2011/09/13 亀山研夏合宿 個人発表 小笠原俊子
仏教説話集に見る自然観について
研究課題設定
筆者の研究の出発点を簡潔に表現すると、「日本人の自然観とはどのようなものか」である。そのため、西洋と日本を比較することで理解しようとしたこともあった。日本人の自然観に対する一般的な理解について考える上で、参照しておきたいのが梅原猛の主張による影響である。梅原猛は、仏教的自然観こそが日本人の伝統的な自然観であると考え、環境問題を解決する思想であるとしてこれを賛美する。このような考え方は今日、仏教的自然観に対する評価として一般的になっていると思う。このような現状に筆者が抱く疑問は二点である。一点目は、仏教は日本人の伝統的な自然観の構成要素の一つでしかないのではないかということである。では、他に日本人の伝統的自然観を構成するものは何か。もちろんそれが仏教的な要素と矛盾する可能性もある。この点についても考えなくてはならない。二点目は、日本人の伝統的自然観があるとしても、それは梅原が言うように環境に親和的なものであるとは限らないのではないかということである。この点については、卒業論文の中で「日本の伝統的自然観がそれほど自然・生命中心主義的なのであればなぜ公害発生や乱開発(自然破壊)の過程で歯止めとならなかったのか、なぜ欧米から環境倫理学が導入されるまで環境に無関心だったのか」 という指摘を引用し、これを梅原のいう伝統的自然観に対して疑問を持つ根拠とした。
これらの疑問は卒業研究から続いている。卒業研究では古典の分析から考察することにした。いずれの時代まで遡り、そしていずれの古典を選択するかは重要である。この時まず必要な条件は、日本人の自然観に影響すると考えられ、また当時の人々の自然観がある程度分析できると考えられる古典の選択である。そして梅原は特に仏教的自然観が人々の環境に対する態度に影響を与えてきたと考えているので、人々の価値観が変化していったと考えられる仏教伝来影響下の仏教説話が適切と考え、卒業研究では現存する中では最古の仏教説話集である『日本霊異記』を分析した。卒業研究では、『日本霊異記』の説話において大まかに殺生のあるなしが現世での善果・悪果を決め、そのような不殺生思想が国家の肉食禁止令と呼応している点を指摘した。肉食禁止令が不殺生思想だけでなく、農耕牛馬の確保の必要からも生じたことにも触れた。『日本霊異記』で提示された不殺生思想は、肉食禁止令と相まって一つの規範のようにして民衆にも徐々に受け入れられていったはずである。現在『今昔物語集』を分析しているのは、そのように民衆に浸透したものがその後どのように変遷していくのかと、そのような時代背景の中で編集された『今昔物語集』が再びどのように民衆を唱導教化しようとしているのかを調べるためである。
筆者の研究の出発点を簡潔に表現すると、「日本人の自然観とはどのようなものか」である。そのため、西洋と日本を比較することで理解しようとしたこともあった。日本人の自然観に対する一般的な理解について考える上で、参照しておきたいのが梅原猛の主張による影響である。梅原猛は、仏教的自然観こそが日本人の伝統的な自然観であると考え、環境問題を解決する思想であるとしてこれを賛美する。このような考え方は今日、仏教的自然観に対する評価として一般的になっていると思う。このような現状に筆者が抱く疑問は二点である。一点目は、仏教は日本人の伝統的な自然観の構成要素の一つでしかないのではないかということである。では、他に日本人の伝統的自然観を構成するものは何か。もちろんそれが仏教的な要素と矛盾する可能性もある。この点についても考えなくてはならない。二点目は、日本人の伝統的自然観があるとしても、それは梅原が言うように環境に親和的なものであるとは限らないのではないかということである。この点については、卒業論文の中で「日本の伝統的自然観がそれほど自然・生命中心主義的なのであればなぜ公害発生や乱開発(自然破壊)の過程で歯止めとならなかったのか、なぜ欧米から環境倫理学が導入されるまで環境に無関心だったのか」 という指摘を引用し、これを梅原のいう伝統的自然観に対して疑問を持つ根拠とした。
