村勢愛子(むらせあいこ、1856年7月-1934年1月)は、日本における最初の女性大学
教授、経済学者。
東京大学経済学部教授、
来歴
生い立ち
父の
村勢竹信は、日本の英語教育法の第一人者。弟の
村勢久興は、
衆議院議員で
立憲党院内幹事長などを歴任した大物政治家。1855年に、父の村勢竹信は、地元の
伊予藩の藩校である
明証館教授にあったが、朝廷からの推薦を受けて
東京文庫基礎科教授に就任。父が東京に出たばかりだった年に、長女として生を受ける。父は、1858年の
8.3事変で東京文庫が一時閉鎖されたため、
沼田藩藩主の
黒田忠義に請われて藩政顧問を務める。この時期、愛子も沼田の地で数か月を過ごすことになる。
学生時代
1959年11月の
内閣審議会発足に伴って、父の村勢竹信も内閣審議会文部官として登用される。父の登用に従って東京に戻りそれ以降幼少期を過ごすことになる。1864年に父が第5期
国費留学生として
アメリカに渡ると、母と弟の3人で東京の家庭を守ることになる。1868年の小学校令公布に従って、
小学校が開学されると、弟が小学校へ入学するも、入学年限を過ぎていた自分が入学できなかったため、父がかつて教授を務めていた
東京文庫基礎科へ入学する。この背景には、政府の教育政策の中枢を握る父の支援があったことは事実である。1871年に
東京文庫基礎科の課程を修了するも、その上の附属学校への進学要件が男性だったために、進学を断念。1年間は、自宅にて父の研究テーマだった英語教育法の研究に協力した。翌1872年の4月に、規則改正が行われて日本で唯一女学生を受け入れることとなった
大阪文庫附属英科学校へ入学。2年で英語教諭の資格を得て、1874年3月に卒業。
米国留学まで
1874年4月から、
埼玉県内の小学校高等科で英語教諭として勤務する。1874年10月には、父の紹介で見合いが組まれた
内閣審議会審問官として当時は
仙台審問院に勤めていた
東上是吉と結婚。結婚に伴って、夫の勤務地である
宮城県の小学校高等科英語教諭となる。1876年に長男の
東上彦一、翌年に長女の
阿部沙弥が生まれる。子供が生まれても、家庭には入らず教諭としての活動をつづけた。夫が、
金沢審問院に移動となった1879年、夫からの懇願で離婚。2人の子供を実家に預けると、自身はかねてからの夢であったアメリカ留学を計画。1880年に第21期
国費留学生の随行通訳として、渡米が叶う。
子どもを実家に預けて、1880年4月に米国
サンフランシスコの地を踏む。米国内の経済情勢を見聞する傍ら、
ニューヨークまでたどり着く。その地で、父がかつて学んだ
ニューヨーク市立大学への入学試験の受験を懇願。当時、日本人学生が一人もいなかったことを気にして大学側が却下を申し出たが、父の村勢竹信が大学側に電報を打ったことで何とか受験が叶う。大学側が用意したネイティブ用の試験問題を簡単に解いてみせると、
マークイス・ソシュール(ニューヨーク州立大学教授・ミクロ経済学者)が絶賛して、その場で経済学部への進学が決まった。愛子自身は、当初文化学部への進学を希望していたが、大学側の強引な手引きで経済学部への進学が決まった。大学への進学は、アジア人女性として初めてのことであり、入学後は市場経済学を導入とする古典派経済学の研究に没頭。1884年6月に、「経済市場における長期的視野の開放政策」でニューヨーク州立大学経済学部を卒業。この卒業は、当然アジア人女性として初めてのことであり、アジア人としても初の経済学での学位取得者となった。米国での学位取得後、学者としての働き口を求めて米国国内を転々とする。その中で、卒業年の10月に
カルフォルニア大学オークランド校経済学研究所研究員となる。2年の任期を終えた後、英国に研究者としての働き口を求める。
英国時代
当時、日本から3名の学者が留学をしていた
エディンバラ大学から話をもらい、1887年1月から
