第三章 列島社会と「日本国」(P.83~) 
1.「倭国」から「日本国」へ (P.84~)
◇倭人は日本人ではない
敗戦後の歴史教育を通じて「倭は日本であり、倭人は日本人である」とする理解が定着
韓国・朝鮮においてもこれと同様の理解
敗戦後の歴史教育を通じて「倭は日本であり、倭人は日本人である」とする理解が定着
韓国・朝鮮においてもこれと同様の理解
- 倭奴(ウェノム):朝鮮語で日本人を侮蔑した表現
- 日本人による朝鮮半島の人々に対する暴虐として挙げられる「倭寇」
⇔「倭寇」は西日本の海の領主や商人、済州島・朝鮮半島南部・中国大陸南部の海上勢力の海を舞台とした結びつき、ネットワークの動き(田中健夫、1987/1997/1999)。前期倭寇には朝鮮半島の賤民も加わったとされ、後期倭寇には日本列島人よりも中国大陸の明人の方が多かったとされる。
室町幕府はこうした海上勢力を「倭寇」「海賊」として禁圧しており、東日本はほぼ無関係であった
→「倭寇」とは国家を超えた海を生活の舞台とする人々の動きであり、「倭人」は日本人ではない
→「倭寇」を日本国による朝鮮半島に対する暴虐と見るのはまったくの誤り
日本人:日本国の国制の下に置かれた人間集団
⇒「日本」は単なる地名ではなく、特定の時点で、特定の人々の定めた国家の名前(国号)
室町幕府はこうした海上勢力を「倭寇」「海賊」として禁圧しており、東日本はほぼ無関係であった
→「倭寇」とは国家を超えた海を生活の舞台とする人々の動きであり、「倭人」は日本人ではない
→「倭寇」を日本国による朝鮮半島に対する暴虐と見るのはまったくの誤り
日本人:日本国の国制の下に置かれた人間集団
⇒「日本」は単なる地名ではなく、特定の時点で、特定の人々の定めた国家の名前(国号)
◇倭国から日本国への国名変更
- 日本国の成立…七世紀末(673~701年)
壬申の乱に勝利した天武の朝廷が「倭国」から「日本国」に国名を変更
- 日本国という国号が初めて対外的に用いられる…702年
「唐」を「周」と改めていた則天武后から、「日本国」への国名変更の承認を得る
→「日本」という国号は東アジアの世界において公式に認められた
⇒日本史の出発点ともいうべき重大な事実であるが、現在の日本人にはほとんど知られていない
~このような事態を招いた背景~
①明治以後の政府による国家的教育を通じ、記紀神話の描く日本の「建国」がそのまま史実として国民に刷り込まれた
②事実に基づく学問的な歴史像を描くことを目指した戦後の歴史学も、天皇については批判的な視点を持っていたが、それと不可分の関係にある「日本」についてはまったく問題にしなかった
→「日本」という国号は東アジアの世界において公式に認められた
⇒日本史の出発点ともいうべき重大な事実であるが、現在の日本人にはほとんど知られていない
~このような事態を招いた背景~
①明治以後の政府による国家的教育を通じ、記紀神話の描く日本の「建国」がそのまま史実として国民に刷り込まれた
②事実に基づく学問的な歴史像を描くことを目指した戦後の歴史学も、天皇については批判的な視点を持っていたが、それと不可分の関係にある「日本」についてはまったく問題にしなかった
◇なぜ「日出づる国」なのか
「日の本」は、東の日の出るところを意味している
西の中国大陸から見れば「日出づる処」だが、東のハワイから見れば「日没する処」に当たる
→「日本」は西の中国大陸側に視点を置いた国号
⇒中国大陸の大帝国を強く意識しつつ、自らも一つの自立した小帝国であることを主張し対抗しようとした
「日の本」は、東の日の出るところを意味している
西の中国大陸から見れば「日出づる処」だが、東のハワイから見れば「日没する処」に当たる
→「日本」は西の中国大陸側に視点を置いた国号
