行きしな、階段を下りようとしたときに、秋元の口から、敗れたる弱者、という語がもれた。二人の帰って行ったガランとした部屋の中に、一人つくねんと座った清田は、秋元のつぶやいたことを繰り返しながら一冊の本を取り上げたが、しばらくして突然本を投げ出すと、仰むけに反りかえって、胸をわくわくさせた。当途もない眼からは、熱した涙がポトポトと落ちた。
明くる日、伯父と清田とでいろいろな一身上のことなどを話しているときに志津子がやって来た。伯父の店の者がそれを知らせてきたのでひとまず、話の終わりを告げて、店から長い廊下を通って裏二階へ行って見た。
狭い上がり口から首だけ出して見ると志津子の後姿がパッとして眼に映った。派手な名仙の着物に紫がかった帯をしめてかっこうよくうつむきかげんに向こうを向いている身体が何かの美術品のようにさえ思われもするのである。清田の上がって来たのを知った志津子は束髪にした顔をつとこちらへ向けて、清田の眼とハタと突き当たると、とたんにニッコリと微笑《ほほえ》んだ。そして多少座を崩すようにして身体をねじ向けながらいつもの聞きなれた声で云った。
「失礼……そして暑くなったのね」
清田はただ軽くうなずいたのみで志津子の差し向かいに座って、小さい机に依りかかった。
「伊保子はいっしょじゃないの?」
「門野さんはもう一時間もするといらっしゃるでしょう。でもずいぶん暑くなったのね。こう座っていてさえこんなですもの」
志津子はそう云ってハンケチで襟をぐっと拭った。細いしなやかな線がするりとハンケチの中に一時かくれたと思うと、薄紅く充血してまた現われた。そしてそのやや広い額にもジッと汗が沁み出ているようだった。
「もう六月だ……」清田がほっとため息しながら云うと、志津子も彼の眼をみつめながらうつ向いた。そして当然くるべき沈黙がそろそろ二人のあいだに翼を拡げてゆく、そのありさまをありあり心に描きながら二人の心はお互いにべつべつにだんだんと遠慮し始めたのであった。
「清田さん、いつお立ちになるの」
志津子が多少おどおどしたような眼をしてちょっと彼の顔を見ながら云った。
「ここ二三日中です。もうこれが我々の会見の終わりになるのでしょう。僕は新しい生命を求めて去って行くのです。伊保子さんも、君も、より幸福に生きてゆかれるのです。少なくともこれからは。しかし僕はけっして敗北の失意ではない。僕としては当然のことなんです。こうなるのがあたりまえだったのですからね。H町派の人々は僕のことをいかように評するか知れません。しかし我々のグループにだけは、自分というもの、過去の存在を認めてもらいたいし、自分の心というものを見抜いていてほしいと思うんです。こうして尾崎《おざき》のようになりまた杉本《すぎもと》のように、かつてあったか? ということさえ忘れられてしまうのはいやなものですからね」
「でもよろしいわ。とれから自由な天地に思うよう新しい生命の呼吸ができるのですもの、私などいつもそう思っていてよ」
など、志津子がたわいのない合槌を打ってくれるのが、かえって今となっては彼の心に反感を呼ぶもととはなれ、けっして愛などという感情を芽ぐませるものではなかった。そして今さら自分がわざわざ呼びよせたりなどした軽挙をくやまずにはいられないのである。もう話をするのも馬鹿げきったものであり、その青春の悩みの充ちた身体を見るのさえがわずらわしいことに思え始めるのであった。
「やはり甲州へいらして?」
「ええ……他にいいところもないですから、それに友も二人ほどおりますから……」
「いいわ……富士の曠へ出られるのね、……日頃あなたの憧憬していらした、広い原の落日をも……」
やるな……彼はいまだ志津子の声の終わらぬうちに心の中でつぶやいた。それは志津子のいつもの溜込みなのであった。……そしてうまく清田の感傷的な心緒を引きずりだしてそこで自分の変態性な虚栄心を満足させるのである。
「ええ曠野の日没いいですね」
清田はごくあっさりと返事して、口をつぐんだ。
ちょっと手持ち無沙汰になった志津子は彼の机の上からつまらぬ少年雑誌を取り上げて見始めた。何の用事があるでもなく呼びよせた主とまた何の気なしに引きずられて来た客とがべつべつな感情で沈黙を守っているのである。そしてその沈黙はそれからそれへと続いて、また続くだけそれだけおたがいの口は重くなり心は焦慮に充たされてき、そしてその沈黙を破ることがこのうえなく怖ろしく思われ出すのであった。二人は無闇におどろいた。そして、清田にしろ、平静の心は失って、心からおどおどしだしたのである。店のほうでは着いた荷を読み上げる声が長い廊下にひびいてはっきり聞こえてくるし、戸外には六月のまひるの太陽が目まぐるしく輝いている。どこか遠くのほうで、鷹揚な時計の音がちょうど十時を打った。
「あら、もう十時ね。……門野さんどうしたのだろう。……もう私来てから三十分にもなるわ」
志津子は独り言のようにまた誰かに云うように、取ってつけたように云い放った。そしてわずかに彼のほうを見て微笑んだ。「向こうへ行ったらもうすっかり君たちとも絶ってしまうからね。云うことがあるなら云っておきたまえ」清田は眼で彼女の笑みを受けながらこう云った。
「そんなこと……どこへいらしてもお便りくらいいいじゃありませんか」
彼女はただ月並みにそう云ったきりペラペラと雑誌のページを繰ってゆくのである。彼は自分の心をしかりつけるように心で叫んだ。……馬鹿め……お人よしめ……とうに自身から去って行ったやつにまで、最後の今でありながら何か云ってもらおうとするのか、己惚れもいいかげんにするがよい、きさまのようなやつに誰がいつまで未練を残すものか、ただきさまをあくまで己惚れのままで別れさしてやろうと思ったのでともかくここまできたんじゃないか、それを、もうついに離れて行ったそれに、まだ己惚れを残すなんて……馬鹿げきった話じゃないか……彼は自分自身に恥じて、頬のカーッと赤くなるのを覚えた。そして何とも云いようのない寂しさを感じた。
しかし一方そうして反感をもつに反してまた一方では、美しい異性一箇に対する愛着が矛盾したありようで胸にもちあがってくるのであり、しかしてまたそのかつては自分の支配したものであり、自分の喜びの対象であった美しいこの志津子を自分から奪い取っていった秋元清次郎がたまらなく憎くなってくるのであった。そのうえ伊保子もかつては彼のものであった。しかしそれも後から現われた高木に奪い去られてしまったのであった。「しかしそれはそうなることだったのだ。今さらどうなるものでもないんだ。一人の愛に溺れて果つるよりも万人の愛に捨てられて、捨てられた心から大きい人類に対する愛をわかしていったほうが、少なくとも自分としては意義あることなんだ……」
彼は黙ったまま心の内で大きく云った。そうして寂しいほとんど悲しい孤独を感じながら一路の淡火を望む闇の人のようなつつましやかな底深い歓喜を身いっぱいに感じたのである。……惜しみなく愛は奪う……そして口の内でこうつぶやいた。
「人間は現在ばかりで生活できるものではありませんよ。……人間には未来の世界があるんです。人間はひとつの愛を守ってひとつの愛のために多くの愛を傷つけることは罪悪です。我々の心の生活は身体の死という変革の後までも実存するものと見ねばなりません。愛は不朽なものなんです。……少なくともこういう考えまた思想は我々に望ましい光を幾分ずつでも与えますからね」
清田が云い終わるまで志津子は黙ってうなだれて聞いていたが、云い終わるとふと顔を上げた、そして云った。
「何だかむずかしくてわからないわ……」
