身体としての人間の“健康”と自然
2011.7.31 亀山研マラソンゼミ 研究発表 菊地明暢
一 はじめに
前回までのゼミでは、日本人の自然観・死生観や、“伝統”とは何かについて発表してきた。まず、これらの発表内容と、今回の発表内容との関連性について、研究計画の確認の意味もこめて、一言付しておきたい。
私のもともとの問題関心は、(やや大げさだが)「私とは何か・誰か・何をしたいのか」というものである。この問いは抽象的な「我」ではなく、今ここにいる「私」(=菊地という人間)は一体何か、という非常に個人的なものである。前回までの発表内容は、ここから“日本人”である「私」、「私」を創ってきた“伝統”という関心に向かった結果だった。これらの関心はいわば「私の外側」からの注目だったが、今回の内容は「私の内側」からの注目であるといえるかもしれない。何れにしろ発表内容はすべて先の問題関心に関連している。
そして、以上の関心と併せて、今回の発表への直接の問題関心として、「人間にとって、自然と直接(身体的)に関わるということはどういう意味があるのだろう、それは絶対必要なことなのか」という疑問があった。この問いに答えるために「人間にとっての身体とは何か」、「“健康”であるとはどういうことか」を考え、「ウェルビカミング」概念にヒントを得た。
以降、人間にとっての“こころ”と“からだ”の関係をどう捉えるのか、“健康”であるとはどういうことか、人間の“健康”と、社会や自然はどう関係するのか、を考え、人間が身体として自然と関わることにはどういう意味があるか、ということについて、できる限り答えてみたい。
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以降、人間にとっての“こころ”と“からだ”の関係をどう捉えるのか、“健康”であるとはどういうことか、人間の“健康”と、社会や自然はどう関係するのか、を考え、人間が身体として自然と関わることにはどういう意味があるか、ということについて、できる限り答えてみたい。
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二 人間の心―身の関係
1. “こころ”と“からだ”
一般的に、人間の全体は“こころ”と“からだ”に区別して理解されている。もし「私」がそのどちらにあるかと問われれば、多くの人が“こころ”にあると答えるのではないか。しかし、まず前提として認めざるをえないのは、“こころ”は根源的に“からだ”に依存していること、「私」は「私の身体」なしには存在できないということである。“こころ”は身体の活動、特に脳神経系の活動を基礎にして働くものであり、このような物質的基盤がなければ“こころ”が働くことはできない。
しかしまた、“こころ”は常に“からだ”からの働きかけを受けながら、同時に“からだ”へ働きかけてもいる。例えば人間がある対象を知覚するときは、身体に配置されているさまざまな感覚器官(視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚)のすべてを動員して対象を把握する。この知覚作用においては、“こころ”が形成した対象のイメージが、運動する身体によって修正されるという「知覚の循環」がある(種村1998)(図1)。
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しかしまた、“こころ”は常に“からだ”からの働きかけを受けながら、同時に“からだ”へ働きかけてもいる。例えば人間がある対象を知覚するときは、身体に配置されているさまざまな感覚器官(視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚)のすべてを動員して対象を把握する。この知覚作用においては、“こころ”が形成した対象のイメージが、運動する身体によって修正されるという「知覚の循環」がある(種村1998)(図1)。
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2. ブンゲの「創発主義的唯物論」
根源的依存という前提を認めながら、“こころ”と“からだ”の関係を考えるとき、種村(1998)が取り上げているM.ブンゲの「創発主義的唯物論」が参考になる。孫引きになるが、ブンゲの主張は以下のようである。
(1)すべての精神的状態、事象、過程は、高等脊椎動物の脳内の状態、事象、過程である。
(2)これらの状態、事象、過程は、脳内の細胞的構成要素の状態、事象、過程に対して創発的である。
(3)いわゆる精神物理的(つまり心身相関的)関係は、脳の様々の異なった諸下位システム間の、或いはそれらのどれかと当の有機体の他の構成要素との間の、相互作用である。(『精神の本性について』)
(2)の創発性と(3)の相互作用について、ブンゲは中枢神経系(CNS)の「可塑的ニューラル・システム」に注目して説明する。CNSは「恒常的環境下においてさえ、その構成または編成(構造)を、したがってまたその機能(活動)のいくばくかを、変化させる能力」を有し、さらに人間のCNSは、他の動物に比べ最大の、拘束されていない、自己編成力をもつ(他の動物種ではこの可塑性は大きく制限される)。これによって人間は独自の創造的機能をもつことができる。
