その洞窟に踏み入るための通路はさほど大きくない。
というのも一応の主となる進入通路は別にあるからだ。今から使うこの経路は無数にある入り口のひとつにすぎない。「リ・ホーン」には洞窟へ踏み入るための通路が大小あわせて数え切れないほどある。ネズミが作った穴のように。
知らないものが見ればどうとっても怪しい通路だ。鉄材によって入り口が適当に補強がされている以外は何もかもが砂埃に塗れ破れかぶれ。発光石を半恒常的に光らせるために流れるささやかな水音が逆に寂しさを煽り立てる。
錆びの浮いた薄い鉄製の看板に[この先『工房』]と乱暴に殴り書きされている。それが補強材へ申し訳程度に釘で打ち付けられているのを横目に、私はえっちらおっちらと入り口に身を滑り込ませた。
もともと
ドワーフや
ノームのために作られただけあって、図体が縦にも横にも大きな私が道を進むのはなかなか骨が折れる作業だ。階段すらない粗雑な作りの下り道を、かすかな湿り気を手のひらに感じながら壁に片手をついて進んでいく。もちろん身を縮こまらせるのを忘れれば肩肘や頭が荒い壁に擦れてしまう。
岩盤をくりぬいて作られているこの道はぽつりぽつりと点在する発光石の淡い明かりが闇に抵抗してくれていなければ暗くて進めやしないだろう。私は真っ暗だったとしても夜目も鼻も利くからなんとかなるが、視覚に五感の重きを置く種族はたまったものではあるまい。たよりない薄明かりだけが道しるべだ。
ここよりもっと大きな通路にいけばもう少し整備されているが、これはそこまで行くのとこの近道を使うのとを選んだ結果である。
ひんやりとした冷気の中に感じる匂いは水とかすかな鉱物の香りだけ。まるで安全の確保されていない洞窟か何かを進んでいるような心細さも出口に向かうにつれて薄れていく。
匂いの中に別のものが混じりだすのだ。それは溶けた鉄の発する異臭であったり、肉の焼ける香ばしい匂いであったり、薬草のつんとくる香りであったり―――あまりにそれは多種多様すぎて私の鼻でも逐一判別しきれない。
しばらく進んだ私の前に堅牢な扉が現れる。堅そうな木材をまるまる一枚使って、それを鉄板で補強したがっしりとしたものだ。扉の隙間からは猥雑な人の声のような音とともに光が四角く区切られて漏れていた。
通路はここで終点だ。私はところどころ錆びた取っ手に手をかけ、若干立て付けの悪くなってきている扉をゆっくりと内側に引っ張った。
途端に私の目に光が飛び込んでくる。
光、光、光だ。それは地下にあるというのが嘘に思えるほど広大な空間にずらりとひしめき合った店たちが放つまばゆい光だ。
この国ではおなじみの発光石から遠い異国の光源に至るまで見本市のように煌々と洞窟内は照らされている。光は大事な客引きの道具だ。色とりどりの輝きが店先を飾る。
印象としては、我が祖国
ミズハミシマの屋台の灯りだ。祭りの夜、人の賑わいをぼんやりと、だが確かな温もりをもって照らす光。
この洞窟が光陰に映し出すのもそういった人波である。私は通路の扉をしっかりと閉め、雑踏の中に身を躍らせた。
ここが
クルスベルグの領内であると言われれば信じられない者もいるだろう。驚くほど多種多様な人種がこの道を歩いている。
それはもちろん、ドワーフやノームといったクルスベルグに元から住む者たちが一番比率としては多いのだろうが、それでもなお目を引くほどにはその趣はさまざまだ。
たとえば今私がすれ違ったのは延の国の狐人だ。親子なのだろう、離れ離れにならぬよう仲睦まじそうに寄り添って歩く初老の男と齢10と少しばかりに見える女の子。
そこで店先に立っているのは服の袖から覗く硬質な肌から言って
