『論文進行と問題点』
一.テーマ名
人間にとって必要なこと―〈いま、ここにいる〉という感覚を手がかりに―(仮)
二.要旨
1.「差異化」の過程としての〈私〉
人間は赤ん坊としてこの世界に生まれた瞬間から、母親や父親、兄弟などの家族や、周囲の様々な生き物やもの達と出会っていく。赤ん坊は始め、「私」も「他者」もない自他未分の世界を生きているが、この出会いに際して他者を「他者」として了解し、そのことによって同時に私を“他者ではないもの”として了解する。そして彼(彼女)は新たな他者と出会うたびにこの過程を繰り返し、その過程によって次第に「私」と「他者」の差異が確立していく。ただしこの過程はいずれ完成されるというものではなくその都度繰り返され常に循環するような過程である。本論では以後このような過程のことを「差異化」1と呼び、差異化の過程の繰り返しによって他者との区別が確立されている自己を〈私〉と呼ぶ。
2.「出会い」を感覚する能力としての「共通感覚」
赤ん坊と他者との出会いに際して他者が他者として認められるためには、赤ん坊がこの「出会い」を出会いとしてはっきりと受け止め、他者に向かっていくための欲求と能力を持っていなければならない。その能力は出会いがまず他者との身体を介した出会いであることから思考以前の感覚の能力である。そして離人症状が示すように2、諸体性感覚がそれぞれバラバラに感覚される場合には他者はただ認識されるだけのものとなり、他者に向かっていく欲求を呼び起こすものとはならないから、それら諸体性感覚を統合しそれらに“生きた”感覚を与えるような感覚能力が考えられなくてはならない。アリストテレスは「共通感覚」3をそのような能力として論じている。
3.他者へと向かう「生への欲求」
ここで、そもそも人間を他者へと向かわせる何らかの“力”を仮定する必要があるので、ひとまずこれを「生への欲求」と名づける。「生への欲求」は人間が生来持っていると考えざるをえないが、共通感覚に基づく他者との出会いによって呼び起こされるものと考えられる。
つまり〈私〉とは、共通感覚によって呼び起こされた「生への欲求」が、人間を他者との出会いへと向かわせ、出会いにおいて「私」と「他者」とを認める差異化の過程の繰り返しによって確立されていくもの、といえる。
つまり〈私〉とは、共通感覚によって呼び起こされた「生への欲求」が、人間を他者との出会いへと向かわせ、出会いにおいて「私」と「他者」とを認める差異化の過程の繰り返しによって確立されていくもの、といえる。
4.他者へ向かう共通感覚:「常識」
他者との出会いにおいて共通感覚が果たす役割をもう少し考えてみる。共通感覚が諸体性感覚を統合することで、〈私〉は他者を全体として感覚し、他者をまさに「いまそこにいる」と感じることができる。このとき他者は単なる認識対象ではなく、〈私〉が向かっていくものあるいは〈私〉に向かってくるものとして感じられる。つまり共通感覚をその機能と感覚内容とに区別するなら、ひとりの人間における共通感覚の“機能”は諸体性感覚の統合であり、その“感覚内容”は対象が〈私〉にとって「いまそこに」あるものとして感じるということである。
さらに共通感覚は、他者を含み〈私〉と他者が共有する場所としての世界についても同様に、〈私〉にとって「いまそこに」あるものとして感じさせる。つまり共通感覚は〈私〉を世界へと向かわせることで、世界に対する実践的な―認識対象としてではなく、能動的に働きかけたり働きかけられたりするような―関わりを、可能にする。このとき、〈私〉は共通感覚を媒介にして世界や他者に対して実践的に関わるが、同時にまた別の〈私〉である他者も世界に対して実践的に関わっている。あるいは〈私〉は、他者が〈私〉に対して実践的に働きかけてくることで、また他者と「いまそこにある」という共通感覚を共有することで、他者がまた別の〈私〉でもあることを知る。
つまり他者へ向かう共通感覚の“機能”は、〈私〉と、また別の〈私〉である他者がともにそれぞれの共通感覚によって世界に対して実践的に働きかけることを通じて、世界が「いまそこにある」という感覚を他者と共有しうるということであり、その“感覚内容”は、実践的な働きかけの仕方としての感覚である「常識」である。このように捉えたとき常識とは実践的な方法あるいは体系としての感覚であり、単なる日常的な知識や認識はそこには含まれない。
さらに共通感覚は、他者を含み〈私〉と他者が共有する場所としての世界についても同様に、〈私〉にとって「いまそこに」あるものとして感じさせる。つまり共通感覚は〈私〉を世界へと向かわせることで、世界に対する実践的な―認識対象としてではなく、能動的に働きかけたり働きかけられたりするような―関わりを、可能にする。このとき、〈私〉は共通感覚を媒介にして世界や他者に対して実践的に関わるが、同時にまた別の〈私〉である他者も世界に対して実践的に関わっている。あるいは〈私〉は、他者が〈私〉に対して実践的に働きかけてくることで、また他者と「いまそこにある」という共通感覚を共有することで、他者がまた別の〈私〉でもあることを知る。
つまり他者へ向かう共通感覚の“機能”は、〈私〉と、また別の〈私〉である他者がともにそれぞれの共通感覚によって世界に対して実践的に働きかけることを通じて、世界が「いまそこにある」という感覚を他者と共有しうるということであり、その“感覚内容”は、実践的な働きかけの仕方としての感覚である「常識」である。このように捉えたとき常識とは実践的な方法あるいは体系としての感覚であり、単なる日常的な知識や認識はそこには含まれない。
脚注
1 木村敏『自己・あいだ・時間』ちくま学芸文庫2006、Ⅵ章・Ⅷ章
2 同、p.112
3 アリストテレス『デ・アニマ』Ⅲ、四二五(木村前掲著p.165引用より)
1 木村敏『自己・あいだ・時間』ちくま学芸文庫2006、Ⅵ章・Ⅷ章
2 同、p.112
3 アリストテレス『デ・アニマ』Ⅲ、四二五(木村前掲著p.165引用より)
三.問題点
- 個体の機能としての共通感覚をどうやって他者への共通感覚としてつなげるか(→二.4)
- 「生への欲求」を無条件に仮定してよいのか
- 〈いま、ここにいる〉という感覚はあくまで前提であるということ
- 〈私〉と〈私〉の身体のブレ
- 結局何が言いたいのか?
四.冬休みの予定
もはや他の手がかりを探している時間的余裕がないので、共通感覚でいきたいと思います。
後は以上の問題点について考えながら、とりあえず書く。できれば、年明けまでに初稿を書く。
後は以上の問題点について考えながら、とりあえず書く。できれば、年明けまでに初稿を書く。
読む予定の本
田上孝一・黒木朋興・助川幸逸郎 編著『〈人間〉の系譜学―近代的人間像の現在と未来』東海大学出版2008
坂部恵『仮面の解釈学』東京大学出版1976
中井久夫『分裂病と人類』UP選書、東京大学出版会1982
ほか
                                
田上孝一・黒木朋興・助川幸逸郎 編著『〈人間〉の系譜学―近代的人間像の現在と未来』東海大学出版2008
坂部恵『仮面の解釈学』東京大学出版1976
中井久夫『分裂病と人類』UP選書、東京大学出版会1982
ほか
