福嶋卒論
第3章 結果責任から考える行為
3-0 前提とされる自由
章を改めてもう一方の個人を終着とする責任である結果責任について考えていくこととしよう。ここでもやはり、結果責任を担うために必要な自由がどのようなものかを考えておくべきであるが、それが前章冒頭で述べたカント的自由とは異なった概念として必要であることをまず整理しておきたい。
この文脈で語られるのは、一定の機構のもとで他者からの束縛や強制を受けない状態としての、ホッブズが提示した「近代的自由」といわれる自由である。ホッブズは自由とは、「運動の外的障害の欠如である」と定義づけ、人間にとって自らの意志に従ってなすところを妨げられないことが自由であるとする。しかしこのままの自由では、自分が生きていくために他人を排除することが含まれてしまうため、人間は相互に契約を行って「国家」を造り他者を傷つける自由を放棄した。このことによって獲得した新たな自由が「市民的自由」と呼ばれるものであり、王や貴族などの支配者が権力を行使する「主権者の自由」とは異なる、個人の「私的なもの」としての自由である。その転換には、個人とは社会や国家に埋もれているものではなく、それらに先立って存在する自由な存在であるという認識があり、その前提のもとでは法や道徳といった社会的な拘束とは個人の自由に対する束縛としか見えなくなってしまう。自由が無条件に認められており、説明責任を負うのは法や道徳の側になる 。
自由とはあくまで人間本来の状態である自然状態において備わっているものであり、それを規制することには常に理由が必要である、ということであるから、ここで重要なのは個人がその意図することを妨げられることなく思うままに振舞うことであり、個人に責任を帰結するために必要な制度である。しかし、いくら詳細な制度を設定し個人にその遵守を義務付けても、完璧に遂行できる人間などどれだけいるのだろうか。それぞれの論点について、以下考えてみようと思う。
章を改めてもう一方の個人を終着とする責任である結果責任について考えていくこととしよう。ここでもやはり、結果責任を担うために必要な自由がどのようなものかを考えておくべきであるが、それが前章冒頭で述べたカント的自由とは異なった概念として必要であることをまず整理しておきたい。
この文脈で語られるのは、一定の機構のもとで他者からの束縛や強制を受けない状態としての、ホッブズが提示した「近代的自由」といわれる自由である。ホッブズは自由とは、「運動の外的障害の欠如である」と定義づけ、人間にとって自らの意志に従ってなすところを妨げられないことが自由であるとする。しかしこのままの自由では、自分が生きていくために他人を排除することが含まれてしまうため、人間は相互に契約を行って「国家」を造り他者を傷つける自由を放棄した。このことによって獲得した新たな自由が「市民的自由」と呼ばれるものであり、王や貴族などの支配者が権力を行使する「主権者の自由」とは異なる、個人の「私的なもの」としての自由である。その転換には、個人とは社会や国家に埋もれているものではなく、それらに先立って存在する自由な存在であるという認識があり、その前提のもとでは法や道徳といった社会的な拘束とは個人の自由に対する束縛としか見えなくなってしまう。自由が無条件に認められており、説明責任を負うのは法や道徳の側になる 。
自由とはあくまで人間本来の状態である自然状態において備わっているものであり、それを規制することには常に理由が必要である、ということであるから、ここで重要なのは個人がその意図することを妨げられることなく思うままに振舞うことであり、個人に責任を帰結するために必要な制度である。しかし、いくら詳細な制度を設定し個人にその遵守を義務付けても、完璧に遂行できる人間などどれだけいるのだろうか。それぞれの論点について、以下考えてみようと思う。
3-1 別選択可能性
市民的自由が保障されているということは、行為者が意志することを妨げられることなしに実行できるということ、すなわち選択者がその選択をコントロールしているということである。言い換えれば、他の事柄を選択しようと思えばできたが、さまざまな選択肢がある中から他でもないその事柄を選択したといえる、ということであり、別選択可能性がある、ということである。この選択のなかには、実際に行為として現れる部分としての別行為可能性と、個人が内面的にそうしようと思う部分として別意志可能性の二種類の選択可能性が含まれると考えられるが、いずれの場合においてもここでいう「別」とは、それらを選択したら実際の選択を実現できなくなるという意味であり、両立できないalternativeであるという性質をもつ。また「可能性」という点においては、いくつかの選択肢があることと、その中から自分で選択する、という要素が含まれている。ここでは、この別選択可能性と、すべては因果的に決定されているという決定論との関係とはいかなるものなのかを確認していきたい。