マセ・バズークの蟲人だろう。あやしげなからくりを売る店の品物をしげしげと観察している。ひどいぼったものもある場所だ、騙されなければいいのだが。
けらけらと笑い声をあげながら道を行く二人組みは………一見
エルフのようだが肌の病的な白さや雰囲気からいって
スラヴィアから来た客のようだ。新しいものには事欠かないところだからスラヴィアの暇人どももこの洞窟には多く見られる。
粛々と道を行くドワーフの集団はおそらく『王冠党』の連中だ。クルスベルグの現体制を元の王制に戻そうとする比較的危険な連中である。この『工房』は一種の地下世界となっているだけあってああいったならず者に半分足を突っ込んでいるような奴や胸を張って表を歩けないような者もまま見受けられる。
そういった雑多な人の流れを掻き分け掻き分け、壁面の地層をくりぬいて作られた出店や反対側に立ち並ぶ屋台を横目に前へ進む。
壁側の出店はさすがにドワーフやノームが多い。売っているものも鉄の加工品がその半分ほどを占める。他は大抵の場合精肉屋などの食料品を扱っているものがほとんどだ。―――まぁ、クルスベルグの他の街にある商店から見れば積極的にこういった商売を他種族向けにも展開している姿は珍しいものといえる。
そして屋台はというと、こちらはドワーフやノーム以外の種族も商いをしている姿が数多く見受けられる。それはもう屋台に関してはまるでまとまりがない。飲食店から布、装飾品といったよくあるものを扱ってる店から始まって、博打小屋、占い師の即席館、中には怪しげな薬を売る非合法すれすれの店まで揃っている。
さて、ここまで壁側とそうでない方という言い回しをした。ではそうではない方の側には何があるのか。
その答えが大通りの中ほどにやってきた私の目の前に広がっている。
そこにはこの『工房』の主要進入口を左手に、次の階層へ向かう大きなからくり仕掛けの渡し籠―――地球人いわく「エレベーター」というもの―――を右手に見ることができる。もちろん下の階に行くことのできる階段もあるが、私はどうも陸を歩くのは苦手だからおとなしく渡し籠を使う。
そこまでくると今まで右手に広がっていた屋台もなく、向こう側まで見渡すことができる。
それはがらんどうだ。何もない空間が向こう岸まで広がっている。
ちょうど我々は竪穴の淵に設けられた恐ろしく巨大な輪っかの床の上に店を作り、階段を作り、通路を作って利用しているというのが正しく伝えられる表現だろう。少し穴に近づいてみれば分かることだが同じような構造の輪っかが下へ下へ等間隔で連なっているのが見受けられる。どこかマセ・バズークの蜂人が作るコロニーにその几帳面さが似ていると言えなくもない。
ここはその連なる輪の、その一番上。地下一階だ。上を見上げるとごうんごうんと竜のいびきのような音を上げながら無数のからくり仕掛けの羽―――換気扇というらしい―――が回っている。もちろんこの広大な空間を多少そのようなものを設置したところで換気をまかなえるはずがないのだが、この洞窟には不思議とどこからか風の出入りがあるのだそうだ。
私は乗り合いの者でぎゅうぎゅうとなった渡し籠の中、ドワーフ3人と毛むくじゃらの狗人に挟まれながら思索にふける。一人が苦い顔で咳払いをした。図体の大きい私だと随分スペースをとってしまうので申し訳ない。
そもそもこのホーンベルグの衛星都市「リ・ホーン」の地下に広がる洞窟は成り立ちからして謎だらけなのだという。いつの間にかそこにあり、床は歴史上一度も崩れたという事がないほど頑丈な作りで、不思議とシャフトの動力の恩恵を受けやすい位置にあって、曰くひとつひとつの輪の構造が寸分たりとも違わないらしい。これほど大きなものを一切の歪みなくくりぬく技術は現在ですらどこにもないという話だ。
