日本人の自然観とはどのようなものか。かつてから、日本的なるものの究明は、西洋と日本との比較により試みられてきたが、自然観もその例外ではなかった。しかし、「どのようなものか」では無数の断片的な情報を寄せ集めることしかできない。渡辺正雄 は「日本にはもともと西洋のNatureに相当する言葉がなく、従って『自然』といえるようなものも、また『自然観』という概念すらも、明確なものとしては存在してこなかった」とした上で、「昔からNatureの概念も、『自然観』と言えるものもはっきり存在してきた」西洋と比較することで「『日本人の自然観』を捉える、という方法を取るよりほかない」と述べている。
しかし、「西洋」と「日本」という切り取り方は今まで長く試みられてきたが故に限界もあると考える。限界というのは、歴史の違いをある程度粗雑に扱わなければ結論が出ないということである。歴史を粗雑に扱うとは、西洋と日本の出来事同士を、その歴史的な流れを方法的な必要から無視した上で、対置したり、比較したりすることを指す。
よってまず、一般的に言われている日本人の自然観の妥当性を再考察することとする。日本人の自然観に対する一般的な理解について考える上で、参照しておきたいのが梅原 の主張による影響である。
梅原は、仏教的自然観こそが日本人の伝統的な自然観であると考え、環境問題を解決する思想であるとしてこれを賛美する。このような考え方は今日、仏教的自然観に対する評価として一般的になっている。このような現状は以下の二点の疑問を生じさせる。一点目は、仏教は日本人の伝統的な自然観の構成要素の一つでしかないのではないかということである。では、他に日本人の伝統的自然観を構成するものは何か。もちろんそれが仏教的な要素と矛盾する可能性もある。この点についても考えなくてはならないが、本論文は仏教的自然観の評価への問い直しも一つの課題とするため、伝統的自然観の中での仏教的自然観とその周辺に焦点を絞って考えていく。二点目は、日本人の仏教的自然観があるとしても、それは梅原が言うように環境に親和的なものであるとは限らないのではないかということである。この点については、「日本の伝統的自然観がそれほど自然・生命中心主義的なのであればなぜ公害発生や乱開発(自然破壊)の過程で歯止めとならなかったのか、なぜ欧米から環境倫理学が導入されるまで環境に無関心だったのか」 という亀山の指摘がある。以上のことから、梅原のいう仏教的自然観に関して、前述の一点目からは、仏教的自然観そのものの内容を調べることが課題となり、二点目からは、梅原が環境思想として再評価する仏教的自然観の、環境思想としての妥当性を考察することが課題となる。
日本人の自然観について調べるのであるから、研究方法としてアンケート調査を選択するという方法もあったかも知れない。しかしそうすると再び歴史性や伝統性をある程度無視しなければいけない可能性が出てくるので、本論文では古典の分析から考察する。
いずれの時代まで遡り、そしていずれの古典を選択するかを考える上で、肝要なのは、日本人の自然観に影響すると考えられ、また当時の人々の自然観がある程度分析できると考えられる古典の選択である。そして梅原は特に仏教的自然観が人々の環境に対する態度に影響を与えてきたと考えているので、人々の価値観が変化していったと考えられる仏教伝来影響下の仏教説話が適切と考え、本論文では、現存する中では最古の仏教説話集である『日本霊異記』(822-824年に成立)を、まずは内容分析の資料の一つ目とする。また、資料の二つ目は、そのように民衆に浸透したものがその後どのように変遷していくのかと、そのような時代背景の中で編集された仏教説話集が再びどのように民衆を唱導教化しようとしているのかを調べるため、『今昔物語集』(1120年前後に成立)を採用する。『今昔物語集』は、「仏法部」(三宝の霊験礼賛譚、因果応報譚などからなる)だけでなく、庶民が登場・活躍する「世俗部」があることからより民衆への仏教の浸透の様子が詳しく分析できる資料ではないかと考える。加えて、鎌倉時代に成立した『沙石集』(1283年に成立)を資料の三つ目とする。その理由は、梅原が、仏教的自然観の中でも特に、天台教学を起点とする草木国土悉皆成仏の思想を、現代の環境問題の万能薬としているからである。「草木国土悉皆成仏」が、標語のように謡曲「墨染桜」等で唱えられるようになる前の、鎌倉時代までを分析範囲とする必要がある。