さらにブンゲは、このCNSとその下位システムが、他のシステムまたは外部環境からの外的刺激によるだけでなく、恒常的自発的に活動していることを指摘する。
ブンゲは精神を物理・化学法則に還元する向きに反対し、精神と脳の異質性を認め、精神(的機能)の物質レベルからの「創発」を認める。ただし注意すべきは、精神の実体性は認めず、あくまで「可塑的ニューラル・システムと、拘束されたニューラル・システム(またはCNSの一部でない身体的システム)との間の」相互作用と語るべきだと述べている点である。
ブンゲは精神を物理・化学法則に還元する向きに反対し、精神と脳の異質性を認め、精神(的機能)の物質レベルからの「創発」を認める。ただし注意すべきは、精神の実体性は認めず、あくまで「可塑的ニューラル・システムと、拘束されたニューラル・システム(またはCNSの一部でない身体的システム)との間の」相互作用と語るべきだと述べている点である。
私もこのブンゲの考え方がかなり妥当だと考えている。ただし、CNSの自発性を認めつつ、現実の人間のあり方においては、CNSと下位システムだけでなく、他の身体システムとの相互作用もCNSの自己編成に決定的な影響を及ぼしていると考えるべきだと強調したい。
以上の観点から、「私」とは基本的に、(あえて言えば)「私の身体」からのみ捉えられるということができる。それをふまえて、次に「私の身体」はどうあるべきなのかについて考える。
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以上の観点から、「私」とは基本的に、(あえて言えば)「私の身体」からのみ捉えられるということができる。それをふまえて、次に「私の身体」はどうあるべきなのかについて考える。
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三 「私の身体」の 在り方
1. 「ウェルビカミング」としての“健康”
「私の身体」はどうあるべきか、という問いに対して、“健康”であることが望ましい、という答えがあると思う。では、この“健康”とは一体どういうことだろうか。
森下(2003)は、「安らぎのパトス」をキーワードに、これに向かう「回復への欲動」を中心とする「自己回復の循環生成」と、他の2つの循環とが相互に関係しあう三重の循環構造としての健康概念(「ウェルビカミングwell-becoming」)を提唱した。
三重の循環構造とは、「自己回復の循環生成」を中心とする「活力の循環生成」、「死と再生の生命循環」の構造である(図2)。ここでのポイントは、苦しみからの「回復への欲動」と、それに伴う「安らぎ」の快さの循環を健康の中軸としている点である(消極的健康)。それを基本として積極的健康としての「活力の循環生成」が成り立ち、その「根拠」として「死と再生の生命循環」がある。
森下によれば、「回復への欲動」が、人間の「根本的な欲動(消極的な快)」であり、その後から「性的欲動」「保護・庇護への欲動」「自己拡張への欲動」といった派生的な欲動(積極的な快)が発生するという。従来の健康概念は気力・元気・活気・快活といった「活力」(積極的健康)に引き付けられてきたが、「健康の核心は消極的な「自己回復の循環生成」であり、これが確保されることで「活力」が支えられる」のである。
「自己回復の循環生成」は人間一人一人の身体状態と感受性の差異を反映するため、個別的である。個別的な循環と生命の全体とのリンクとして、「死と再生の生命循環」が用意される。この循環を担保するものとしてV.v.ヴァイツゼッカーの「死の連帯性」とそれを踏まえた「犠牲」という生命観がある。「死の連帯性」とは、「栄養、成長、生殖などの場面を見れば明らか」なように、「生きるということは他の生き物を殺すこと」であり、「他の生き物との間でも親子の間でも、生き物はすべて殺しあうことで生きている」という「冷厳にして包括的な生命の構造」である。
三重の循環構造とは、「自己回復の循環生成」を中心とする「活力の循環生成」、「死と再生の生命循環」の構造である(図2)。ここでのポイントは、苦しみからの「回復への欲動」と、それに伴う「安らぎ」の快さの循環を健康の中軸としている点である(消極的健康)。それを基本として積極的健康としての「活力の循環生成」が成り立ち、その「根拠」として「死と再生の生命循環」がある。
森下によれば、「回復への欲動」が、人間の「根本的な欲動(消極的な快)」であり、その後から「性的欲動」「保護・庇護への欲動」「自己拡張への欲動」といった派生的な欲動(積極的な快)が発生するという。従来の健康概念は気力・元気・活気・快活といった「活力」(積極的健康)に引き付けられてきたが、「健康の核心は消極的な「自己回復の循環生成」であり、これが確保されることで「活力」が支えられる」のである。