誰が作ったか知れないこの大洞穴をクルスベルグの人々は鍛冶神
セダル・ヌダが鉄を打つために作ったのだと伝え、『セダル・ヌダの工房』と呼ぶようになった。
いつしか『工房』には人々が住み着く。クルスベルグの職人たちが壁をくりぬいて使い出したのを序の口に、薄暗い地下都市を隠れ蓑にするために世界各国の不法者が『工房』の深層へ住み着くようになり、やがてその人の流れがごく普通の人も呼び寄せていく。
そうやって住み分けが進んでいき、ホーンベルグが地球との
ゲートを結ぶようになった今はもうほとんど観光都市の様相だ。比較的排他的なクルスベルグという国の中でも例外中の例外といえるほど他者におおらかな街である。
当然昔の流れを汲んでいる部分はあり、ここから深いところに潜っていくと身の安全は保障できない半無法地帯となっているが表層はせいぜいスリに気をつける程度だ。
他国の者に限らず地球人でもホーンベルグで土産物を買うならここだろう。とんだぼったくりを見極める愉快さも含めてきっと楽しませてくれる。リ・ホーンは享楽の街だ。
…渡し籠がみっつほど次の階に到着した。この渡し籠はここまでだ。これより深部に潜るならば階段を使わねばならないし、これ以上のアンダーグラウンドへ身を投じる用事もない。
籠から吐き出された数人の後ろに続くように私の大きな体が通路を通っていく。籠はまた幾人かの通行人を呑みこみ、上の階へと戻っていく。
この国の連中のこういった技術は大したものだと毎度感心するがいちいち感じ入って見入るほどのものでも無い。渡し籠の搭乗口を後にして私は4層目の硬く硬く設えられた床を尾びれを微かに引きずりながら歩いていく。
リ・ホーンも4層目まで来るとそれなりに怪しげな店が並び出す。エルフどもの娼館や
ドニー・ドニーの麻薬売りたちが本格的に目につき出すのもこの辺りからだ。
まぁ、そういった舶来物が欲しければ各国を渡り歩く我が身、直接買い付けにいけばいいだけのこと。私の欲しいものはそれではない。
どこか道行く人の人相も変わってきたような4層の通路を出来るだけ端っこに身を寄せながら―――再三だが私は図体が大きいので―――歩くこと、四半刻もしないほど。
人通りも絶える奥まった路地にその店はある。壁を掘り抜いて作られたその店の軒先にはあいも変わらず几帳面に吊り下げられた作業服の林が形成されていた。
開けっ放しの扉をミズハミシマ製の藍色に染められた暖簾で区切った店内に入ればどこか埃っぽく布地の匂いに包まれる。
店の中はこれまた布、布、布。それも丈夫な厚い皮だ。涼しげで軟弱そうな布など一枚たりとて…いや、探せばあるかもしれないが。
加工された布、加工されている途中の布、加工されていない布と乱暴ながら天井から吊るされたり棚に仕舞われたりして整頓されている中、店内を占拠しているふてぶてしいほどに重厚な作業机に向かっていた小柄がこちらに振り向いた。
「………」
「うン。ゲレオーアはイるかイ」
「奥」
無口なドワーフの娘が店の奥に通じる通路を指さす。ちょうどその通路からゆっくりと、だが力強い足取りでこちら側に向かって歩いてくる影があった。
作業用のランプに照らし出されたその顔は掘りぬかれた岩盤の断面のように分厚く荒く、厳めしい。
「爺。まダ生キてイたカ」
「だまらっしゃい小僧!お前が老いぼれてもわしゃぁ現役よ!ミズハミシマの軟弱もんとは鍛え方が違うわい!」
あいも変わらず老いてなお口の減らないくそじじいだ。
知らぬ者が見ればさぞかし今の私の面は凶悪になっているだろう。強面の私は普段は出来るだけ表情には気を遣うが、この店では口の端に苦笑いを浮かべることを自重しない。
