浅岡夢二(あさおかゆめじ)〈1910年7月ー1978年3月〉は、日本の政治家、社会活動家。
厚生労働大臣(第5代)、民主党政策担当副代表(初代)。
来歴
学生時代
1910年7月、長野県上田地域の貧相な農家に四男として生まれた。長男、次男は幼くして没し、8歳年上の兄は家業である農業を継いだ。これ以外にも2人の姉と1人の妹を持つ。妹は、長野財閥の異名をとった
長野次郎吉商店の三男と婚姻関係となる。
地元の小学校では、優秀でならし教師の覚えもよく推薦(当時の推薦生は全学費免除だった)により、
旧制高校へ進学。
旧制長野高校に進んだ。長野高校でも優秀生として表彰を受け、県知事推薦生として
第一高等学校文科に編入。第一高等学校卒業後、
東京帝国大学法科大学に進学。在学中に法学部に転入(組織改変に伴う)。政治学に深い関心を持ち、米国民主政治や英国議会政治の実態を解剖した。その中で、労働者の権利、平等な社会の実現を目的とする社会主義思想に傾倒する。
労働運動
1933年に東京帝国大学法学部を卒業。大学在学中に先輩の勧めもあって東京都の教員任用試験に合格したため、東京で 英語教師としての生活を始める。その後、教員の先輩に誘われて
東京国家教職員教育会議(国教会議)に参加。この団体は、日本における教員の組織力向上と教育水準の向上を目的として設立された合法的な産別労組であった。この団体の支部として存在していた、特に左派的な
全国教育協力会(全教)に参加。1938年に、
国教会議に解散命令が出されると教職員の権利を掲げて抵抗運動に参加。
治安維持法の検挙対象として投獄、失職することになる。嫌疑不十分で半年後に釈放されると、
音響社という出版会社の外報員に就職する。1939年に開戦すると、無期徴兵を受けて長野の第11師団陸兵教育課程に入営。しかし、教育隊長の勧めで松本兵営司令部で外国文書翻訳に従事。無期徴兵だったが、半年で予備役に編入された。
政界進出・社会新党
1942年に、
長野県会選挙が告示されると、立候補を表明。農村の現状に対して利益分配型の新しい政策を提言して選挙戦を挑む。地元の名士ばかりの中で新人の農民の子供が初当選を飾る。終戦を迎えると、混乱期に対応する新しい社会制度を提案する立場で活動を開始。かつての活動家仲間から情報を得て、
社会新党の立党メンバーとして参加した。1946年12月に衆議院議員に初当選。当選後は、社会新党の幹部である常任幹事に選任を受け、労働者や農民の声を代弁し続けた。
民主党時代
1947年、急進的な革命路線を掲げる党方針に対立。現実的な社会福祉改革や労働者保護を推進すべきだと主張して党内左派との対立を招いた。渡辺委員長は、「党方針に対して十分な理解をしてもらわなければ、革命は目指せない」と発言したことで浅岡を中心とする中道左派勢力の動きを批判。渡辺委員長の発言に対して「党がそのように求めるならば、私が残る義理も理屈も社会新党には残っていない」と返答したことで社会新党の分裂が決定的となる。1948年1月、浅岡を中心とする社会新党の中道左派勢力は、
保守党出身の
長田秀三が主宰する
民主党の結党に参画。民主党初代政策担当副代表に就任する。民主党に加わった浅岡は、党内の改革派として一定の影響力を持つようになった。保守的な勢力との協力を通じて漸進的な社会改革の実現を目指した。1949年10月の
第15回衆議院総選挙で二選。党内左派をまとめて、教育改革や労働条件の改善を推進する法案を提案。しかし、党内の保守的勢力が非常に強い影響力を示しており、浅岡の考えは十分に浸透しなかった。1950年以降、党内での孤立が鮮明化。1950年10月に、党地方組織調整本部長に選任され、政策決定の場から遠ざけられた。
共和党時代
民主党で政策決定の場から追放された浅岡は、わずか数年で離党を決意。1951年2月には国会の会期中に会派離脱届を衆院に、離党届を党執行部に提出。民主党の左派系議員もそれぞれ離党し、党ではない院内会派として衆院院内会派「
ともに革新」を新設。同年8月、浅岡は当時台頭しつつあった共和党を水面下で交渉を行い、会派連立か党への参加かという選択を迫られていた。当時の共和党は保守的な性格を持ちながらも、国家の発展に向けて現実的な政策を重視する政党であり、浅岡の考えに合致していた。最終的には特別会招集直前の9月に衆院院内会派「ともに革新」のメンバー14名とともに共和党に参加。翌1952年の
第16回衆議院総選挙で三選。
初入閣・党中枢へ
1955年の
第17回衆議院総選挙で四選。初めて与党に上り詰めた党の躍進に大きく貢献。論功行賞人事として
鶴田内閣の厚生労働大臣として初入閣。従来からの懸案であった労働者福祉政策に重点を置き、労働組合及び結社組織の完全自由化。雇用市場における労使関係の対等化を促進。1957年6月の
第18回衆議院総選挙で五選を果たす。一方で、下野した共和党の
政調副会長に就任。経済政策の中核を担い、戦後復興の中で経済成長を続ける日本において、労働者の権利を保護しつつも産業の成長を促すバランスの取れた政策立案に携わる。この功績により、党内での評価が急上昇。労働運動家出身という懐疑的な評価を覆した。
副総裁
1960年、
共和党全国大会において副総裁に選任される。副総裁としては、若手議員の育成と政策の一貫性を保つことに全力を傾け、党総裁が変わっていく中で党の一貫した中道路線を担保し続けた。その後、国民に寄り添う政策を目指し、教育の無償化や医療制度の充実といった革新的な社会保障政策を提言した。一方では、理想主義者として党内勢力との対立関係を露呈させることになり、その立場は決して安泰ではなかった。党内対立の深刻化によって、1972年6月には副総裁を辞任。
政界引退と晩年
1973年には政界を引退を表明。故郷の長野で静かな余生を送り、地域社会のために農業振興活動や文化保護活動に尽力した。
選挙暦
年史
- 1910年7月_長野県上田地域に生まれる。
- 1923年3月_小学校卒業。
- 1923年4月_旧制長野高校へ進学。
- 1927年4月_第一高等学校文科へ転入。
- 1929年3月_第一高等学校卒業。
- 1933年3月_東京帝国大学法学部卒業。
- 1933年4月_東京都中学校教員(英語教師)任用。
- 1938年7月_治安維持法違反で拘置。自動失職。
- 1939年1月_音響社外報員
- 1940年2月_無期徴兵として松本兵営司令部に入営。
- 1940年8月_予備役編入
- 1942年9月_長野県議会議員選挙に当選。
- 1946年12月8日_第14回衆議院総選挙にて社会新党公認で初当選(以降連続当選)。
- 1948年1月_民主党に参加。党初代政策担当副代表に就任。
- 1950年10月_民主党地方組織調整本部長
- 1951年2月_民主党を離党。独自の院内会派「ともに革新」を設立。
- 1951年8月_院内会派を解散して共和党に参加。
- 1955年5月_厚生労働大臣(鶴田内閣)に初入閣。
- 1957年6月_共和党政調副会長に就任。
- 1960年7月_共和党副総裁に就任。
- 1972年7月_共和党副総裁を退任。
- 1973年9月_衆議院解散に伴い政界引退。
- 1973年12月_上田地域文化振興会名誉会長に就任。
- 1974年8月_長野文化財振興大使に就任。
- 1978年3月_逝去
最終更新:2025年03月18日 17:10