福嶋卒論
序章 日本人とは
(ⅰ) 「分」をわきまえるということ
日本人とはどのような人たちかを考えるにあたり、まず注目すべきは日本人論の古典ともいうべき『菊と刀』(1946年)の存在である。内外を通じ戦後日本論の前提として読み継がれているこの書物は、アメリカ合衆国による戦後の日本統治のための研究レポートをもとに書かれた、ルース・ベネディクトによる名著といえるだろう。その内容は日本を一度も訪れたことがないとは思えないほどの、精緻で的を得た、そして何より文化人類学を基盤とする公平な文化相対主義にもとったホーリスティックな比較文化論であるという好意的な評価が支配的であり、これ以降の日本人論・日本文化論はこの名著抜きには論じられないといわれるほどの影響力を持ったといえよう。特に日本人自身が、日本人以外には理解できないと思っていたような最も日本人らしいとされる要素についての指摘が詰まった、それまでになく日本文化の全体像を示そうとした画期的な書という位置づけは、出版から半世紀以上経った現在でも揺るがないと考える。では、ベネディクトが描き出した日本人を日本人たらしめるものとは一体何だったのだろうか。
彼女の指摘したポイントを大きくまとめると、「分」という言葉にこめられた社会階層制度の中での位置について、恩や義理人情といった人間関係のあり方や人生観の基本となる考え方、そして罪の文化と恥の文化といった道徳・規範のもつ強制力の出所の差異、の三点が挙げられる。いずれもそれぞれに核心をついた論点であると思うので、詳しく見ていくこととしたい。
日本人とはどのような人たちかを考えるにあたり、まず注目すべきは日本人論の古典ともいうべき『菊と刀』(1946年)の存在である。内外を通じ戦後日本論の前提として読み継がれているこの書物は、アメリカ合衆国による戦後の日本統治のための研究レポートをもとに書かれた、ルース・ベネディクトによる名著といえるだろう。その内容は日本を一度も訪れたことがないとは思えないほどの、精緻で的を得た、そして何より文化人類学を基盤とする公平な文化相対主義にもとったホーリスティックな比較文化論であるという好意的な評価が支配的であり、これ以降の日本人論・日本文化論はこの名著抜きには論じられないといわれるほどの影響力を持ったといえよう。特に日本人自身が、日本人以外には理解できないと思っていたような最も日本人らしいとされる要素についての指摘が詰まった、それまでになく日本文化の全体像を示そうとした画期的な書という位置づけは、出版から半世紀以上経った現在でも揺るがないと考える。では、ベネディクトが描き出した日本人を日本人たらしめるものとは一体何だったのだろうか。
彼女の指摘したポイントを大きくまとめると、「分」という言葉にこめられた社会階層制度の中での位置について、恩や義理人情といった人間関係のあり方や人生観の基本となる考え方、そして罪の文化と恥の文化といった道徳・規範のもつ強制力の出所の差異、の三点が挙げられる。いずれもそれぞれに核心をついた論点であると思うので、詳しく見ていくこととしたい。
①「分」をわきまえるということ
三点の中でもおそらく最大のポイントといえる指摘が、「分」についての分析であろう。端的に日本人の特徴を捉えているだけでなく、当時の欧米人から見た日本人の不可解さの根本とも言える点といえるのではないだろうか。
つまり、日本人は誰でも、まずは家庭内での階層制度の習慣を学びそれをさらに広い範囲へと適用する中で、自分が占めるにふさわしい位置を見つけていく。自分をとりまく状況の中での相対的な位置づけである「分」をわきまえるということこそが、日本人の社会関係の基本であり、人間相互間の関係および人間と国家の関係についていだいている観念全体の基礎となっている。すべてのものには「あるべき場所」があり、その通りに置かれるべきであるというのである。その上で、上下関係を中核とした世代と性別と年齢の特権的な関係によって家族関係を底部におく社会・人間関係を形成するという分析である。
それら「あるべき場所」の位置づけは相対的であるから、状況が変わればそれに応じてふさわしい位置も変化するのであり、状況に応じて個別化されたそれぞれに正しい標準があることになる。この点は、個人の一貫した価値観が前提とされる欧米社会から見れば、日本人とは人格の統合が失われた二重人格者のようにしか見えないことは想像に難くないが、日本人にとってはあらかじめ決められている「地図」に従っているだけのことであり何ら矛盾するものではないのである。