意気軒昂を通り越して少しは落ち着きを覚えた方がいいゲレオーア爺と、対照的に無表情というよりはとぼけた面の孫娘のルグリーザ。
凸凹の二人組が経営しているこのゲレオーア服飾店で私は腰に手を当て、大きくため息をついて肩をすくめた。
私はヴだ。名前である。一文字だ。本当はもっと長いが正式な名前は誰も覚えられないので割愛する。
《鮫》の魚人である私は海運業を営んでいる。あちらの国で品を買付け、そちらの国で品を売りつけ、こちらの国でまた品を買い付けるといった塩梅に。
しかし今回は商いのためにこんな穴倉の奥までやってきたわけではなかった。むしろ今回の客は私の方だ。
クルスベルグは職人の国だ。火と鉄の国家。鋼をぶっといハンマーで叩く、明朗さと豪快さが共存した音が毎日国中に響き渡る。
この国の職人共と言えば皆槌を振りかぶって鉄を打つドワーフどもを指す。が、一部それにあてはまらないごく少数が存在する。
紅く熱した鉄を鍛えるには様々な道具が必要だ。それは槌であったり、炉であったり………その中には服装も含まれる。
それには極めて丈夫でしかも動きを邪魔しない服装が必要だ。いかな頑強な肉体を持つドワーフどもといえど紅く溶けた鉄の熱から身を守るにはそれが欠かせない。
そういった『鉄を打つために必要なものを作る職人』という者のひとりが、この目の前にいる年寄り、ゲレオーアだった。
「どウダい、直せルカい」
机越しに渡した分厚い革製の長袴をゲレオーアが受け取った。まるまる太った芋虫のような太い指には似つかわしくない繊細さな扱い方で革を撫でたゲレオーラが即答する。
「駄目だな。これ以上は直してもくたびれるばかり、今度ばかりは限界だ。寿命ってやつだな。大人しく新しいのを買え」
「ソうカ…。下取りシてクレルか」
返事の代わりにふんっと鼻息を漏らした髭面の翁は私の長袴を綺麗に折りたたむと机の脇に置く。
「お前みたいなでかぶつ用にうんと丈夫に作ってやったのにとうとう履き潰しやがって。いままで何度修繕してやったと思ってる」
「…すマナい」
「まぁ縫ってやったきりずっと箪笥の底にしまうアホよりかはマシだな!ルグリーザ!採寸の準備だ!」
ゲレオーアが手を打つと奥に引っ込んでいた娘がどこか小動物を思わせる忙しなさで飛び出てくる。
私と視線が合うと微かに頬を赤らめて小さく頭を下げた。ルグリーザはゲレオーアの孫娘、兼見習い。体を色気の欠片も無いかっちりとした作業服で包んでいるが、顔立ちはゲレオーアの凶悪な髭面の血筋からどうやってこんな子が生まれたのだろうというほど細い。
しばらくこの店に顔を出さなかったのでどこまでゲレオーアの技を盗めているか知らないが、最初から出来はいい子だった。あとは若干の人見知り癖が治ればいいのだが、クルスベルグの職人の偏屈者揃いは昔からだ。愛想のいいドワーフの職人などついぞ見たことが無い。
せめてゲレオーアのへそ曲がりぶりを受け継がなければいいのだがと心から願うばかりである。
ルグリーザに促されるまま席から立ち上がる。ちょこまかと動き回り寸測りを私の身体に撒きつけるルグリーザに採寸を任せたままゲレオーアは無遠慮かつ含みのある視線を私に向ける。
勝手な爺だ。嘆息しながら私は作業机の上に投げていた背嚢を顎でしゃくって示した。ここまでしかめっ面を崩さなかったゲレオーアの髭面が初めて喜色に頬をほころばせた。
「おうこれよこれ!待っとったぞ!わしゃマセ・バズークの連中は好かんがお前の持ってくる葉巻と蜜菓子だけは認めてやらんことも無い」