⇒中国大陸の大帝国を強く意識しつつ、自らも一つの自立した小帝国であることを主張し対抗しようとした
◇大王から天皇へ
- 「倭」から「日本」への国号の変更とともに、王の称号も「大王」から「天皇」へ改める
⇒「日本」の国号が中国大陸の大帝国を意識して定められたのと同様に、「天皇」も称号もまた中国大陸の大帝国の称号「天子」に対抗して「天」の字を用いた
天皇号が定まる以前に「天皇」は存在しない
天皇号が定まる以前に「天皇」は存在しない
- 「雄略天皇」「推古天皇」といった表現が教科書や歴史学の研究書に何の注記もなく見られる
⇒「天皇」がきわめて古くから存在したという誤りを無意識のうちに日本人に刷り込む
◇対外的呼称としての「日本」
- 中国大陸や朝鮮半島の諸国家に対する公的な外交文書
例:最澄に与えられた唐の過書「日本国求法僧最澄」、高麗国の牒状の宛て先「日本国惣官大宰府」
- 異国や異国人と対照される場合
例:「東大寺文書」中の「宋人」との対照、「勝尾寺文書」中の「百済国」との対照
『今昔物語集』のような説話集における唐、震旦、天竺などとの対照
→閻羅王や龍王といった「異界」側からも「日本」といわれている点は注目すべき
⇒「日本」という国号は、世俗の世界をこえた「異界」としての神仏の世界に対しても用いられた
『今昔物語集』のような説話集における唐、震旦、天竺などとの対照
→閻羅王や龍王といった「異界」側からも「日本」といわれている点は注目すべき
⇒「日本」という国号は、世俗の世界をこえた「異界」としての神仏の世界に対しても用いられた
◇不可分の「天皇」と「日本」
- 日本国内の文書の中では「日本」が「天皇」と不可分の関係でしばしば見られる
「日本」の国号と「天皇」の称号とが同じときに公式に定まったため、両者は切り離し難い関係にある
⇔「日本」は対外的な国号として用いられたが、「天皇」は公的な外交文書では用いえなかった
→日本国の天皇が唐帝国の冊封を受けなかったため
⇔「日本」は対外的な国号として用いられたが、「天皇」は公的な外交文書では用いえなかった
→日本国の天皇が唐帝国の冊封を受けなかったため
- 「天皇」が「姓」を持たなかったのは、冊封を受けなかった天皇が中国大陸の「姓」制度から「超越」していたから(吉田孝)
◇変動する天皇の「代数」
- 『日本書紀』に初代と記された神武以降少なくとも九代までは実在がほぼ否定されている
- 天皇号が正式に定まったのは天武(四十代)以降
→現天皇を百二十五代天皇と数えることはまったく事実に則さない
- 『皇代記』では天皇とされた人、その呼称、代数の数え方は時代ともに変化
- 南朝の天皇が正統な天皇として数えられるようになったのは明治以後
⇒天皇の代数は時代ごとに政治的な立場や思想によって変動してきたもので、一定したものではなかった
2.「日本国」とその国制 (P.104~)
◇成立当初の「日本国」の領域
- 本来の基盤(近畿、瀬戸内海沿海、北九州)と、早くから交渉のあった列島東部(関東、中部、東北南部)および九州中部では、国郡の制度を建て「日本国」の国制、律令の制度を貫徹
→北海道、東北中部以北、九州南部から西南諸島はその外にあった
- 「日本国」は「蛮夷」を服従させる「中華」として自らを位置づける
⇒「文明」的と自負する国制を「未開」な「夷狄」に及ぼし、国家の領域を拡大しようという意欲
⇔東北人や南九州人の抵抗
・南九州…比較的早く鎮静化し、八世紀末には日本国の国制下に入る
・東北……頑固に抵抗し続けた後、九世紀初頭に一応日本国の国制下に入るが、事実上は自治区
九~十世紀にかけてこうした帝国主義的な姿勢はしだいに表面から消えてゆく
⇔東北人や南九州人の抵抗
・南九州…比較的早く鎮静化し、八世紀末には日本国の国制下に入る
・東北……頑固に抵抗し続けた後、九世紀初頭に一応日本国の国制下に入るが、事実上は自治区