清田はもうそのうえくどくど云いたくもなし、また云ったところで先方が身にしみて聞いてくれた昔の彼女でなくなっているのでそのまま、微かに笑顔をしたまま口をつぐんだ。そして伊保子はまだかなと急に思いついた。
しばらくして店の者が清田に電話だと云うので彼は彼女にちょっとあいさつして、伯父の店にある電話に出てみた。それはH町派のTという男であった。
「いつ御出発ですか。こちらでも送別会をやろうと思ってるんですがね、ぜひ来てくれませんか、SにTも来るはずです。それから伊保子さんが今ここにいるんですが呼びますか」
などと云った。彼は伊保子がH町のTの家へ行ったということを聞くと同時に受話器を耳に当てたままカーッとなった。そして話もしたかったし、別れるについて高木とのあいだのことで少し云いたいこともあったのだが、Tの取り次ぎで何となく気おくれな感じがしたのでいろいろな返事をあいまいにして電話を切ってしまった。
「伊保子は来ないでしょうよ。……Tの家にいるというから……」
裏二階へ帰ってからすぐ静かに云うと、彼女もいろいろともたもたしてからそれじゃまた別れのときに逢うとか何とか云って帰って行った。
静かに一室の空気を独占してしまった清田はしげしげと部屋を今さらに見まわしながらユダに売られたクリストのような感激に満ちた情緒を味わうことができたのである。
手回りの荷物を先に横浜の実家に送っておいたので、その日の持ち物は少しばかりの本と雑誌だけであった。H町のグループだの、橋本だの秋元、高木だの、送別会を順々に断わってしまったある快感が胸にうずを巻いた。
新橋駅に着いたのは午前八時で彼が三等待合室に入ろうとしたとき、向こうから高木が紺絣の着物を着て走って来た。
「待っていたんです」
「よほどですか」
「いいや十五分ほど、八時半頃のはずですからゆっくりしていていいと思っていたんです」
「いやいろいろ都合もあってね。まあとにかく待合室へ入ろう」
短い会話の後に二人は前後して広いガランとした待合室の内へ入って行った。
板を幾枚も幾枚も寄せて作った椅子に二人並んで腰を下ろすと、しばらく両方とも言葉に困って沈黙をまもっていたが、やがてのことに高木が、例のおどおどしたような声でそろそろと云い出した。
「昨日伊保子と逢いました。伊保子はあなたに過日はすまなかったと云っていたようです。何でもあの日行かなかったのですね」
「うん、でも来ても来なくても同じさ。要するに千変一律な文句を並べるにすぎないからね」
清田はそう答えてから、ふと自分の周囲をみまわして、……まああれほど多人数のグループのほとんど中心点にまであった自分の永遠の旅立ちに、ただ一人の見送り人ということが、たまらなくおかしいものであり、またたまらなく寂しいねたましいものであるように思われてきた。
「とにかく君たちはかならず僕は偉いやつになってみせるということを承知していてもらいたいんだ。僕は無駄なことをして肉体を終わりたくないんだからね。君だって君だ、えらくなりたまえ、えらくなりたまえ」
清田のこう云うのを聞くと等しく高木は低く頭をたれてじっと何かを思うように沈黙に落ちていった。その弱々しいある方面から見ると寂寥そのもののようにも見える高木の身体を斜に上から見下ろしながら彼は心のうちで……さようなら……さようなら……と繰り返してみた。そしてそれと同時にまた、東京という大きい土地に向かって、またその上に生存してある大きい民衆というものに向かっても同じくさようならを云ったりした。
「無限から無限へ……」
突然高木はうめくように云うかと思うと、突然また清田の手を握りしめた。そして熱のこもった炎《も》えるような眼で清田を見据えながら勢いこんで云いつづけた。
「我々の生活はつまらぬものだ。恋が何だ夢が何だ、肉の歓楽に酔って死んでゆくただそれだけのものじゃないか。ねー君、君から僕は伊保子を奪った、ある意味からいけば僕は勝利者なんだ……世間のありふれたやつらのいうところはそこだけなんだ。しかし君の思想は大きい。僕は君の思想に征服された。僕はかえって敗残の徒となってしまったのだ。無限から無限へ……僕はこの文句を感じた。もはや許してくれとも云わない。ただ僕の信じたままを行なってゆくだけだ。僕も新しい生涯に入るのだ。ああ何という嬉しさだろう。……僕はこうして救われねばならない」
清田はちょっとどぎまぎした。ははあ感違いをやったな、と思った。がしかし高木の感違いは清田にとって都合のよいことであった。清田は何かしら擽られるような気持になりながら、それでもつとめて平然たるようすで云った。
「僕は何とも答えない、ただ云っておく、君は君の歩む道を踏み違えないようにと」
高木は握った手をだらりと解くと、ついと立ち上がってその辺を歩きまわった。
八時何分かの下関行の列車が新橋駅のプラットホームを滑り出したときに二つの割合に正しい魂は二つに裂かれておのおのの分を守り始めたのであった。
薄曇りの空からは利久鼠《りきゅうねずみ》の雨が、止めどもなく音も立てずに降っていた。
今が真盛りの若葉は若緑をいやまして踊らして勇み勇んで雨にぬれている。そしてときどきその山の衣のような若緑の中から名も知れぬ小鳥が飛び立っては何かしら私言してまた別の緑の中へかくれてゆく。人体の成熟したのを思わせるような芽の香りが、かすかに吹く風につれて強烈に鼻についてきた。北からくる小山の脈と南に立つ小山とのあいだに自然に造られた谷と、東西を断岩に迫られた谷とで三つの深い谿谷を造るとのあたりは、じっと黙して木の幹によっていると、何かしら神秘な自然の私言とも聞かれるようであった。正門の古い門から入って蓮の揃った池の中ほどを越して行くとちょうど、この三つの谷のうち第一の谷に出るのである。第一の谷から第二の谷に第三の谷に渡る広い三谿園は、横浜のただひとつの大きい遊園地であった。
第二の谷と第一の谷とのあいだを隔てる小山の上には小さい舎があってそこからは雲表の富岳の噴煙の大島も、かすめる横須賀も、一望指呼のうちに納まるのであった。見下ろせば数十丈の奇岩絶壁、静かによする波の音だけがサーッサーッと聞こえてくる。そして青い波の衰えを、小さな舟が捨てられたように釣りする人をのせて漂っている。何の音もなく何の声もない。しかしその偉大な沈黙の下には、地の雄叫びが狂い狂っているのである。世紀世紀によって、無益な地上を呪う地下の真理は人間どもの無駄な議論に倦き地を保つべき無駄な焦慮にあきれはてていた。地の真理はこの地上にあるただひとつの真理を突如としていつかしらどこかの地上にあらわすのであろうか、清田清吉はその日、その友|桃川龍朗《ももかわたつお》とともに横浜市街を歩いていった。
「甲州へ行くんならすこしのあいだ逢えないな……」
「うん、でもいいさ。もうおたがいに心のすべてを知り尽くしちゃったんだからね……ただ僕としちゃ君としみじみ旅に出たかったことが今でも残りおしいんだ。……どこか温泉の湯にひたりながら思うさま話したかったのだけれど、もう終わりだろう」
「いやそう思うにゃあまり今まで親しすぎた、我々の生活はこれからなんだからね、我々おたがいの親交もこれからなんだと思うね」
