福嶋卒論
まえがき 問題意識と論旨
近年世界的な規模で取り沙汰される地球温暖化などの環境問題や石油資源枯渇にともなうエネルギー問題、経済の不均衡がもたらす南北格差の問題から、わが国での政権交代による政策変更の決定や不景気・デフレに至るまで、連日耳にする種種様々な問題がある。明らかに今自分の身がおかれているこの世界における問題であることは分かってはいるが、だからといって明日のわが身に直接降りかかる不便や不都合には直結せず、どれもどこか他人事で空々しい気さえしている。これほど当事者不在の状況なのはなぜだろうか。確かに問題が大きすぎて一個人にできることなどないと、向き合うことを放棄したくなる態度や心情は理解できる。さりとて一個人には何もできないのか、何もしなくてよいのか、という焦燥感も拭いきれず、結局どうしてこうなったのか、一体何がどうなっているのか、自分の身の丈に合う問題に噛み砕いて考えるという出発点に、まず立ってみることから始めてみようと思うに至った。
何らかの問題を解決するために自分がやらなければならないことを認識し実行するのが責任ある行動だ。これは一見当たり前のことなのだが、現実には頭では分かっていても行動に移すことは別の問題だ、という場合は少なくない。それが単なる言い訳・逃げ口上のこともあれば、本当に心から実行の意志があっても様々な事情で不可能な場合もある。いずれも結果的には責任を果たしたことにはならないのに、頭で分かって実行に移すことだけが責任を引き受けるということと言い切れるのだろうか。実は責任の中身は意外と多様なのではないかという気もする。改めて「責任」とは何か、そしてそれを「行為」で示すとはどういうことなのかを問い直してみることで、様々な問いをどうしたら自分の問題として考えることができるか、またどこに真の問題が潜んでいるのかが見えてくるのではないだろうか。何かことが起こってその責任をとると言うことは、その職務から退くこと、責任をとって辞めることが通例とされる日本社会では、誰か(何か)に責任を擦り付けて片付けてしまうのは簡単かも知れないが、それを繰り返してきたからこそ、責任を逃れることがいつしか目的になっているようにも見える。積極的に責任を引き受けるという思考は望めないことなのだろうか。
冒頭に挙げたような問題はグローバルな規模であるだけに、これは何も日本という地域に限った特殊な問題ではないことは明らかではあるが、自分が身を置く現在の日本社会では特に責任といえば逃れるもの、という傾向が著しいと感じる。それは日本人とは、そのように考えさせる何か特別な性質を持ち合わせている人々だからなのだろうか。かつて丸山眞男が「無責任の体系」と呼んだ日本では、敗戦からわずか半世紀で世界屈指の経済大国に上り詰めるほどの急速な近代化が進んだのは事実だが、その過程で何を得何を失ってきたのか。「責任」と「行為」のそれぞれの分析と両者の関係、そしてその主体として想定する「日本人」というキーワードで見えてくるものが、おそらく私たちがほとんど完全に失いつつある“何か”であることを予測し、一考察としたいと考える。
何らかの問題を解決するために自分がやらなければならないことを認識し実行するのが責任ある行動だ。これは一見当たり前のことなのだが、現実には頭では分かっていても行動に移すことは別の問題だ、という場合は少なくない。それが単なる言い訳・逃げ口上のこともあれば、本当に心から実行の意志があっても様々な事情で不可能な場合もある。いずれも結果的には責任を果たしたことにはならないのに、頭で分かって実行に移すことだけが責任を引き受けるということと言い切れるのだろうか。実は責任の中身は意外と多様なのではないかという気もする。改めて「責任」とは何か、そしてそれを「行為」で示すとはどういうことなのかを問い直してみることで、様々な問いをどうしたら自分の問題として考えることができるか、またどこに真の問題が潜んでいるのかが見えてくるのではないだろうか。何かことが起こってその責任をとると言うことは、その職務から退くこと、責任をとって辞めることが通例とされる日本社会では、誰か(何か)に責任を擦り付けて片付けてしまうのは簡単かも知れないが、それを繰り返してきたからこそ、責任を逃れることがいつしか目的になっているようにも見える。積極的に責任を引き受けるという思考は望めないことなのだろうか。
冒頭に挙げたような問題はグローバルな規模であるだけに、これは何も日本という地域に限った特殊な問題ではないことは明らかではあるが、自分が身を置く現在の日本社会では特に責任といえば逃れるもの、という傾向が著しいと感じる。それは日本人とは、そのように考えさせる何か特別な性質を持ち合わせている人々だからなのだろうか。かつて丸山眞男が「無責任の体系」と呼んだ日本では、敗戦からわずか半世紀で世界屈指の経済大国に上り詰めるほどの急速な近代化が進んだのは事実だが、その過程で何を得何を失ってきたのか。「責任」と「行為」のそれぞれの分析と両者の関係、そしてその主体として想定する「日本人」というキーワードで見えてくるものが、おそらく私たちがほとんど完全に失いつつある“何か”であることを予測し、一考察としたいと考える。