来歴
父は、
灘藩士族の家系出身で、1886年設立の
神戸税関で初代輸出入課長を務め、1900年から第4代神戸税関長を務めた
藤岡一雄吉。母方の縁戚には、神戸の繊維問屋である鈴木家がある。
幼少
1911年、
東京大学法学部公法学科を卒業後、
高等文官として
商工省へ入省。
大臣官房、
軽工業局、
貿易局、
電源局を渡り歩くも、1935年に
満州水力の副社長に出された。
1917年に、
生田家の使用人で乳母であった
佐藤賢(
大蔵省大阪事務所長などを務めた大蔵官僚、父と旧知の間柄)の娘である佐藤ユキと結婚。馴れ初めは学生時代、
生田譲吉を訪ねた際に、女学校を卒業したばかりで住み込みの使用人を始めたばかりユキに出会ったこと。ユキと結婚後は、
生田恭三郎が結婚祝いとして
横浜市に建てた邸宅から
霞ヶ関に通った。
満州国に出た際は、単身での赴任となり、その後家族を呼び寄せるよりも前に国際情勢が悪化したため、最後まで単身赴任となった。
満州に藤岡あり
1937年、
満州水力社長。1942年より、
満州国電源庁次長に就任。長官の
張徳昌のお株を奪う八面六臂の活躍を見せ、満州の電源開発政策に能吏ぶりを発揮。1944年から
国務院秘書処長に引き立てられた。本国では、反体制派に属し、強力な後援を受けながら最終的に外地に出されたが、満州の地で能吏として本来の能力を発揮してみせた。その最中、
内閣総理大臣に就任したばかりの
柴里嘉一郎からの
親書を受けて、帰国の途についた。
復帰
1945年4月、空席のままであった
商工省大臣官房次長に就任。終戦を迎えると、9月に繰り上がりで大臣官房長。12月には、第41代
商工事務次官に就任。1947年3月を満期に退任すると、
持株会社整理委員会副委員長兼事務総長に就任。委員会が廃止される1951年9月まで務める。
民間に転じる
1948年4月より
早稲田大学客員教授、
満州国立大学名誉教授。1957年4月より、分社独立体制から再結成された「新生
生田海運」代表取締役社長に就任。同年6月に設立された
日本経営者連盟では、副総裁を1960年4月まで務める。
系譜
最終更新:2025年09月11日 11:25