「自己回復の循環生成」は人間一人一人の身体状態と感受性の差異を反映するため、個別的である。個別的な循環と生命の全体とのリンクとして、「死と再生の生命循環」が用意される。この循環を担保するものとしてV.v.ヴァイツゼッカーの「死の連帯性」とそれを踏まえた「犠牲」という生命観がある。「死の連帯性」とは、「栄養、成長、生殖などの場面を見れば明らか」なように、「生きるということは他の生き物を殺すこと」であり、「他の生き物との間でも親子の間でも、生き物はすべて殺しあうことで生きている」という「冷厳にして包括的な生命の構造」である。
以上が森下のいう「ウェルビカミング」であるが、これについて私なりに2点批判と修正を加えたい。1つは、「回復への欲動」と「派生的欲動」は同時に存在すると考えるべきであること。森下は「派生的な欲動群」が「回復への欲動」の後から発生する(「上書きされる」)とみている。
しかし私の実感としては、「回復への欲動」の充足過程であっても「派生的な欲動」は存在するが、いわばスポットライトが当たっていない状態であり、意識されにくくなる、という解釈が自然であるように思う。
2つめは、三重の循環のうち「自己回復」が根源であることは確かだと思うが、これら3つの循環は等価であるべきこと。森下は「自己回復の循環生成」を強調するが、「自己回復」が確保されていれば「活力」は確保されなくとも満足される、というわけではない。「自己回復」を基礎としつつ、三重の循環すべてが滞りなく回っていることが望ましいのではないか。
つまり、「私の身体」の望ましいあり方は、「三重の循環すべてが滞りなく確保されていること」であると考えるべきということになる。
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しかし私の実感としては、「回復への欲動」の充足過程であっても「派生的な欲動」は存在するが、いわばスポットライトが当たっていない状態であり、意識されにくくなる、という解釈が自然であるように思う。
2つめは、三重の循環のうち「自己回復」が根源であることは確かだと思うが、これら3つの循環は等価であるべきこと。森下は「自己回復の循環生成」を強調するが、「自己回復」が確保されていれば「活力」は確保されなくとも満足される、というわけではない。「自己回復」を基礎としつつ、三重の循環すべてが滞りなく回っていることが望ましいのではないか。
つまり、「私の身体」の望ましいあり方は、「三重の循環すべてが滞りなく確保されていること」であると考えるべきということになる。
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2. 「ウェルビカミング」と自然
「私の身体」は、「死の連帯性」を考えても分かるように、物質的・生物的環境・生態系=自然に依存しており、それ抜きには存在し得ない。「自己回復の循環生成」が確保されるためには、このような自然(「死と再生の生命循環」)が確保されていなければならない。そして亀山(2005)がいうように、自然は入れ子構造をなしており、最上層の自然は地球の生態システムだが、これは下層の多数のシステムを含む多層構造から成り立っている。この下層構造に含まれるひとつひとつの自然は互いに連関・依存しているため、ひとつが破壊されれば、他の自然にも影響が及び、最終的には最上層の地球生態システムを脅かす。そうなれば、「私の身体」も維持できなくなってしまう。これはいわば「外側」から考えた場合の「私の身体」と自然との関係性である。この側面から明確に言えることは、身近な自然を守ることの重要性、「私の身体」との具体的な関係性である。
では「内側」から考えるとどうなるのか。「外側」から考えることで「死と再生の生命循環」と「自己回復の循環生成」とは一応確保されることを確認したので、残るは「活力の循環生成」となる。この循環が「身体として自然と関わることの意味」を明らかにするのではないか。
「活力の循環生成」について確認すると、「自己回復の循環」によって支えられた「活力」が「派生的な欲動群(性的欲動、保護・庇護の欲動、自己拡張の欲動)」を賦活し、さらに欲望群を発生させる。逆にそれら欲動・欲望によって刺激された「活力」が今度は「回復への欲動」を刺激する、という循環であった。またそれぞれの欲動の意味は、有性生殖の戦略としての「性的結合への欲動」、これと結びついて創出された親子の関係における親の側(保護)・子の側(庇護)の欲動、そして環境(ここでは自然に限らない)への積極的能動的な探索活動の延長として、多様なものに関心を示して積極的な快楽を求める「自己拡張の欲動」である。
ひとつ明らかなのは、この循環は社会性(または共同性)が担保されなければ確保することはできないことである。「派生的な欲動群」のうち性的欲動と保護・庇護の欲動は他者の存在、他者とのコミュニケーションを解さなければ充足することができない。この側面では、共同性を確保するために自然が果たす役割が注目されるが、身体としての自然との関わりを直接要求するものではないと考えられる。