②恩と義理
日本人の行動は、「忠・孝・義理・仁・人情・恩」など日本人の人生観と世界観を表現する概念と連鎖的に結びついて行われているとし、例えば「恩」と「義理」とは規範的な義務感で結ばれる対概念であり、いわば精神的な「貸借」関係を形成する。ここに「恩」とは負債であって返済しなければならないものであり、徳は人が積極的に報恩行為に身をささげるときに始まる、という社会原理を見て取ることができる。ベネディクトによる日米の比較においては、両国の国民の自尊心が結び付けられている態度は異なるものであり、米国では自分のことは自分で処理するという態度に、日本では自分が恩恵を受けたと考える人に恩返しをするという態度に依存しているとされている。また、日本人にとっては上からの命令には絶対的に従うという「忠」とは最高の掟であり、たとえその命令が降伏であったとしても天皇の命令であったと言いうる権利を獲得した、とも述べている。
さらに、そこかしこに現れる仲介者の制度についても注目し、間接的に取引を行うことで当事者は、もし直接に話し合えば名に対する「義理」の手前、どうしても腹を立てずにはいられないような要求や非難を知らずに済むことや、失敗が恥辱を招くような機会を避けていると分析している。
③恥の文化
日本人にとっての自重とは、他人の行動の中に看取されるあらゆる暗示に油断なく心を配り、周囲に配慮して自分を抑えるように努めることであり、他人が自分の行為を批判するということを強く意識することを含めた慎重と同一であると指摘する。つまりそれは自分の外の世間の見方に従うことを是とし、社会意識は「外面的強制力」によって身につけるということに他ならず、同時に「正しい行動の内面的強制力」が希薄で何が正しい行動なのかの判断は「世間」によって決められるということである。
道徳の絶対的標準を説き、良心の啓発を頼みにする社会を「罪を基調とする文化」とするならば、それに対して日本は、悪い行いが「世人の前に露顕」しない限り思いわずらう必要はなく、人間に対してはもとより神に対してさえも告白するという習慣のない、「恥を基調とする文化」であるという。よって日本人は、一定の掟を守って行動しさえすれば必ず、他人が自分の行動の微妙なニュアンスを認めてくれるに違いないという安心感をたよりとして生活するように育てられたという特有の問題を抱えているのだと指摘する。
三点の中でもおそらく最大のポイントといえる指摘が、「分」についての分析であろう。端的に日本人の特徴を捉えているだけでなく、当時の欧米人から見た日本人の不可解さの根本とも言える点といえるのではないだろうか。
つまり、日本人は誰でも、まずは家庭内での階層制度の習慣を学びそれをさらに広い範囲へと適用する中で、自分が占めるにふさわしい位置を見つけていく。自分をとりまく状況の中での相対的な位置づけである「分」をわきまえるということこそが、日本人の社会関係の基本であり、人間相互間の関係および人間と国家の関係についていだいている観念全体の基礎となっている。すべてのものには「あるべき場所」があり、その通りに置かれるべきであるというのである。その上で、上下関係を中核とした世代と性別と年齢の特権的な関係によって家族関係を底部におく社会・人間関係を形成するという分析である。
それら「あるべき場所」の位置づけは相対的であるから、状況が変わればそれに応じてふさわしい位置も変化するのであり、状況に応じて個別化されたそれぞれに正しい標準があることになる。この点は、個人の一貫した価値観が前提とされる欧米社会から見れば、日本人とは人格の統合が失われた二重人格者のようにしか見えないことは想像に難くないが、日本人にとってはあらかじめ決められている「地図」に従っているだけのことであり何ら矛盾するものではないのである。
②恩と義理
日本人の行動は、「忠・孝・義理・仁・人情・恩」など日本人の人生観と世界観を表現する概念と連鎖的に結びついて行われているとし、例えば「恩」と「義理」とは規範的な義務感で結ばれる対概念であり、いわば精神的な「貸借」関係を形成する。ここに「恩」とは負債であって返済しなければならないものであり、徳は人が積極的に報恩行為に身をささげるときに始まる、という社会原理を見て取ることができる。ベネディクトによる日米の比較においては、両国の国民の自尊心が結び付けられている態度は異なるものであり、米国では自分のことは自分で処理するという態度に、日本では自分が恩恵を受けたと考える人に恩返しをするという態度に依存しているとされている。また、日本人にとっては上からの命令には絶対的に従うという「忠」とは最高の掟であり、たとえその命令が降伏であったとしても天皇の命令であったと言いうる権利を獲得した、とも述べている。
