第一節 『日本霊異記』の成立
『日本霊異記』は、説話文学として分類されるもので、聖典として尊崇されることはない。エリートの仏教ではなく、民衆の仏教に属するものである。しかし、そこには仏教にはじめて触れた古代の人々が、どのようにそれを受け入れたかが、生々しく描かれている。
仏教学者の仏教論の中には、肉食妻帯も葬式仏教も神仏習合も出てこない。それらは低俗な堕落仏教として否定的にしか見られない。そして、そのような領域の研究は民俗学などの学問に任される。民俗学の研究者は、現実の日本の仏教は仏教学者の説くような空理空論とは無関係であり、それを知るためには教学など必要はないと主張する。こうして仏教は、仏教学者の説く理論的な仏教と民俗学者の説く土着化した仏教とに二分され、相互に無関係であるかのようになってしまった。しかし、それらをまったく無関係で、別々のものと見るのが適切だろうか。実は両者は深く関わっているのではないだろうか。日本の仏教が強い生命力をもって、長い歴史の経緯の中で人々の生活に定着してきたのは、このような二つの領域が相互に関連しながら、硬直することなく展開してきたからではなかっただろうか。新しい仏教を創唱したような思想家たちは必ず民衆の心を汲み取っていたに違いないし、民衆の間に根付いた仏教はそのような思想家たちの理論が浸透することによって発展していったに違いない。
『日本霊異記』の著者である景戒は、『日本霊異記』に記された断片的な記述以外に資料がなく、詳しい伝記は分からない。薬師寺に所属し、妻子を持って貧しい暮らしをしていたと考えられている。『日本霊異記』の成立年代ははっきりしないが、弘仁13年(822年)の記事を含むので、最終的に完成されたのはそれ以後のことと考えられる。平安初期のことで、ようやく日本の社会に仏教が定着しつつあった時代であった。
『日本霊異記』は、説話文学として分類されるもので、聖典として尊崇されることはない。エリートの仏教ではなく、民衆の仏教に属するものである。しかし、そこには仏教にはじめて触れた古代の人々が、どのようにそれを受け入れたかが、生々しく描かれている。
仏教学者の仏教論の中には、肉食妻帯も葬式仏教も神仏習合も出てこない。それらは低俗な堕落仏教として否定的にしか見られない。そして、そのような領域の研究は民俗学などの学問に任される。民俗学の研究者は、現実の日本の仏教は仏教学者の説くような空理空論とは無関係であり、それを知るためには教学など必要はないと主張する。こうして仏教は、仏教学者の説く理論的な仏教と民俗学者の説く土着化した仏教とに二分され、相互に無関係であるかのようになってしまった。しかし、それらをまったく無関係で、別々のものと見るのが適切だろうか。実は両者は深く関わっているのではないだろうか。日本の仏教が強い生命力をもって、長い歴史の経緯の中で人々の生活に定着してきたのは、このような二つの領域が相互に関連しながら、硬直することなく展開してきたからではなかっただろうか。新しい仏教を創唱したような思想家たちは必ず民衆の心を汲み取っていたに違いないし、民衆の間に根付いた仏教はそのような思想家たちの理論が浸透することによって発展していったに違いない。
『日本霊異記』の著者である景戒は、『日本霊異記』に記された断片的な記述以外に資料がなく、詳しい伝記は分からない。薬師寺に所属し、妻子を持って貧しい暮らしをしていたと考えられている。『日本霊異記』の成立年代ははっきりしないが、弘仁13年(822年)の記事を含むので、最終的に完成されたのはそれ以後のことと考えられる。平安初期のことで、ようやく日本の社会に仏教が定着しつつあった時代であった。
第二節 『今昔物語集』の成立
『今昔物語集』は、インド・中国・日本の三国仏教史観を提示し、インドの説話を収録した巻1から巻5までの天竺部5巻、中国の説話を収録した巻6から巻10までの震旦部5巻(ただし巻8は欠巻)、日本の仏教的霊験譚などを収録した巻11から巻20までの本朝仏法部10巻(ただし巻18は欠巻)、日本の貴族から民衆までに関する説話を収録した巻21から巻31までの本朝世俗部11巻(ただし巻21は欠巻)で構成される。
本論文では、仏教の教義よりも民衆の自然観を扱うので、本朝部の巻21以降の巻の内容を主な分析対象とする。本朝部の巻21以下の巻の標題は、巻21は欠巻、巻22と巻23は「本朝」、巻24と巻25は「本朝付世俗」、巻26は「本朝付宿報」、巻27は「本朝付霊鬼」、巻28は再び「本朝付世俗」、巻29は「本朝付悪行」、巻30と巻31は「本朝付雑事」となっている。