「駄目なことさ、そのうちにおたがいが倦きてくるだろう、そしてどちらか先にそれを打ち出すほうが敗残者になっちまうんだ。僕自身もなりたくはないし、また君をそれにするにもしのびないからね。僕は末子《すえこ》様についてももう少し君と交わっていたいのだが、それは君もゆるすまいし、僕としたところでいつまで連々として憧着していることもできないからね。……僕は実際今までうわついた生活に満足していたものだ。しかし僕はもう自分の恋にばかり密着していくことはできなくなったんだ。とにかく自分であることだけが僕に残ったんだからな。それに志津子を失った当時、君からのいろいろのなぐさめや嘖りを今しみじみと思ってみるのだ。人間は自分を完成せしむるために恋を求むる、ある本で見たことがあるけれど真理だね。しかし僕はそうなる資格がない。君の妹を恋することによって君を離したくないということと、もうひとつ君の妹を恋することによって他の人ことに女性から遠ざかろうとしたのだ。そのことはとにかくや、満足にたるだけのことはある。だから真の恋愛的方向からいったら僕のは恋愛と云えるものじゃないのだ。だから、君と末子様と今溺れようとしている、どちらか一人でなければ救われない、そういうときがあるとしたら僕はかならず君に手を出すだろう。……僕は末子を恋すると何度君に手紙を出したかわからない。……それは真実恋の悩みのために出た文句というよりも、恋そうという心とそのことに関する観念を強めるための手段にすぎないものなんだ。……僕は以上のようなことをしたについて君に謝さなければならないかも知れない。だけれど謝すということは二人を永遠に引き離してしまうように思えてならないんだからね。……そうはできないのだ」
「…………」
「僕はこの挙をもって新しい生涯に入るつもりだ。それに僕はこの頃常に土に呼ばれているように思われるのでね。……何とも知れず地が親のようにも兄弟のようにも、そしてまた恋人のようにも思えるのだ。ときどき僕は大地というものに勇気づけられる。そうしてもし僕がどうにもしようのないときがくると、すぐ地が喜んで僕を迎えてくれることをも感ずるのだ。……とにかく僕は力を感じ始めたのだ。何でもやってのけるだけのことができそうなんだ。死の席も用意されてある。……そして僕は大地よ大地よと呼びかけることさえあるのだからね……」
「とにかく君に新しい新生が芽ぐまれるとしたならば僕としてこれ以上の喜びはないからね。だけれど僕は君と別れることをあまり好まないのだ。もちろん君の自由を束縛する権利もないが、しかしただ普通有り触れた友人のままで別れることは嫌な気がするね。……君が今云った末子のことに関する言葉は僕自身にとってやや意外なことであった。僕はある一面から見て君が負け惜しみを云っているとも、また大きい自覚に迫られているとも思えるのだ。だがいい、そんなことはどっちだってよいのだ。末子は女であり君は男であるのだ。君が男として女を恋す恋さないというだけの自由がある代わり末子にも女として他の男を恋す恋さないと云い得るだけの自由はあるんだからね。……僕は事実、末子と君とに恋の成立しなかったことを歓ぶのだ。これによって君と末子とのあいだに未来において大きい悲劇が醸されるかも知れないけれど、しかしそれはもしその悲劇ができたとしてもしかたのないことであるだろう。……今のところ君は末子を、自分の心を統一するための手段と見ていてもよいだろうし、または普通自分の肉欲の満足をみたしてくれる対象と見ていてもよいだろう、しかしそんなことは僕または君の大きい生活上には何の影響も及ぼさないことじゃないだろうか、僕はそう思う。とにかく我々は男として、また桃川であり清田であることだけでも働いていかねばならないからね。またそれが我々の生命に対する絶頂の使命だと思う……」
「…………」
二人はいつか横浜公園を抜けて大きい棧橋を左手に見る、海岸通りへ出ていた。風が少し強いので中くらいの浪がいい影を作ってはボチャボチャと岸の石崖にあたっている。石崖のすぐ上に立ってその真下の水を見ると、浪にゆらゆらゆれながら、底の石や砂や貝などが薄青くぼかされて見える。しかもときどきその上をひらっひらっと小さい魚が泳いで過ぎた。
港には三艘ほど大きい海外航路らしい船が入っているきり、いたって淋しい静かなものであった。税関の大きい建物の青ペンキへ、雨をふくんだ曇日の日光が帳の奥からでもくるようにぼっと照って、それでもいくらか夏らしい勇気をそのうす鋭い光のうちにほのめかしている。棧橋の先のほうには大きい船が横付けになっていて、荷上げも済んだのか人声もせずにじっと眠っているようだった。
「多くを考える必要はないのだ。ただ我々は刹那を引とらえてそれを永遠に生かしていけばよいのである。しかしその刹那は我々の手に捕まることはないのだからね」
桃川は沖のほうを見ながらこう云ってほっとため息をした。
「まあ自身の身体を草の真中に投げ出して、その名もない草の葉が、秋風にさやさやとささやくのを見てみたまえ、生命の寂寥はそこに満ち、死の暗黒と、生くる光明とはその微細な葉の先で必死になって争闘しているじゃないか、すべての生物はかならず滅する……しかし、枯地になった草原に座して、木枯に吹き荒ばれる草の枯れた葉先の風にそよぐさまを見てみたまえ、少なくとも僕は、霊は不朽だ、霊波は滅せずと、怒鳴るに違いない。寂寥の中から光明は産まれ絶望の底から、光は輝き出でるのだ。すでにキリストは曰っている……善人は天国に昇るを得ず悪は天国に昇るを得るなり……と、我々の心の反面はこの一言によってどれだけなぐさめられ、またどれだけ勇気づけられ、またどれだけ感謝の念慮を起こさせてくれるだろう、悪に悩むもの、自分に悩む者、それはもう善良である者のそれでありいわゆる善良なるの徒はけだし救い難い異端であることと同様に、暗黒は光明そのものであり、絶望は曙光そのものでなければならない。……肉体生活の暗黒は霊的生活にうつってからの暁光の下造りであるだろう。……僕は少しも恋人をほしがりはせぬ。また死を怖れもせぬ、僕のただ怖れるのは満足という二字にすぎない、満足という二つの文字が、僕の思想をどう変えてゆくかと思うときに、僕は自分で自分があやぶまれてならないのだ」
こう云い終わってから彼は何だか自分を嘲りたいような気分に迫られるのだった。大きいことばかり云いやがって何だ、何もできないくせにしていて……そして桃川も自分のことをそう思っているだろうと考えると、何となく向かい合っているのさえが恥ずかしいようにも思われてきた。
ボーボー例の汽笛を吹きならして蒸気船が白い浪を蹴立てて静かに走って行く、鴎が一羽取り残された者のようにひらひらと巧妙に空を縫って飛ぶ、上に飛び上がるごとに腹部にまとめた足が赤く可愛く見える。何となくすぐ呼びかけてやりたいような心情にもなってくる。秋寂を思う落ち着いた気分と自己反省の苦しい羞恥とが交々胸を締めてきた。
「しかしやがて我々も死んでゆくのだろう、それはわかっている、だけど僕はどうして死にたくないのだ、苦しいこともがまんしていてよいと思う」
最後に二人が鶴屋という大きい呉服店のあるほうへ曲がるとき、桃川はこう云った。清田は何とも答えることができなかった、そうして自分の前途のことをいろいろ考えてみるのだった。
二の谷から三の谷に渡るあいだにある古い山頂には、小綺麗な池舎があった。
池舎からはいろいろな名勝が見えた。その池合を通り越すと、細い幅二尺の小路がうねうねとうねって、暗い木陰を貫いてその谷へ落ちてゆくのであった。薄暗い木下闇のあいだに佇んでじっと黙していると、怖ろしいほど強い大地というものが、ひしひしと、身に沁みこむのである。雑草の一葉一葉新芽の栗の葉先、そこには偉大な自然が溌刺として躍っている。生命の曙光はそのあいだから溢れ出で、世上にゆくのではないかなどとも考えられる。木の下から木の下、葉影から葉影、枝から枝、うねりつつゆく路がやがて途絶えたかと思うと、果たしてその路は急激に坂を作って三の谷の山頂へ向かってうねってゆく、木は絶え枝は絶えてただ芝生の上には小松の二三が離々と散在するばかり、早い夏虫の一匹二匹が断続して静かなる天地に楽を泰している。
