亀山研ゼミ 2011/12/05
輪読 内山節『共同体の基礎理論』農文協
輪読 内山節『共同体の基礎理論』農文協
まえがき(p1~)
大塚久雄『共同体の基礎理論』1955年刊行
人間が自然に緊縛されている、土地に隷属している=前近代的な自然への隷属
→乗り越えなければならない。
大塚久雄『共同体の基礎理論』1955年刊行
人間が自然に緊縛されている、土地に隷属している=前近代的な自然への隷属
→乗り越えなければならない。
今日の近代的市民社会
孤立、孤独、不安、ゆきづまり…のといった問題
⇕
関係性、共同性、結びつき、利他、コミュニティ…
→未来への可能性としての「共同体」。
⇒わずか半世紀の間に、共同体は克服すべき前近代から未来への可能性へと変化。
(そこでは守田志郎が先駆的役割を果たし、また玉城哲も部分的に役割を果たした。)
孤立、孤独、不安、ゆきづまり…のといった問題
⇕
関係性、共同性、結びつき、利他、コミュニティ…
→未来への可能性としての「共同体」。
⇒わずか半世紀の間に、共同体は克服すべき前近代から未来への可能性へと変化。
(そこでは守田志郎が先駆的役割を果たし、また玉城哲も部分的に役割を果たした。)
☆このような時代の変化を踏まえた新しい「共同体の基礎理論」が必要
第1部 共同体の基礎理論
第1章 現代社会と共同体(p15~)
1 共同体への新しい関心
●明治以降の日本の近代化
(1)国民国家の形成
国民国家:それまでの地域の連合体としての国家を否定し、人々を国民という個人に変え、個の個人を国家システムの下に統合管理する国家システム。
(2)市民社会の形成
市民社会:個人を基礎とする社会。
(3)資本主義的な市場経済の形成
※近代化の促進のため、科学的であることや合理的であることに依存する精神の確立の必要性、また歴史は進歩し続けているという「共同幻想」を定着させる必要性。
第1章 現代社会と共同体(p15~)
1 共同体への新しい関心
●明治以降の日本の近代化
(1)国民国家の形成
国民国家:それまでの地域の連合体としての国家を否定し、人々を国民という個人に変え、個の個人を国家システムの下に統合管理する国家システム。
(2)市民社会の形成
市民社会:個人を基礎とする社会。
(3)資本主義的な市場経済の形成
※近代化の促進のため、科学的であることや合理的であることに依存する精神の確立の必要性、また歴史は進歩し続けているという「共同幻想」を定着させる必要性。
●近代化にとっての壁=共同体
日本の共同体:
自然と人間の共同体、生の世界と死の世界を統合した共同体、自然信仰・神仏信仰と一体化された共同体。
※永遠の循環を大事にする精神、非合理な諒解に納得する精神。
→日清・日露戦争で近代化を確立していくが、共同体をほぼ一掃するのは高度成長の終わり。
日本の共同体:
自然と人間の共同体、生の世界と死の世界を統合した共同体、自然信仰・神仏信仰と一体化された共同体。
※永遠の循環を大事にする精神、非合理な諒解に納得する精神。
→日清・日露戦争で近代化を確立していくが、共同体をほぼ一掃するのは高度成長の終わり。
●戦後の社会主義の影響
公式的な社会主義理論では
歴史は封建社会、資本主義社会、社会主義社会と発展。
→封建社会の基礎単位である共同体は近代化によって解体され、また人々は解放されなければならない。
公式的な社会主義理論では
歴史は封建社会、資本主義社会、社会主義社会と発展。
→封建社会の基礎単位である共同体は近代化によって解体され、また人々は解放されなければならない。
●共同体否定の3つ流れ
(1)社会主義思想をうけた否定論
(2)リベラル派の否定論
(3)近代国家形成を目指す体制の側の否定論
(1)社会主義思想をうけた否定論
(2)リベラル派の否定論
(3)近代国家形成を目指す体制の側の否定論
2 1970年代以降の変化
●高度経済成長下の1960年代の社会変化
所得の増加、巨大な消費市場、人口移動、核家族化、ニュータウン建設…
また60年代後半には、「近代化された日本社会」のかたちが見え始める。
企業―終身雇用制、年功序列型賃金、企業内福祉制度
ライフスタイル―高学歴化、安定雇用、核家族的な家族形態、多消費型生活
⇕
近代化の負の部分
農山村の過疎化や経済の疲弊、都市公害、乱開発による自然破壊(喪失)…
→新たな戸惑い、ある種の喪失感の芽生え
●高度経済成長下の1960年代の社会変化
所得の増加、巨大な消費市場、人口移動、核家族化、ニュータウン建設…
また60年代後半には、「近代化された日本社会」のかたちが見え始める。
企業―終身雇用制、年功序列型賃金、企業内福祉制度
ライフスタイル―高学歴化、安定雇用、核家族的な家族形態、多消費型生活
⇕
近代化の負の部分
農山村の過疎化や経済の疲弊、都市公害、乱開発による自然破壊(喪失)…
→新たな戸惑い、ある種の喪失感の芽生え
●「若者の反乱」(学生運動)
1960年ごろまでの運動→「エリートの社会的責任」から出発
1967年以後の運動→近代化された社会における「存在の空洞化」意識、近代社会の問い直し
1960年ごろまでの運動→「エリートの社会的責任」から出発
1967年以後の運動→近代化された社会における「存在の空洞化」意識、近代社会の問い直し