まず因果的決定論とはなにか。すべての現象には原因があり、すべては原因なしには生じないという因果律と、自由などは存在せずすべては決定されているという決定論が一体の形で主張されてきたもので、「時間と場所を問わず、あらゆる出来事はその出来事より以前のある時点で世界に生じたあらゆる出来事、ならびに世界を支配する(自然)法則という二つの要素によって決定されている 」という立場に立つ。もし本当にすべてのことが予め決まっているのであれば、自由を論ずることはできずすなわちそれに伴う責任が成立しないことになってしまうが、果たしてこの問題をどう考えるべきだろうか。決定論と責任の成立という問題をめぐっては、双方が同時に成立するかしないかによって両立論compatibilismと非両立論incompatibilismという立場に分かれて論争が続けられているということだが、責任を考えていく上での重要な論点のひとつとして、自分なりに整理してみたい。
決定論と責任が両立しないとした場合、人間の自由とはあくまでも因果律とは無関係にあるということになるが、それはいかにして可能かが問題となる。因果律がないということは、あらゆる出来事がまったく同じように繰り返されたとしても同じように選択するとは限らない、ということであるから、選択をしようとするまさにそのときまで何を選択するかは分からない、ということになる。自由であるときほど自分がどのような選択をするのかわからない、というのでは、その自由によって逆に選択者が拘束されるという現象が引き起こされてしまうため、別選択可能性は担保されなくなってしまう。またその逆に、すべては因果律によって決定されているとすれば、人間には自由などないのであるから、すべての出来事はその他の帰結をもつことはできない以上行為者に責任を問うこともできなくなる。いささかこじつけのようではあるが、この点が解決できないかぎり両立論をとらざるをえないのではないだろうか。
では両立論をとる場合ではどのように考えられてきたのであろうか。ホッブズやロックが言うところの自由において、自分の意志が邪魔されずに実現でき、何らの物理的心理的障害もなく行為することができているということこそが重要なのであり、それがたとえ自然法則と過去の世界の出来事とによって決定されていたとしてもそれはそれでよいという。すなわち、ここで言われている自由とはあくまでも“行為の”自由という限定が伴う自由なのであり、行為の自由は認めつつも行為の原因となる意志については自由を認めるものではない。意志するとおりに意志するという意志の自由は否定されるのであって、なぜなら行為の意志が生じるためにはその意志を意志する作用が必要であり、その意志の意志のまた意志が無限に必要になってしまう。これは実際の行為が生じているという事実と矛盾することを示すのだから、行為の意志は他の現象と同じく必然的に生じるといわざるをえないという見解である。
これらのことから、ここで問題にするべき自由とは行為の自由として、あるいは行為におけるひとの自由として論ずべきであることが見えてくる。つまり行為の自由として設定された自由の概念に対してならば、決定論の思想は自由を脅かすものではないということである。この一連の流れにおいて考えられてきた因果律と自由の折衷としての「選択の自由」とは、黒田の解説によれば「この現実世界ではすべての現象は因果法則に従って必然的に生じ、人間の行為もその例外ではない。しかし実際になされたものと違った行為を当事者が選択することも可能であったと言えるかぎり、それは自由な行為である。ただし実際には彼は別の行為を選ばずその行為を選び、選んだうえは必然的にその行為が生じたのであって、そのかぎりでは決定論の主張が正しい 」ということである。ここに因果的決定論と責任の関係は一応の回答を得たと考えるべきではないだろうか。
よって結果責任を考える際に前提とされる自由とは、別行為可能性があるという意味での行為の自由であるといえそうであるが、別意志可能性を否定し行為の意志を決定する因果律とは自然法則という意味での因果律ではなく、行為者が行為の最終的原因とみなされる以上は自由による因果律でなくてはならないであろうことに注意したい。自由による因果性とは、結果としての行為と原因としての自由意思とのあいだではなく、結果としての責任と原因としての自由意思とのあいだに成立する 。これはまさにカントが行った因果律についての区別であり、前章にて無条件に道徳法則に従うという自由についてみてきた呼応責任の考え方に通ずるように思われる。この考察を踏まえたうえで次の論点である、市民的自由を拘束するものとしての法や道徳において提示される責任とは、いったいどのようなものなのか、というポイントに移りたい。