折から若い青葉をそよがせて初なつの雨は、淑やかに降り出す、と同時にたちまち遠望は途絶えて、ちょうど三の谷に歩きかかってきた清田の背にしとしとと影を残す。三の谷の山頂に出た彼は思いももうけぬ天地の静寂を感じながら久しぶりで落ち着いたままじっと松の木の切株に腰をおろした。
「真実に自分であることだけが残ったのだ。ただそれだけだ。自分はこれからまた築き上げてゆかねばならない、自分の心と生活とを。力強く生きよう、底深く生きよう、大地に抱かれた自分として何者にも勝ってゆこう、……自分であることだ、そうしてまだ未来がある自分であることだ、真理の創造をやってゆこう、真理の疾駆にまかせて身をはこばせたことは昔だ、とれからの自分は真理を創造し、運命を疾駆していかなければならぬ、友もいらない恋人もいらない、大きい地上というものを目的として、心から大きい生活に入っていかなければならない……」
彼はこう心のうちで自分自身にささやいてから、大きく両手を振ってみた。肉体の節々には青春の血の満ち渡っているのがわかる。何者かに思いきり延びようとする心は、覆いものをはねのけた後のような気持のよく清々しい、頭の中もはっきりしきって、多少熱した頬へ傘をささぬので降りかかる雨が、他なくよい気持にとれた。
永遠に歴史を語る地雷の断崖よ、
千歳よりの神秘を物語る浪声よ、前代不変の天涯よ、しかしてそのあいだにうごめく微弱な生命よ、微弱なる生命は微弱なる熱情をもって叫び、悠久なる大自然は勇然たる冷たき熱情をもって永遠に黙視を交す。……何という大きい光影であるだろう、松の株の下に樫の林の下に杉の森に、冷眼なる自然が悩ましくも沈視しているのである、ああまた何という悠大な光影であるだろう。
「起つのだ……起つのだ、力強く起つのだ。しかしてこの大地上に一箇の真理として自分を生かしていとう、暁光……暁光……」
清田は心の一角に力強い光を輝かせながら、一歩一歩楽しく一歩一歩強くそしてまた一歩は一歩の希望に満ち満ちて三の谷を越して山を下った。
[#地から1字上げ](未完)
底本:「現代小説集」実業之日本社
1978(昭和53)年9月25日 初版発行
底本の親本:「創作」同人誌
初出:「創作」同人誌
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)柳川《やながわ》
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(例)友|桃川龍朗《ももかわたつお》
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(例)[#地から1字上げ]
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別れて甲州へ離れるとしても、一度は柳川《やながわ》にも逢っておかねばなるまいし、父母とももう少し和解して行きたいと思ったので、東京の伯父の家がすっかり片付いたら、一月ほどでも横浜へ行っていよう、と清田《きよた》は心のうちで決めていた。
秋元清二郎《あきもとせいじろう》や、高木有吉《たかぎゆうきち》などが二日隔くらいずつには訪ねて来ては、なにかといろいろ旅のしたくを手伝ってくれていたが、清田には、いろいろな感情のうえからして、少なからず相手の心をさげすむと同時に、かなり激しい被優越感を感じた。……何をこやつらが俺を自分たちの幸福のためにいいかげん使っておきながら、さてもうすっかり安全となったところで俺を投げ出そうというんじゃないか…心のどこかでムラムラと以上のような言葉が頭をもたげて、今眼の前に自分の書物の片付けをしている二人をほとんどなぐりつけたいくらいに思い出した…。
「清田君、志津子《しずこ》が君に話したいと云っていたようだったがね……」
「そうかい、だけれど僕はもうそんな暇はないんだ。君からでももし用事があるんなら甲州のほうへでも手紙を出すように云ってくれたまえ、……今さら用などあるはずがないがな……」
清田は志津子と名を聞いただけでさえ、むしゃくしゃしてきてならぬので、多少口汚なく云ってのけてから、友人たちに引き遷り通知の手紙に筆を運ばせた……その言葉を聞いた秋元は清田が下を向いて書いているその横顔にちょっと眼をやってから、冷笑的な笑いを唇のあたりへわずかに漂わせて、ふいと傍に顔を外らせた……。
「秋元君も高木君もきょうだけでいいよ、君たちだって役所があるんだからね、僕のためにそういつまで来てもらってもすまないし、君たち自身にとったってあまりいいことではないからね」
清田がその何本目かの手紙を書き終わったときにこう云った言葉が、ガランとした裏二階のこの部屋いっぱいにひびき渡ると、二人とも不意に顔を上げてまじまじと彼の顔を見守るのであった。
「それから、秋元君が、僕の今度の旅立ちに際してわけの分らないこととしてお問《たず》ねだけれど、それは僕が甲州へ帰ってからお手紙で精しくお話しよう。とにかくだね、僕の今の状態なら、もちろん銀行でもってだよ、未来もないではない。いろいろな方面からみると、今の生活は希望に満ち満ちていたんだ。だけれど僕は君たちと別れねばならなくなってきた。僕以外の人なら今の僕の地位にあるとすればけっして無謀な挙には出ないだろう、だけれどだ、だけれど僕はこうして諸君と去って行こうするのだ。……しかし僕は敗北したのじゃーない。……敗北したのじゃーないよ」
清田の語尾はここで切れた。清田は、H町の田内《たうち》から送ってよこした、別離の詩、を手にしながら云った。秋元は手元の本をいじくりながら清田のほうにせまい額を見せて、うつ向きながら聞いている。高木はこれも清田の本を取り上げてでたらめなページを繰りながら聞いていた。
「僕の今までの生活は希望に満ちていた、と今云ったね。……そうだ、たしかにそれに違いなかった。そして僕はそれを満足して享けていたんだ。思えば空虚なものさ。……だけれど僕は妙に悟ったのでもないよ、君たちの考えようはどんなでもよいのだけれど、僕の去ったあとで、また僕が何ごとかをしでかしたときに……もちろんこれはわからぬが……君たちが、アアやはり清田も凡人だった、と強く思われまいためなんだ。僕はけっして聖者生活を欲しはしない。それよりも、僕はごく、凡人に落ちたいくらいなんだからねえ。だがまあいいさ、人間は生きていけるんだ。せめて青春のあいだだけでも、授けられた生を享楽するんだね」
最後の言葉が、清田自身の耳には、敗残者! と強くひびいた。清田はぞうとして何気なく秋元の顔を見た。自分から志津子を奪い取った、秋元の眼は冷たい鋭い眼で清田の胸のあたりを白眼《にら》んでいた。清田はその眼に何でもかでも投げつけてやりたくなってきた。
三人はしばらく重苦しい沈黙に包まれてしまった。銀座に近いこのあたりは、少しの沈黙にも、遠くを行く電車の轟きだの、物売りの声だのが、ひびいてくる。それをば耳にしながら、富士の曠野の粛厳さを思って、たまらなく、好旅の心がわき上がった。暮色蒼然たる曠野の影、尽きざる大地の香り、天然の色濃き原野の幻寂しい空想は落ち着いて眼の底にこびりつくのである。清田は、そのまだ見ぬ大地に対して心の底から歓喜の情を捧げた。
