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  • 第2章 呼応責任から考える行為

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第2章 呼応責任から考える行為

最終更新:2011年08月21日 12:25

kameyama2011

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福嶋卒論


第2章 呼応責任から考える行為

2-0 前提とされる自由
 自発的に責任を担う主体たるために前提とされる自由とは、どのような意味合いにおいて語られる自由であろうか。呼応責任を考えていく場を明確にするために、ここでいう自由とは何かをまず考えてみたい。
 呼応責任とは、あくまでも個人が自発的に引き受けるものであり、他人に言われてそれを判断するものではない、という想定であるから、その判断の理由とは何がしかの条件がそろえばよいとか悪いというものではなく、よいものはよいのであり悪いものは悪いはずである。つまりカントが言うような、無条件的で絶対的な道徳法則である定言命法に従うことができることこそが自由である、という文脈で語られる自由こそがここで前提とされるべき自由である。
 人間は経験の世界では自然法則に従って動いているが、意思の世界ではその自然法則から自由なのであり、従うべきなのは道徳法則である。意思とは道徳法則に従うことに他ならないのであるから、自由とは煎じ詰めるところ道徳法則に従う意思の動きそのものということになる。自由な意思を持つ人間であれば、その意思で道徳法則に従うように自らを規制できるはずであり、ここにこそ本当の自由がある。人間は理性的な存在であり、理性に従おうという意思がある限り自分を律することができるということが自由であるということであり、決してやりたいことをやることが自由であることではないのである 。
 カントは、このような自由について「理性の事実」という仕方でも論証を試みている 。「理性の事実」とは、人間は道徳法則に拘束されていることを意識することによって自分がそれに従いうることを、それゆえ自由な行為主体であることを自覚する、ということであり、その機制は「自由はたしかに道徳法則の存在根拠であるが、道徳法則はしかし自由の認識根拠である」という自由と道徳の構造が結晶化したものであるという。
 かなり観念的で、あくまで理想論的な印象を拭えない自由であるが、本章での問題意識は、このような自由にもとづく意思が意志・本心・信念などとして行為に表れることとはどういうことであるのか、また本当にそのように理性的で自律した人間像に矛盾や齟齬は起こりえないのか、さらにこのような自由は人間ならば本当に無条件に持ちうるものか、という点にある。以下、それぞれの論点に絞って考えていこうと思う。

2-1 意志・本心・信念と行為
 人間なら道徳法則に従うのが当然であるならば、他でもないその行為が意思を実現しているはずである。しかし自然法則に従わない自由な意思が実現されるのは、自然法則に従った経験の世界なのであり、それらの意思が個人によって表象されることで行為となるのではないだろうか。ここでは、個人の内面にて持ちえた意思が行為として外面に現れるということはどういうことなのかについて考察していきたい。
 まず、上述の意思とは異なる、より一般的で身近な意味での「意志」について考えてみる。「明日は7時に起きよう」「今から昼食をとろう」「論文を今日中に書き上げよう」「来年は海外旅行に行こう」などのように、意志とは行為を対象として「…しようと思う・思っている」という決意であるということができる。この決意には、かなり意識的に考え悩み迷った挙句に決定されるものもあれば、決意を固めたというほどの感覚はなく、後から振り返れば決意していたことに違いはないと言える程度のものもあるが、いずれの場合も迷いがなく一定の行為へと心が固まっていることが意志といえるだろう。極端な例では、「カッとなって怒鳴った」「咄嗟に手を上げた」などのような、行為のために思慮することがなかったような場合でも、一定の行為に対して迷いはないわけであるから、意志にもとづく行為であるとも言える。