市民的自由が保障されているということは、行為者が意志することを妨げられることなしに実行できるということ、すなわち選択者がその選択をコントロールしているということである。言い換えれば、他の事柄を選択しようと思えばできたが、さまざまな選択肢がある中から他でもないその事柄を選択したといえる、ということであり、別選択可能性がある、ということである。この選択のなかには、実際に行為として現れる部分としての別行為可能性と、個人が内面的にそうしようと思う部分として別意志可能性の二種類の選択可能性が含まれると考えられるが、いずれの場合においてもここでいう「別」とは、それらを選択したら実際の選択を実現できなくなるという意味であり、両立できないalternativeであるという性質をもつ。また「可能性」という点においては、いくつかの選択肢があることと、その中から自分で選択する、という要素が含まれている。ここでは、この別選択可能性と、すべては因果的に決定されているという決定論との関係とはいかなるものなのかを確認していきたい。
まず因果的決定論とはなにか。すべての現象には原因があり、すべては原因なしには生じないという因果律と、自由などは存在せずすべては決定されているという決定論が一体の形で主張されてきたもので、「時間と場所を問わず、あらゆる出来事はその出来事より以前のある時点で世界に生じたあらゆる出来事、ならびに世界を支配する(自然)法則という二つの要素によって決定されている 」という立場に立つ。もし本当にすべてのことが予め決まっているのであれば、自由を論ずることはできずすなわちそれに伴う責任が成立しないことになってしまうが、果たしてこの問題をどう考えるべきだろうか。決定論と責任の成立という問題をめぐっては、双方が同時に成立するかしないかによって両立論compatibilismと非両立論incompatibilismという立場に分かれて論争が続けられているということだが、責任を考えていく上での重要な論点のひとつとして、自分なりに整理してみたい。
決定論と責任が両立しないとした場合、人間の自由とはあくまでも因果律とは無関係にあるということになるが、それはいかにして可能かが問題となる。因果律がないということは、あらゆる出来事がまったく同じように繰り返されたとしても同じように選択するとは限らない、ということであるから、選択をしようとするまさにそのときまで何を選択するかは分からない、ということになる。自由であるときほど自分がどのような選択をするのかわからない、というのでは、その自由によって逆に選択者が拘束されるという現象が引き起こされてしまうため、別選択可能性は担保されなくなってしまう。またその逆に、すべては因果律によって決定されているとすれば、人間には自由などないのであるから、すべての出来事はその他の帰結をもつことはできない以上行為者に責任を問うこともできなくなる。いささかこじつけのようではあるが、この点が解決できないかぎり両立論をとらざるをえないのではないだろうか。
では両立論をとる場合ではどのように考えられてきたのであろうか。ホッブズやロックが言うところの自由において、自分の意志が邪魔されずに実現でき、何らの物理的心理的障害もなく行為することができているということこそが重要なのであり、それがたとえ自然法則と過去の世界の出来事とによって決定されていたとしてもそれはそれでよいという。すなわち、ここで言われている自由とはあくまでも“行為の”自由という限定が伴う自由なのであり、行為の自由は認めつつも行為の原因となる意志については自由を認めるものではない。意志するとおりに意志するという意志の自由は否定されるのであって、なぜなら行為の意志が生じるためにはその意志を意志する作用が必要であり、その意志の意志のまた意志が無限に必要になってしまう。これは実際の行為が生じているという事実と矛盾することを示すのだから、行為の意志は他の現象と同じく必然的に生じるといわざるをえないという見解である。
これらのことから、ここで問題にするべき自由とは行為の自由として、あるいは行為におけるひとの自由として論ずべきであることが見えてくる。つまり行為の自由として設定された自由の概念に対してならば、決定論の思想は自由を脅かすものではないということである。この一連の流れにおいて考えられてきた因果律と自由の折衷としての「選択の自由」とは、黒田の解説によれば「この現実世界ではすべての現象は因果法則に従って必然的に生じ、人間の行為もその例外ではない。しかし実際になされたものと違った行為を当事者が選択することも可能であったと言えるかぎり、それは自由な行為である。ただし実際には彼は別の行為を選ばずその行為を選び、選んだうえは必然的にその行為が生じたのであって、そのかぎりでは決定論の主張が正しい 」ということである。ここに因果的決定論と責任の関係は一応の回答を得たと考えるべきではないだろうか。