九~十世紀にかけてこうした帝国主義的な姿勢はしだいに表面から消えてゆく
◇「日本国」による「侵略」と「征服」
「日本国」はその出発点から帝国主義的、侵略的な一面を持っていた
=中央集権的な古代国家に共通して見られる特質(例:秦・漢・隋・唐、ペルシャ帝国、ローマ帝国、インカ帝国など)
→この「侵略」「征服」によって「文明」が「未開」な地域に拡大した、という侵略者側のとらえ方
⇔自らの独自の秩序や社会を、軍事力によって圧服された、という被侵略者のとらえ方
⇒「侵略」「征服」を含む長い歴史を持つ「日本国」に対する姿勢は各地域社会によって様々である
「日本国」はその出発点から帝国主義的、侵略的な一面を持っていた
=中央集権的な古代国家に共通して見られる特質(例:秦・漢・隋・唐、ペルシャ帝国、ローマ帝国、インカ帝国など)
→この「侵略」「征服」によって「文明」が「未開」な地域に拡大した、という侵略者側のとらえ方
⇔自らの独自の秩序や社会を、軍事力によって圧服された、という被侵略者のとらえ方
⇒「侵略」「征服」を含む長い歴史を持つ「日本国」に対する姿勢は各地域社会によって様々である
- 豊臣秀吉の朝鮮侵略や「大日本帝国」で再び帝国主義的、侵略的な姿勢が表面化
⇒敗戦後の「日本国」にもそうした姿勢は潜在的に生き続けている
◇国郡制と「日本国」
国郡制の及ぶ範囲=「日本国」という認識(例:北海道南部におけるキリスト教布教許可)
国郡制の及ぶ範囲=「日本国」という認識(例:北海道南部におけるキリスト教布教許可)
- 国…固い制度として「日本国」の枠組みを長く支え続けた
- 郡…社会・生活の動きとより密接に結びつき、国に比べるとやや流動的だった
◇人為的な直線道路「七道」
「日本国」支配層の基盤である畿内諸国を起点に七道を造成(P.112参照)
「日本国」支配層の基盤である畿内諸国を起点に七道を造成(P.112参照)
- 起伏の多い複雑な列島の地形を無視するかのごとくひたすら直線の道路
⇒「日本国」の強烈な国家意志の明確な現れ
- 迅速に人員や物資を輸送・移動するという軍事的な目的
(東方への道は東方侵略、西方への道は朝鮮半島侵略を前提)
百年ともたず道路は荒廃
→明治期以降、富国強兵を目指す政府により、鉄道網として再び復活
⇒「大日本帝国」のアジア侵略を支えた
百年ともたず道路は荒廃
→明治期以降、富国強兵を目指す政府により、鉄道網として再び復活
⇒「大日本帝国」のアジア侵略を支えた
◇戸籍の作成
- 班田制を実現するために、六年に一度、支配下のすべての人民の戸籍を作成
 →多くの人々がはじめて氏名・姓を定める(建前のうえでは天皇から与えられる)
⇔すべての人民に氏名・姓を与える立場になった天皇は、自らの氏名・姓を持たなくなる
十世紀にはほとんど実質を持たず、居住地の地名を苗字として用いるようになる
→明治になって戸籍制度は完全復活
⇒氏名・姓を天皇が与えた「日本国」当初の制度が潜在的に生きている
⇔すべての人民に氏名・姓を与える立場になった天皇は、自らの氏名・姓を持たなくなる
十世紀にはほとんど実質を持たず、居住地の地名を苗字として用いるようになる
→明治になって戸籍制度は完全復活
⇒氏名・姓を天皇が与えた「日本国」当初の制度が潜在的に生きている
◇家父長制を支えた戸籍制度
戸籍制度は家父長的な家族を制度化していた
戸籍制度は家父長的な家族を制度化していた
- 家長に当たる戸主は基本的に男性で、父系の嫡々相承の原則
- 公的な成員の負担する調・庸などの課役は成年男子が担う
- 公的な政務に関わる官司の官人は男性に限られる
→儒教思想に支えられた大陸の国家の男性中心制度が受容された
⇔近親婚のタブーを持つ血縁集団、氏族の名前としての姓は存在しない