 また、意志の持ち方、という面について考えてみると、恐怖症や障害・中毒、脅迫や心理操作などの状態に置かれた場合でも、一定の行為を行うことを決意していれば、それはある意味では意志を持ったとも言えるのではないだろうか。意志にはなぜそう思うに至ったか、という過程や理由が含まれるものではないということであり、単に行為しようと心を決めることには、その行為が道徳的によいかどうかという判断は含まれない。その点が道徳法則に従う意思という場合との相違点であるといえる。すなわち、すべての「意志」が「意思」を含意するものではないということである。では、どのような意志が意思を実践しているといえるのだろうか。
 「心からそうしたい」「本当はそうしたくない」というときに問題になるのは、その思いが「本心」かどうかということである。この本心である意志が行為として実現されているかどうか、という点を追加してみるとどうであろうか。この考え方は、フランクファートによる「階層的動機付け」と呼ばれる見解にもとづくもので 、人を行為へと導く動機付けが階層的hierarchicalであることに着目して本心とは何かを解明している。
 彼の見解によれば、ああしたい、こうしたいという行為を対象とする「一階の欲求a first-order desire」とそれを対象とする「二階の意欲a second-order volition」という階層的な欲求システムによって人は動機付けられる。例えば「勉強したい」という一階の欲求があるにもかかわらず、つい小説を読んでしまう自分に対して「「勉強したい」という欲求によって導かれるような人でありたい」という二階の意欲を持っている、というように説明できるが、このように二階の意欲の中には一階の欲求が概念的に含まれているため、ある一階の欲求に関して二階の意欲をもっているときには、その一階の欲求をすでにもっているといえる。しかしすべての一階の欲求が二階の意欲に一致するわけではなく、たくさんある一階の欲求のなかでも二階の意欲と一致するものこそが本心である。
 そして、本心とは「自分の本当の気持ち」なのであり、二階の意欲を通じてある特定の欲求を「自分の本当の気持ち」にしているとも言うことができる。ある心的事象を「自分の本当の気持ち」とすることを、フランクファートは「同化identification」と呼び、二階の意欲には欲求を同化する働きがあるという。自分の心に生ずるあらゆる事象は、「自分の心に生ずる」という意味では「自分のもの」であるが、その中には「本当の自分に属するもの」とそうでないものがある。その区別は二階の意欲によってなされるのであり、「本心である欲求」とは二階の意欲を通じて同化された欲求である。この欲求の同化作用には「主体性」を見てとることができ、行為者が欲求を同化しているということは、行為者が同化作用を通じて欲求に承認を与えているということであるから、その意味で行為者は欲求に能動的に働きかけているといえるであろう。
 ただしここで、なぜ二階の意欲と一階の欲求が一致すればそれが本心になるのか、という根本的な疑問があり、フランクファートも考えを補正している点を付け加えておく必要がある。もし一階の欲求が本心になるのは二階の意欲との一致やそれによる同化によるとすれば、もともと本心とは二階の意欲にあることになる。二階の意欲が一段高い階層にあるからという回答では、一段高いというだけでなぜこのような機能をもつかという説明にはならないであろう。彼の補正によれば、二階の意欲が高階だからという理由だけで本心を決める権威をもったり「本当の自分」の拠り所になったりするのではなく、「迷いなき同化decisive identification」が行われることが必要であるという。「迷いなく同化する」とは、その意欲が自分のものであることに関して現時点で迷いがなく、さらに今後いくら考えてもこの点に関して迷いが生じないであろうと確信することで、この「迷いなき同化」を通じて特定の意欲に「心からwholeheartedly」コミットすることで本心となるとしている。
 ところで、そもそも本心が意思の現れとされるためには、道徳法則に従っているという前提が必要であった。つまり、その本心に対する価値判断はなされているべきなのであるが、その判断は本心に含まれるといえるだろうか。二階の意欲が「人を騙したい」とか「人を殺したい」という場合も、それが本心であれば実行されてもよいと言えるはずはないのだが、その判断基準はどこにあるのだろうか。そこで欲求や意志と区別された意味での「信念belief」という事象に着目して考えてみたい。
