本論文が検討するのは、「地域の共同性の回復は、市民社会によって実現可能なのか?」という問いである。
 流れとしては以下の通りである。
一)現代の地域再生論である〈コミュニティ論〉は、想定する地域再生の条件を理論的に満たせているのか、その実現可能性を市民社会における社会的結合の形態と原理、それを担う人間モデルの次元から検討する。
二)地域再生の条件を満たす契機とは何かを地域の共同性が持続的に営まれてきた地区の事例から分析する
三)地域に求められる共同性の核心的契機を満たす社会的結合の原理と人間モデルとは何かを検討する。
一)現代の地域再生論である〈コミュニティ論〉は、想定する地域再生の条件を理論的に満たせているのか、その実現可能性を市民社会における社会的結合の形態と原理、それを担う人間モデルの次元から検討する。
二)地域再生の条件を満たす契機とは何かを地域の共同性が持続的に営まれてきた地区の事例から分析する
三)地域に求められる共同性の核心的契機を満たす社会的結合の原理と人間モデルとは何かを検討する。
 問題意識の歴史的背景は、増田(二〇一〇)にも通底する次の二点である。
一つは、大塚久雄や丸山眞男らが提起した「自立した個人」の批判的乗り越えの企図である。
もう一つは、大塚等の近代的個人の超克を目的として論じられてきた山口定の「新しい市民社会」論が採用する、社会的結合を可能にする「自発的参加」の批判である。筆者は、大塚および山口が共同体論の根底におく個人のモデルを、「自由と自律を担保した個人の自立」を前提とするパーソンモデルとしてまとめ、パーソンモデルの結合原理では、地域再生の担い手は実現されえないとする。
一つは、大塚久雄や丸山眞男らが提起した「自立した個人」の批判的乗り越えの企図である。
もう一つは、大塚等の近代的個人の超克を目的として論じられてきた山口定の「新しい市民社会」論が採用する、社会的結合を可能にする「自発的参加」の批判である。筆者は、大塚および山口が共同体論の根底におく個人のモデルを、「自由と自律を担保した個人の自立」を前提とするパーソンモデルとしてまとめ、パーソンモデルの結合原理では、地域再生の担い手は実現されえないとする。
 【1.現代の地域再生論における共同体と市民社会の融合】では、広井良典が新たな地域再生のためのコミュニティのために提唱する、地域における「都市型コミュニティ」=市民社会と「農村型コミュニティ」=伝統的共同体を「融合」が紹介される。
この「融合」を求める議論は〈両面的乗り越え論〉としてまとめられる。〈両面的乗り越え論〉は、大塚久夫による、農村/都市の二項対立図式の提起以降の日本の共同体論の変遷の延長上にあり、個人を埋没させずに共同体と市民社会をバランスよく「融合」させることを主題とする。
しかし、筆者は、〈両面的乗り越え論〉において、大塚の二項対立図式の問題点が解消されうる理路が説明されていないこと、そして、地域再生の議論において求められる地域の共同性とはどのようなもので、それをどう担うのかが検討されていないことを指摘する。
この「融合」を求める議論は〈両面的乗り越え論〉としてまとめられる。〈両面的乗り越え論〉は、大塚久夫による、農村/都市の二項対立図式の提起以降の日本の共同体論の変遷の延長上にあり、個人を埋没させずに共同体と市民社会をバランスよく「融合」させることを主題とする。
しかし、筆者は、〈両面的乗り越え論〉において、大塚の二項対立図式の問題点が解消されうる理路が説明されていないこと、そして、地域再生の議論において求められる地域の共同性とはどのようなもので、それをどう担うのかが検討されていないことを指摘する。
 【2.地域再生における共同性の要件】では、後者の「地域再生の議論において求められる地域の共同性とはどのようなものか」という問いに対して、地域再生運動の議論の整理から、再生すべき地域の要件が「サブシステンスを内包する自治的共同」、「持続的な共同性、地域のサブシステンスに関する共通認識の醸成」の二つを条件とすることが確認される。これは「農村型コミュニティ」=伝統的共同体の積極面として位置づけられる。
 しかし、続く【3.市民社会の結合原理とパーソンモデル】において、「都市型コミュニティ」=市民社会では、自治的共同・サブシステンスへの共通認識の二つの条件を担えないことが指摘される。その理由として、市民社会の担い手が、個々人が自由意思により共同体への参加の度合いを選択できる「自立した個人」を前提とするパーソンモデルから論じられていること。そして、このパーソンモデルに基づく共同体では竹井隆人(二〇〇七)の集合住宅型共同モデルの失調と類することが起こることが述べられる。
 以上をふまえて、地域の担い手には別の人間モデルの考察の必要性が提起される。