「ふン。閉鎖的ナあンタら職人どモの中デも一等頑固者のアんタが私に長袴ヲ作っテくレルのハそレが目的だロう」
「当たり前よ、そうじゃなきゃ誰が磯臭い鮫野郎にわしの作品を売ってやるか」
ずけずけと私欲を隠そうともしない。この爺はさぞかし長生きする事だろう。舌打ちが意図せず漏れる。
胴回りを計っていたルグリーザが少し怯えた顔で私を見上げたので慌ててやんわりと宥めた。強面の私が愛想よく笑っても他人にはどうも違って伝わってしまうのが難儀である。
さっそくゲレオーアは私の背嚢から葉巻の箱を取り出すとクルスベルグの鍛冶屋の煙突のように鼻と口の穴から紫煙をもくもくやりだしている。
私はルグリーザの寸測りが脚を撫でるくすぐったさに顔をしかめながら話をそれとなく切り出した。
「…とコロで、最近ハどうダい。コのあタリは」
「………」
ぷかあ、と葉巻の煙を輪状に吹き上げながらゲレオーアが地鳴りのような鈍い重低音で唸る。煙を吐き出しながらそうしていると本当に炉か何かのようだ。毛むくじゃらの顔面がぎゅっと縮こまって皺を重ねた。
あまり面白い話ではない、ということは分かって切り出したのだ。反応は予想済み。
ただここで聞いておくのが一番だ。この男は私の知る限りのドワーフどもで最も中立であり、最も情報通である。
これがクルスベルグの闇鍋のようなこのリ・ホーンで長年職人をやっている男の真の実力だ。
「面白くはないな。『王冠派』のアホ共がここのふたつかみっつ下の階で態勢を整えていてきな臭い。近々やらかすだろうともっぱらの噂よ」
「………来ル途中で見かケタよ。やハリか………」
「現体制の連中も情報は掴んでいるらしくてなぁ、戦好きのアホ共が獲物の数揃えにここリ・ホーンに来とったという話だ。まったく、同じような武器を担いで同じような血の気の多いアホ共が同程度のアホな戦争をやらかすんだからやはりアホな話よ」
……こめかみに指をやり円を描く様に揉む。ああ、気が重い。
『王冠派』は単なるならずものというわけではない。暴れ足りない若造の揃う末端に勘定を揃えて懐を肥やす一部、そして本気でこの国をひっくり返すことを考えている気狂いども……クルスベルグの現体制が抱える患部そのものだ。
この国の住民には少なからず前体制への回帰を望む者がいる、というのがミソだ。不透明さは随一。一挙に撲滅とはいかないのが現状である。
煙を吹き出す薬缶となっていたゲレオーアがじろりと私を睨んだ。
「まさかとは思うがお前まさか連中に品を回したりしてねぇだろうな?」
「そンなこト約束でキルもノか。直接卸スことこソしナイが、一度売ッタもノがどコへと流レていクカナど保証シかネる」
「ふん。絶対に売りませんなどと出まかせを言ってわしに媚を売るアホな商人よりは信用できるわい」
面倒くさい爺だ。
まぁ今回は
エリスタリア産の香辛料が主な積荷なのでどう流れていこうとこれといって影響があるわけではないが。
ルグリーザとふと目線が合うと彼女は心なしかすまなさそうに小さく頭を下げた。
採寸のため求められるまま片腕をを持ち上げつつ、喉の奥で押し潰したため息がガス漏れのような音を立てて鼻から溢れた。
「
ラ・ムールと
イストモスの国境沿いデの小競り合イやスラヴィアの暇人どモはともカくとして、ダ。
現状ドニー・ドニーの七大海賊団はそレナりに仲良くやっテいルし、マセ・バズーク国内モ今は小康状態ダ。《ゲート》が開いテ20余年、まダマだ各国ノ関心はそチラにあル」
「何が言いたい?」
「下手ナ内乱状態ハ商人にトってモ損なンダよ。金勘定だケで考えテも今ハ特需ガ必要な状況じゃナい。平和上等、《ゲート》を通シてノ交易の輪ヲ広げタ方が楽だシ得なンだ。クルスベルグで動乱が起こルなラ自分かラ煽りタくはなイ」