よって結果責任を考える際に前提とされる自由とは、別行為可能性があるという意味での行為の自由であるといえそうであるが、別意志可能性を否定し行為の意志を決定する因果律とは自然法則という意味での因果律ではなく、行為者が行為の最終的原因とみなされる以上は自由による因果律でなくてはならないであろうことに注意したい。自由による因果性とは、結果としての行為と原因としての自由意思とのあいだではなく、結果としての責任と原因としての自由意思とのあいだに成立する 。これはまさにカントが行った因果律についての区別であり、前章にて無条件に道徳法則に従うという自由についてみてきた呼応責任の考え方に通ずるように思われる。この考察を踏まえたうえで次の論点である、市民的自由を拘束するものとしての法や道徳において提示される責任とは、いったいどのようなものなのか、というポイントに移りたい。
3-2 責任という社会装置
さてここで確認したいのは、結果責任を考えるうえで不可欠である法や道徳といった基準についての事柄である。結果責任とは個人を終着点としてそれ以上はさかのぼらないという整理を踏まえているわけだが、その追求の根拠ともいえる個人の「外」の位置にあるシステム全般といってよいだろう。予め合意されているという前提のもとに設定され、その上で遵守を要請されている規則というのが建前ではあるが、私たちの日常的な心情においてはなくては困るもののどちらかといえば煩わしく、負わされているもの、課せられているものという受動的な意味合いのほうが強いのではないだろうか。現在の社会で適用されている明文化された法とは、もともとは市民の合意に基づいて自ら直接に能動的に定めた生活のうえでのルールであったはずであるが、いつしかそれは私たちの手を離れてあたかも別空間で作られて有無を言わせず強いられているかのようにも感じられる。それは法に限らず、こうあるべき、という基準を示すもの―例えば習慣や一般常識といわれるもの、しきたりなど―ならば多かれ少なかれ共通して持っている性質とも言えるであろう。ではこのような変換はどのようにして起こったのだろうか。
この変換を考えるうえで、ホッブズとルソーの思想が参考になる。近代的な個人を想定する以上は、人間を超越する神や自然などによって社会秩序が保たれるのではなく、人間自身が司るが絶対性をもつ道徳や法を制定しなければならない。伝統社会で神が担っていた役割を、市民社会では神以外のものが担うことを想定する必要があり、それはホッブズでいう「リヴァイアサン=君主」であり、ルソーでいう「一般意志」である 。
ホッブズが導入した「リヴァイアサン」とはどういうものか。ホッブズは自然状態では万人の万人による闘争が発生するのは必然であるから、その回避のためには社会構成員がほぼ均等な力を持っているのに対し、絶大な権力を持つただ一人の君主を主権者として設置すべきであると主張する。主権者である君主の意志に、市民が絶対服従する状態を作り出す必要があるということだ。社会契約は各構成員のあいだで結ばれるのであり、主権者と各構成員のあいだにおいてではない。まず君主がいて共同体が成立するのではなく、共同体が成立する際に構成員の生命安全を保証するための手段としてその外部にはじき出された主権者という存在があることになる。しかしこれはすなわち絶対主義の構図であり、これでは真の国民主権は成就されないという批判を向けたのがルソーである。あくまでも個人の権利から出発したホッブズを評価しつつも、その不徹底さを批判し、共同体の外部に出ることなく社会秩序を正当化しようと試みたのである。
では、ルソーの示す社会秩序の根拠とはなにか。それは各構成員の私的意志を超越する「一般意志volonté générale」であり、これは単なる市民の総意(volonté de tous)とは違って部分性を含んでいてはならないし、あくまでも一般的で普遍的な基準となるものであるから、個人を超越する全体存在を必然的に要請するという点では共同体の外部にあるということになる。この、ルソーにおける外部の論理構造は以下の通りである。社会に闘争が生まれる根源とは、模倣から隣人と同じものを欲しがったり、自らが本当に必要とする以上の量を欲したりする悪癖にあり、したがって自由で平等な理想的な社会の建設のためにはこの他律的な自尊心をなくさなければならない。他者との比較で自尊心が生まれるのであるから、その克服のためには比較ができないように他者との相互関係を断ち、独立の個人として各市民が存立しなければならない。純粋で本物の欲望とは自然状態にある人間の心底から沸く自己愛であり、それを基に定立される一般意志に則って社会秩序をうち立てればよい。いったん隔離された孤独な個人を、その自由を保ちながらも社会において有機的に組織するためには、せっかく分離した個人を再び直接的な水平的相互関係で結ぶのではなく、各個人を直接かつ個別に国家に垂直的に結びつけるべきであると考えた。