「清田君はもう少しここにいられないのかな。僕にしても秋元にしても、まだ君にいてもらう必要はじゅうぶんあるし、H町の流金の郡に対しても我々は君の現在を欲しているんだ。……だけれど僕たちは、僕たちの虚栄心の、また満足の手段として君を視ることは悪いことだと思う」高木は持ち前の神経質らしいおどおどした眼で、上眼を使ってちょいちょい清田の顔を見ながら云った……しかし清田は心の底で、ふふんと嘲笑したきり何とも云ってやらなかった。
「さようだとも、我々はここで君の前途を祝福している。それが清田君を救ける、ただひとつの我々の誠心なんだからね」
高木に向かってとも清田に向かってともなく秋元は本を見ながら云った。そうして、二人はまたいろいろとそこらを片付け始めるのであった。
秋元は清田より二つ歳下の十六であり、高木は一つ下の十七であった。この二人とも、勤めの身であった。秋元はS省に出ていたし、高木はT省に出ていた。
「大きな偽善者めら、凱歌を上げろ。俺を幸福の手段にして、打ち離して、それでも偽善者めは、凱歌を上げようというのだろう。……しかし俺だって人間だぞ、敗北したままで終わらないということは、きさまらがまだ青春の夢に陶酔しているうちに、俺が見知らせてくれることだ、空虚な青春の声を上げて、凱歌を上げるがよい」
清田は炎えるような声で、自が身に叫んだ。彼の腕には力強い血がうずき廻った。そして、彼の頭は熱にひたされた。うつ向いて本を片付けている二人の男の真上から、心の炎を、これでもかというように吐きかけた。
「これだけですか?」
突然秋元は一山に積み上げた雑誌だの本だのを見ながら云った。そしてふと清田の顔を見た。彼の眼は秋元の見上げた眼とハタと会った、二人の眼は離れなかった。秋元の眼は優越に輝いていた。清田の眼は敗北に衰えていた。……しかし秋元はその清田の眼から激しい怒りを見つけ出すと、急に眼を外らせた。
「もうそれだけでしょう。君たちはもういいから帰ってくれたまえ。僕これから独りですることがあるからね。それから君たち帰りがけに、門野《かどや》君のところと山村《やまむら》君のところへ行って、もしぜひ逢いたいなら、明朝二時間ほどあるから来るように云ってくれたまえ」
清田は二人に向かってこう云った。二人はちょうど片付け終わった身体を起こしながらこれを聞いたが、秋元は清田に云った。
「じゃ、志津子様にも逢うんですね」
そしてその眼はたしかに、弱者をあわれむ光に満ちていた。
「逢いたいと云うのだからね……。それに、もうお互いの永別なんだ、ちょっとだけでも逢っておこうよ」
清田はつとめて笑った。
「ですが清田君、我々にも御出立の時間を教えてくれませんか、ぜひ御送りはするつもりですから……それで、門野や山村や僕や秋元で送別会でもやろうかと思っているのですけれど、それはいかがでしょう」秋元の肩に手をかけながら、高木が云った。高木の眼は清田と差し向かうときいつも、下に落ちた。……そして、それは明らかに罪の責に会っているのに違いなかった。高木のほうが人間らしい、と思った。
「いや会なんて大げさなものは止しにしたほうがよいだろうと思う、いわば敗北の旅立ちなんだからね」
こう云って寂しく笑った清田の顔を、秋元と高木はしげしげと見守った。
「とにかく僕も人間である以上、けっして地に折り敷かれたままではいない。僕はかならず僕がいるだけのことを仕上げて見せるつもりだ。君たちには君たちの仕事がある、僕には僕の仕事がある、お互いに仕事を仕上げていくのだ」
「さようです。僕らは清田君の成功を待っています。そして合わせて僕の罪をもゆるしてほしいと思います」
高木は涙沈んだ声で云い出した。秋元はふいと傍らを向いてしまった。清田は何となく寂寥を感じ始めたと同時に、高木に対する嫌悪の情が、幾分ずつか解けてゆくのを知った。……こんなことでどうする、俺は馬鹿の上にも馬鹿を見るぞ、涙にだまされるな、涙にしてやられたってだめだぞ……心の隅のほうで鋭い声がした。清田は一度思い返して、うつ向いている高木を上からねめ下ろすようにして云った。
「そんなことは君だけ一人で考えているべきことではないだろうか。僕は君をまだ許さない、君だって許してもらって気持のよいこともないだろうと思う。我々の生活は苦しみなんだ。楽しみの後には必ず苦しみがくる。これはかならずしも君の場合を指して云うのじゃないよ、僕にしたって、あるいはまた秋元君にしてだってね。……まだまだ我々は苦しみ足りないんだ、これから大きい人間苦が、心の底から押し寄せてくるだろう。仕でかしたことは後へ戻るものか、突きつめてしまうんだね。僕は伊保子《いほこ》のことについても、また志津子のことについても何も云わない。ただ、僕は君たちの生活がより幸福化されることを祈っているばかりなんだ」
秋元は白々しく顔を外向けたままだった。高木は細い首を見せてうなだれており、ちょっとした重苦しい沈黙が三人のお互いの心に浮かび上がった。
「今日はこれで帰りたまえ……」
清田がこう云うと、秋元はふと気が付いたように高木の肩へ手をかけて、唇端に薄い微笑の波を漂わせながら、云った。
「さあ帰ろう」
それから二人は割合にさっぱりと礼をして出て行った。……出て行きしな、階段を下りようとしたときに、秋元の口から、敗れたる弱者、という語がもれた。二人の帰って行ったガランとした部屋の中に、一人つくねんと座った清田は、秋元のつぶやいたことを繰り返しながら一冊の本を取り上げたが、しばらくして突然本を投げ出すと、仰むけに反りかえって、胸をわくわくさせた。当途もない眼からは、熱した涙がポトポトと落ちた。
明くる日、伯父と清田とでいろいろな一身上のことなどを話しているときに志津子がやって来た。伯父の店の者がそれを知らせてきたのでひとまず、話の終わりを告げて、店から長い廊下を通って裏二階へ行って見た。
狭い上がり口から首だけ出して見ると志津子の後姿がパッとして眼に映った。派手な名仙の着物に紫がかった帯をしめてかっこうよくうつむきかげんに向こうを向いている身体が何かの美術品のようにさえ思われもするのである。清田の上がって来たのを知った志津子は束髪にした顔をつとこちらへ向けて、清田の眼とハタと突き当たると、とたんにニッコリと微笑《ほほえ》んだ。そして多少座を崩すようにして身体をねじ向けながらいつもの聞きなれた声で云った。
「失礼……そして暑くなったのね」
清田はただ軽くうなずいたのみで志津子の差し向かいに座って、小さい机に依りかかった。
「伊保子はいっしょじゃないの?」
「門野さんはもう一時間もするといらっしゃるでしょう。でもずいぶん暑くなったのね。こう座っていてさえこんなですもの」
志津子はそう云ってハンケチで襟をぐっと拭った。細いしなやかな線がするりとハンケチの中に一時かくれたと思うと、薄紅く充血してまた現われた。そしてそのやや広い額にもジッと汗が沁み出ているようだった。
「もう六月だ……」清田がほっとため息しながら云うと、志津子も彼の眼をみつめながらうつ向いた。そして当然くるべき沈黙がそろそろ二人のあいだに翼を拡げてゆく、そのありさまをありあり心に描きながら二人の心はお互いにべつべつにだんだんと遠慮し始めたのであった。
「清田さん、いつお立ちになるの」
志津子が多少おどおどしたような眼をしてちょっと彼の顔を見ながら云った。
「ここ二三日中です。もうこれが我々の会見の終わりになるのでしょう。僕は新しい生命を求めて去って行くのです。伊保子さんも、君も、より幸福に生きてゆかれるのです。少なくともこれからは。しかし僕はけっして敗北の失意ではない。僕としては当然のことなんです。こうなるのがあたりまえだったのですからね。H町派の人々は僕のことをいかように評するか知れません。しかし我々のグループにだけは、自分というもの、過去の存在を認めてもらいたいし、自分の心というものを見抜いていてほしいと思うんです。こうして尾崎《おざき》のようになりまた杉本《すぎもと》のように、かつてあったか? ということさえ忘れられてしまうのはいやなものですからね」