ところで、日本の仏教説話には中国の説話の焼き直しが多い。そこで、日本的な自然観は本当に入っているのかが問題になる。本論文では、日本の伝統的な自然観についての一般的な評価に対する反論のために、研究方法として、日本の仏教説話を採用した。歴史的に見ると、時代を遡れば中国からの影響を受けていない資料が見つかるとは考えにくい。加えて、日本の伝統的な自然観についての一般的な評価というものが、仏教の経典や教義(梅原の場合は、天台本覚思想)に基づいているため、民衆思想に着眼してはいるが飽くまでも仏教の範囲で論じなければ有効な批判にはならないであろう。よって、中国の説話の焼き直しが多いことを認めた上で、中国の説話を当時の日本語に翻訳しただけではなく焼き直したという点に重きを置き、中国の説話に対する作者の解釈と、説話集から説話集までの解釈の変化自体を日本的なものだとするよりないと思われる。
また、研究材料とするこれらの説話集が成立した時代には、「ジネン(自然)」という言葉はあるが、「シゼン(自然)」という言葉はない。「自然観」というまとめ方は可能なのかという点も問題になる。相良 による「ジネン」についての分析によれば、平安末期の辞書『名義抄』(観智院本)には「自然 ヲノヅカラ」とあり、『万葉集』でも「おのずから」と読まれていたという。山川草木の総称としての自然という言葉が定着するのは、明治中期以後のことである。「おのずから」という意味で用いられてきた自然で、山川草木を総称することは、少なくともそれを許容する思想的土壌がなければ起こりえない。
しかしながら、そもそも、本論文では、「『自然』と表記されるものは、昔はAで、現在はA’に該当する」と言うことを主眼としない。「『自然』と表記されるものの違い」は、これはこれで一つの自然観を表すものではある。まず現代において名詞的用法で「自然」と表記されるものについて、仏教説話集の中ではどのように扱われているかを調べた。その上で、民衆のまなざしに沿うためには現代において名詞的用法で「自然」と表記されるもの以外の超常現象についても自然観に含めざるを得ない。この点を考えると、自然観について総合的に論じようとしているように見えるかもしれないが、実際には採用できる研究方法の制約がある。「自然」と表記されるものの時代間の相違を明らかにすることを主眼とした研究については、他日を期したい 。
しかし、「西洋」と「日本」という切り取り方は今まで長く試みられてきたが故に限界もあると考える。限界というのは、歴史の違いをある程度粗雑に扱わなければ結論が出ないということである。歴史を粗雑に扱うとは、西洋と日本の出来事同士を、その歴史的な流れを方法的な必要から無視した上で、対置したり、比較したりすることを指す。
よってまず、一般的に言われている日本人の自然観の妥当性を再考察することとする。日本人の自然観に対する一般的な理解について考える上で、参照しておきたいのが梅原 の主張による影響である。
梅原は、仏教的自然観こそが日本人の伝統的な自然観であると考え、環境問題を解決する思想であるとしてこれを賛美する。このような考え方は今日、仏教的自然観に対する評価として一般的になっている。このような現状は以下の二点の疑問を生じさせる。一点目は、仏教は日本人の伝統的な自然観の構成要素の一つでしかないのではないかということである。では、他に日本人の伝統的自然観を構成するものは何か。もちろんそれが仏教的な要素と矛盾する可能性もある。この点についても考えなくてはならないが、本論文は仏教的自然観の評価への問い直しも一つの課題とするため、伝統的自然観の中での仏教的自然観とその周辺に焦点を絞って考えていく。二点目は、日本人の仏教的自然観があるとしても、それは梅原が言うように環境に親和的なものであるとは限らないのではないかということである。この点については、「日本の伝統的自然観がそれほど自然・生命中心主義的なのであればなぜ公害発生や乱開発(自然破壊)の過程で歯止めとならなかったのか、なぜ欧米から環境倫理学が導入されるまで環境に無関心だったのか」 という亀山の指摘がある。以上のことから、梅原のいう仏教的自然観に関して、前述の一点目からは、仏教的自然観そのものの内容を調べることが課題となり、二点目からは、梅原が環境思想として再評価する仏教的自然観の、環境思想としての妥当性を考察することが課題となる。
