大矢由紀子

大矢由紀子(おおやゆきこ)〈1965年7月ー2038年2月〉は、日本の外交官、研究者(国際関係学)。

経歴

前半生

横浜清渓大学教授(教育史・教育社会学)の父と、小学校教師の母の下で東京に生まれる。母が学生時代を過ごし、教師として数年間勤めた和洋女学院に小学校時代から進学。東京高等部の同級生には、山本美代(日本婦人新聞社設立者)や村上涼子(女性と子供のための福祉財団初代理事長)といった人物が存在する。彼女らとは、女性の地位や権利の向上をテーマとして社会課題について研究。その後の彼女らの人生において、心に深く刻まれるテーマとなった。

東大学生時代

和洋女学院東京高等部を卒業後、現役で東京大学文科一類に進学。彼女は進学後、1980年代に学生運動として盛んになった「フェミニズム学生ネットワーク(FSN)」に参加。女性の社会進出や男女共同参画を目指す女性活動家として活躍した。当時下火になっていた過激な学生運動からではなく、机上での議論を中心として女性活躍社会への運動を目指した。東大学内では、日本における女性学研究の本丸と目されていた「新しい日本の女性楽団」に参加。入団当初、当時の団長で、静岡空港封鎖事件の容疑者として検挙された新子百合子に退陣を迫った。後継団長には、FNSで東京広域活動委員長を務めていた村田聖子を担ぎ上げた。大学4年生の時には、女性楽団の三代目団長を継承した。

外交官

東大在学中に、高文外交科に第8位で合格。東京大学法学部法律学科を卒業後、外務省に上級外務官として入省した。入省同期には、田島幸康(行政科・後の官房長官)、前田密(外交科・後の駐カナダ日本大使北米自由貿易ネットワーク事務総長)などが存在する。外務官研修を終えると、希望していた政府開発援助の部門に配属を受け、翌年にはジュネーブにある国連日本代表部に派遣される。その後、欧州各国の外交的諸問題、特に国際条約の法規的問題について検証を行うために一時期日本へ帰国。外務省に勤務しながら、東大法学政治学研究科にて外部研究員として国際関係法を研究した。

幹部外交官時代

当時の自由党内閣が掲げた国連との相互連携によるアジア太平洋地域の安全保障について、法規的に分析を続ける。2002年に課長職に就くと、牧三郎(自由党幹事長代理)とともにかつて所属していたFSNとの団体交渉に参加。国際的な潮流に合わせた国内運動の流れを長期的に検証する。この縁で牧三郎と2004年12月に結婚。2007年になると、女性初の国連日本副代表として各国との安全保障協議に参加。2010年には外務省では福島美鶴(2001年国際協力局長・2004年国際大学院大学校長・2007年退官)に次いで2人目の女性局長として米州局長に就任(44歳での就任は過去2番目に若い)。その後2014年には、女性初の一等国大使として駐豪大使に着任。順風満帆のまま、2026年に外務省を早期退官(満60歳)。

外交官退官後

外務省退官後、国際大学院大学校でアジア太平洋地域国際関係研究部嘱託研究員として在職。北海道大学東京大学神戸大学で教鞭を振るったが、2年で外交の現場に復帰。夫が所属する共進党の外交安全保障政策フェローとして党の政策立案や民間外交に従事。共進党による島袋内閣内閣官房秘書官(民間)に就任。参議院での出馬要請を受けるも、辞退して大学の同期で元文部官僚園田直子を逆に推薦。園田の当選に貢献した。
第2次島袋内閣の最中、現職総務大臣の夫が死去。その背中を追うようにして翌年には癌が見つかる。2035年には、党籍を離脱して完全に民間人になると、2038年に没す。

経歴

最終更新:2025年02月11日 23:29