「でもよろしいわ。とれから自由な天地に思うよう新しい生命の呼吸ができるのですもの、私などいつもそう思っていてよ」
など、志津子がたわいのない合槌を打ってくれるのが、かえって今となっては彼の心に反感を呼ぶもととはなれ、けっして愛などという感情を芽ぐませるものではなかった。そして今さら自分がわざわざ呼びよせたりなどした軽挙をくやまずにはいられないのである。もう話をするのも馬鹿げきったものであり、その青春の悩みの充ちた身体を見るのさえがわずらわしいことに思え始めるのであった。
「やはり甲州へいらして?」
「ええ……他にいいところもないですから、それに友も二人ほどおりますから……」
「いいわ……富士の曠へ出られるのね、……日頃あなたの憧憬していらした、広い原の落日をも……」
やるな……彼はいまだ志津子の声の終わらぬうちに心の中でつぶやいた。それは志津子のいつもの溜込みなのであった。……そしてうまく清田の感傷的な心緒を引きずりだしてそこで自分の変態性な虚栄心を満足させるのである。
「ええ曠野の日没いいですね」
清田はごくあっさりと返事して、口をつぐんだ。
ちょっと手持ち無沙汰になった志津子は彼の机の上からつまらぬ少年雑誌を取り上げて見始めた。何の用事があるでもなく呼びよせた主とまた何の気なしに引きずられて来た客とがべつべつな感情で沈黙を守っているのである。そしてその沈黙はそれからそれへと続いて、また続くだけそれだけおたがいの口は重くなり心は焦慮に充たされてき、そしてその沈黙を破ることがこのうえなく怖ろしく思われ出すのであった。二人は無闇におどろいた。そして、清田にしろ、平静の心は失って、心からおどおどしだしたのである。店のほうでは着いた荷を読み上げる声が長い廊下にひびいてはっきり聞こえてくるし、戸外には六月のまひるの太陽が目まぐるしく輝いている。どこか遠くのほうで、鷹揚な時計の音がちょうど十時を打った。
「あら、もう十時ね。……門野さんどうしたのだろう。……もう私来てから三十分にもなるわ」
志津子は独り言のようにまた誰かに云うように、取ってつけたように云い放った。そしてわずかに彼のほうを見て微笑んだ。「向こうへ行ったらもうすっかり君たちとも絶ってしまうからね。云うことがあるなら云っておきたまえ」清田は眼で彼女の笑みを受けながらこう云った。
「そんなこと……どこへいらしてもお便りくらいいいじゃありませんか」
彼女はただ月並みにそう云ったきりペラペラと雑誌のページを繰ってゆくのである。彼は自分の心をしかりつけるように心で叫んだ。……馬鹿め……お人よしめ……とうに自身から去って行ったやつにまで、最後の今でありながら何か云ってもらおうとするのか、己惚れもいいかげんにするがよい、きさまのようなやつに誰がいつまで未練を残すものか、ただきさまをあくまで己惚れのままで別れさしてやろうと思ったのでともかくここまできたんじゃないか、それを、もうついに離れて行ったそれに、まだ己惚れを残すなんて……馬鹿げきった話じゃないか……彼は自分自身に恥じて、頬のカーッと赤くなるのを覚えた。そして何とも云いようのない寂しさを感じた。
しかし一方そうして反感をもつに反してまた一方では、美しい異性一箇に対する愛着が矛盾したありようで胸にもちあがってくるのであり、しかしてまたそのかつては自分の支配したものであり、自分の喜びの対象であった美しいこの志津子を自分から奪い取っていった秋元清次郎がたまらなく憎くなってくるのであった。そのうえ伊保子もかつては彼のものであった。しかしそれも後から現われた高木に奪い去られてしまったのであった。「しかしそれはそうなることだったのだ。今さらどうなるものでもないんだ。一人の愛に溺れて果つるよりも万人の愛に捨てられて、捨てられた心から大きい人類に対する愛をわかしていったほうが、少なくとも自分としては意義あることなんだ……」
彼は黙ったまま心の内で大きく云った。そうして寂しいほとんど悲しい孤独を感じながら一路の淡火を望む闇の人のようなつつましやかな底深い歓喜を身いっぱいに感じたのである。……惜しみなく愛は奪う……そして口の内でこうつぶやいた。
「人間は現在ばかりで生活できるものではありませんよ。……人間には未来の世界があるんです。人間はひとつの愛を守ってひとつの愛のために多くの愛を傷つけることは罪悪です。我々の心の生活は身体の死という変革の後までも実存するものと見ねばなりません。愛は不朽なものなんです。……少なくともこういう考えまた思想は我々に望ましい光を幾分ずつでも与えますからね」
清田が云い終わるまで志津子は黙ってうなだれて聞いていたが、云い終わるとふと顔を上げた、そして云った。
「何だかむずかしくてわからないわ……」
清田はもうそのうえくどくど云いたくもなし、また云ったところで先方が身にしみて聞いてくれた昔の彼女でなくなっているのでそのまま、微かに笑顔をしたまま口をつぐんだ。そして伊保子はまだかなと急に思いついた。
しばらくして店の者が清田に電話だと云うので彼は彼女にちょっとあいさつして、伯父の店にある電話に出てみた。それはH町派のTという男であった。
「いつ御出発ですか。こちらでも送別会をやろうと思ってるんですがね、ぜひ来てくれませんか、SにTも来るはずです。それから伊保子さんが今ここにいるんですが呼びますか」
などと云った。彼は伊保子がH町のTの家へ行ったということを聞くと同時に受話器を耳に当てたままカーッとなった。そして話もしたかったし、別れるについて高木とのあいだのことで少し云いたいこともあったのだが、Tの取り次ぎで何となく気おくれな感じがしたのでいろいろな返事をあいまいにして電話を切ってしまった。
「伊保子は来ないでしょうよ。……Tの家にいるというから……」
裏二階へ帰ってからすぐ静かに云うと、彼女もいろいろともたもたしてからそれじゃまた別れのときに逢うとか何とか云って帰って行った。
静かに一室の空気を独占してしまった清田はしげしげと部屋を今さらに見まわしながらユダに売られたクリストのような感激に満ちた情緒を味わうことができたのである。
手回りの荷物を先に横浜の実家に送っておいたので、その日の持ち物は少しばかりの本と雑誌だけであった。H町のグループだの、橋本だの秋元、高木だの、送別会を順々に断わってしまったある快感が胸にうずを巻いた。
新橋駅に着いたのは午前八時で彼が三等待合室に入ろうとしたとき、向こうから高木が紺絣の着物を着て走って来た。
「待っていたんです」
「よほどですか」
「いいや十五分ほど、八時半頃のはずですからゆっくりしていていいと思っていたんです」
「いやいろいろ都合もあってね。まあとにかく待合室へ入ろう」
短い会話の後に二人は前後して広いガランとした待合室の内へ入って行った。
板を幾枚も幾枚も寄せて作った椅子に二人並んで腰を下ろすと、しばらく両方とも言葉に困って沈黙をまもっていたが、やがてのことに高木が、例のおどおどしたような声でそろそろと云い出した。
「昨日伊保子と逢いました。伊保子はあなたに過日はすまなかったと云っていたようです。何でもあの日行かなかったのですね」
「うん、でも来ても来なくても同じさ。要するに千変一律な文句を並べるにすぎないからね」
