鏑木恭

鏑木恭(かぶらぎきょう)〈1948.1-〉は、日本の外交官である。侯爵鏑木家当主(4代目)。

来歴

生い立ち

1948年1月、京都府京都市出身。出自は、名門林家一門の分家で、外務大臣鏑木一を輩出した名門鏑木家である。戦時中の不動産取引で莫大な富を得ると、京都府政へも影響を及ぼした。父の鏑木誠は、公選3代目の京都府知事、弟の鏑木清嗣も公選16代・17代の京都府知事である。京都府立上二条高等学校京都大学法学部法学科比較憲法学専修卒。

外交官時代

1970年京都大学4年時に、高等文官試験外交科を経て、外務省への入省を決める。1年間の研修期間を経て、在オランダ日本大使館書記官補として在外公館へ赴任。オランダ国交成立100周年記念式典の現地職員として当初オランダには多くの外交官が臨時で派遣されていた。1972年1月1日付で、在ブリュッセル日本総領事館書記官補に転属。その後も、オランダ国内を書記官補として転々としながら経験を積む。1977年4月、在ドイツ日本大使館書記官への昇進人事を受ける。ドイツ在任中には、ハンブルク大学の聴講生としてドイツ憲法を学び、1978年10月から総務省国際法学研修プログラムの第1期生として採用も受けた。1981年3月にハンブルク大学での聴講生課程を修了。1982年4月、外務省欧州局蘭国課課長補佐としてオランダ行政機構の調査を担当。1983年10月、外務省相互外交官留学プログラムに採用され、米国コーネル大学に留学。行政監視制度に関する研究を行う。1985年9月、コーネル大学行政法専攻修士課程を修了して帰国。

上級外交官

1985年10月、2週間の待命の後、外務省国際大学院大学国際連携事業担当室在勤。1986年4月、欧州局東欧課付。フィンランドを中心とした現地を行き来しながら北欧地域の福祉行政を調査。1987年10月、在ヘルシンキ日本総領事館最上級理事官として赴任。フィンランド福祉大臣らとの会談を重ねた。1988年4月から、半年間、外務省国際交換職員としてフィンランド福祉省にて年金補助金制度の担当職員として勤務。1988年10月、在英日本大使館書記官・経済部参事官へ赴任。英国時代、後に外務大臣内閣官房長官を務める仙石雄人(駐英大使)、後に大臣を務める福田信武(書記官・経済部長・総務部参事官)と同僚の関係となる。また、京都大学の後輩で後に衆議院議員となる新谷寺宗彦と親交を深める。新谷地は、議会政治研究で日本政治学会のニューホープと目されていた。

帰国・政界入り

1993年、父の逝去と兄の廃嫡によって侯爵鏑木家4代当主を拝命。同年9月の任期途中に緊急帰国、外務省国際大学院大学教育課程教官に転属。このころ、父を熱心に政治の世界に誘っていた黒野宗次自由党京都府連会長から誘いを断り切れず、参議院議員通常選挙出馬のため、1994年12月に46歳で外務省を退官。地元京都での政治活動に注力。1996年6月9日、第17回参議院通常選挙において近畿選挙区から全体3位で初当選を飾る。1997年の通常会で、「全世代一体型福祉計画法」を議員立法として参議院で提出。福祉政治家として歩む第一歩となった。元上司であった、仙石雄人(静岡県連顧問)からの勧めで、夫人の実家である浜松市を選挙区に含む衆議院静岡4区へ転身。2000年10月1日の第32回衆議院総選挙出馬に伴って、参議院議員自動失職。晴れて衆議院議員に転身。第2次山口内閣で、農林副大臣政務担当に就任。この内閣の内閣官房長官に、仙石雄人がいた。農村振興促進法の成立を勧め、農村経済本部の初代本部長を務める。山川内閣では、外務副大臣政務担当に就任。国際食糧輸出入規制法の成立では、農林省と協力して日米食糧貿易の安定性確保に尽力した。2008年7月、山川内閣(第2次改造)において、外務大臣として初入閣。同内閣で福田信武が、特命担当大臣(国際協力機構)特命担当大臣(総合安全保障)として初入閣する。2009年5月10日の第35回衆議院総選挙においても静岡4区から当選。

自由党離党・進歩党

当選後、党内の反省会では全く状況を理解していなかった旧党幹部を言及。自らも、閣僚経験者として要職の打診を受けるが固辞。2009年12月に、離党して無所属衆議院議員となる。盟友の福田信武が、旧所属派閥の華政クラブ改革と実行の会の所属議員らとともに離党。2010年5月、福田信武が中心に立党した進歩党へ参加。衆議院院内懇談会長(衆議院内の議員審議組織)を務める。2012年12月9日の第36回衆議院総選挙で政界引退を表明。65歳になる寸前での政界引退となった。選挙区の公認候補を、一般公募として血縁者による地盤継承は行わなかった。その後の政治活動は、甥である鏑木政三郎(元法務庁官僚・参議院近畿選挙区選出)が引き継ぐこととなる。総選挙後も、進歩党における政権政策に関与。2013年4月1日より、母校の京都大学特命教授に着任。国際法の分野における研究に務める。2016年の国際福祉協約締結に向けて、日本全権団臨時特命全権大使として訪米し、調印役を担うこととなる。この一時期、外務省外務政策審議会常務委員、国際外交課題研究所運営諮問委員会委員(国際協力分野)などを務めた。最後、衆議院参考人として招致を受けることとなるが、当日の早朝、自宅で息を引き取ることになる。没後、遺書は、元秘書である樺幹哉(樺さゆりの子息・日本遺族会理事)が預かり、甥の鏑木政三郎によって朗読された。
最終更新:2025年07月22日 08:35