出雲路 は、巻22前半には「王と大臣」的な色彩が認められ、巻23後半 に「武人」的な色彩が認められるとする。そして、そのことから推定して、巻21は「王」、巻22後半は「王と后」、巻23前半は「求道者」として構成する意図があったとし、以下、巻24と巻25の「凡俗」の話へと接続する。これら巻22から巻25までは、「前仏教の世界」あるいは「非仏教の世界」 として、巻11から巻20までの「仏教の世界」 の後ろに収録されることとなる。
巻26以降の扱いは、『今昔物語集』の編纂をめぐる問題と不可分となっている。『今昔物語集』を源隆国(1004年-1077年)の編纂とすることは、現代の研究では否定されており、『今昔物語集』の原撰本のようなものを想定して、その編纂者を隆国とする研究もほとんど見られない。これは、『今昔物語集』は後世の増補を含まないとする説 が、研究者の間で採用されているためである。
『今昔物語集』には、説話の標題のみを存して、説話本文を欠くものが、19話含まれている。このような標題のみの説話の存在は、編纂と筆録とが同時に行われなかったことを示している として、出雲路は、編纂者と筆録者による時間的ずれと内容理解のずれが生じていることを指摘している 。出雲路は、隆国没後の内容を含む説話は、『今昔物語集』収録の全1059話のうちの4話のみであり、しかもそのうちの3話が巻の末尾にあり、残りの一話も末尾から2番目にある ことから、隆国以外の人物による巻末への小規模な増補を想定すれば、編纂者が隆国であることは否定されないとする。
そして、『今昔物語集』の成立時期については諸説あり、定まっていない。『今昔物語集』の年代の分かる説話のうち、最下限のものは1106年前後となっており、出典の一つである歌学的説話集『俊頼髄脳』の成立が1110年前後と推定されることと、保元の乱(1156年)に始まる源平の戦いには全く触れられていないことから、成立は1120年前後とする説 がある。本論文では、この説を採用する。
『今昔物語集』は、インド・中国・日本の三国仏教史観を提示し、インドの説話を収録した巻1から巻5までの天竺部5巻、中国の説話を収録した巻6から巻10までの震旦部5巻(ただし巻8は欠巻)、日本の仏教的霊験譚などを収録した巻11から巻20までの本朝仏法部10巻(ただし巻18は欠巻)、日本の貴族から民衆までに関する説話を収録した巻21から巻31までの本朝世俗部11巻(ただし巻21は欠巻)で構成される。
本論文では、仏教の教義よりも民衆の自然観を扱うので、本朝部の巻21以降の巻の内容を主な分析対象とする。本朝部の巻21以下の巻の標題は、巻21は欠巻、巻22と巻23は「本朝」、巻24と巻25は「本朝付世俗」、巻26は「本朝付宿報」、巻27は「本朝付霊鬼」、巻28は再び「本朝付世俗」、巻29は「本朝付悪行」、巻30と巻31は「本朝付雑事」となっている。
出雲路 は、巻22前半には「王と大臣」的な色彩が認められ、巻23後半 に「武人」的な色彩が認められるとする。そして、そのことから推定して、巻21は「王」、巻22後半は「王と后」、巻23前半は「求道者」として構成する意図があったとし、以下、巻24と巻25の「凡俗」の話へと接続する。これら巻22から巻25までは、「前仏教の世界」あるいは「非仏教の世界」 として、巻11から巻20までの「仏教の世界」 の後ろに収録されることとなる。
巻26以降の扱いは、『今昔物語集』の編纂をめぐる問題と不可分となっている。『今昔物語集』を源隆国(1004年-1077年)の編纂とすることは、現代の研究では否定されており、『今昔物語集』の原撰本のようなものを想定して、その編纂者を隆国とする研究もほとんど見られない。これは、『今昔物語集』は後世の増補を含まないとする説 が、研究者の間で採用されているためである。
『今昔物語集』には、説話の標題のみを存して、説話本文を欠くものが、19話含まれている。このような標題のみの説話の存在は、編纂と筆録とが同時に行われなかったことを示している として、出雲路は、編纂者と筆録者による時間的ずれと内容理解のずれが生じていることを指摘している 。出雲路は、隆国没後の内容を含む説話は、『今昔物語集』収録の全1059話のうちの4話のみであり、しかもそのうちの3話が巻の末尾にあり、残りの一話も末尾から2番目にある ことから、隆国以外の人物による巻末への小規模な増補を想定すれば、編纂者が隆国であることは否定されないとする。