日本人の自然観について調べるのであるから、研究方法としてアンケート調査を選択するという方法もあったかも知れない。しかしそうすると再び歴史性や伝統性をある程度無視しなければいけない可能性が出てくるので、本論文では古典の分析から考察する。
いずれの時代まで遡り、そしていずれの古典を選択するかを考える上で、肝要なのは、日本人の自然観に影響すると考えられ、また当時の人々の自然観がある程度分析できると考えられる古典の選択である。そして梅原は特に仏教的自然観が人々の環境に対する態度に影響を与えてきたと考えているので、人々の価値観が変化していったと考えられる仏教伝来影響下の仏教説話が適切と考え、本論文では、現存する中では最古の仏教説話集である『日本霊異記』(822-824年に成立)を、まずは内容分析の資料の一つ目とする。また、資料の二つ目は、そのように民衆に浸透したものがその後どのように変遷していくのかと、そのような時代背景の中で編集された仏教説話集が再びどのように民衆を唱導教化しようとしているのかを調べるため、『今昔物語集』(1120年前後に成立)を採用する。『今昔物語集』は、「仏法部」(三宝の霊験礼賛譚、因果応報譚などからなる)だけでなく、庶民が登場・活躍する「世俗部」があることからより民衆への仏教の浸透の様子が詳しく分析できる資料ではないかと考える。加えて、鎌倉時代に成立した『沙石集』(1283年に成立)を資料の三つ目とする。その理由は、梅原が、仏教的自然観の中でも特に、天台教学を起点とする草木国土悉皆成仏の思想を、現代の環境問題の万能薬としているからである。「草木国土悉皆成仏」が、標語のように謡曲「墨染桜」等で唱えられるようになる前の、鎌倉時代までを分析範囲とする必要がある。
ところで、日本の仏教説話には中国の説話の焼き直しが多い。そこで、日本的な自然観は本当に入っているのかが問題になる。本論文では、日本の伝統的な自然観についての一般的な評価に対する反論のために、研究方法として、日本の仏教説話を採用した。歴史的に見ると、時代を遡れば中国からの影響を受けていない資料が見つかるとは考えにくい。加えて、日本の伝統的な自然観についての一般的な評価というものが、仏教の経典や教義(梅原の場合は、天台本覚思想)に基づいているため、民衆思想に着眼してはいるが飽くまでも仏教の範囲で論じなければ有効な批判にはならないであろう。よって、中国の説話の焼き直しが多いことを認めた上で、中国の説話を当時の日本語に翻訳しただけではなく焼き直したという点に重きを置き、中国の説話に対する作者の解釈と、説話集から説話集までの解釈の変化自体を日本的なものだとするよりないと思われる。
また、研究材料とするこれらの説話集が成立した時代には、「ジネン(自然)」という言葉はあるが、「シゼン(自然)」という言葉はない。「自然観」というまとめ方は可能なのかという点も問題になる。相良 による「ジネン」についての分析によれば、平安末期の辞書『名義抄』(観智院本)には「自然 ヲノヅカラ」とあり、『万葉集』でも「おのずから」と読まれていたという。山川草木の総称としての自然という言葉が定着するのは、明治中期以後のことである。「おのずから」という意味で用いられてきた自然で、山川草木を総称することは、少なくともそれを許容する思想的土壌がなければ起こりえない。
しかしながら、そもそも、本論文では、「『自然』と表記されるものは、昔はAで、現在はA’に該当する」と言うことを主眼としない。「『自然』と表記されるものの違い」は、これはこれで一つの自然観を表すものではある。まず現代において名詞的用法で「自然」と表記されるものについて、仏教説話集の中ではどのように扱われているかを調べた。その上で、民衆のまなざしに沿うためには現代において名詞的用法で「自然」と表記されるもの以外の超常現象についても自然観に含めざるを得ない。この点を考えると、自然観について総合的に論じようとしているように見えるかもしれないが、実際には採用できる研究方法の制約がある。「自然」と表記されるものの時代間の相違を明らかにすることを主眼とした研究については、他日を期したい 。