このルソーの「一般意志」を具体的に表現し書き留めたものが「法」であり、近代法の根拠となったわけであるが 、このような共同体の外部にあるものが成立する過程について、今一度その機制に着目して考えてみたい。外部にあるものとはあくまでも共同体の内部から発生するという意味では、その源泉は常に内部にあるのであるから外部を含んだ系の内側にあるといえる。しかし、共同体という枠組みを置いてその内部と外部という見方をすれば、それは紛れもなく外部に存在する。すなわち、共同体が成立し安定状態が保たれるためには、構成員の相互作用から生じる定点(アトラクタ)がその外部に沈殿する必要がある。このような定点は初めからあるように見えるが、実際には人々が互いに影響しあいながら生み出すものなのである。そしてその外部が社会秩序を維持するために機能していることが、人間の意識に対して隠蔽されなければ、生み出された秩序は正当性を欠いてしまうであろう。
かくして共同体の内部で生活に根付いた決まりごとにすぎなかったものが、いかにして社会の外部にある一種の虚構へと変換されたのかが見えてきた。すなわち、私たちが責任とは外から押し付けられているものであると感じることは、このシステムが成功裡に働いている証でもある。よって小浜が指摘するように、責任とは「起きてしまった事態→収まらない感情→責任を問う意識→意図から行為へというフィクションの作成 」という論理的な順序をもつものであり、責任があるから罰せられるのではなく罰せられることが責任の本質をなす、ともいえるのであろう。責任とは社会秩序を維持するために作り出された、ある種の社会装置の一部と考えられる。
さてここで確認したいのは、結果責任を考えるうえで不可欠である法や道徳といった基準についての事柄である。結果責任とは個人を終着点としてそれ以上はさかのぼらないという整理を踏まえているわけだが、その追求の根拠ともいえる個人の「外」の位置にあるシステム全般といってよいだろう。予め合意されているという前提のもとに設定され、その上で遵守を要請されている規則というのが建前ではあるが、私たちの日常的な心情においてはなくては困るもののどちらかといえば煩わしく、負わされているもの、課せられているものという受動的な意味合いのほうが強いのではないだろうか。現在の社会で適用されている明文化された法とは、もともとは市民の合意に基づいて自ら直接に能動的に定めた生活のうえでのルールであったはずであるが、いつしかそれは私たちの手を離れてあたかも別空間で作られて有無を言わせず強いられているかのようにも感じられる。それは法に限らず、こうあるべき、という基準を示すもの―例えば習慣や一般常識といわれるもの、しきたりなど―ならば多かれ少なかれ共通して持っている性質とも言えるであろう。ではこのような変換はどのようにして起こったのだろうか。
この変換を考えるうえで、ホッブズとルソーの思想が参考になる。近代的な個人を想定する以上は、人間を超越する神や自然などによって社会秩序が保たれるのではなく、人間自身が司るが絶対性をもつ道徳や法を制定しなければならない。伝統社会で神が担っていた役割を、市民社会では神以外のものが担うことを想定する必要があり、それはホッブズでいう「リヴァイアサン=君主」であり、ルソーでいう「一般意志」である 。
ホッブズが導入した「リヴァイアサン」とはどういうものか。ホッブズは自然状態では万人の万人による闘争が発生するのは必然であるから、その回避のためには社会構成員がほぼ均等な力を持っているのに対し、絶大な権力を持つただ一人の君主を主権者として設置すべきであると主張する。主権者である君主の意志に、市民が絶対服従する状態を作り出す必要があるということだ。社会契約は各構成員のあいだで結ばれるのであり、主権者と各構成員のあいだにおいてではない。まず君主がいて共同体が成立するのではなく、共同体が成立する際に構成員の生命安全を保証するための手段としてその外部にはじき出された主権者という存在があることになる。しかしこれはすなわち絶対主義の構図であり、これでは真の国民主権は成就されないという批判を向けたのがルソーである。あくまでも個人の権利から出発したホッブズを評価しつつも、その不徹底さを批判し、共同体の外部に出ることなく社会秩序を正当化しようと試みたのである。