 欲求や意志と区別される信念というときにその区別のポイントとなるのは、実際の状況と心的事象の関係である。欲求や意志とは、実際の世界がどのような状況であるかという事実が必ずしも欲求や意志の内容と一致しているとは思っていない一方で、「実際の世界が欲求や意志の内容と一致するように変化すべきだ」と思っているという特徴がある。意志についていえば、そもそも意志していることが実際には起こっていないからこそそのことを意志するのかもしれない。双方とも、その内容を規準として世界がそちらにあわせて変化するという関係である。これに対して信念は、その内容が実際の世界のありさまと一致しているという思いと、「信念の内容が実際の世界のありさまに一致するように変化すべきだ」という思いが伴う。この場合の「べき」によって、実際の世界のありさまの方が規準となり、信念の内容のほうがそれに一致するように変化するという関係が表されている。
 問題意識に即していえば、ここでは「道徳法則に従うべき」という信念があってはじめて意思との架橋がなされるのであって、この信念に適ったことを前提とした上での本心である意志が実現されるべきであるといえる。しかしここで明確になったのは、行為として外面に現れるべき意志への道筋なのであり、ではそのような意志が個人の内面で思っているだけではなく実際の行為として現れるということはどういうことか、という疑問が残されてしまう。とはいえ、道徳法則に従うということには、その意思を行為として実行すること、すなわち「行為せよ」ということをも含むはずであり、この疑問は適切ではないかもしれない。ただ、実感として私たちが感じる難しさとは、実行可能性の面でもある。次節ではこの点を取り上げて、行為主体として設定される道徳的人格と生身の人間とのあいだにある齟齬や矛盾について考えてみたい。

2-2 道徳的人格のフィクション
 前節で述べてきたように、意思を現している意志がどのようなものかはおおよその見当がついた。しかし、その意志を行為に移す段階になってうまく実行されないケースはそれほど珍しいことではないように思える。例えば何らかの外的要因による不可抗力のようなものが影響する場合や、単に意志が弱いために実行できなかった、あるいは実行したものの意志が完全に実行されるには長い時間がかかるため貫徹できなかったなど、いくら道徳法則に適うように努力しても成功しない例は枚挙に暇がない。カントの言う自由な人間であったとしても、世の中には自分だけの力ではどうにもならないことなど日常茶飯事ではないだろうか。
 特に意志の弱さの問題に関しては、古来ギリシャの哲学者たちもこの問いを認識しており、アリストテレスは「無抑制(アクラシア)」と名付けたこの現象を『二コマコス倫理学』において綿密に分析している 。ギリシャ哲学では、プラトン・ソクラテス的な理性の原理、すなわち理性に従って生きることを根本信条とし知を最高最強の力とする理性主義の前提のもとでは、欲望に溺れて理性の原理に背く「快楽への敗北」という問題の事態は元来ありえないこととされてきた。しかし「快楽への敗北」を日常的な事実であるとする常識の立場も一方で大きなものであるため、理性主義のテーゼが適当に修正あるいは改良されない限り重大な脅威であり続けると考えられたということだ。
 アリストテレスの分析は、実践的推論に関しての大小二つの前提を踏まえたもので、「それは普遍的な実践的原理を大前提とし、行為の現状況がまさにその原理の適用されるべき状況にあるという言明を小前提とする推論であるから、結論に相当するのはその状況で、その原理に従ってなされる行為そのもの 」であり、命題による言明を結論とする理論的推論とは異なることに留意しなければならない。その上でニコマコス倫理学での例を見てみると、すべて甘いものをひとは味わうべきである〔大前提〕とし、個別に属するひとつであるこれが甘いとするなら〔小前提〕、必然にこれを実行せざるをえないのであるが、一方で甘いものが健康に悪いことを実践的原理として知っていれば必然としてそれを食べないという一般的判断がある。一般的判断では味わうことを避けるように命ずるが、身体の各部分を動かす力を持つ欲望に引きずられるため、ある意味では分別と判断によって抑制を失うという結果がおこる、と述べている。ここでアリストテレスが実践的推論に関して言う必然とは、ある原理を受け入れればしかるべき状況では必ずその原理に従って行為すべきであるという規範的な必然性といえる。