これらの疑問は卒業研究から続いている。卒業研究では古典の分析から考察することにした。いずれの時代まで遡り、そしていずれの古典を選択するかは重要である。この時まず必要な条件は、日本人の自然観に影響すると考えられ、また当時の人々の自然観がある程度分析できると考えられる古典の選択である。そして梅原は特に仏教的自然観が人々の環境に対する態度に影響を与えてきたと考えているので、人々の価値観が変化していったと考えられる仏教伝来影響下の仏教説話が適切と考え、卒業研究では現存する中では最古の仏教説話集である『日本霊異記』を分析した。卒業研究では、『日本霊異記』の説話において大まかに殺生のあるなしが現世での善果・悪果を決め、そのような不殺生思想が国家の肉食禁止令と呼応している点を指摘した。肉食禁止令が不殺生思想だけでなく、農耕牛馬の確保の必要からも生じたことにも触れた。『日本霊異記』で提示された不殺生思想は、肉食禁止令と相まって一つの規範のようにして民衆にも徐々に受け入れられていったはずである。現在『今昔物語集』を分析しているのは、そのように民衆に浸透したものがその後どのように変遷していくのかと、そのような時代背景の中で編集された『今昔物語集』が再びどのように民衆を唱導教化しようとしているのかを調べるためである。
何が「自然」に該当するのか
『日本霊異記』でも同様だが、説話の中では「自然」という単語自体は出てこない。それでは説話中の何を「自然」と捉えれば良いのだろうか。品田みづほ が分析した際は、自然は動植物に当たるとし、「(『化かされる』『憑く』『祟り』等を含む)不可解な現象や(海外や桃源などの)不思議な世界をテーマにしたもの」を、「そうした話の背景は、自然観を考察する上で不可欠な視点ではあるが、呪術に関する分析手法は宗教に深くかかわり複雑にならざるをえ」ないため、分析では扱わないとしていた。また、背景としての野犬や武士の乗り物としての馬を除外していた。確かに品田が言うとおり、呪術的あるいは宗教的な部分は、必然的に現代人の科学での理解を超えた超常現象などを含んでしまう。しかし、筆者の研究では梅原の論に対する疑問の自分なりの答えとして、仏教的要素を無視するわけにはいかないのである。そして、仏教と同様に学ぶべきものであった呪術(少なくとも『日本霊異記』の編者である景戒はそう考えていた)も無視できない。現代の私たちはほとんどの場面では仏教や呪術的なものの見方をせずにものを見る。しかし、『今昔物語集』のまなざしは、もちろん全ての説話がそのようになっているわけではないが、現代よりは頻繁にそのような見方をする。仏教や呪術は、ちょうど現代の私たちが科学的な見方を信用するように、当時の人々が世界の道理を把握する方法として、ある程度の信用を持って用いていたまなざしだと想像できるのである。そして、それらと密接な関係のある鬼、霊、夢、異郷の存在も、そのまなざしで捉えられている。このまなざしは、『今昔物語集』の魅力の大きな部分を占めていると思う。よって、筆者の研究では、動植物の他に、超常現象も含めて「自然」と呼ぶことにしたい。『今昔物語集』は、このようなまなざしを民衆に提示することによって、民衆が彼らの世界を、そして身の回りのものを把握するまなざしを規定したのである。「見る目を養わせた」と言い換えても良いかもしれない。それこそが、筆者が分析したい「自然観」である。
『日本霊異記』でも同様だが、説話の中では「自然」という単語自体は出てこない。それでは説話中の何を「自然」と捉えれば良いのだろうか。品田みづほ が分析した際は、自然は動植物に当たるとし、「(『化かされる』『憑く』『祟り』等を含む)不可解な現象や(海外や桃源などの)不思議な世界をテーマにしたもの」を、「そうした話の背景は、自然観を考察する上で不可欠な視点ではあるが、呪術に関する分析手法は宗教に深くかかわり複雑にならざるをえ」ないため、分析では扱わないとしていた。また、背景としての野犬や武士の乗り物としての馬を除外していた。確かに品田が言うとおり、呪術的あるいは宗教的な部分は、必然的に現代人の科学での理解を超えた超常現象などを含んでしまう。しかし、筆者の研究では梅原の論に対する疑問の自分なりの答えとして、仏教的要素を無視するわけにはいかないのである。そして、仏教と同様に学ぶべきものであった呪術(少なくとも『日本霊異記』の編者である景戒はそう考えていた)も無視できない。現代の私たちはほとんどの場面では仏教や呪術的なものの見方をせずにものを見る。