では、ルソーの示す社会秩序の根拠とはなにか。それは各構成員の私的意志を超越する「一般意志volonté générale」であり、これは単なる市民の総意(volonté de tous)とは違って部分性を含んでいてはならないし、あくまでも一般的で普遍的な基準となるものであるから、個人を超越する全体存在を必然的に要請するという点では共同体の外部にあるということになる。この、ルソーにおける外部の論理構造は以下の通りである。社会に闘争が生まれる根源とは、模倣から隣人と同じものを欲しがったり、自らが本当に必要とする以上の量を欲したりする悪癖にあり、したがって自由で平等な理想的な社会の建設のためにはこの他律的な自尊心をなくさなければならない。他者との比較で自尊心が生まれるのであるから、その克服のためには比較ができないように他者との相互関係を断ち、独立の個人として各市民が存立しなければならない。純粋で本物の欲望とは自然状態にある人間の心底から沸く自己愛であり、それを基に定立される一般意志に則って社会秩序をうち立てればよい。いったん隔離された孤独な個人を、その自由を保ちながらも社会において有機的に組織するためには、せっかく分離した個人を再び直接的な水平的相互関係で結ぶのではなく、各個人を直接かつ個別に国家に垂直的に結びつけるべきであると考えた。
このルソーの「一般意志」を具体的に表現し書き留めたものが「法」であり、近代法の根拠となったわけであるが 、このような共同体の外部にあるものが成立する過程について、今一度その機制に着目して考えてみたい。外部にあるものとはあくまでも共同体の内部から発生するという意味では、その源泉は常に内部にあるのであるから外部を含んだ系の内側にあるといえる。しかし、共同体という枠組みを置いてその内部と外部という見方をすれば、それは紛れもなく外部に存在する。すなわち、共同体が成立し安定状態が保たれるためには、構成員の相互作用から生じる定点(アトラクタ)がその外部に沈殿する必要がある。このような定点は初めからあるように見えるが、実際には人々が互いに影響しあいながら生み出すものなのである。そしてその外部が社会秩序を維持するために機能していることが、人間の意識に対して隠蔽されなければ、生み出された秩序は正当性を欠いてしまうであろう。
かくして共同体の内部で生活に根付いた決まりごとにすぎなかったものが、いかにして社会の外部にある一種の虚構へと変換されたのかが見えてきた。すなわち、私たちが責任とは外から押し付けられているものであると感じることは、このシステムが成功裡に働いている証でもある。よって小浜が指摘するように、責任とは「起きてしまった事態→収まらない感情→責任を問う意識→意図から行為へというフィクションの作成 」という論理的な順序をもつものであり、責任があるから罰せられるのではなく罰せられることが責任の本質をなす、ともいえるのであろう。責任とは社会秩序を維持するために作り出された、ある種の社会装置の一部と考えられる。
3-3 媒介としての個人意識
前節で確認したように、結果責任を問うということは社会装置によって定められた刑罰や社会的制裁の速やかなる実行を進めるプロセスの一端であり、私たち各個人へと収斂する仕方で課されている。しかし、その装置の成り立ちがいくら一般意志を根拠においていても、実際の場面では法を犯すものや常識を外れる行為を行うものは後をたたない。私たちは反面で行為の自由を有しているのであるから、当然といえば当然である。すべての人間のすべての行為に関しての一般意志が明文化されているはずはないのだから、一般意志に悖る行動がすべて違法であるとも限らないし、法を遵守していればそれで一般意志が実現されるとも限らない。いくら社会装置を設定しても、各個人に守る気がなければ機能しないであろうし、完全な装置などそもそも実現不可能であるようにも思える。ここでは、外部を創出する社会の相互作用を担う構成員としての個人とは、ルソーのいう自尊心など持たず自己愛にあふれた仮想の人間像ではありえないという事実のもと、具体的にはどのような人びとであるべきか、という点を考えてみたい。
私たちが積極的とは限らないにしろ承認している外部、すなわち法や道徳、習慣などは、人間の在り方とはまったく無関係にただ厳然としてあるのではなく、もちろんそれらを遵守し、それらに則って日々を過ごすべきであることが大前提としてある。人間関係において何か揉め事が起こった場合や事故や過失が起こった場合に、すみやかにそれらを解決するばかりでなく、規定があることによって問題事それ自体を回避できるのであるから、賛同の度合いはさまざまであれ、「守るべき」という価値判断を含むものといえるだろう。この価値判断については疑うことはないとするも、個別の法やきまりについてすべてがその価値判断に値するかどうかは別の問題である。もし「守るべきではない」「守る必要がない」などの判断が下される場合も、それはその個別の法やきまりが本来守られるべき基準を満たしていないからこそ否定されるのであるから、潜在的に「守るべき」という価値判断を行っていることになる。そしてこれらの判断を行うのは、他ならぬ私たち一人ひとり、個人である。一般意志も個から出発する以上、個への還元は避けられない。