 「無抑制」とは、ある一定の規範を受け入れながらも快楽の誘惑に負けて、その原理に反する行為をするということである。この原理の逸脱ということだけを見れば、当事者が実践的推論の小前提にあたる知識をもたないことによって、つまりその状況がまさしく当の原理があてはまる状況であることを見損じることで生じる場合がある。または、大前提にあたる原理を知ってはいても、その知識を現実には働かせることができないために起こる場合もある。これら逸脱の事例と無抑制が異なるのは、明瞭な自覚があるかないか、という点であり、だからこそ「快楽への敗北」を深く後悔するのが人間である。無抑制とは知識と行為のあるべき連関から外れた一種の中間現象であるとするのが、アリストテレスの分析である。
 しかしながら、この模範的な分析はすんなりとは受け入れがたい。行為に先立つ意志がいくら整えられようと、その意志が実現されないという現象はアリストテレスが示すほど特殊な状況であるとは思えないからだ。むしろ、思っていても実行しないことの方が多いと感じるほどありふれたことなのではないだろうか。ここで、意志の弱さについての違った角度からの分析を行ったジョン・R・サールの見解に即して考えてみることとしたい。サールによれば、「自由な行為の場合、行為の先行者として、道徳的判断、無条件の価値判断、堅固で無条件の意図など、およそいかなる種類のものがあろうとも、意志の弱さはつねに可能 」であり、それは飛躍の存在を認めるからに他ならないという。では、ここで前提される飛躍とはどのようなことなのか。
 サールの解説をまとめると以下のようになる 。行為に先行する信念や欲求が本当に因果的に十分であるということは、それらの信念・欲求に従って行為する以外のことができないという意味で不合理なのである。そうではなく、選択の余地があり、可能な選択肢の中から選ぶためにさまざまな理由を考察することができる、というときにこそ合理的な行為が行われる。すなわち、信念や欲求という形をとる行為の「原因」と行為という形をとる「結果」とのあいだに飛躍が前提されるのであり、この飛躍こそが「意志の自由」である。飛躍の所在は三つの現れ方によって示される。第一には、自分が何をするか決心しようとするときの合理的な意思決定の飛躍で、決心のための理由と実際の意思決定とのあいだに存在する。第二に意思決定と行為のあいだの飛躍、第三に時間的な延長を持つ行為活動で、行為の開始と完了までの継続とのあいだに存在する飛躍がある。より具体的に行為との関係に即していえば、行為に先立つ意図を事前の意図、行為を行っているあいだの意図を行為内意図とした上で、信念や欲求を推論し熟考を重ねる状態から事前の意図を形成するあいだに第一の飛躍が、そして事前の意図を実行して行為内意図を形成するあいだに第二の飛躍、さらに行為内意図が時間的延長を持つ場合に第三の飛躍があるということになる。この飛躍の存在を容認すれば、意志の弱さとは哲学的な難問などではなく、単純な解決を導く。
 行為とはたんに生じるものではなく、それは行われるものである。決心するだけでは十分ではなく、それは引き受けられ、開始され、遂行されるのであり、意図と行為のあいだに飛躍があるからこそ意志の弱さの可能性が認められる。熟考の結果形成された事前の意図があったとしても、いかなる時点においてもとりうる選択肢には無限の幅があるから、実際に実行する段になって他の選択肢のいくつかに心を惹かれたり興味をそそられたりするが故に、もともとの意図ではなく別のことを行う理由にもとづいて行為する。アクラシアの問題とは単に、ある決心をしても他の選択肢が心を惹くものであり続けるということであり、意図がひとたび形成されたとしても必然的に行為が帰結するのではないことの証明にすぎない。ただし私たちは、熟考を通して事前の意図を形成することで生活に秩序をもたらし、長期的な目標をより多く充足できるようにするのである。
 このようなサールの見解は、状況や感情に流されやすい生身の人間像をより現実的に捉えることに効果的である。常識や規則で決められていることが必ずしも正しいとは思っていなくとも、人はそれらに従うことが可能であることとも通ずる考え方であろう。人間がどれほど強く状況に影響されるかということは、ホロコーストやミルグラムの実験といった例からも見ることができる。
