登米孝(とめたかし、1920年4月-2003年1月)は、日本の実業家、経済学者。
大蔵大臣(
遠山内閣)を歴任する。
経歴
生い立ち
有名商家である
登米屋のもと、
埼玉県浦和市出身。兄は
登米邦之(経済学者)、妹は
登米有紀子(政治家)。世に言われる「登米三兄弟」の1人である。小学校卒業後、旧制浦和第一高等学校(後の
浦和高等学校)に進学するも、1935年の「6.3.3教育令」発布に伴って、埼玉第一高等学校(後の
浦和高等学校)へ編入する扱いとなる。高校卒業後、
東京大学文学部に進学。東大在学中、
高等文官試験を受験するも失敗し、
内務庁一般職採用を受ける。しかし、兄のような経済人になることを望んで、官庁採用を辞退。卒業の3週間前に、
日本海運社へ就職を決める。1943年3月に、
東京大学文学部社会学科を卒業。
日本海運社へ新卒として採用されると、当時人手不足だった上海事務所へ配属。現地では、軍の命令に従って資材を調達する窓口業務を担当。上海で造船された新造船に大量の物資を積載してそのまま
陸軍に売り渡す商取引を担当した。一方で、
陸軍の管理下に入って
中華民国国内での経済スパイ活動に従事。中華民国の国営企業で、
陸軍に対して鉄鋼生産量の過少報告を行っていた
上海技工集団公司の鉄鋼生産量の実態を突き止めた。1945年3月の
上海大空襲で、日本海運社が保有していた
上海国際港に停泊中の3隻の大型貨物船が大破したため、上海事務所を一時解散して帰国する。帰国後、神戸事務所に配属される。神戸事務所は、2月の
神戸空襲から立ち直っておらず、修復業務をする中で、8月15日を迎える。戦後は、
神戸伊原商事株式会社の
伊原十専(取締役)の知遇を受けて国際経済の課題に関心を寄せる。1945年11月から、大阪事務所市場部に配属を受け、アナリスト職として従事する。1947年以降、NY事務所、ロンドン事務所、パリ事務所を渡り歩いて、海外経験を重ねる。1949年に、
日本海運社の総合商社事業を分社独立した
大洋商事株式会社の経済本部に転属する。転属後も、海外勤務を重ねる。
1950年4月、
オランダ本店へ配属。在職中、日本人として初めての
ハーグ国際平和研究所客員経済学研究員(1950.10-1953.9)に就任。1951年10月から
大洋商事ハーグ支店経済部長を兼任する。1955年4月、オランダ本店副支配人・国際協力計画担当・ハーグ支店長を務める。1956年10月から、国際協力機構設立準備会に参加して、翌1957年4月に新設される
ハーグ国際協力機構の立ち上げに助力。評議員に選任される人事を受ける。この設立は、設立資本金の5%を
日本海運社と
大洋商事が出資したため、同社の国際投資の一環となった。同時期には、
ハーグ大学大学院で国際経済学を修めて1958年6月に
経済博士を修める。1960年より、本社取締役・オランダ本店総支配人に就任する。1964年に帰国を果たし、3代目社長の
荒木広郷から
大洋商事取締役・東京支社長を命じられる。
1967年3月に
大洋商事から出向の命令を受け、
大蔵省所管法人の
国際金融協力機構投資本部副本部長(インフラ投資担当)に就任する。1970年より、
アジア投資銀行投融資本部副本部長・インフラ投資部門マネージャーに就任。翌年には、アジア投資銀行取締役・経済協力本部長に就任。
アジアを中心とした国際的な経済協力を総攬する役職者である。1974年には、国際経済協力分野の専門家を欲していた
東京中央証券取引所に移動。理事(国際分野)・国際業務関連部長、副理事長を歴任する。1978年10月には、
ハーグ大学の先輩である
バリー・シンプソン(
大阪大学教授)に勧誘されて、
大阪大学理事(国際協力分野)・特任教授(国際経済学・国際協力学)に就任する。1980年5月に、
片山内閣の
大蔵大臣として民間から初入閣。この入閣の背景には、
東京大学文学部の先輩ということで、
伊原十専(
神戸伊原商事会長)の紹介でかなり以前から親交を築いてた
片山愛康たっての希望があった。当時の
大蔵省内には、国際金融に対する知見を持ったトップを据えなければならないという
自由党からの突き上げもあって、
大蔵大臣候補者の中で最も国際的な知見を持つ登米が選任された。大臣就任後、
自由党の大蔵部会へも積極的に参加して、欧州経済協力法、国際経済協力特措法、国際経済援助特措法などの国際経済三法成立を急いだ。自身の外遊活動に力を入れると、日米英の三国を中心とする国際的な経済シンクタンクである
世界経済フォーラムの設立を先導。1980年5月から1983年6月に至るまで
片山愛康の右腕として辣腕を振るう。
大臣退任後
最終更新:2025年05月28日 19:23