⇒これらによって直ちに共同体の再認識と導かれたわけではないが、これらを経て守田の共同体の意義の見直しが提起されていく。
3 自然保護か、自然と人間の関係か
●環境問題への意識
60年代までの環境問題(ex水俣病、都市公害問題(光化学スモッグ、死の川、死の海))
→あくまで公害問題。企業や政府や行政の問題。また逆から考えれば、政府や行政が企業に対し適切な手を打てば解決される問題。
70年代以降の環境問題
→文明的生活自体が環境悪化の原因として理解。われわれは被害者であり加害者。
●環境問題への意識
60年代までの環境問題(ex水俣病、都市公害問題(光化学スモッグ、死の川、死の海))
→あくまで公害問題。企業や政府や行政の問題。また逆から考えれば、政府や行政が企業に対し適切な手を打てば解決される問題。
70年代以降の環境問題
→文明的生活自体が環境悪化の原因として理解。われわれは被害者であり加害者。
●日本の環境理論
- アメリカ型環境理論(70年代)
「人間のための自然・環境保護」、人間中心主義的
→開発の必要性を主張する際も、「人間のために」であり、自然保護か開発かをめぐる解決にはならない。
→開発の必要性を主張する際も、「人間のために」であり、自然保護か開発かをめぐる解決にはならない。
- 「自然権」理論
自然自身が、人間のためになるのかどうかに関わらず生存権を持つ
→人間の活動自体が否定されかねない。悪性ウイルスにも生存権がある?
→人間の活動自体が否定されかねない。悪性ウイルスにも生存権がある?
そこで、「自然保護」から「持続可能な社会」へと問い自体を変更
それによって、環境問題を解決するために必要な課題が拡大。
(ex資本主義的市場経済、貧困問題、独裁、人権、女性差別…)
それによって、環境問題を解決するために必要な課題が拡大。
(ex資本主義的市場経済、貧困問題、独裁、人権、女性差別…)
それによって多くの人々は持続可能な社会とは持続可能な秩序(「体系」)の中に展開する世界であると理解するようになる。
→しかし、これでは近代思想の世界ととらえ方が同じ。
世界を持続可能な秩序下におこうという発想自体に潜む問題は存在しないのか。
持続可能とは、人間の文明の持続可能性なのか。自然の持続可能性なのか。
→しかし、これでは近代思想の世界ととらえ方が同じ。
世界を持続可能な秩序下におこうという発想自体に潜む問題は存在しないのか。
持続可能とは、人間の文明の持続可能性なのか。自然の持続可能性なのか。
●自然と人間の関係の問い直し
近代以降の自然と人間の関係のゆがみの問い直し(大熊孝、鬼頭秀一の提起が代表的)
(ex里山整備、有機農業)
→共同体の役割の再評価
近代以降の自然と人間の関係のゆがみの問い直し(大熊孝、鬼頭秀一の提起が代表的)
(ex里山整備、有機農業)
→共同体の役割の再評価
4 共同体をとらえる「まなざし」
その時代の問題意識が共同体にどのような光や影を与えているのかを抜きに、共同体とは何かを考えることはできない。共同体をとらえる「まなざし」の変化(解体対象としての共同体から自然と人間の関係の問い直しを通しての共同体)から現在の共同体論は生まれ、それは未来への探求として展開していく。
その時代の問題意識が共同体にどのような光や影を与えているのかを抜きに、共同体とは何かを考えることはできない。共同体をとらえる「まなざし」の変化(解体対象としての共同体から自然と人間の関係の問い直しを通しての共同体)から現在の共同体論は生まれ、それは未来への探求として展開していく。
感想・疑問
「持続可能な社会」を進歩や進展ととらえず、近代の欧米思想の枠組みから変わっていない発想であるとし、その思想を秩序とすること自体が問題ではないかとする著者の見方は私にとって新しかった。近代思想に慣れ親しんだ私にとって、「持続的な社会」によって事態が少しは好転するのではと期待を込めつつ思ってしまうし、一方でそんなことしても変わらないとあきらめに似た思いもしてしまう。ただ根本に流れる思想は変わらないとする筆者の考えは、環境問題をめぐる各国間の対立を見ても明らかで、そこには思想として受つけ(られ)ないという要因があるのだと改めて思う。
P15の第一段落の最後にある、「もっとも、政治、社会システムの領域では「日本的」ということが強調されもした」とあるが、この「日本的」というのはどういうことなのか。
「持続可能な社会」を進歩や進展ととらえず、近代の欧米思想の枠組みから変わっていない発想であるとし、その思想を秩序とすること自体が問題ではないかとする著者の見方は私にとって新しかった。近代思想に慣れ親しんだ私にとって、「持続的な社会」によって事態が少しは好転するのではと期待を込めつつ思ってしまうし、一方でそんなことしても変わらないとあきらめに似た思いもしてしまう。ただ根本に流れる思想は変わらないとする筆者の考えは、環境問題をめぐる各国間の対立を見ても明らかで、そこには思想として受つけ(られ)ないという要因があるのだと改めて思う。
P15の第一段落の最後にある、「もっとも、政治、社会システムの領域では「日本的」ということが強調されもした」とあるが、この「日本的」というのはどういうことなのか。
