立龍一

立龍一(たちりゅういち)〈1823年8月ー1892年7月〉は、初代内閣総理大臣、最後の宮内大臣

来歴

萩藩出身。父の立智館は、の建築技師で祖父も同様であった。長崎での留学も経験した。幼少期は、藩校明倫学舎に、経世済民の学を学んだ。1840年に遊学して大学寮律令方に学んだ。
大学寮律令方講究官東京府宮内省書陵部で上級役人としての地位を歩んだのち、アメリカ連邦の地に外交官として渡米した。天文事件朝廷が動乱するさなか、1852年に国外遊学の末に帰国を果たす。

軍官

帰国の後、軍官の地位に移り、衛士府出仕となる。東京府兵部を経て、東京府兵部参与の折、8.3事変の武装蜂起に参戦。東京府宰相たる府川河西監禁の首謀者である。事変の後、クーデターの功績もあり向田邦文(衛士府大将)から引き上げられて、衛士府中将・東京府兵部卿の地位に就く。1859年11月の東京遷都に際して、皇室の最高警護を担当することになる。

国際知見を持つ良識派

1865年、国際知見を持つ良識派で、軍部についても強い指導力を持つ背景などから、内閣審議会高等官に選任を受けたために返刀。1866年には、2代目の駐米公使として駐米日本公使館に赴任。日本で初となる国外在留の外交官となった。1872年には帰国し、宮中官僚の最高位たる宮内次官に就任。このために、宮内大臣室宗全が、内閣審議会に力を及ばせることのできない立場となる。
1876年には、室宗全が大臣の地位のままに急逝。同年12月に宮内大臣に選任される。人事権を持つ内大臣内大臣府が不在により機能を失っていたため、内閣審議会が人事権を代行して決定された。これにより、宮内次官が不在となる。

政治クーデター・78事件

宮内大臣就任以後、内閣審議会には、水岡貞国を支持する開明派立龍一立派が内在しており、政治対立が非常に激しくなっていた。水岡貞国には、富士宮江哲に連なる大学寮出身の宮中官僚が付いてきた。立派は、高等文官制度国費留学生ら国際見識を持つ官僚らによって固められていた。立派は、水岡貞国自身の汚職事件として、仙台府の徴税権を用いて違法な蓄財を行っていた事実を明るみとした。この政治的クーデターは、北海道開拓使初代長官・正一位受勲によって穏健に済ませることとなった。この時、開明派に属した宮中官僚は、内閣審議会の地位を追われ、地方官吏としての道を歩むことになる。宮内省の官吏の多くは、内閣審議会に移籍扱いとなり、宮内省内大臣府の組織機構は自然的に消滅する。

初代内閣総理大臣

1878年、内閣審議会の最高位に当たる存在として、内閣総理大臣の職を新設。同職に就くとともに宮内大臣を廃止。やがて、内閣審議会の各機能を国務大臣の下に設置する内閣開設の中心的な機能を果たす役割を担当する。立内閣は、都道府県の設置を最終目的として、軍管区を中心に地租改正全国運動を展開。外交に在っては、かつて外交官であった関係からも、1885年の「ワシントン協定」に批准。官僚型宰相として、1888年10月までその地位にあった。衆議院の設立に積極的な立場にあり、「民選的な立法院」の設立を熱烈に妄信していた内閣審議会高等官の福岡唯平が後任の地位に就いた。福岡内閣の発足後には、立内閣の1885年に自身が発足させた爵位令を受けて、「公爵」を受勲。

1892年には、ついに没することとなる。

人物

家族

祖父は建築技師であり、その名工ぶりから萩藩に出仕して「下級士族」に列せられて、帯刀を命じられる。父の立智館は、下級士族の地位にあって長崎留学を経験した、藩お抱えの建築技師であった。龍一は、三人兄弟の長男として生を受けたが、次弟と末弟が早くして逝去したことで一人子として育つことになる。
妻のマヨは、大津藩士族大学寮出仕の地位にあった鳥塚貞兵衛の娘で、大学寮律令方に出仕し講究官を務めていた時期に結婚する。長男と長女は早くにこの世を去ったが、次男の立康孝、三男の立益延、次女の立サエコ。次男は政界に進み、三男は日本近代司法の輸入に務め、次女は日本銀行界の重鎮松島大助に嫁いだ。

性格

立家が、下級でありながらも士族の地位にあったため、明倫学舎に学んだ。明倫学舎の同級であった佐原信道(民法学の父)、斎藤直範(鉄道寮総裁)は、「冷静実直でまじめな人」「そつなくこなせる秀才タイプ」と評価している。同級の中で、上級士族の出自であり藩家老の家格であった岡田弘庵(哲学者)が、大学寮に推薦された一方、学業優秀として龍一も修学徒への推薦を受けることになった。
大学寮修学徒に出仕した。入寮同期の水谷常温(日本郵便社初代総裁)は、「特筆すべきところのない人物、典型的な万能官僚」と評価。物産方の長井松江(札幌学校教授)は、「抜きんでた秀才、つまらないほどの秀才」と評している。

恩師

大学寮出仕の折には、律令方主教授北園幸吉(正四位)に師事。その後の政治的キャリアの形成にも北園のバックアップが関わっていた。
最終更新:2025年09月24日 21:33