福田信武

福田信武(ふくだのぶたけ、1944年7月-)は、日本の外交官、政治家。

来歴

生い立ち

父は、福田正自由党保守党国会議員衆議院議長)。兄は、福田信照日本銀行総裁、北州銀行頭取)。
1944年7月、福岡県福岡市出身。福岡県立福岡西都館高等学校九州大学工学部管理工学科製造学専修をそれぞれ卒業。1967年3月に大学を卒業後、東京にでて、個人塾の塾講師や新聞配達員として生活。1年ほど生活した後、東京で偶然出会った保守党所属の衆議院議員である大高のぼるの私設秘書になる。

外交官時代

大高の弟で、外交官だった大高明哲在ノルウェー日本大使館書記官)の誘いを受けて、外交官を志す。高等文官試験を受けるも不合格になり、外務省で翻訳官を募集していたため、外務省国家公務員試験を経て翻訳官となる。1970年から、外務省国際大学院大学で翻訳官講習課程で学ぶ。在南アフリカ日本大使館在インド日本大使館で翻訳官として勤務。
1976年、在フランス日本大使館書記官補へ昇進。その後、欧州で国際文化政策を担当。在リトアニア日本総領事館理事官などとして勤務を経験。1988年から在英日本大使館書記官・経済部長・総務部参事官に着任。英国時代には、当時の英国在住文化人らと交流を持ち、政治学者の新谷寺宗彦や英国浪漫文学の三谷旭らと大使館地下で語り合った。
本国勤務
1992年、春田真広(国際審議官)から後押しを受けて、駐豪大使に就任。課長在職の経験がない一般職採用の者として初の人事となった。

政界進出

1995年、外務省を退官。民間シンクタンクである日欧外交問題研究所にフェローとして招聘される。1995年12月、父の福田正が会長代行などを務め、大高のぼるやその次男の大高治郎が所属する政風会参議院通常選挙の候補者を模索していた関係で、内々に出馬が内定。しかし、1996年2月に、突如別候補を擁立するという流れになったため公認の話が取り消される。しかし、政界を諦めきれず、無所属で出馬を決定。
第17回参議院通常選挙
1996年6月、福岡選挙区から2番手で当選。福岡は、父が長い年月をかけて保守党一強区に作り上げた全国最大の占有区であった。自由党結党後も、旧保守党勢力が牛耳っていた。同選挙区でトップ当選したのは、父の政策秘書を務めた現職で3選目の高寺大寺。選挙戦では、兄が経営幹部を務める北州銀行全国金融産業労働組合連合会(金融連)の後援を受けて大規模な組織運動を展開。
無所属議員
当選後、自由党から追加公認の打診を受けるも固辞。一人会派で届出を行った。参院選の争点とされていた、国会法改正案に賛成票を投じて、船中勉と地縁を結ぶ。
1997年8月、首班指名選挙において、室堂卓二に票を投じる。1997年10月、華政クラブの所属員全会一致で入会が認められ、無所属議員で唯一派閥に所属する。

自由党入党

2000年4月、通常会終幕後に自由党へ正式に入党。
2000年8月、第1次山口内閣首相補佐官に就任。行財政改革を担当する。
その後、党では一場久利生(幹事長)の下で、幹事長代理などの役職を経験。

2002年6月9日、第19回参議院通常選挙福岡選挙区から全体2位で当選し、2選目を果たす。選挙後の内閣改造・第2次山口内閣(第2次改造)で、大蔵副大臣に就任。華政クラブに所属する黒野宗次大蔵大臣)とともに、対外経済政策の主軸を担う第一人者となる。大蔵省が設置した、大蔵大臣の私設諮問機関である対外経済政策諮問会議の提言取り纏めを担当する。

2005年に参議院において、議員立法として「安全保障庁設置法」を提出するも、派閥の理解などが得られず院内で廃案となる。

山川内閣

2006年自由党党首選では、華政クラブが推す山川亮介の選対本部で参院を担当する事務次長を務める。山川新党首の下、参議院自由党幹事長に就任。
2008年6月8日、第21回参議院通常選挙において福岡選挙区から3位当選。参議院議員として3選目を果たす。当選直後、山川亮介(首相)から直電を受け、入閣を打診される。
初入閣
参院選直後の改造となった、山川内閣(第2次改造)では、「党派に寄らず国際的視野を持ち様々な分野での政策立案に期待を向けられる人事」と評され、特命担当大臣(総合安全保障国際協力機構)として初入閣。大臣としての所信表明では、「混迷の時代において、明るく開かれた未来のために複合的な安全保障の確立は党派に寄らず、国家第一に成されなければならない」と主張。この演説は日本の安全保障における新たな船出として世界各国で高く評価された。内閣官房総合安全保障本部では、大本営外務省大蔵省商工省との共同により、「アジア広域複合型安全保障計画」を提唱した。官民一体型の国防態勢を推進させた。

野党政治家

2009年の第35回衆議院総選挙において、自由党は下野。党内派閥の見直しが求められ、所属派閥だった華政クラブが解散される。選挙後、党本部と地元選出議員らの要請に従い、自由党福岡県連会長に就任。
2010年1月、党幹事長代行代理三好光友と、福岡県内の地方議員選挙公認を巡って対立。党本部が提示した、落選議員の再公認ではなく、新たな候補者選定をするべきという意見がもみ消されたことに腹を立て、3月に県連会長を辞任。

進歩党結党

かつて、鉄の結束とうたわれた華政クラブ改革と実行の会の所属議員ら数名を集い、さらには父の旧友であった政風会のメンバーなどを引き連れ、5月に集団離党。このメンバーに、社会党政権に反対する共立党の数名を加えた新党進歩党を結党。

1人会派で「民主党・超党派の会」を旗揚げした。会派発足後、国民党の院内会派から離脱して合流する議員が複数名出てくると、元国民党代議士13名とともに新党「民主党」を結党した。民主党代表時代 67歳民主党代表に就任。党の諸方針決定に関しては鏑木恭/民主党幹事長に音頭を取らせた。
最終更新:2025年07月22日 08:36