この点で列島社会は中国大陸や朝鮮半島の国家とは大きく異なる
⇒「氏」は政治集団であり、それ自体の名を持たないために、天皇が氏名が与えるということが可能だった
⇔近親婚のタブーを持つ血縁集団、氏族の名前としての姓は存在しない
この点で列島社会は中国大陸や朝鮮半島の国家とは大きく異なる
⇒「氏」は政治集団であり、それ自体の名を持たないために、天皇が氏名が与えるということが可能だった
◇双系制の実態と父系制の建前
- 列島西部では双系制で男女の社会的な差はなかった
- 十四世紀までは女性にも土地財産の相続権が認められていた
- 十五世紀までは女性も実際の政治に影響力を持ち続けていた
→社会の実生活や私的な世界では、女性の役割や権利は男性に拮抗しているといっても過言でない
⇔「日本国」の国制が公的な世界から女性を排除したため、女性の社会的活動が制約され、実態が見えにくくなっている
⇔「日本国」の国制が公的な世界から女性を排除したため、女性の社会的活動が制約され、実態が見えにくくなっている
◇天皇家に「帰一」する「系図」の危険性
- 男系の系譜を辿ってすべて天皇家・藤原氏、記紀神話の神に結びつく諸氏の系図
→すべての氏名を天皇が与えるという建前の影響――「大和民族はみな天皇の子孫」という意識
⇒「日本国」の国制の呪縛から自らを解き放ち、自分の真のルーツを追究すべき
⇒「日本国」の国制の呪縛から自らを解き放ち、自分の真のルーツを追究すべき
◇水田を基礎とした税制
班田制を実現するためには水田が決定的に不足していたのではないか
班田制を実現するためには水田が決定的に不足していたのではないか
- 722年:良田百万町歩の開墾令
⇔日本全国の水田が百万町歩を超えるのは十六世紀以降と推定
- 723年:三世一身法(開墾者から三世代までの墾田私有を認める法令)
- 743年:墾田永年私財法(開墾者に墾田の永年私財化を認める法令)
→地域の有力者の開発意欲を促し、必死に水田の増加をはかる
⇒班田制を規定通り実施しようとする「日本国」政府の強烈な意志
・725年:海民の国志摩の百姓に尾張・伊勢の口分田を与えることにした
→海民に水田を与え、無理矢理「班田農民」として制度に組み入れようという国家の強い意志の現れ
⇒結果として独自の多様な非農業的生業を切り捨てることになりかねない
⇒班田制を規定通り実施しようとする「日本国」政府の強烈な意志
・725年:海民の国志摩の百姓に尾張・伊勢の口分田を与えることにした
→海民に水田を与え、無理矢理「班田農民」として制度に組み入れようという国家の強い意志の現れ
⇒結果として独自の多様な非農業的生業を切り捨てることになりかねない
◇成年男子の負担する調・庸
- 米ばかりでなく、極めて多様な物資が調・庸として都の政府に貢納されていた
→百姓は水田農業のみによって生活していたわけではなく、様々な生業に携わっていた
- 海女がとった鰒、女性が生産したと見るのが自然な絹や布
→貢納者はすべて男性の名前になっていても、実際には女性の生産労働も貢納に寄与
⇒百姓に水田を与え、それを基盤として成年男子に調・庸を貢納させるという租税制度が、稲作以外の多様な生業や女性の生産活動などの社会の実態を見えにくくした
⇒百姓に水田を与え、それを基盤として成年男子に調・庸を貢納させるという租税制度が、稲作以外の多様な生業や女性の生産活動などの社会の実態を見えにくくした
◇天皇の二つの顔――帝国の首長と神聖王
本来なら神に捧げるべき海の幸・山の幸の初尾を天皇に捧げる贄の制度
本来なら神に捧げるべき海の幸・山の幸の初尾を天皇に捧げる贄の制度
- 水田を基礎とする中国大陸にならった帝国である「日本国」の首長としての一面
- 太陽神を祖先とする神の子孫であり、自らも神の子として人民に臨む神聖王としての一面