だから目先の損益で面白半分に『王冠派』へ首を突っ込むのは、ゲレオーアの言葉を借りれば「アホ」としか言い様がない。
今日こうしてゲレオーアの工房へ足を運んだのは半分がこれが理由だった。どれだけその気運が高まっているのか調べておかなくてはならない。
もし大きく事が荒立つのであれば、爪の垢程度でもそれに加担したくはないのだ。大規模に始まってしまうのならしばらくクルスベルグには近寄れない。
私は正義の商人というわけではない。得をするのなら軍隊にも売りものは売る。だが先が見えているものに品を出すほど脳味噌は小さくないつもりだ。
「………まぁ今回は議会側が動向を押さえたのが早かった。おっぱじまるにしてもそう大きなことにはならんだろう。ここの客足は多少は遠のくだろうがなぁ」
ふいにゲレオーアの調子が沈んだ。ドニー・ドニーの杉で出来た机に頬杖をつき、不機嫌そうに鼻から紫煙を吹き出す。
「《ゲート》が開いて20年、もうそんなに立つか。あの時はたまげたし何か変わるのかもしれんとも思った。実際に大きく変わった部分も多い。だが……アホどもは相変わらずアホなままだな」
この男はクルスベルグの歴史の生き証人だ。視線が工房の窓の外を向いているが、その目に今映っているのは景色ではなく回想かもしれない。
そういえばこの窓、方角を考えるとアインヘフベルグに向いているのか。現体制側が帝国側の軍勢に対し反転攻勢を仕掛けた街にして現クルスベルグの首都。実際に窓から見えるのは光源からもたらされる曖昧とした光に照らされた街並みだが。
…………もしかしてこの男、あの戦争に加担していたのだろうか。それとなく調べてみても彼の経歴には謎が多い。
「わしからすれば帝国時代も今の時代もそれほど大きく変わったようには思わんな。もともと鉄を打つことしか知らんアホどもが槌をペンに持ち替えたところでアホ以外の何にもなれんさ」
「…………………」
口出しが憚られて黙っていると、服が引っ張られる感触。
見下ろすと裾を引っ張っていたルグリーザが黙ってこくりと頷いた。採寸用の紐を巻き取っていく。どうやら終わったらしい。
「ん」
「おう、終わったか。そんじゃまぁ、仕事を始めるかい」
ルグリーザに数字の書き込まれたメモを手渡され、半ばほど吸い終わった葉巻を吸殻入れに置くと地面から丸太を引き抜くような勢いでゲレオーアが立ち上がる。
瞳に真剣な光を宿してメモを読み取っていた翁がふと目線を上げて私を見た。
「で、お前さんよ。『商人にとっては』と言ったが、お前さん自身はどうなんだ?」
「…………………」
少し思案する。
私は商人。人一倍強い財産収集癖のために海を飛び回る魚人だ。儲けが見込めるならどこにでも行くし大抵のものは売る。
だが、そう。ゼルティニーレ・サツド・クイキ・ヴ・アドル・サカグチ・ラーナトッカ・ウレセア・カクル・ファルマシュ・アイオリア・サリューン・シェアドニティン・ゼスリマド・タルヴス・ディチ=エルノにとってなら。
「乱暴ハ好キでハ無イよ。だカらこウシて商人ヲやってイルのダ」
そうでなければ、代々武官の家を飛び出してこんなことをやってはいない。
にた、と唇を歪めたゲレオーアの顔が癪に触った。
リ・ホーンの4層目の隅っこにゲレオーアの工房はある。
だから奥に引っ込んで作業を始めたゲレオーアの金具の音以外は至って静かなものだ。これが通りに出ると居並ぶ店の発する雑音と呼子、行き交う人々の喧騒でやかましいくらいなのだが。
何をするでもなく椅子に座って水煙管をふかしていると背中側から腕が伸びてきて目の前に茶碗が置かれた。小さな手に小さな体、魚人の中でも大柄な私と比べると人形と見紛うルグリーザの腕である。
