目次
東と西のあいだ
東の文化、西の文化
文明の生態史観
新文明世界地図 比較文明論へのさぐり
生態史観から見た日本
東南アジアの旅から 文明の生態史観・つづき
アラブ民族の命運
東南アジアのインド
「中洋」の国ぐに
タイから、ネパールまで 学問・芸術・宗教
比較宗教論への方法論的おぼえがき
東の文化、西の文化
文明の生態史観
新文明世界地図 比較文明論へのさぐり
生態史観から見た日本
東南アジアの旅から 文明の生態史観・つづき
アラブ民族の命運
東南アジアのインド
「中洋」の国ぐに
タイから、ネパールまで 学問・芸術・宗教
比較宗教論への方法論的おぼえがき
【総論】
梅悼自身による理論の総括、その核心部分の主張は以下のとおり。
梅悼自身による理論の総括、その核心部分の主張は以下のとおり。
要するに、第一地域は、第二地域からくる攻撃や破壊からまもられた温室のように見えます。この温室のなかで、めぐまれた社会が繁栄するのです。もっとも条件のよいところでぬくぬくとそだち、何回か脱皮をくりかえして今日にいたったわけです。遷移の理論をあてはめると、第一地域は遷移が順序よくおこなわれた地域ということになります。この地域では、歴史は本質的に、共同体の内部からの力による発展とかんがえることができます。これが自成的遷移(オートジェニック・サクセッション)とよばれるものです。これに対し、第二地域では、たいていの場合、歴史は外部からくる力によってうごかされます。ここででは遷移が他成的(アロジェニック)におこなわれます。
「近代日本文明の形成と発展」コレージュ・ド・フランス識義録、1984年『日本とは何か』NHKブックス、141頁
cf.津田雅夫「風土論への期待--その思想史的明暗に寄せて」
- 梅樟忠夫は、和辻哲郎『風土』の戦後への継承を担ったといえる。『文明の生態史観』(中公叢書、1967年、論文初出、『中央公論』1957年2月号)において、それまでの「みんなが議論している日本と西洋とのちがいなんて、問題にならぬくらい、ちいさいのではないか。むしろ日本と西ヨーロッパは、基本的な点で一致する。両者はおなじタイプの歴史をもっているのではないだろうか」と根本的に問いかけ、その一例として「封建制」の存在を指摘しました(中公文庫版、70-71頁)。そして「旧世界を第一地域と第二地域」とに分け、もともと基本的に両者は「社会の構造がかなりちがう」(同上、113頁)ことに注意を促した。そこから第一地域における「封建制の平行的発展」と、第二地域における四つの「巨大な専制帝国の社会史(四大ブロック並立状態)」(同上、121頁)との文明論的な比較研究の視点を提示した。
- この論点を梅悼は「生態史観」と名付けた理論のうえに説明しようとした。ここには歴史と風土を問い直す発想の転換が示されていました。つまり、「歴史というものは、生態学的な見かたをすれば、人間と土地との相互作用の進行のあとである。べつなことばでいえば、主体環境系の自己運動のあとである。その進行の型を決定する諸要因のうちで、第一に重要なのは自然的要因である。そして、その自然的要因の分布は、でたらめではない」(同上、216頁)。ここでは宗教も「風土病」と類比的に把握され、その「宗教生態学」は「精神の疫学」(同上、304頁)として「生態学的研究」という名の下に提起された。そのさい、「主体環境系の自己運動」における「相互作用」の力動性が語られながらも、なお固定的な自然環境による決定論的傾向を帯びることになる。
【和辻の風土論と、梅棹の生態史観は、何が異なるか】
梅棹忠夫『文明の生態史観』には「風土」という語句はほとんど登場しないが、参照されているのは和辻的風土論であると位置づけてよい。和辻の風土論にあった「国民性論」が脱色(中性化)されて、「生態史観」という風土論が、「単なる知的好奇心の産物」(同上、177頁)として、「比較文明学」という一つの客観的な「理論」として捉え直された側面は評価できる。論議や批判は、その評価の先の事柄です。多くの批判を浴びながら梅悼理論は風土論的な文明史観として、以後、多様な展開を遂げることになる。
梅棹忠夫『文明の生態史観』には「風土」という語句はほとんど登場しないが、参照されているのは和辻的風土論であると位置づけてよい。和辻の風土論にあった「国民性論」が脱色(中性化)されて、「生態史観」という風土論が、「単なる知的好奇心の産物」(同上、177頁)として、「比較文明学」という一つの客観的な「理論」として捉え直された側面は評価できる。論議や批判は、その評価の先の事柄です。多くの批判を浴びながら梅悼理論は風土論的な文明史観として、以後、多様な展開を遂げることになる。
【梅棹をさらに継承するものとして】
- 川勝平太は『文明の海洋史観』(中央公論社、1997年)で、「唯物史観に劣らず生態史観も陸地文明論」であるとして、その修正を企てる。彼は「梅悼文明地図」が「天才的作図」と言うべきものであり、「地域論の出発点にすえるべきもの」として、「海洋」を周辺に配置した「修正図」を提示する(152頁以下)。「海洋」の要素の強調、とくに「海と近代文明の勃興との関係」(同上、163頁)という焦点の置き方において相違はありますが、基本的な構造は梅棹のものと変わらない。