しかし、『今昔物語集』のまなざしは、もちろん全ての説話がそのようになっているわけではないが、現代よりは頻繁にそのような見方をする。仏教や呪術は、ちょうど現代の私たちが科学的な見方を信用するように、当時の人々が世界の道理を把握する方法として、ある程度の信用を持って用いていたまなざしだと想像できるのである。そして、それらと密接な関係のある鬼、霊、夢、異郷の存在も、そのまなざしで捉えられている。このまなざしは、『今昔物語集』の魅力の大きな部分を占めていると思う。よって、筆者の研究では、動植物の他に、超常現象も含めて「自然」と呼ぶことにしたい。『今昔物語集』は、このようなまなざしを民衆に提示することによって、民衆が彼らの世界を、そして身の回りのものを把握するまなざしを規定したのである。「見る目を養わせた」と言い換えても良いかもしれない。それこそが、筆者が分析したい「自然観」である。
『日本国現報善悪霊異記』とは
『日本霊異記』とは、古代説話を集録した、日本最古の説話集であり、古代国家仏教が日本に即した形で民衆に受け入れられていく過程をうかがい知ることのできる資料である。『日本霊異記』は仏教思想の日本への普及に貢献したものと考えられる。本文は、上巻35話、中巻42話、下巻39話という構成で、成立年次は弘仁年間(810~24)とされ、著者は奈良の薬師寺の僧、景戒(奈良後期から平安初期)である。『日本霊異記』の影響を受けた文献は、直接間接に広範にわたっている。
『日本霊異記』は、説話文学として分類されるもので、聖典として尊崇されることはない。エリートの仏教ではなく、民衆の仏教に属するものである。しかし、そこには仏教にはじめて触れた古代の人々が、どのようにそれを受け入れたかが、生々しく描かれている。
新しい仏教を創唱したような思想家たちは必ず民衆の心を汲み取っていたであろう。そして、民衆の間に根付いた仏教はそのような思想家たちの理論が浸透することによって発展していったと考えられる。
『日本霊異記』の著者である景戒(けいかい、きょうかい)は、『日本霊異記』に記された断片的な記述以外に資料がなく、詳しい伝記は分からない。薬師寺に所属し、妻子を持って貧しい暮らしをしていたと考えられている。『日本霊異記』の成立年代ははっきりしないが、弘仁13年(822)の記事を含むので、最終的に完成されたのはそれ以後のことと考えられる。平安時代初期のことで、ようやく日本の社会に仏教が定着しつつあったときである。
古代における大陸文化の流入は、明治期よりも文化的な落差が大きかっただけに、巨大な衝撃を持つものであった。仏教は決して単なる宗教というだけではない。大陸の先進的な文化の総合的なセットとして入ってきたのである。仏教は、土木技術も、水田の灌漑技術も、海運技術も含む総合的な新文明として入ってきたのであり、そのような巨大な物質的な力として、伝統社会を打ち壊し、中央集権的な新たな社会秩序を作り出す中心的な力となったのである。そのような力を齎(もたら)すイデオロギー的背景として、複雑巧緻に構成された教学が位置づけられることになる。このような文明の闘争と征服の過程が、宗教的なレベルに象徴的に表現される。そこでは、古来の神々は矮小化されて、嫌悪を催すものとされ、それ故に正義の力である仏教によって征服されることになる。『日本霊異記』にしばしば出てくる蛇の位置づけを見ると明白である。蛇は、古くは神の使い、あるいは神そのものの現われとされてきた。蛇との結婚は神との結婚ということであり、きわめて宗教的で神聖な意味を持っていた。ところが、『日本霊異記』では蛇はその神性を失い、まったく悪役として嫌悪すべき対象になってしまっている。聖や聖人(しょうにん)、あるいはその化身は、『日本霊異記』で活躍する仏教者を代表するもので、常人が持たない不思議な力を持っている。彼らは古い神に替わる新しい宗教的存在であり、神々を凌駕し、征服することになる。神仏習合といわれる現象は、このような仏法の優位の中で、両者の関係が構造化されるところに形成されたものである。
『日本霊異記』とは、古代説話を集録した、日本最古の説話集であり、古代国家仏教が日本に即した形で民衆に受け入れられていく過程をうかがい知ることのできる資料である。『日本霊異記』は仏教思想の日本への普及に貢献したものと考えられる。本文は、上巻35話、中巻42話、下巻39話という構成で、成立年次は弘仁年間(810~24)とされ、著者は奈良の薬師寺の僧、景戒(奈良後期から平安初期)である。『日本霊異記』の影響を受けた文献は、直接間接に広範にわたっている。