しかるに、いくら強固で厳密な外部を設定したとしても、その出発点が個人であるのだから個人の内部においてなされる価値判断抜きには、このシステムは作動しない。責任が外から押し付けられる一方で、どうしてもそれを自発的に引き受けざるを得ない構造が見えてくるのである。そして私たちは、価値判断に応じた行為を実行する実践能力を持つという意味で非常に合理的なのであり、「~すべき」という判断に対して実際に何をすることが最も合理的であるかを導き出すことができる。喉が渇けば水を飲むべき、なのであり、もし今は喉が乾いていなくても、運動をすれば喉が渇くであろうから水を携帯すべき、というように、日常の些細な行為であってもそれがいかに合理的であるかが窺える。このような合理的実践能力が人間にはそなわっている以上、個人による価値判断とそれに伴う実践を要求することはそれほど突拍子もないことではないはずであろう。
とはいえ、ではただただ馬鹿正直に決められたことを常に守り、自分は常に正しい、と言っていればよいかというと、そうではない。状況に応じて柔軟に対応する、ということが、時として規則を曲げることであったり破ることであったりする場面にはしょっちゅう出くわす。しかし、事は日常のほんの些細なことで誰にも迷惑はかからない(ように見える)場合に限定されない。それが例えば、国家が定めた法を「遵守する=違反していない」というロジックによって看過されることである場合、事態は一気に深刻になる。ここに「正義」という問題が浮上してくるのである。
法に適うという基準は必要不可欠であるが、それは疑問の余地がないことを意味しない。何らかの基準を定めるということは、その基準さえ満たせばそれでよい、という逆説を生む。合法であればよく、違法でなければよい。さらにいえば、行為者は故意にその結果を引き起こしたのでなければ、罪に問われないこともある。また、法により基準が定められていなければ、審議のしようがない。まずは基準をどう定めるか、ということに争点は移行し、真に問題とされる個別の事柄は隔離されていく、というような現象もありうる。今なお全面解決には至っていない水俣病の例などを考えてみれば、法のもつこれらの側面は否定のしようがない。法と権力が結びつかざるを得ない構造で、その構造からはじかれてしまうものは常に存在することを無視してはいけないのであり、その権力は常に正義であるとは限らないことを看過してはいけないのである。普遍的な適用可能性を求めることと、個別具体的な異議申し立てに耳を傾けることは、両立されなければならない。
しかしここで、異議申し立てについても注意しておかなければならない。異議を唱えなければ異議はないものとみなされる、という当たり前の前提が、時として黙殺につながる危険性を孕むということだ。水俣では、国家・チッソ・チッソの城下町である水俣市の市民という大多数の強大な連帯を前に、身体的被害をこうむった人々は当初は異議の申し立てなどできなかったという事実からもわかるように、「声なき声」の存在が提起する問題に敏感であらねばならない 。
このように、個人に終着するはずの結果責任を担うためには、個人から発せられる自発性という媒介が不可欠である。それを各人がいかにして持ちうるか、という問題は、前章で述べてきた呼応責任の問題でもある。すなわち、結果責任を担う、責任主体としての個人であるということは、呼応責任を担う自律した個人たることと同義なのであるが、強調されるのはそのような個人はひとりでに形成されるものではないという点である。人間関係によって形成されるはずの自発性を欠いた結果、押し付けられる責任はかろうじて担うことはできるものの、自ら積極的能動的に責任を担おうとする姿勢は培われることがないのであるから、当事者意識など持ちようがないと分析できる。
前節で確認したように、結果責任を問うということは社会装置によって定められた刑罰や社会的制裁の速やかなる実行を進めるプロセスの一端であり、私たち各個人へと収斂する仕方で課されている。しかし、その装置の成り立ちがいくら一般意志を根拠においていても、実際の場面では法を犯すものや常識を外れる行為を行うものは後をたたない。私たちは反面で行為の自由を有しているのであるから、当然といえば当然である。すべての人間のすべての行為に関しての一般意志が明文化されているはずはないのだから、一般意志に悖る行動がすべて違法であるとも限らないし、法を遵守していればそれで一般意志が実現されるとも限らない。いくら社会装置を設定しても、各個人に守る気がなければ機能しないであろうし、完全な装置などそもそも実現不可能であるようにも思える。ここでは、外部を創出する社会の相互作用を担う構成員としての個人とは、ルソーのいう自尊心など持たず自己愛にあふれた仮想の人間像ではありえないという事実のもと、具体的にはどのような人びとであるべきか、という点を考えてみたい。