 ハンナ・アーレントによるホロコースト分析『イェルサレムのアイヒマン』や、スタンレー・ミルグラムによるアイヒマン実験の結果を見てみると 、過ぎ去った歴史的大惨事というよりもいつ再び起こってもおかしくはないホロコーストの真の恐ろしさが浮かび上がる。それは、精神異常でもなんでもない普通の人々がいかに簡単にそれらの惨劇に加担しうるかということだ。ホロコーストはナチス政権により巧妙に制度化された中でいかに効率よく、良心の呵責なくユダヤ人を殺害できるかという命題の下に実行された。命令する者と直接手を下す者を分離し作業を分担することで殺人の流れを一括して把握させず、各実行者は流れ作業のほんの一部だけに携わるために、自らを主体的に認識しにくくなり、普通ならば道徳観念が禁止する行為でもそれほどの抵抗なしに実行してしまう条件が用意されたといえる。ミルグラムの実験でも、実行者がいかに心理的苦痛を被ろうと、命令を継続すればそれを耐え忍びながらも拷問を実行した被験者がほとんどであった。しかしこのような結果に対して、私たちは実行者を実行したことだけをもって責めることなどできるだろうか。もし自分だったら絶対に実行しないと言い切れるだろうか。
 意志の弱さの問題と、ホロコーストを起こしうるような人間の他律性の問題は、まったく次元の異なる問題であり、並列で考えるべきではないのかも知れない。しかしいずれも、人間が自分で決めたことや採用した原理に忠実に従うことが、どれだけ困難なことであるかを示すものであることには変わりないと思う。呼応責任を自発的に引き受ける人間像を考えるときに、つねにその対岸においておかなければならない事実であり、理性的で自律した道徳的人格などフィクションにすぎない、とする立場を包括してこそその人間像は実体を持つのではないだろうか。この点に留意しながら、ではある種理想的ともいえる道徳的人格を実現しようとする態度とはどこから生じるのかについて考えてみたい。

2-3 呼応可能性の根拠
 これまで述べてきたように、人間とは本来道徳法則に従う自由な存在でありながらも、自由な意思を行為として発現することに伴う困難がある。しかし、その困難にもかかわらずやはり善くありたい、善くあろうとすることを求め続けていくものなのではないだろうか。あるいは、その困難がゆえにそのように求めるといえるのだとも思う。このようにして求められる「善さ」とはどのようなものであるべきだろうか。アリストテレスの思想をもとに考えてみたい。
 アリストテレスが言う「よく生きること」とは、人間的な善である幸福と同じことであるとしており、その幸福とは境遇や状態ではなく活動のうちに成り立つものだと見ている。よさが魂にそなわった本当に善い人は、どんな運命にあっても惨めな者になることはないが、しかしそのような善い人でも活動しなければ何の善も生み出さない。よって、善い人であるという状態と、その善さを発揮する活動を区別することが重要であるとし、本当に善い人とは、一時的によい行為をする人ではなく、その善さ(徳)が身についている人であるという。よい活動とは、したがって、状態=持前(ヘクシス)としてのよさ(アレテー)にもとづいていなければならない。アレテーareteとは「徳」と訳されるが、文字通りの意味は「よさ」であり、「知性的な(思考にもとづく)徳」と「品性上の(性格にもとづく)徳」がある。前者は知恵や思慮といった、教育の比重の大きいもので、後者は勇気や節制といった、ただ教えられるだけでは身につかず習慣づけによってそなわるとするものである。徳は生まれながら人間にそなわっているものではなく、かといって生まれつきに反してそなわるわけでもない。人間の生まれつきのあり方とは、徳を身につける可能性を持っているという段階にあり、習慣づけというプロセスを経て徳という持前を持つ段階(ヘクシス)に移行した上で、現実の活動として徳にもとづいた活動を行うのであり、この現実活動こそがよい生き方の一部をなす。