『日本霊異記』は、説話文学として分類されるもので、聖典として尊崇されることはない。エリートの仏教ではなく、民衆の仏教に属するものである。しかし、そこには仏教にはじめて触れた古代の人々が、どのようにそれを受け入れたかが、生々しく描かれている。
新しい仏教を創唱したような思想家たちは必ず民衆の心を汲み取っていたであろう。そして、民衆の間に根付いた仏教はそのような思想家たちの理論が浸透することによって発展していったと考えられる。
『日本霊異記』の著者である景戒(けいかい、きょうかい)は、『日本霊異記』に記された断片的な記述以外に資料がなく、詳しい伝記は分からない。薬師寺に所属し、妻子を持って貧しい暮らしをしていたと考えられている。『日本霊異記』の成立年代ははっきりしないが、弘仁13年(822)の記事を含むので、最終的に完成されたのはそれ以後のことと考えられる。平安時代初期のことで、ようやく日本の社会に仏教が定着しつつあったときである。
古代における大陸文化の流入は、明治期よりも文化的な落差が大きかっただけに、巨大な衝撃を持つものであった。仏教は決して単なる宗教というだけではない。大陸の先進的な文化の総合的なセットとして入ってきたのである。仏教は、土木技術も、水田の灌漑技術も、海運技術も含む総合的な新文明として入ってきたのであり、そのような巨大な物質的な力として、伝統社会を打ち壊し、中央集権的な新たな社会秩序を作り出す中心的な力となったのである。そのような力を齎(もたら)すイデオロギー的背景として、複雑巧緻に構成された教学が位置づけられることになる。このような文明の闘争と征服の過程が、宗教的なレベルに象徴的に表現される。そこでは、古来の神々は矮小化されて、嫌悪を催すものとされ、それ故に正義の力である仏教によって征服されることになる。『日本霊異記』にしばしば出てくる蛇の位置づけを見ると明白である。蛇は、古くは神の使い、あるいは神そのものの現われとされてきた。蛇との結婚は神との結婚ということであり、きわめて宗教的で神聖な意味を持っていた。ところが、『日本霊異記』では蛇はその神性を失い、まったく悪役として嫌悪すべき対象になってしまっている。聖や聖人(しょうにん)、あるいはその化身は、『日本霊異記』で活躍する仏教者を代表するもので、常人が持たない不思議な力を持っている。彼らは古い神に替わる新しい宗教的存在であり、神々を凌駕し、征服することになる。神仏習合といわれる現象は、このような仏法の優位の中で、両者の関係が構造化されるところに形成されたものである。
『日本霊異記』とその政治的役割
『日本霊異記』には、殺生禁断・肉食禁止に関する仏教説話が、実に数多く収められている。そして、これらには明確な原則があり、ほとんどが動物の命を大切にした、という話になっている。すなわち動物を救う行為は善で、必ずよい報いがあり、逆に殺生や肉食は悪で、この罪を犯したものには必ず悪い報いがある、という筋立てになっている。
こうした仏教説話の存在は、肉食の禁止を一つの社会的な理念として定着させようとする僧侶による布教活動が、平安時代には盛んであったことを示していると思われる。このような価値観は、おそらく社会上層にとっての価値基準であり、人々は教化されるべき対象であったと考えられる。これらの説話が各地で繰り返され、仏教が社会的に受容されるに伴って、肉食に対する罪の意識が社会的に定着していったものと思われる。
もともと古代には、殺牛殺馬という儀礼が存在し、旱魃の時など牛馬を殺して神に捧げることがあった。しかしこのような儀礼が、『日本霊異記』の説話では、漢神を祭るためにウシを犠牲にした人が、死んだ後に裁きを受けるという話になっている。この説話は、動物を犠牲にする宗教を邪神のものとし、仏教の教義である殺生肉食の忌避を正当化する役割を果たした。古代において律令国家を形成するにあたり、その指導者たちは、殺生の忌避と水田耕作の推進を同時的かつ意図的に進めた。それが政策としての殺生禁断令である。