私たちが積極的とは限らないにしろ承認している外部、すなわち法や道徳、習慣などは、人間の在り方とはまったく無関係にただ厳然としてあるのではなく、もちろんそれらを遵守し、それらに則って日々を過ごすべきであることが大前提としてある。人間関係において何か揉め事が起こった場合や事故や過失が起こった場合に、すみやかにそれらを解決するばかりでなく、規定があることによって問題事それ自体を回避できるのであるから、賛同の度合いはさまざまであれ、「守るべき」という価値判断を含むものといえるだろう。この価値判断については疑うことはないとするも、個別の法やきまりについてすべてがその価値判断に値するかどうかは別の問題である。もし「守るべきではない」「守る必要がない」などの判断が下される場合も、それはその個別の法やきまりが本来守られるべき基準を満たしていないからこそ否定されるのであるから、潜在的に「守るべき」という価値判断を行っていることになる。そしてこれらの判断を行うのは、他ならぬ私たち一人ひとり、個人である。一般意志も個から出発する以上、個への還元は避けられない。
しかるに、いくら強固で厳密な外部を設定したとしても、その出発点が個人であるのだから個人の内部においてなされる価値判断抜きには、このシステムは作動しない。責任が外から押し付けられる一方で、どうしてもそれを自発的に引き受けざるを得ない構造が見えてくるのである。そして私たちは、価値判断に応じた行為を実行する実践能力を持つという意味で非常に合理的なのであり、「~すべき」という判断に対して実際に何をすることが最も合理的であるかを導き出すことができる。喉が渇けば水を飲むべき、なのであり、もし今は喉が乾いていなくても、運動をすれば喉が渇くであろうから水を携帯すべき、というように、日常の些細な行為であってもそれがいかに合理的であるかが窺える。このような合理的実践能力が人間にはそなわっている以上、個人による価値判断とそれに伴う実践を要求することはそれほど突拍子もないことではないはずであろう。
とはいえ、ではただただ馬鹿正直に決められたことを常に守り、自分は常に正しい、と言っていればよいかというと、そうではない。状況に応じて柔軟に対応する、ということが、時として規則を曲げることであったり破ることであったりする場面にはしょっちゅう出くわす。しかし、事は日常のほんの些細なことで誰にも迷惑はかからない(ように見える)場合に限定されない。それが例えば、国家が定めた法を「遵守する=違反していない」というロジックによって看過されることである場合、事態は一気に深刻になる。ここに「正義」という問題が浮上してくるのである。
法に適うという基準は必要不可欠であるが、それは疑問の余地がないことを意味しない。何らかの基準を定めるということは、その基準さえ満たせばそれでよい、という逆説を生む。合法であればよく、違法でなければよい。さらにいえば、行為者は故意にその結果を引き起こしたのでなければ、罪に問われないこともある。また、法により基準が定められていなければ、審議のしようがない。まずは基準をどう定めるか、ということに争点は移行し、真に問題とされる個別の事柄は隔離されていく、というような現象もありうる。今なお全面解決には至っていない水俣病の例などを考えてみれば、法のもつこれらの側面は否定のしようがない。法と権力が結びつかざるを得ない構造で、その構造からはじかれてしまうものは常に存在することを無視してはいけないのであり、その権力は常に正義であるとは限らないことを看過してはいけないのである。普遍的な適用可能性を求めることと、個別具体的な異議申し立てに耳を傾けることは、両立されなければならない。
しかしここで、異議申し立てについても注意しておかなければならない。異議を唱えなければ異議はないものとみなされる、という当たり前の前提が、時として黙殺につながる危険性を孕むということだ。水俣では、国家・チッソ・チッソの城下町である水俣市の市民という大多数の強大な連帯を前に、身体的被害をこうむった人々は当初は異議の申し立てなどできなかったという事実からもわかるように、「声なき声」の存在が提起する問題に敏感であらねばならない 。
このように、個人に終着するはずの結果責任を担うためには、個人から発せられる自発性という媒介が不可欠である。それを各人がいかにして持ちうるか、という問題は、前章で述べてきた呼応責任の問題でもある。すなわち、結果責任を担う、責任主体としての個人であるということは、呼応責任を担う自律した個人たることと同義なのであるが、強調されるのはそのような個人はひとりでに形成されるものではないという点である。人間関係によって形成されるはずの自発性を欠いた結果、押し付けられる責任はかろうじて担うことはできるものの、自ら積極的能動的に責任を担おうとする姿勢は培われることがないのであるから、当事者意識など持ちようがないと分析できる。