さらに、そこかしこに現れる仲介者の制度についても注目し、間接的に取引を行うことで当事者は、もし直接に話し合えば名に対する「義理」の手前、どうしても腹を立てずにはいられないような要求や非難を知らずに済むことや、失敗が恥辱を招くような機会を避けていると分析している。
③恥の文化
日本人にとっての自重とは、他人の行動の中に看取されるあらゆる暗示に油断なく心を配り、周囲に配慮して自分を抑えるように努めることであり、他人が自分の行為を批判するということを強く意識することを含めた慎重と同一であると指摘する。つまりそれは自分の外の世間の見方に従うことを是とし、社会意識は「外面的強制力」によって身につけるということに他ならず、同時に「正しい行動の内面的強制力」が希薄で何が正しい行動なのかの判断は「世間」によって決められるということである。
道徳の絶対的標準を説き、良心の啓発を頼みにする社会を「罪を基調とする文化」とするならば、それに対して日本は、悪い行いが「世人の前に露顕」しない限り思いわずらう必要はなく、人間に対してはもとより神に対してさえも告白するという習慣のない、「恥を基調とする文化」であるという。よって日本人は、一定の掟を守って行動しさえすれば必ず、他人が自分の行動の微妙なニュアンスを認めてくれるに違いないという安心感をたよりとして生活するように育てられたという特有の問題を抱えているのだと指摘する。
以上見てきた『菊と刀』での指摘は、ベネディクト以後、特に70年代に次々と出された日本人論の主題とも深く関わっていると思われるが、その一方でいまの日本人から見れば必ずしも納得がいく指摘ばかりではないとも言えそうである。なぜ納得できないのかも含めて、日本人論の主題がどのように変遷してきたのか、何が語られてきたのかを次節にて考えてみたいと思う。
(ⅱ) 日本人論の変遷と主題
戦後の日本を日本の内部から日本人自身によって批評してきた日本人論とは、その時代ごとの空気や潮流を故意であろうとなかろうと、多かれ少なかれ反映していると思われる。よってその論述の変遷を見るということは、日本社会がどのように変遷してきたかという大きなうねりの一端を垣間見ることにもなるであろう。自分が問題視するいまの日本の風潮の影にはどのような流れがあったのか、先の『菊と刀』の論点との相違に留意しながら考えてみたい。
まず、終戦から経済復興を成し遂げるまでの期間(1945~54年ごろといえる )は、兎に角古くさくて後進的な日本を否定し、欧米を先進モデルと仰ぐ傾向がかなり強かったといえそうである。敗戦という無残な失敗を引き起こした前近代的で封建的な「遺制」を取り払い、それらに代わる新しい合理的な社会を創って「民主主義日本」を打ち立て、新しいなにかを望むということが全面的に肯定される時期である。日本の「非合理性」は徹底して批判され、西欧の近代合理主義にもとづく市民社会を打ち立てることこそが至上命題とも受け取られ、従って日本人論もこの論調がかなり強い。この時期に書かれた川島武宜や丸山眞男などを代表格とする、日本人による日本人論の古典ともいえる著作での日本社会の批判的分析は、今なお色褪せない強い側面を持つものであろう。日本を否定する以上、ここではベネディクトの指摘した日本文化の特徴は、日本の後進性として認識されていたということになる。
しかしこういった否定的な見方は、日本の経済成長に伴う国際社会での地位向上とも相まって、「もはや戦後ではない」といわれた1955年ごろから変化が見られるようになる。加藤周一の雑種文化論や、梅棹忠夫の西欧と日本の文明の「平行進化」の主張などは、日本の歩んでいる独自の近代的発展を否定するのではなく、より積極的な意味を高揚するメッセージ性をもつということができるであろう。それまでの全面的な否定は緩和され、漸進的にではあっても日本人の自信回復に役立っているという見方ができると思われる。さらにこの流れを汲んで、また更なる高度経済成長へと突き進む時代の中、日本人論も隆盛を極めたのが60年代半ばから70年代であるといえる。