清田はそう答えてから、ふと自分の周囲をみまわして、……まああれほど多人数のグループのほとんど中心点にまであった自分の永遠の旅立ちに、ただ一人の見送り人ということが、たまらなくおかしいものであり、またたまらなく寂しいねたましいものであるように思われてきた。
「とにかく君たちはかならず僕は偉いやつになってみせるということを承知していてもらいたいんだ。僕は無駄なことをして肉体を終わりたくないんだからね。君だって君だ、えらくなりたまえ、えらくなりたまえ」
清田のこう云うのを聞くと等しく高木は低く頭をたれてじっと何かを思うように沈黙に落ちていった。その弱々しいある方面から見ると寂寥そのもののようにも見える高木の身体を斜に上から見下ろしながら彼は心のうちで……さようなら……さようなら……と繰り返してみた。そしてそれと同時にまた、東京という大きい土地に向かって、またその上に生存してある大きい民衆というものに向かっても同じくさようならを云ったりした。
「無限から無限へ……」
突然高木はうめくように云うかと思うと、突然また清田の手を握りしめた。そして熱のこもった炎《も》えるような眼で清田を見据えながら勢いこんで云いつづけた。
「我々の生活はつまらぬものだ。恋が何だ夢が何だ、肉の歓楽に酔って死んでゆくただそれだけのものじゃないか。ねー君、君から僕は伊保子を奪った、ある意味からいけば僕は勝利者なんだ……世間のありふれたやつらのいうところはそこだけなんだ。しかし君の思想は大きい。僕は君の思想に征服された。僕はかえって敗残の徒となってしまったのだ。無限から無限へ……僕はこの文句を感じた。もはや許してくれとも云わない。ただ僕の信じたままを行なってゆくだけだ。僕も新しい生涯に入るのだ。ああ何という嬉しさだろう。……僕はこうして救われねばならない」
清田はちょっとどぎまぎした。ははあ感違いをやったな、と思った。がしかし高木の感違いは清田にとって都合のよいことであった。清田は何かしら擽られるような気持になりながら、それでもつとめて平然たるようすで云った。
「僕は何とも答えない、ただ云っておく、君は君の歩む道を踏み違えないようにと」
高木は握った手をだらりと解くと、ついと立ち上がってその辺を歩きまわった。
八時何分かの下関行の列車が新橋駅のプラットホームを滑り出したときに二つの割合に正しい魂は二つに裂かれておのおのの分を守り始めたのであった。
薄曇りの空からは利久鼠《りきゅうねずみ》の雨が、止めどもなく音も立てずに降っていた。
今が真盛りの若葉は若緑をいやまして踊らして勇み勇んで雨にぬれている。そしてときどきその山の衣のような若緑の中から名も知れぬ小鳥が飛び立っては何かしら私言してまた別の緑の中へかくれてゆく。人体の成熟したのを思わせるような芽の香りが、かすかに吹く風につれて強烈に鼻についてきた。北からくる小山の脈と南に立つ小山とのあいだに自然に造られた谷と、東西を断岩に迫られた谷とで三つの深い谿谷を造るとのあたりは、じっと黙して木の幹によっていると、何かしら神秘な自然の私言とも聞かれるようであった。正門の古い門から入って蓮の揃った池の中ほどを越して行くとちょうど、この三つの谷のうち第一の谷に出るのである。第一の谷から第二の谷に第三の谷に渡る広い三谿園は、横浜のただひとつの大きい遊園地であった。
第二の谷と第一の谷とのあいだを隔てる小山の上には小さい舎があってそこからは雲表の富岳の噴煙の大島も、かすめる横須賀も、一望指呼のうちに納まるのであった。見下ろせば数十丈の奇岩絶壁、静かによする波の音だけがサーッサーッと聞こえてくる。そして青い波の衰えを、小さな舟が捨てられたように釣りする人をのせて漂っている。何の音もなく何の声もない。しかしその偉大な沈黙の下には、地の雄叫びが狂い狂っているのである。世紀世紀によって、無益な地上を呪う地下の真理は人間どもの無駄な議論に倦き地を保つべき無駄な焦慮にあきれはてていた。地の真理はこの地上にあるただひとつの真理を突如としていつかしらどこかの地上にあらわすのであろうか、清田清吉はその日、その友|桃川龍朗《ももかわたつお》とともに横浜市街を歩いていった。
「甲州へ行くんならすこしのあいだ逢えないな……」
「うん、でもいいさ。もうおたがいに心のすべてを知り尽くしちゃったんだからね……ただ僕としちゃ君としみじみ旅に出たかったことが今でも残りおしいんだ。……どこか温泉の湯にひたりながら思うさま話したかったのだけれど、もう終わりだろう」
「いやそう思うにゃあまり今まで親しすぎた、我々の生活はこれからなんだからね、我々おたがいの親交もこれからなんだと思うね」
「駄目なことさ、そのうちにおたがいが倦きてくるだろう、そしてどちらか先にそれを打ち出すほうが敗残者になっちまうんだ。僕自身もなりたくはないし、また君をそれにするにもしのびないからね。僕は末子《すえこ》様についてももう少し君と交わっていたいのだが、それは君もゆるすまいし、僕としたところでいつまで連々として憧着していることもできないからね。……僕は実際今までうわついた生活に満足していたものだ。しかし僕はもう自分の恋にばかり密着していくことはできなくなったんだ。とにかく自分であることだけが僕に残ったんだからな。それに志津子を失った当時、君からのいろいろのなぐさめや嘖りを今しみじみと思ってみるのだ。人間は自分を完成せしむるために恋を求むる、ある本で見たことがあるけれど真理だね。しかし僕はそうなる資格がない。君の妹を恋することによって君を離したくないということと、もうひとつ君の妹を恋することによって他の人ことに女性から遠ざかろうとしたのだ。そのことはとにかくや、満足にたるだけのことはある。だから真の恋愛的方向からいったら僕のは恋愛と云えるものじゃないのだ。だから、君と末子様と今溺れようとしている、どちらか一人でなければ救われない、そういうときがあるとしたら僕はかならず君に手を出すだろう。……僕は末子を恋すると何度君に手紙を出したかわからない。……それは真実恋の悩みのために出た文句というよりも、恋そうという心とそのことに関する観念を強めるための手段にすぎないものなんだ。……僕は以上のようなことをしたについて君に謝さなければならないかも知れない。だけれど謝すということは二人を永遠に引き離してしまうように思えてならないんだからね。……そうはできないのだ」
「…………」
「僕はこの挙をもって新しい生涯に入るつもりだ。それに僕はこの頃常に土に呼ばれているように思われるのでね。……何とも知れず地が親のようにも兄弟のようにも、そしてまた恋人のようにも思えるのだ。ときどき僕は大地というものに勇気づけられる。そうしてもし僕がどうにもしようのないときがくると、すぐ地が喜んで僕を迎えてくれることをも感ずるのだ。……とにかく僕は力を感じ始めたのだ。何でもやってのけるだけのことができそうなんだ。死の席も用意されてある。……そして僕は大地よ大地よと呼びかけることさえあるのだからね……」