「どうぞ」
「うン。あリガとウ」
鼻はよく利くので茶碗に鼻を近づけずとも何が入っているのかわかる。クルスベルグの薬草臭い茶だ。
大雑把な部分と繊細な部分の差が激しいこの国において、茶は後者に位置する。適当に値段を優先して買うのではなく専門の店で吟味して買うものだ。
ここまで来る間にも茶葉を売る出店はいくつもあった。薬草を煎じたものが一般的だが、発酵茶や果実を加えたもの、また値段や価値もピンキリである。
癖や飲みやすさも千差万別だが私は幸いなことによほど飲みにくいものでなければ美味しくいただける舌をしている。
茶碗から薄緑色の茶を口の中へ含む。舌先で転がして鼻に抜ける薬草の香りを味わっているとルグリーザがちょこんと対面に座った。その仕草、リスのよう。
……本当に可愛らしい容姿の子だ。比較的体は小さな種族であるドワーフでもさらに小柄な方ではなかろうか。先ほど私の体の採寸を取るにしても脚立を使わねば満足に測れない有様だった。
白い肌、くすんだ灰色の髪の毛、全体的に色素の薄い容姿を無骨な作業服で固めている。少し彼女には大きいのか袖が余っていた。首筋にかかる程度に短く揃えた髪には年頃の娘らしく小さな髪飾りを刺している。
質素ながら舌を巻くほど精緻な細工が掘られたこの髪飾り、なんとゲレオーアが一から作ったものらしい。最悪な顔と図体と言葉回しに似合わず恐ろしく繊細な仕事をする年寄りだ。しかも専門外の金細工である。
「………」
「………」
お互い言葉もなく茶を啜る。初めて会った頃から変わらず無口な子だ。あの口の減らない爺と本当に血縁があるのか疑ったことがあるが、爺さん曰く嘘ではないらしい。
今は父母ともにスパルテンベルグにいるらしいが、その彼女が何故ゲレオーアに預けられれているかまでは聞けなかった。聞くべきではないだろう。突っ込んだ事情は見て取れる。
手元の自分の茶碗を撫でていたルグリーザが小さな口を開いた。故郷にある貝を思わせる薄くて淡い桃色の唇。
「おじいちゃんは」
「うン」
「いつもヴさんが来るの、楽しみにしてる」
「葉巻ヲ持っテ来ルかラナ」
「そうじゃなくて」
伏しがちに茶からかすかに立ち上る湯気を眺めていた、明るい鳶色の瞳が私を見る。
最初は私のいかつい外見を怖がったのか目線すら合わせてくれなかったのに、人とは慣れるものだ。
「おじいちゃん、本当に仲いい友達少ないから」
「…………………」
………。
ああ、うん。
私は水煙管を咥えて煙を吸い込み、どう答えたものかしばし考えを巡らせた。
「…………まっタク、寂シい老後ダな」
「ふふ」
私の濁った発音も苦笑も何も知らない者にはやくざ者の凶相に見えるはずだが、ルグリーザはようやくはにかんだ。
穴蔵の中にあるリ・ホーンでは日没など見えようもないが、そろそろ腹時計が鳴っている。さて、せっかくなので台所を借りてこの孫娘とついでに爺に珍品をご馳走するとするか。
私は背嚢を手元に引き寄せた。
- クルスベルグの薄暗い面と細かい風景描写は読んでてワクワクした -- (名無しさん) 2015-11-19 02:39:34
- うーん異世界情景あふれる丁寧な書き方だからだれないのがいいな。今回特に内容量が大きいけどクルスを歩いて見せたいというのが伝わってくる。物への愛着わく一本 -- (名無しさん) 2015-11-19 22:32:27
- 洞窟ならではの雑多市で広がる異種異文化面白い。クルスベルグの技術と一緒に人生を歩んだ爺さんの今に乾杯 -- (名無しさん) 2017-08-05 17:21:03
最終更新:2015年11月18日 16:00