日本の特殊性が様々なキーワードによって取り上げられ、そして肯定的に捉えられていたのは、何よりも日本人がその成功によって「自信」を持っていたことの裏づけではないだろうか。代表的なものを挙げてみると、「タテ社会」「日本的経営」「恥の文化」「甘え」「間人主義」など、各論の主張が流行語として日本中に出回ったといえるものが多くあり、経済大国に生きることの正しさを支えたとも見える。この点は先に挙げたキーワードは基本的にはベネディクトの言い換えであるが、個人より人間関係を先行するものとして重視する傾向があり、「恥」や「甘え」などの一見すると否定的な語であっても肯定的な評価をもって使用していることからも窺える。それまで仰いできたモデルであった欧米先進国以上の終わりなき発展の可能性を単純に信じていたと、今振り返ってみればいえるのではないだろうか。
しかしながら、このような明るい楽観的潮流も、80年代の経済・貿易摩擦による「日本叩き」の強い風当たりの中では、終息に向けた方向転換が余儀なくされたと思われる。「日本的経営」はあくまで日本人に有効なものであり、全世界で通用するような普遍的なものではないという反論や、一億総中流神話の随所に顕われた格差や不平等といった亀裂が無視できない大きさになってきたことなどを背景に、問題のポイントは人間の根源的な存在にたいする問い、つまり「個」へとシフトしていったと考えられる。ポストモダンといわれる様々な分野に及ぶうねりは、ある意味では日本人論を語ることの意義を薄れさせ、この時期を境に霧散させていったと見ることができると考える。つまり、ベネディクトは日本人論もろとも消失したのであろう。
しかし、消失したのは「日本人論」ではなく、まさにその場で「論じられてきたもの」そのものであることを見落としてはならない。失くしたものとは、「日本人らしさ」と言われてきたものであることを、いま私たちは再認識すべきではないだろうか。
(ⅱ) 日本人論の変遷と主題
戦後の日本を日本の内部から日本人自身によって批評してきた日本人論とは、その時代ごとの空気や潮流を故意であろうとなかろうと、多かれ少なかれ反映していると思われる。よってその論述の変遷を見るということは、日本社会がどのように変遷してきたかという大きなうねりの一端を垣間見ることにもなるであろう。自分が問題視するいまの日本の風潮の影にはどのような流れがあったのか、先の『菊と刀』の論点との相違に留意しながら考えてみたい。
まず、終戦から経済復興を成し遂げるまでの期間(1945~54年ごろといえる )は、兎に角古くさくて後進的な日本を否定し、欧米を先進モデルと仰ぐ傾向がかなり強かったといえそうである。敗戦という無残な失敗を引き起こした前近代的で封建的な「遺制」を取り払い、それらに代わる新しい合理的な社会を創って「民主主義日本」を打ち立て、新しいなにかを望むということが全面的に肯定される時期である。日本の「非合理性」は徹底して批判され、西欧の近代合理主義にもとづく市民社会を打ち立てることこそが至上命題とも受け取られ、従って日本人論もこの論調がかなり強い。この時期に書かれた川島武宜や丸山眞男などを代表格とする、日本人による日本人論の古典ともいえる著作での日本社会の批判的分析は、今なお色褪せない強い側面を持つものであろう。日本を否定する以上、ここではベネディクトの指摘した日本文化の特徴は、日本の後進性として認識されていたということになる。
しかしこういった否定的な見方は、日本の経済成長に伴う国際社会での地位向上とも相まって、「もはや戦後ではない」といわれた1955年ごろから変化が見られるようになる。加藤周一の雑種文化論や、梅棹忠夫の西欧と日本の文明の「平行進化」の主張などは、日本の歩んでいる独自の近代的発展を否定するのではなく、より積極的な意味を高揚するメッセージ性をもつということができるであろう。それまでの全面的な否定は緩和され、漸進的にではあっても日本人の自信回復に役立っているという見方ができると思われる。さらにこの流れを汲んで、また更なる高度経済成長へと突き進む時代の中、日本人論も隆盛を極めたのが60年代半ばから70年代であるといえる。
日本の特殊性が様々なキーワードによって取り上げられ、そして肯定的に捉えられていたのは、何よりも日本人がその成功によって「自信」を持っていたことの裏づけではないだろうか。代表的なものを挙げてみると、「タテ社会」「日本的経営」「恥の文化」「甘え」「間人主義」など、各論の主張が流行語として日本中に出回ったといえるものが多くあり、経済大国に生きることの正しさを支えたとも見える。この点は先に挙げたキーワードは基本的にはベネディクトの言い換えであるが、個人より人間関係を先行するものとして重視する傾向があり、「恥」や「甘え」などの一見すると否定的な語であっても肯定的な評価をもって使用していることからも窺える。それまで仰いできたモデルであった欧米先進国以上の終わりなき発展の可能性を単純に信じていたと、今振り返ってみればいえるのではないだろうか。