「とにかく君に新しい新生が芽ぐまれるとしたならば僕としてこれ以上の喜びはないからね。だけれど僕は君と別れることをあまり好まないのだ。もちろん君の自由を束縛する権利もないが、しかしただ普通有り触れた友人のままで別れることは嫌な気がするね。……君が今云った末子のことに関する言葉は僕自身にとってやや意外なことであった。僕はある一面から見て君が負け惜しみを云っているとも、また大きい自覚に迫られているとも思えるのだ。だがいい、そんなことはどっちだってよいのだ。末子は女であり君は男であるのだ。君が男として女を恋す恋さないというだけの自由がある代わり末子にも女として他の男を恋す恋さないと云い得るだけの自由はあるんだからね。……僕は事実、末子と君とに恋の成立しなかったことを歓ぶのだ。これによって君と末子とのあいだに未来において大きい悲劇が醸されるかも知れないけれど、しかしそれはもしその悲劇ができたとしてもしかたのないことであるだろう。……今のところ君は末子を、自分の心を統一するための手段と見ていてもよいだろうし、または普通自分の肉欲の満足をみたしてくれる対象と見ていてもよいだろう、しかしそんなことは僕または君の大きい生活上には何の影響も及ぼさないことじゃないだろうか、僕はそう思う。とにかく我々は男として、また桃川であり清田であることだけでも働いていかねばならないからね。またそれが我々の生命に対する絶頂の使命だと思う……」
「…………」
二人はいつか横浜公園を抜けて大きい棧橋を左手に見る、海岸通りへ出ていた。風が少し強いので中くらいの浪がいい影を作ってはボチャボチャと岸の石崖にあたっている。石崖のすぐ上に立ってその真下の水を見ると、浪にゆらゆらゆれながら、底の石や砂や貝などが薄青くぼかされて見える。しかもときどきその上をひらっひらっと小さい魚が泳いで過ぎた。
港には三艘ほど大きい海外航路らしい船が入っているきり、いたって淋しい静かなものであった。税関の大きい建物の青ペンキへ、雨をふくんだ曇日の日光が帳の奥からでもくるようにぼっと照って、それでもいくらか夏らしい勇気をそのうす鋭い光のうちにほのめかしている。棧橋の先のほうには大きい船が横付けになっていて、荷上げも済んだのか人声もせずにじっと眠っているようだった。
「多くを考える必要はないのだ。ただ我々は刹那を引とらえてそれを永遠に生かしていけばよいのである。しかしその刹那は我々の手に捕まることはないのだからね」
桃川は沖のほうを見ながらこう云ってほっとため息をした。
「まあ自身の身体を草の真中に投げ出して、その名もない草の葉が、秋風にさやさやとささやくのを見てみたまえ、生命の寂寥はそこに満ち、死の暗黒と、生くる光明とはその微細な葉の先で必死になって争闘しているじゃないか、すべての生物はかならず滅する……しかし、枯地になった草原に座して、木枯に吹き荒ばれる草の枯れた葉先の風にそよぐさまを見てみたまえ、少なくとも僕は、霊は不朽だ、霊波は滅せずと、怒鳴るに違いない。寂寥の中から光明は産まれ絶望の底から、光は輝き出でるのだ。すでにキリストは曰っている……善人は天国に昇るを得ず悪は天国に昇るを得るなり……と、我々の心の反面はこの一言によってどれだけなぐさめられ、またどれだけ勇気づけられ、またどれだけ感謝の念慮を起こさせてくれるだろう、悪に悩むもの、自分に悩む者、それはもう善良である者のそれでありいわゆる善良なるの徒はけだし救い難い異端であることと同様に、暗黒は光明そのものであり、絶望は曙光そのものでなければならない。……肉体生活の暗黒は霊的生活にうつってからの暁光の下造りであるだろう。……僕は少しも恋人をほしがりはせぬ。また死を怖れもせぬ、僕のただ怖れるのは満足という二字にすぎない、満足という二つの文字が、僕の思想をどう変えてゆくかと思うときに、僕は自分で自分があやぶまれてならないのだ」
こう云い終わってから彼は何だか自分を嘲りたいような気分に迫られるのだった。大きいことばかり云いやがって何だ、何もできないくせにしていて……そして桃川も自分のことをそう思っているだろうと考えると、何となく向かい合っているのさえが恥ずかしいようにも思われてきた。
ボーボー例の汽笛を吹きならして蒸気船が白い浪を蹴立てて静かに走って行く、鴎が一羽取り残された者のようにひらひらと巧妙に空を縫って飛ぶ、上に飛び上がるごとに腹部にまとめた足が赤く可愛く見える。何となくすぐ呼びかけてやりたいような心情にもなってくる。秋寂を思う落ち着いた気分と自己反省の苦しい羞恥とが交々胸を締めてきた。
「しかしやがて我々も死んでゆくのだろう、それはわかっている、だけど僕はどうして死にたくないのだ、苦しいこともがまんしていてよいと思う」
最後に二人が鶴屋という大きい呉服店のあるほうへ曲がるとき、桃川はこう云った。清田は何とも答えることができなかった、そうして自分の前途のことをいろいろ考えてみるのだった。
二の谷から三の谷に渡るあいだにある古い山頂には、小綺麗な池舎があった。
池舎からはいろいろな名勝が見えた。その池合を通り越すと、細い幅二尺の小路がうねうねとうねって、暗い木陰を貫いてその谷へ落ちてゆくのであった。薄暗い木下闇のあいだに佇んでじっと黙していると、怖ろしいほど強い大地というものが、ひしひしと、身に沁みこむのである。雑草の一葉一葉新芽の栗の葉先、そこには偉大な自然が溌刺として躍っている。生命の曙光はそのあいだから溢れ出で、世上にゆくのではないかなどとも考えられる。木の下から木の下、葉影から葉影、枝から枝、うねりつつゆく路がやがて途絶えたかと思うと、果たしてその路は急激に坂を作って三の谷の山頂へ向かってうねってゆく、木は絶え枝は絶えてただ芝生の上には小松の二三が離々と散在するばかり、早い夏虫の一匹二匹が断続して静かなる天地に楽を泰している。
折から若い青葉をそよがせて初なつの雨は、淑やかに降り出す、と同時にたちまち遠望は途絶えて、ちょうど三の谷に歩きかかってきた清田の背にしとしとと影を残す。三の谷の山頂に出た彼は思いももうけぬ天地の静寂を感じながら久しぶりで落ち着いたままじっと松の木の切株に腰をおろした。
「真実に自分であることだけが残ったのだ。ただそれだけだ。自分はこれからまた築き上げてゆかねばならない、自分の心と生活とを。力強く生きよう、底深く生きよう、大地に抱かれた自分として何者にも勝ってゆこう、……自分であることだ、そうしてまだ未来がある自分であることだ、真理の創造をやってゆこう、真理の疾駆にまかせて身をはこばせたことは昔だ、とれからの自分は真理を創造し、運命を疾駆していかなければならぬ、友もいらない恋人もいらない、大きい地上というものを目的として、心から大きい生活に入っていかなければならない……」
彼はこう心のうちで自分自身にささやいてから、大きく両手を振ってみた。肉体の節々には青春の血の満ち渡っているのがわかる。何者かに思いきり延びようとする心は、覆いものをはねのけた後のような気持のよく清々しい、頭の中もはっきりしきって、多少熱した頬へ傘をささぬので降りかかる雨が、他なくよい気持にとれた。
永遠に歴史を語る地雷の断崖よ、
千歳よりの神秘を物語る浪声よ、前代不変の天涯よ、しかしてそのあいだにうごめく微弱な生命よ、微弱なる生命は微弱なる熱情をもって叫び、悠久なる大自然は勇然たる冷たき熱情をもって永遠に黙視を交す。……何という大きい光影であるだろう、松の株の下に樫の林の下に杉の森に、冷眼なる自然が悩ましくも沈視しているのである、ああまた何という悠大な光影であるだろう。
「起つのだ……起つのだ、力強く起つのだ。しかしてこの大地上に一箇の真理として自分を生かしていとう、暁光……暁光……」
清田は心の一角に力強い光を輝かせながら、一歩一歩楽しく一歩一歩強くそしてまた一歩は一歩の希望に満ち満ちて三の谷を越して山を下った。
[#地から1字上げ](未完)
底本:「現代小説集」実業之日本社
1978(昭和53)年9月25日 初版発行
底本の親本:「創作」同人誌
初出:「創作」同人誌
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