大河雄吾

大河雄吾(おおかわゆうご、1920年3月-1999年10月)は、日本の大蔵官僚、金融学者。

来歴

東京都出身。父は、明治期の銀行家である富岡正二郎の覚えめでたき在野の考古学者。特に、貝塚研究でその道を彩った一線級の発掘家であった。小学校卒業後、東京大学附属法科専門学校へ進学。その後もストレートで東京大学へ進学。法学部法学科卒業後、高等文官試験行政科を経て、大蔵省入省。

大蔵省時代

主計局銀行局国際財政局を渡り、1959年4月に主計局主計官(行財政担当官)に就任。下積み時代には、財政法や金融法を担当して国内の金融市場研究に従事する。戦中の金融市場を監督し、大蔵省勤務の立場で大日本銀行統制協会事務局課長を一貫して務める。戦後、国際金融市場の政策を担当するため、在米日本大使館の経済部参事官と在NY総領事館理事官を兼務する形で渡米する。国際金融市場のあるニューヨークで、世界の金融市場を研究する。在勤の傍ら、1951年にニューヨーク市立大学へ入学。大学院にて金融工学を専攻し、国際金融市場の発展についてその手法を模索した。1958年3月、5年間の修学期間を2年延長する形で修了し、経済博士を取得する。
1962年4月、主計局局長に就任。1965年4月、在NY総領事館総領事として在外公館長へ転任。大蔵事務次官の筆頭候補として、1969年に帰国の命令を受けるが、NY財界の大物と日本の自動車産業界の橋渡し役として残らざるを得ず帰任することができなかった。1972年にやっと帰国するが、大蔵省内部に適切なポストの空きがなく、共同預金保険機構の参与(金融再生本部付)として出向。本人曰く「つまらない仕事でも、期限付きの島流しだと思えば楽なものだ」ということで2年間勤務。しかしその後、入省1期先輩であった米田久代(前銀行局長)が大臣官房長に就任したため、人事畑の後ろ盾を持たない大河は、出向を命じられることになる。

大蔵省退官

1975年3月に、日本銀行へ支店長として出向の命令が下りかけていたため、迷わず退官の道を選択。たまたま、母校の東京大学経済研究科で実務教員を求めていたため、大学教員採用試験を経て東京大学大学院経済学研究科金融社会工学講座特任教授へ着任。この講座の教授は、自身のゼミで4期先輩にあたる松田旭であった。1978年4月から、自身の特定的な研究分野を持たない、「東京大学大学院経済学研究科学術振興センター・教授」へ移動。

日本銀行理事

1981年2月、日本銀行政策委員会の委員を務めていた入省同期の田島宏(元大蔵省財務官)から、次期日銀理事への打診を受けることになる。田島は、日銀理事候補の一覧づくりを担当しており、大蔵省出身者から何名かを選任している最中であった。このリストには、学者出身として松田旭の名前もあった。同年5月に、日本銀行からの呼び出しに応じて日本銀行政策委員会へオブザーバーとして出席。大蔵省枠の最有力候補者だった間島久雄(大臣官房次長・駐中日本大使・入省2期上)と2番手の太田田甲(九州西南財務局次長・さんようFG専務・入省1期上)が相次いで辞退を表明。これは、両名が社会党系の代議士を後ろ盾に持っていたためであり、反自由党思想の表れともいわれている。結局、ただの候補者にすぎなかった大河が理事への選任を受けることになる。就任会見では、「日本の金融事業は、虚業と言われて久しく、残念ながらこの時代において安定的な輸出産業になっていない」と現行の政策を批判するところから始まった。1981年10月に、日本銀行理事へ就任。日本銀行総裁村高頼則(日本銀行生え抜き、元日銀理事)を支える。1983年4月、任期満了が迫る日本銀行総裁の後継候補者として急浮上。しかし、「大蔵省出身のくせに、次官をやっていないのはいけない」という、大蔵省幹部の一言があって結局就任を辞退。理事の任期満了である1985年10月に任期満了に伴って大蔵省を退く。

大蔵大臣

日銀理事退任後、横浜清渓大学理事長の大野勝男(大蔵省入省同期、理財局長)から誘いを受けて、横浜清渓大学政経学部教授(学術研究部所属)に就任。かねてからやりたいと願っていた国際金融市場の発展過程を研究題材とした。
1987年2月、[[]]
50歳(70年)で日本銀行頭取となる。頭取時代にはかねてからの国際経済路線を掲げ、大蔵省との交渉を進んで引き受け「アジア投資銀行」の設立にも協力した。この後、アジア投資銀行は政府の収益を下支えした。55歳(75年)で日銀頭取を引退し史上初の名誉頭取に就任。同時期に日本都市銀行協会議長を兼任。日本の都市銀行を抑える立場になると、地方経済への積極投資を促し経済成長を勧めた。58歳(78年)で経済大臣(石原1内閣)としての入閣を機に役職から離れる。経済大臣として、地方経済の発展を促した。経済大臣時代に、民主党入りして民主党経済政策顧問に就任。民主党の重鎮として、続く内閣では62歳(82年)で財務大臣(石原23内閣)に横滑り。銀行局設立による銀行監督制度を開始した。財務政策の主流として、投資を促すが銀行は守らないのスタンスを取り、大蔵官僚に至っては天下りを禁止するように法を取りまとめた。 67歳(87年)で官界、政界を離れ、横浜みなと銀行の設立に協力。都市型国際投資銀行として国際為替取引、民間投資を勧めた。68歳(88年)横浜みなと銀行名誉会長に就任。72歳(92年)で私財を投げ打って、教育法人大河塾を立ち上げる。この法人では、日本で初めて専門的経済学を教える「横浜大学」を開学する。この後、横浜大学では社会人向けの「横浜セントラルスクール」を開き、40名の講義で自ら教鞭を執った
最終更新:2025年07月15日 12:43