しかしながら、このような明るい楽観的潮流も、80年代の経済・貿易摩擦による「日本叩き」の強い風当たりの中では、終息に向けた方向転換が余儀なくされたと思われる。「日本的経営」はあくまで日本人に有効なものであり、全世界で通用するような普遍的なものではないという反論や、一億総中流神話の随所に顕われた格差や不平等といった亀裂が無視できない大きさになってきたことなどを背景に、問題のポイントは人間の根源的な存在にたいする問い、つまり「個」へとシフトしていったと考えられる。ポストモダンといわれる様々な分野に及ぶうねりは、ある意味では日本人論を語ることの意義を薄れさせ、この時期を境に霧散させていったと見ることができると考える。つまり、ベネディクトは日本人論もろとも消失したのであろう。
しかし、消失したのは「日本人論」ではなく、まさにその場で「論じられてきたもの」そのものであることを見落としてはならない。失くしたものとは、「日本人らしさ」と言われてきたものであることを、いま私たちは再認識すべきではないだろうか。
(ⅲ) 日本人らしさとは何か
前節で述べてきた日本人論の主題、つまりベネディクト以来否定されたり賛美されたりしてきた挙句に蒸発してしまったかのような状況にある「日本人らしさ」について、この変遷の過程を踏まえて本節でまとめてみたいと思う。ここでは濱口惠俊の「間人(the contextual)」、土居健郎の「甘え」、そして阿部謹也の「世間」というキーワードが、それぞれ異なった視角から日本人論を語っているにも関わらず、そこから現れ出る日本人が私にはほとんど同じ人間像として捉えうるということをもって「日本人らしさ」の内容を概観してみたい。
まずは濱口惠俊の「間人」=「にんげん」モデルを、日本人は元来民族性の中にビルトインしていたという主張について取り上げることとする。「間人」とはいわば関係集約型の「にんげん」であり、それぞれが個別存在であることに違いないが同時に他の存在との所与の関係性をも自己を構成する必須の要因として包摂する「関係体」と同位であるという。よって「個人」が常に合理的な選択を行う「にんげん」であるとするのは一種のフィクションであり、実在するのは創造性に富む反面非合理的な非線形システムとしての「にんげん」である 、としている。欧米に由来する個人中心的なパラダイムに基づくのではなく、解釈学的なアプローチによる日本文化の容認が必要であるというのだが、その根底には関係性そのものが個人の行動に加えて組織や地域社会の本質的構成・運用要因として機能する日本人の性質があると述べている。
次に土居健郎の「甘え」について見ていく。ここで論じられる「甘え」とは育児と文化の関係という文脈においてであり、子どもの成長には「甘え」が必要であるとする立場から潤滑油としての積極的役割において評価している。その上で、日本人の心性と人間関係の基本には「甘え」がある とし、それは人間関係において相手の好意をあてにして振舞うという形で現れると述べている。これはつまり、同じ基準にたった複数の人間で構成される場において「上手くやっていく」ということに重点が置かれていることの現れといえるであろう。
そして阿部謹也の「世間」であるが、日本人にとっての行動規制は社会ではなく世間によってなされており、個人は世間との関係の中で生まれているとした上で、世間という言葉が万葉から昭和に至るまでどのように表現されてきたかを吟味している。「欧米の意味での個人が生まれていないのに社会という言葉が通用するようになってから、少なくとも文章の上ではあたかも欧米流の社会があるかのような幻想が生まれたのである。 」日本人が生きているのは、曖昧な人間関係の世界である世間なのであり、できるだけ周りに合わせるという意味では協調的であるが、時としてそれは没個性的で権威主義的に見えるのは当然であるということになる。世間の中でどのような位置を占めるかが最大の関心事であるという点は、まさにベネディクトのいう「分」をわきまえるという指摘とも重なるものである。