しかし一方で、「平城京や平安京の運河のほとりを発掘すると、牛馬、イヌ、シカ、イノシシの骨が大量に出て」 くる。『日本書紀』天武天皇四年(六七五)四月一七日条には、肉食を禁じた法令が記載されており、以来わが国では長い間、人々は肉食を遠ざけてきた、と考えられている。 確かに全体として、狩猟・漁撈一般を禁ずる内容となってはいるが、肉食が禁じられたのは、農耕用の牛馬と家畜である犬と鶏、それに人間に最も近い動物である猿の五畜であった。当時における最も重要な狩猟獣であった鹿と猪とが、ここから除外されたことが重要である。つまり、この法令の真の目的は、不殺生戒に基づく「肉食の禁止」というよりも、農耕期に殺生をしないことによる農業、特に「水田耕作の推進」にあったと考えられる。691年の法令に、「農業のために、酒と肉とを断って、心を平静に保ち、仏教の力によって水害を防ぐように」とあることからも、農業のために殺生や肉食を避けるという考え方が存在していたと思われる。
『日本霊異記』には、殺生禁断・肉食禁止に関する仏教説話が、実に数多く収められている。そして、これらには明確な原則があり、ほとんどが動物の命を大切にした、という話になっている。すなわち動物を救う行為は善で、必ずよい報いがあり、逆に殺生や肉食は悪で、この罪を犯したものには必ず悪い報いがある、という筋立てになっている。
こうした仏教説話の存在は、肉食の禁止を一つの社会的な理念として定着させようとする僧侶による布教活動が、平安時代には盛んであったことを示していると思われる。このような価値観は、おそらく社会上層にとっての価値基準であり、人々は教化されるべき対象であったと考えられる。これらの説話が各地で繰り返され、仏教が社会的に受容されるに伴って、肉食に対する罪の意識が社会的に定着していったものと思われる。
もともと古代には、殺牛殺馬という儀礼が存在し、旱魃の時など牛馬を殺して神に捧げることがあった。しかしこのような儀礼が、『日本霊異記』の説話では、漢神を祭るためにウシを犠牲にした人が、死んだ後に裁きを受けるという話になっている。この説話は、動物を犠牲にする宗教を邪神のものとし、仏教の教義である殺生肉食の忌避を正当化する役割を果たした。古代において律令国家を形成するにあたり、その指導者たちは、殺生の忌避と水田耕作の推進を同時的かつ意図的に進めた。それが政策としての殺生禁断令である。
しかし一方で、「平城京や平安京の運河のほとりを発掘すると、牛馬、イヌ、シカ、イノシシの骨が大量に出て」 くる。『日本書紀』天武天皇四年(六七五)四月一七日条には、肉食を禁じた法令が記載されており、以来わが国では長い間、人々は肉食を遠ざけてきた、と考えられている。 確かに全体として、狩猟・漁撈一般を禁ずる内容となってはいるが、肉食が禁じられたのは、農耕用の牛馬と家畜である犬と鶏、それに人間に最も近い動物である猿の五畜であった。当時における最も重要な狩猟獣であった鹿と猪とが、ここから除外されたことが重要である。つまり、この法令の真の目的は、不殺生戒に基づく「肉食の禁止」というよりも、農耕期に殺生をしないことによる農業、特に「水田耕作の推進」にあったと考えられる。691年の法令に、「農業のために、酒と肉とを断って、心を平静に保ち、仏教の力によって水害を防ぐように」とあることからも、農業のために殺生や肉食を避けるという考え方が存在していたと思われる。
『今昔物語集』について
- インド・中国・日本の三国仏教史観
- 編者不明。僧からなるグループとされるが、複数の説がある。
- 年代の分かる説話のうち、最下限のものは1106年前後。出典の一つである歌学的説話集『俊頼髄脳』の成立が1110年代と推定される。保元の乱(1156年)に始まる源平の戦いには全く触れていない。⇒成立は1120年前後
- 仏法的な説話と世俗的な説話、中央的な説話と地方的な説話という、二つのひろがり
- 民衆と動物は、やはり人と畜生という区別はするが、身分に関係なく賢い言動を評価し、賢い者にしてやられる者には評価が厳しい。「蠢付(むくつけ)し」(落ち着いて抜け目がない)、「賢し」、「可咲(おか)し」、「愚か」、「奇異(あさま)し」、「下衆(げす)なれども」、「賤しき者」
- だました男…「糸(いと)恥(はづ)かし」(良い評価)、だまされた男…「実に愚かなり」(悪い評価)(巻29第23話)
- 民衆は動物に化かされたり、憑かれたり、祟られたりする中で、賢さを発揮する。