 【4.地域の共同性とインボランタリー性の原理】では、パーソンモデルでは見逃されていた〈参加のインボランタリー性〉への着目がなされる。つまり、「都市型コミュニティ」=市民社会において、地域の共同性への参加は個人の自発性voluntary、自由選択に任されていたが、「地区内における共同性を伴う行事や資源管理への住民の参加はそこに住む限り、初めから前提条件となるものであり、それは義務でもある」という了解・共有、そのメカニズムの解明こそが必要であるとする。筆者は、熊本県球磨村高沢地区における仏飯講と水資源管理を軸とした事例をあげている。
 【5.間柄的相互存在とベルソナモデル】では、〈参加のインボランタリー性〉を担いうるモデルとして、レーヴィットの「間柄Verhaltnis」に規定された「ペルソナPersona」=「役割die Rolle」を担い合う存在としての人間規定が、ペルソナモデルとして紹介される。
レーヴィットのペルソナ概念において〈参加のインボランタリー性〉と関連して注目されるのが、役割の了解・共有の原理である。間柄に規定された個人は、意のままにならない他者の抵抗を経験しながらも、そこに“踏み止まり”、間柄を徹底化することで、お互いが円満であるための合意形成を醸成していく(それは間柄のなかで役割が固定化し、役割に個人が埋没してしまうものとも異なる)。それは、近代的個人とは違う原理で個人の自立を担保するとされる。
レーヴィットのペルソナ概念において〈参加のインボランタリー性〉と関連して注目されるのが、役割の了解・共有の原理である。間柄に規定された個人は、意のままにならない他者の抵抗を経験しながらも、そこに“踏み止まり”、間柄を徹底化することで、お互いが円満であるための合意形成を醸成していく(それは間柄のなかで役割が固定化し、役割に個人が埋没してしまうものとも異なる)。それは、近代的個人とは違う原理で個人の自立を担保するとされる。
 このペルソナモデルの実装にあたっては、筆者が度々批判の対象とする「自立した個人」が、何において、どのような評価基準で定位されてきたかは再考される必要がある。とりわけ「自立を誰が評価するのか」という問いは重要であるように思われる。なぜなら、大塚―山口に即した「自立した個人=市民」において、自立は、あたかも自己評価可能な能力のように位置づけられるが、それは必ずしも是とされるものではないからである。例えば大塚は自営農民を念頭におき、各人の経済的自立を他者への非従属と結びつけたが、それは自立の多層的内実の一側面に過ぎない(亀山 二〇一〇)。
さらに、本論で批判的に検討される、「自由意思により共同体への参加の度合いを選択できるとされる個々人」において、自立は、自己評価可能であると同時に、すでに達成されたものとして位置づけられている。一九六〇年代、丸山は「個人の自立」の成熟はなされていないとしたが、誰でも次のように宣言することが可能である。――私はすでに自立を達成している! なぜならひとつの生産単位・消費単位として(あるいは等価交換のこちら側・向こう側として)、私は私自身を構成しているから。だから面倒くさいことはしたくない――。この全能感に、「様々な他人との様々な齟齬に“踏み止まる”こと」を自立の要件とするペルソナモデルによって節度を学ばせること。それは地域の共同性回復に確かに不可欠なプロセスと思える。
さらに、本論で批判的に検討される、「自由意思により共同体への参加の度合いを選択できるとされる個々人」において、自立は、自己評価可能であると同時に、すでに達成されたものとして位置づけられている。一九六〇年代、丸山は「個人の自立」の成熟はなされていないとしたが、誰でも次のように宣言することが可能である。――私はすでに自立を達成している! なぜならひとつの生産単位・消費単位として(あるいは等価交換のこちら側・向こう側として)、私は私自身を構成しているから。だから面倒くさいことはしたくない――。この全能感に、「様々な他人との様々な齟齬に“踏み止まる”こと」を自立の要件とするペルソナモデルによって節度を学ばせること。それは地域の共同性回復に確かに不可欠なプロセスと思える。
亀山純生「〈農〉的共同態の現代的意義と、近代的共同(体)論の問題性」『環境思想・教育研究』第四号、環境思想教育研究会、二○一○
広井良典「コミュニティを問いなおす」筑摩書房、二○○九
増田敬祐「戦後日本の共同体論の変遷と「個人」概念の検討」『環境思想・教育研究』第四号、環境思想教育研究会、二○一○
                                
広井良典「コミュニティを問いなおす」筑摩書房、二○○九
増田敬祐「戦後日本の共同体論の変遷と「個人」概念の検討」『環境思想・教育研究』第四号、環境思想教育研究会、二○一○