そして、『今昔物語集』の成立時期については諸説あり、定まっていない。『今昔物語集』の年代の分かる説話のうち、最下限のものは1106年前後となっており、出典の一つである歌学的説話集『俊頼髄脳』の成立が1110年前後と推定されることと、保元の乱(1156年)に始まる源平の戦いには全く触れられていないことから、成立は1120年前後とする説 がある。本論文では、この説を採用する。
第三節 『沙石集』の成立
『群書一覧』には、無住(1226年から1312年)は梶原景時の甥であると記されているが、他にも三男であるとか、末裔であるとか、資料の間で一致しない。かろうじて、梶原氏ゆかりのものとすることでは、共通する。無住が1226年生まれで、景時が1200年没なので、子どもとすることはできない。
無住は、13歳で、鎌倉の僧房に住む。18歳で出家し、28歳で遁世の身となり、このときから律を6、7年学ぶ。37歳から尾張の長母寺に止住し、54歳のとき、『沙石集』を執筆し始め、58歳のときに執筆を終える。その後、83歳まで裏書をしている。後世の文献によれば、鎌倉の僧房とは寿福寺のことであり、その後、尾張の長母寺に止住するまでに、奈良の正暦寺、京都の東福寺などにいたこともあり、このときに中央の教学に触れたとされる。
『沙石集』執筆中の3年間の休筆については、「此物語書始シ事ハ、弘安二年 也。其後ウチヲキテ、空ク両三年ヲヘテ、今年書キツキ畢ヌ。仍テ前後ノ言語不同在之。為後人ノ不審所記之也。」(巻10末)と無住自身が記していることから明らかである。しかし、無住の休筆の理由と、どの巻まで書き進めて休筆したのかは、無住自身によって明らかにされていない。渡邊 は、無住の休筆の理由を、世情や無住自身の身辺の事情が執筆の情熱を冷ましたことをその一つに挙げつつ、主たる理由は、無住が始めに意図していたところを、すでに一応書きつくしていたからだとしている。世情としては、文永11年(1274年)と弘安4年(1281年)には元寇があり、無住が『沙石集』を起稿した弘安2年(1279年)7月29日には、元使周福が博多で斬られた。無住自身の身辺の事情としては、弘安3年(1280年)に、長母寺外護(げご)の善知識、山田正親の死と、敬愛する恩師、円爾(えんに) の死に逢う。翌弘安4年(1281年)には、後宇多帝の詔によって、藤丞相実経から、三度にわたって東福寺第二世の座に移ることを望まれている。これに対して無住は、勅使とともに参内して、長母寺は熱田明神の参禅の道場であるため、長母寺を去ることは困難であることを述べ、固く辞退している。
『群書一覧』には、無住(1226年から1312年)は梶原景時の甥であると記されているが、他にも三男であるとか、末裔であるとか、資料の間で一致しない。かろうじて、梶原氏ゆかりのものとすることでは、共通する。無住が1226年生まれで、景時が1200年没なので、子どもとすることはできない。
無住は、13歳で、鎌倉の僧房に住む。18歳で出家し、28歳で遁世の身となり、このときから律を6、7年学ぶ。37歳から尾張の長母寺に止住し、54歳のとき、『沙石集』を執筆し始め、58歳のときに執筆を終える。その後、83歳まで裏書をしている。後世の文献によれば、鎌倉の僧房とは寿福寺のことであり、その後、尾張の長母寺に止住するまでに、奈良の正暦寺、京都の東福寺などにいたこともあり、このときに中央の教学に触れたとされる。
『沙石集』執筆中の3年間の休筆については、「此物語書始シ事ハ、弘安二年 也。其後ウチヲキテ、空ク両三年ヲヘテ、今年書キツキ畢ヌ。仍テ前後ノ言語不同在之。為後人ノ不審所記之也。」(巻10末)と無住自身が記していることから明らかである。しかし、無住の休筆の理由と、どの巻まで書き進めて休筆したのかは、無住自身によって明らかにされていない。渡邊 は、無住の休筆の理由を、世情や無住自身の身辺の事情が執筆の情熱を冷ましたことをその一つに挙げつつ、主たる理由は、無住が始めに意図していたところを、すでに一応書きつくしていたからだとしている。世情としては、文永11年(1274年)と弘安4年(1281年)には元寇があり、無住が『沙石集』を起稿した弘安2年(1279年)7月29日には、元使周福が博多で斬られた。無住自身の身辺の事情としては、弘安3年(1280年)に、長母寺外護(げご)の善知識、山田正親の死と、敬愛する恩師、円爾(えんに) の死に逢う。翌弘安4年(1281年)には、後宇多帝の詔によって、藤丞相実経から、三度にわたって東福寺第二世の座に移ることを望まれている。これに対して無住は、勅使とともに参内して、長母寺は熱田明神の参禅の道場であるため、長母寺を去ることは困難であることを述べ、固く辞退している。