以上のように見てみると、各人の個性や性質を論じたとしても結局はそれを形成する環境が焦点となるのは興味深い。「日本人らしさ」とは、周囲への配慮や相互扶助に重きを置く積極的肯定的意味での集団主義とも言えそうである。しかしこれらは、戦後すぐに否定されたように古臭く、しがらみとともに「市民」から捨てられたものにほかならないようにも見える。すなわち、いまの日本人はそれぞれの内面に規範をもつ自律した個人を近代のモデルとしながらも、欧米でいわれてきたような意味の個人にはなりきれず、さりとて「日本人らしさ」も持ち合わせないという事態に陥っているのではないだろうか。日本人論を通してうっすらと見えてきた現状を踏まえ、次章から「責任」と「行為」について考えていくこととしたい。
前節で述べてきた日本人論の主題、つまりベネディクト以来否定されたり賛美されたりしてきた挙句に蒸発してしまったかのような状況にある「日本人らしさ」について、この変遷の過程を踏まえて本節でまとめてみたいと思う。ここでは濱口惠俊の「間人(the contextual)」、土居健郎の「甘え」、そして阿部謹也の「世間」というキーワードが、それぞれ異なった視角から日本人論を語っているにも関わらず、そこから現れ出る日本人が私にはほとんど同じ人間像として捉えうるということをもって「日本人らしさ」の内容を概観してみたい。
まずは濱口惠俊の「間人」=「にんげん」モデルを、日本人は元来民族性の中にビルトインしていたという主張について取り上げることとする。「間人」とはいわば関係集約型の「にんげん」であり、それぞれが個別存在であることに違いないが同時に他の存在との所与の関係性をも自己を構成する必須の要因として包摂する「関係体」と同位であるという。よって「個人」が常に合理的な選択を行う「にんげん」であるとするのは一種のフィクションであり、実在するのは創造性に富む反面非合理的な非線形システムとしての「にんげん」である 、としている。欧米に由来する個人中心的なパラダイムに基づくのではなく、解釈学的なアプローチによる日本文化の容認が必要であるというのだが、その根底には関係性そのものが個人の行動に加えて組織や地域社会の本質的構成・運用要因として機能する日本人の性質があると述べている。
次に土居健郎の「甘え」について見ていく。ここで論じられる「甘え」とは育児と文化の関係という文脈においてであり、子どもの成長には「甘え」が必要であるとする立場から潤滑油としての積極的役割において評価している。その上で、日本人の心性と人間関係の基本には「甘え」がある とし、それは人間関係において相手の好意をあてにして振舞うという形で現れると述べている。これはつまり、同じ基準にたった複数の人間で構成される場において「上手くやっていく」ということに重点が置かれていることの現れといえるであろう。
そして阿部謹也の「世間」であるが、日本人にとっての行動規制は社会ではなく世間によってなされており、個人は世間との関係の中で生まれているとした上で、世間という言葉が万葉から昭和に至るまでどのように表現されてきたかを吟味している。「欧米の意味での個人が生まれていないのに社会という言葉が通用するようになってから、少なくとも文章の上ではあたかも欧米流の社会があるかのような幻想が生まれたのである。 」日本人が生きているのは、曖昧な人間関係の世界である世間なのであり、できるだけ周りに合わせるという意味では協調的であるが、時としてそれは没個性的で権威主義的に見えるのは当然であるということになる。世間の中でどのような位置を占めるかが最大の関心事であるという点は、まさにベネディクトのいう「分」をわきまえるという指摘とも重なるものである。
以上のように見てみると、各人の個性や性質を論じたとしても結局はそれを形成する環境が焦点となるのは興味深い。「日本人らしさ」とは、周囲への配慮や相互扶助に重きを置く積極的肯定的意味での集団主義とも言えそうである。しかしこれらは、戦後すぐに否定されたように古臭く、しがらみとともに「市民」から捨てられたものにほかならないようにも見える。すなわち、いまの日本人はそれぞれの内面に規範をもつ自律した個人を近代のモデルとしながらも、欧米でいわれてきたような意味の個人にはなりきれず、さりとて「日本人らしさ」も持ち合わせないという事態に陥っているのではないだろうか。日本人論を通してうっすらと見えてきた現状を踏まえ、次章から「責任」と「行為」について考えていくこととしたい。
