社会新党(しゃかいしんとう)は、かつて存在した日本の
国政政党である。
設立年月日 |
1945年9月21日 |
前身政党 |
大日本政治会 |
解散年月日 |
1949年4月12日 |
解散理由 |
大衆党との合併による法的解散 |
後継政党 |
大衆社会党 |
政治思想 |
左派・中道左派・社会主義・革命的社会主義 |
機関紙 |
社会前身 |
組織
社会新党顧問
常時において、会長不在で体制を保持していた。
議席
議席変動
選挙結果
歴史
結党
1945年8月19日に大日本政治会が解散すると、左派の論客だった渡辺幹太を中心に組織を形成する。戦後期の日本で、前衛的な革命的社会主義を主張していた唯一の政党である。1945年9月21日に
内務庁選挙法局への届け出とともに、日比谷公園で大規模な社会新党結成集会を開催した。それから2ヶ月の間に党員政治家として地方議会議員などが次々と加入。都市部のインテリ層や地方の労働者層といった両極端な党員たちによって組織された。政党法に定める政党要件を満たしたのは、
第13回衆議院総選挙の開票及び結果の確定が行われた1945年12月17日である。
渡辺一強体制
組織拡大
急速な民主主義の導入を契機として、
全国労働組合総評議会(総評)や
官公庁労働者全国組合連合会(官公労)を中心に支持母体を拡大。1946年12月には、国政での議席拡大を放棄、地方での支持票及び組織票の拡大を目指して
第1回地方統一選挙に注力する。この選挙で当選した首長は、福祉政策や労働団体との交渉を重視する政策を掲げたため
革新首長と呼ばれる。この選挙で当選した革新首長の主な例は、
上之章太(横浜市長)、
菅原卓四郎(仙台市長)、
森孔明(福岡市長)などが存在する(いずれも後に国政進出)。
社会新党分裂と崩壊
党内では、「急進的な社会主義路線を取る左派勢力」「現実的な改革を目指す中道左派勢力」で意見が真っ向から対立。1948年1月に
浅岡夢二(
党常任幹事)を中心とした中道左派勢力との政策対立を経て大量離党者を出す。
地方票も予想以上に伸びず
第1回参議院通常選挙では惨敗を喫する。責任問題に発展する。1948年10月の「第1回
社会新党全国大会」で渡辺委員長を社会新党顧問、革新首長である横浜市長の上之章太を委員長とした「渡辺上之ライン」を形成した。その後は、他党との連携によって院内統一会派の形成を目指した。特に、議席数の拡大を目指す
大衆党が急接近してきたために合併することを決定した。1949年4月、大衆党を吸収する形で大衆社会党を形成した。
最終更新:2025年03月18日 17:49