1.日本における環境運動の経緯と、運動の背景について
1-1.住民運動と市民運動の整理
住民運動や市民運動は、第二次大戦後の日本における代表的な社会運動 のあり方であり、環境運動においても、五十年代の公害問題をはじめとする環境問題の社会的認知、世論の喚起、対策の前進、制度形成などにはたしてきた役割は大きい。それでは、「住民運動」と「市民運動」は、それぞれどのような特質をもつ社会運動なのだろうか。
両者はそれぞれ区別されることなくほぼ同義でもちいられる場合も多く、またその違いはかならずしも明確ではない 。しかし、住民と市民という日本語の語感は微妙に異なっている。その違いを強調すれば、住民には〈地元の生活者〉という語感があるのに対し、市民には〈自律的な個人〉という語感がある。住民運動としてイメージされるのは、町内会などの既存の地縁集団を母体に組織されることが多く、居住地の近接性という地縁的な結びつきをもとに、小学校区のような比較的狭い範囲の、特定の地域と密着した個別的な課題に取り組むケースである。これに対して市民運動は、理念や運動目標の共通性をもとに、個人として自発的に参加し、全市的な、あるいは全県的なサイズの(あるいは平和や女性の解放のような全人類的な、地球温暖化問題のような全惑星的な)課題に取り組むというイメージが強いといえる。
この点に注目して、長谷川(二〇〇三:三八)は、住民運動と市民運動とを対照し、運動の性格や組織原理をめぐる両者のあいだの相違点を次の表にまとめる 。
住民運動 | 市民運動 | |
行為主体 a)性格 b)階層的基盤 | 利害当事者としての住民、一般の住民。農漁民層、自営業層、公務サービス層、女性層、高齢者層 | 良心的構成員としての市民。専門職層、高学歴層 |
イッシュー特性 | 生活(生産)拠点にかかわる直接的利害の防衛・実現 | 普遍主義的な価値の防衛・実現 |
価値志向性 | 個別主義、限定性 | 普遍主義、自律性 |
行動様式 a)紐帯の契機 b)行為特性 c)関与特性 | 居住地の近接性、手段的合理性、既存の地域集団との連続性 | 理念の共同性、価値志向性、支援者的関与 |
例えば、「○○山の自然を守る会」が直接的な利害当事者である○○山の麓の集落に住む人々を中心に組織されていれば、その会の性格はより住民運動的であり、地元民の日常生活に密接にかかわる利害が運動の中心課題となるだろう。これに対して、地元民よりも周辺の市町村などの一般市民や自然愛好家、科学者・教員・弁護士などの専門職層の人々が活動の中心であれば、より市民運動的な性格が強まり、活動の内容は啓蒙的・理念的なものになりやすいといえる。実際は、住民運動を、市民運動(ないし市民運動的な関心をもつ人々)が内外を問わず、支援者的な役割をはたすことが多い。巨大コンビナート建設反対運動や反原発運動、自然保護運動など、反対運動の側に自然科学やテクノロジーに関する高度の専門的知識が必要とされるような場合に,このような住民運動と市民運動との連携がしばしばみられる。第二節、第三節で扱う、原子力発電所や核燃料サイクル施設の建設をめぐっての環境運動では、立地点における住民運動は、周辺の都市圏の市民運動の支援によって支えられている。
1-2.一九八〇年以前の住民運動・市民運動
環境運動のあり方は、それが直面する環境問題の構造、加害/被害関係などに強く規定されるほか、担い手が「住民」と「市民」のどちらの性質をより強く帯びるかが焦点となる。歴史的な変遷をたどると、戦後日本の環境運動は、おもに住民運動として展開されてきたことがわかる 。
四大公害問題に代表されるように、重化学工場の廃液による水質汚染・土壌汚染、煤煙による大気汚染などの産業公害の告発にはじまった初期の住民運動は、公害による生産基盤の破壊に対して、農漁民層が要請・抗議行動を行い、事後的に救済・改善を求めるという性格が強い。それが変化するのは、六十年代半ば、コンビナート建設に代表される、産業公害をもたらす大規模開発プロジェクトに反対する住民運動からである 。この時期に、学習会が頻繁に行われるようになり、住民運動と市民運動の境界が曖昧なものとなる。
七十年代に入ると、高速交通公害が、大都市圏における典型的な住民運動として起こる 。巨大コンビナート基地建設とともに、新しい国土の骨格として目されていた高速交通網の建設は、産業公害とは異なる性格の環境問題を地域社会に提起した。つまり、産業公害に対する住民運動が、おもに私企業の営利追求と企業責任を告発したのに対して、高速交通公害で批判の対象となったのは、公共性の名のもとに、加害責任を認めず抜本的な公害防止対策をとろうとしない当時の運輸省や国鉄・空港公団などの交通施設の設置管理者・事業者のあり方であった。高速交通公害以降、住民運動や市民運動の戦略として、あるべき公共性のあり方をめぐる「集団訴訟」が採用され始めることとなる(船橋他、一九八五)。
1-3.一九八〇年以降の住民運動・市民運動
一九六七年に公害対策基本法が、一九七〇年に公害紛争処理法が、一九七三年に公害健康被害補償法が制定され、各種の環境基準の制定、自治体レベルでの公害防止協定の制度化が整ってきたことと、成長の鈍化と財政難によって、大規模開発プロジェクトそのものが減少したことにより、八十年代に産業公害、高速交通公害もまた、相対的に沈静するに至った 。
再び環境運動が注目を集めるのは、一九八六年のチェルノブイリ事故後である。「反原発ニューウェーブ」と呼ばれる都市部の主婦層を中心に反原発運動が高揚した 。チェルノブイリ事故以前と以後で、反原発運動の性格は、「原発施設の立地点の農漁民層による反対運動+支援」から、「大都市圏や立地点周辺都市の女性を主とした、ネットワークを活用する「新しい社会運動」」へと変化した。しかし、「反原発ニューウェーブ」は、チェルノブイリ事故の衝撃が薄れるにつれ急速に活動を低下させていった。青森県の核燃反対運動も、一九九一年の県知事選で反対候補が敗れて以降、長く停滞することとなる(第三節で再び扱う)。
このような状況のもとで、一九九四年から一九九六年にかけて、新潟県巻町で、原子力発電所建設の是非を決める住民投票の実施を求める運動がおこる。
再び環境運動が注目を集めるのは、一九八六年のチェルノブイリ事故後である。「反原発ニューウェーブ」と呼ばれる都市部の主婦層を中心に反原発運動が高揚した 。チェルノブイリ事故以前と以後で、反原発運動の性格は、「原発施設の立地点の農漁民層による反対運動+支援」から、「大都市圏や立地点周辺都市の女性を主とした、ネットワークを活用する「新しい社会運動」」へと変化した。しかし、「反原発ニューウェーブ」は、チェルノブイリ事故の衝撃が薄れるにつれ急速に活動を低下させていった。青森県の核燃反対運動も、一九九一年の県知事選で反対候補が敗れて以降、長く停滞することとなる(第三節で再び扱う)。
このような状況のもとで、一九九四年から一九九六年にかけて、新潟県巻町で、原子力発電所建設の是非を決める住民投票の実施を求める運動がおこる。