 またアリストテレスの徳の理論において中心的な中庸による説明によれば、知性的な徳にはそれ自体が頂点であるため中庸は当てはまらず、また品性上の徳については感情と行為に関わるが、あらゆる行為、あらゆる感情に中庸があるわけではない。徳の規定するところとは、「われわれとの関係における中庸のうちで選択することを可能にする持前」であり、たんに「中間」でどっちつかずではなく「適度」であることといえる。しかも適度といっても状況や事柄の性質、相手や目的、行為の仕方などのさまざまな条件によって変わってくるものであり、「思慮ある者(実践的知者)がことわりによって定めるような仕方で規定された」としばしば付け加えられるように一律には規定できない。つまり実践的知恵(思慮)をもった者が、どのように判断しどのように行動するかが分からなければ単に両極端を避けることしかできず、中庸をえていることにはならない。では、思慮とはなにか。
 アリストテレスは、魂の理屈が分かる部分を「認識する部分」と「思案する部分」に分けており、前者は数学や自然学のような必然的な原理をもつ事柄に、後者は実践や製作のような必然的なものではなく、さまざまなあり方が可能な事柄に関わるとしている。そしてこの二つの部分に対する最もよい持前とは知性的な徳であるとし、それぞれの部分に対応するのは認識的部分に対しては学問的知識と直接的理解をあわせもったものとしての知恵を、思案的部分に対しては製作に関わる技術と実践に関わる思慮があるとしている。さらに後者の持前の場合、技術にはうまい者とへたな者があるため技術に関するよさ(アレテー)があるのに対し、思慮にはそれがないため、それ自体がアレテー(徳)であるとしている。実践的な知恵としての思慮は、人間事であってしかも思案したり選択したりすることが可能な事柄についてのものであり、何らかの善を目的とするものに限られている。思慮とはすなわち、「人間にとっての諸々の善や悪に関して実践しうることわりをもった真実の持前」であると定義される。思慮の特性として、普遍的な知だけでなく個別的な事柄をも知らなければならないことも挙げられており、経験の必要が多くなるということがいえる。実践のためには、さまざまな問題を考えて理解しなければならない。
 このように説かれる持前とは、いわば「構え」であり「傾き」であり、英語でいうところのdispositionである。過去に蓄積した経験や知識を踏まえて、何かことが起こったら、あるいはある一定の状況下に置かれれば、どう振舞うかを知っている、という状態のことをさす。この構えがなければ徳にもとづいた現実活動を行うことはできない以上、よく生きることを目指すには不可欠な基盤とも言える。そしてこれは先天的にそなわるアプリオリなものではなく、さまざまな人間関係によって形づくられる共同体の中で行われる習慣づけや教育によってそなわるとしているのであるから、そのプロセスがいかに重要であるかがわかるだろう。結局のところ、構えがあって初めて意思を持つことができ、それを実現しようとする信念と本心である意志を経て行為へと至るのであるから、カントのいうような人間ならば“理性に従って自己を律することができる”という自由も、自由とはそのようなものであるとする習慣づけや教育のプロセスの一部であると考えられないだろうか。
 この構えこそが、個人こそ責任の起点たるべきであるという考え方を支える柱であり、呼応可能性の根拠といえるとすれば、構えを持つためには起点とされるべきであるはずの個人へと向かう、個人以外の起点を持つベクトルも不可欠であるということであろう。そしてこの個人以外の起点とは、まさに共同体 という人間関係の総体であるはずであり、共同体なくしては個人は自律しえないと同時に、人間関係を維持しようとする個人の働きなくしては共同体も存立しえない。関係性を持たないのであれば、道徳的人格などフィクションに過ぎないただの虚像になってしまうということを、改めて見つめなおすべきなのではないかと思う。すなわち、道徳法則に従う目指すべき自由な人間像といった規範的な必然性というものは、その内容は依拠する条件によって変わりうるものの、習慣づけや教育をする場において共有されているべき前提なのであり、その前提が揺らいでしまえば責任主体としてもつべき呼応可能性も揺らいでしまう、といえる。至極当然のことのようであるが、近代的人間像をあまりに当然のものと見るあまりないがしろにされてきた側面が、このような考察をへて浮かび上がってきたと思う。

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