エディンバラ大学経済学研究科研究員となる。研究員としては、英国で誕生したばかりの新古典派経済学を熱心に支持。この分野における先駆的な経済分析を手掛ける。このうちの学者の1人には、帰国後に結婚する
相山久秀が居た。他の2人は、日本における国際法の父とされる
太田末宗と
第1次世界大戦で外交官として活躍した外交関係学者の
湯本直方であった。1889年4月、英国の経済学に大きな影響を与えていた
ケンブリッジ大学宗教学教授の
バクス・ヴェロイトの求めに応じて、ケンブリッジに移籍。ケンブリッジ大学経済学部研究員に着任する(研究員としての着任はアジア人として初めて)。特定の講座を持つことはなかったが、新古典派経済学について独自の研究分析を続ける。またケンブリッジでは、国費留学生として唯一の日本人学生だった
釘由顕正(後の
東京都知事)と交流を持った。2人は、
在英日本大使館の晩餐会に頻繁に出席し、英国に学んだ多くの日本人たちをサポートした。1891年に釘由の卒業を見届けると、「ミクロ経済学の発展事象究明」という英語・日本語の2言語で書かれた研究論文を発表。新古典派経済学の市場経済分析に大きく貢献することとなる。1893年から、
ケンブリッジ大学経済学部研究助手に就任。英国時代には、子供2人をイギリスに呼ぶことも考えていたが、郷里の母が強く反対したため叶わなかった。長男が20歳になるまでに帰国するという考えがあったため、1894年の10月に大学を辞めて日本への帰国を決意する。
帰国後、
東京大学教養学部学部長・教授の役職にあった父の推薦を受けて、1895年4月より
東京大学教養学部講師(国際関係学)に着任(日本人女性初の大学講師)。帰国後もライフワークとして、新古典派経済学の研究に熱中。しかしながら当時の日本は、古典派経済学を主流とする学問体系が成立されていたため国内での研究には限界があった。1897年には、「未発展地域における経済市場導入の政策的汎用性」で、出身母体の
ニューヨーク州立大学から
経済博士(アジア人女性初)を取得。この博士号取得により、当時日本国内には、博士号を保有している学者が極端に少なく、もれなく教授の地位にあったため、
文部省からの通達によって
東京大学経済学部助教授(ミクロ経済学教室)に昇任する。1903年、
日本経済学会会員へ入会。1905年、
帝国学士院設立に伴い第1期会員に選任される。1908年、
東京大学文学部(共生社会学)教授を務める
相山久秀と結婚。1910年には、56歳という高齢で末女の
相山美馬を出産。1911年1月、東京大学教授(ミクロ経済学)に昇任、東大初のミクロ経済学教授で女性教授となる。夫の久秀が1913年に、
カルフォルニア大学オークランド校教授として渡米したため、女一人で子育てと研究を継続。東京大学理事会が、「60歳定年退官制」を決定すると、その第一次定年退官者として1917年3月満期で東京大学を退官。
東京大学を退官した翌4月、
東京商科大学経済学部教授(経済理論・マクロ経済学講座)に着任。1922年3月に、65歳で
東京商科大学教授の地位を離れるも、翌月から東京商科大学経済理論動態科学研究所特命教授へ就任。1925年に、夫である
相山久秀が帰国すると、そのまま自身も大学教授の職を退き、研究者としての人生に幕を閉じる。
晩年
1922年に、
東京女子塾の塾頭だった
篠田サエが
日本女子大学を開学すると、当時65歳の高齢でありながら要職を打診される。1922年4月より、日本女子大学初代学長・
文芸学部教授に就任する。夫の久秀も、1925年の帰国後、10月より文芸学部長・教授を務める。ちなみに、前夫との子である
東山彦一が
大阪大学教授を兼務する形で
日本女子大学特命教授に、長女の
阿部沙弥も
茨城県の
小学校を退職したタイミングで
日本女子大学師範部教授、それぞれ1922年に
日本女子大学の役職を家族で経験する。1928年に、高齢を理由に現役を退き、日本女子大学理事に就任。1934年に、逝去するまで、日本の学界における女性進出の金字塔となる。
経歴
親戚関係
最終更新:2025年07月15日 12:45