ひとつ明らかなのは、この循環は社会性(または共同性)が担保されなければ確保することはできないことである。「派生的な欲動群」のうち性的欲動と保護・庇護の欲動は他者の存在、他者とのコミュニケーションを解さなければ充足することができない。この側面では、共同性を確保するために自然が果たす役割が注目されるが、身体としての自然との関わりを直接要求するものではないと考えられる。
それに対して「自己拡張の欲動」について考えてみる。これは環境への能動的な関わりを求める欲動として想定されている。ここで改めてブンゲの「創発主義的唯物論」を想起してほしい。ブンゲは中枢神経系(CNS)の可塑性こそ人間の創造的機能の核心であるとし、CNSの自発的活動と、その下位システムまたはその他身体システムとの相互作用を認めた。ここで「自己拡張の欲動」とは、このCNSの自発的活動と相互作用の活性化を要求するものではないかと考えられる。そこで先に確認したように、この活性化というのは身体の知覚システムを総動員して環境と関わることが必要である。仮にこれを「身体の活性化」と呼ぶとする。ここで人工的環境と自然的環境という区別を採用すれば、後者のほうがより「身体の活性化」率が高いといえないか。
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3. 身体として自然と関わること
つまり、①「ウェルビカミング」の三重の循環を確保することが、「私の身体」の望ましい在り方である。②その中でも「活力の循環生成」は、「身体の活性化」を要求する。③「身体の活性化」を達成するには、自然的環境が最も適している。ということになる。
③について、例えば、都会のビル街を歩く場合と、夏の広葉樹林の山道を歩く場合を比較して考えてみると、この場合は明らかに後者のほうが身体を活性化させるのではないだろうか。
環境から働きかけられる情報の多様性、また身体からの環境への働きかけの可能性を考えれば、人口の空間の貧困さは明らかなように思える。
ちなみにこの観点から、他者とのコミュニケーションもまた言語に還元できない身体的なものであるから(種村1998)、実際に顔を突き合せないコミュニケーションが望ましくないということも言える。
問題は、SFチックな話になるが、いわゆる仮想現実が限りなく現実に近づいたとき、「本物の」自然とどう区別できるかということである。もしも仮想現実によって「本物」と寸分違わない「現実」が作り出せるとすれば、それを「体験」することで満足することに対してこの観点では反論できないかもしれない(その場合でも「死と再生の生命循環」から反論はできるが)。
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③について、例えば、都会のビル街を歩く場合と、夏の広葉樹林の山道を歩く場合を比較して考えてみると、この場合は明らかに後者のほうが身体を活性化させるのではないだろうか。
環境から働きかけられる情報の多様性、また身体からの環境への働きかけの可能性を考えれば、人口の空間の貧困さは明らかなように思える。
ちなみにこの観点から、他者とのコミュニケーションもまた言語に還元できない身体的なものであるから(種村1998)、実際に顔を突き合せないコミュニケーションが望ましくないということも言える。
問題は、SFチックな話になるが、いわゆる仮想現実が限りなく現実に近づいたとき、「本物の」自然とどう区別できるかということである。もしも仮想現実によって「本物」と寸分違わない「現実」が作り出せるとすれば、それを「体験」することで満足することに対してこの観点では反論できないかもしれない(その場合でも「死と再生の生命循環」から反論はできるが)。
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四 おわりに
「私の身体」から出発して「身体としての自然との関わり」の意味についてそれなりには描くことができたのではないかと思うが、論理になっていないような気もする。また、ここでは時間がなく重要な「私の身体」と社会との関係について書くことができなかった。今後はそれも併せてそれぞれの論点をもっと精確に組み立てていきたい。
また夏休みは、冒頭の問題関心を軸にしてこれまでの論点を改めて繋げ、それぞれに残している論点について深めつつ、卒論の章立ての構想を作成するところまでは進めたい。
また夏休みは、冒頭の問題関心を軸にしてこれまでの論点を改めて繋げ、それぞれに残している論点について深めつつ、卒論の章立ての構想を作成するところまでは進めたい。
◎論点
- ウェルビカミングについて説明できているか
- 仮想現実について


参考文献
亀山純生『環境倫理と風土―日本的自然観の現代化の視座』大月書店2005
桑子敏雄『空間と身体―新しい哲学への出発』東信堂1998
種村完司『心―身のリアリズム』青木書店1998
宮田尚之編著『現代健康学』協同出版1970
森下直貴『健康への欲望と<安らぎ>―ウェルビカミングの哲学』青木書店2003
桑子敏雄『空間と身体―新しい哲学への出発』東信堂1998
種村完司『心―身のリアリズム』青木書店1998
宮田尚之編著『現代健康学』協同出版1970
森下直貴『健康への欲望と<安らぎ>―ウェルビカミングの哲学』青木書店2003