第二章 啓蒙思想と近代化の課題
第一節 明治政府の課題
「一八六八年七月十七日、江戸は東京と改名され、九月八日、明治と改元、翌年、東京が首都と決められたのである。」p.78
一、 近代国家体制の確立
日本において形成された近代国家体制が独自の特色をもっている点
→天皇制+立憲制という近代的な天皇制
明治政府による一連の政治改革の遂行と「大日本帝国憲法」(一八八九年二月十一日に頒布、七章七十六条)によって規定される。日本国の内政と外交の最高権力が天皇に集中し、天皇の絶対性と神聖性が示されている。立憲政体に、それまでの古代天皇制による絶対主義的専制主義と根本的に異なる点がある。
二、 三大政策の実施
三大政策・・・富国強兵(目的)・殖産興業(資本主義経済の発展を目的とする)・文明開化(社会文化と人間のエートスの変更を目指す、明六社による思想啓蒙運動など)
ブルジョア的国家体制の完備と同時に資本主義的近代化を始動するため
三、 近代化の推進
「資本主義工業化が、その端緒から狂気じみた対外的侵略性をもっていた」p.83
→一八九四年、甲午戦争(日清戦争)、馬関条約(下関条約)による権益の強奪
得られた賠償金が産業革命の完成と金融システムの確立に重要な役割を果たし、工業化の完成を手に入れた。国富はさらなる強兵へと導かれ、軍国主義への基盤を進め、政治の民主化は停滞を余儀なくされた。
「一八六八年七月十七日、江戸は東京と改名され、九月八日、明治と改元、翌年、東京が首都と決められたのである。」p.78
一、 近代国家体制の確立
日本において形成された近代国家体制が独自の特色をもっている点
→天皇制+立憲制という近代的な天皇制
明治政府による一連の政治改革の遂行と「大日本帝国憲法」(一八八九年二月十一日に頒布、七章七十六条)によって規定される。日本国の内政と外交の最高権力が天皇に集中し、天皇の絶対性と神聖性が示されている。立憲政体に、それまでの古代天皇制による絶対主義的専制主義と根本的に異なる点がある。
二、 三大政策の実施
三大政策・・・富国強兵(目的)・殖産興業(資本主義経済の発展を目的とする)・文明開化(社会文化と人間のエートスの変更を目指す、明六社による思想啓蒙運動など)
ブルジョア的国家体制の完備と同時に資本主義的近代化を始動するため
三、 近代化の推進
「資本主義工業化が、その端緒から狂気じみた対外的侵略性をもっていた」p.83
→一八九四年、甲午戦争(日清戦争)、馬関条約(下関条約)による権益の強奪
得られた賠償金が産業革命の完成と金融システムの確立に重要な役割を果たし、工業化の完成を手に入れた。国富はさらなる強兵へと導かれ、軍国主義への基盤を進め、政治の民主化は停滞を余儀なくされた。
第二節 近世思想から明治思想へ
「徳川思想から明治思想への転換は、じつは封建的イデオロギーから特権的なブルジョア独裁の近代的天皇制イデオロギーへの転換であり、伝統から近代への転換ともいえる。この転換の過程における特徴として、思想の連続性と非連続性が統一されたかたちで現れている。」p.85
→江戸時代にみられる近代思想の萌芽が明治思想のなかに取り込まれ、思想的連続性をもつ一方、そのままで吸収されず質的変化によって新たなかたちに変化した非連続性をもつ。
西周(一八二九~一八九七)を例とした思想史発展における連続性と非連続性との統一
幕末期に成長し、二十歳まで儒学を元に学び、ペリーが来航した一八五三年にオランダ語を学び、それから、近代思想を学んでいく。明治維新後、明六社の中心メンバーとなる。儒学を新時代の学問に転化させる目的で、西洋思想をもとに東洋伝統思想を批判し、儒学の「理」を、実証主義にもとづいて再解釈した。
西周を思想転換の狩猟現象とすれば、安藤昌益は一つの例外であり、昌益思想は革命思想の性格をもつために徳川幕府の容認するところとならず、埋没していき、昌益思想は時代の主潮流に溶け込むことはなかった。「しかし、昌益自身、長いあいだ広範な農民のなかで生活したので、その思想は庶民のなかに影響をもち、日本社会が近世から近代へ転換するための深い社会的基礎を培ったに違いないのである。日本の伝統思想が現代思想に変わる重大な歴史的時期にあって、昌益思想は『やはりこの転変していく思想の鎖を構成している一つの重要な環であった』といえよう。」p.89
「徳川思想から明治思想への転換は、じつは封建的イデオロギーから特権的なブルジョア独裁の近代的天皇制イデオロギーへの転換であり、伝統から近代への転換ともいえる。この転換の過程における特徴として、思想の連続性と非連続性が統一されたかたちで現れている。」p.85
→江戸時代にみられる近代思想の萌芽が明治思想のなかに取り込まれ、思想的連続性をもつ一方、そのままで吸収されず質的変化によって新たなかたちに変化した非連続性をもつ。
西周(一八二九~一八九七)を例とした思想史発展における連続性と非連続性との統一
幕末期に成長し、二十歳まで儒学を元に学び、ペリーが来航した一八五三年にオランダ語を学び、それから、近代思想を学んでいく。明治維新後、明六社の中心メンバーとなる。儒学を新時代の学問に転化させる目的で、西洋思想をもとに東洋伝統思想を批判し、儒学の「理」を、実証主義にもとづいて再解釈した。
西周を思想転換の狩猟現象とすれば、安藤昌益は一つの例外であり、昌益思想は革命思想の性格をもつために徳川幕府の容認するところとならず、埋没していき、昌益思想は時代の主潮流に溶け込むことはなかった。「しかし、昌益自身、長いあいだ広範な農民のなかで生活したので、その思想は庶民のなかに影響をもち、日本社会が近世から近代へ転換するための深い社会的基礎を培ったに違いないのである。日本の伝統思想が現代思想に変わる重大な歴史的時期にあって、昌益思想は『やはりこの転変していく思想の鎖を構成している一つの重要な環であった』といえよう。」p.89
第三節 「明六社」と啓蒙運動
一八七三(明治六)年七月、森有礼の提唱により学術結社としての「明六社」が結成された。最初の会員は一西村茂樹、津田真道、西周、中村正直、加藤弘之、箕作秋坪、福沢諭吉、杉享二、箕作麟祥、森有礼の十名。機関誌『明六雑誌』。西洋列強への抵抗とブルジョア近代国家の建設を急務の課題とし、西洋の近代思想と社会文明の自覚的導入を基本とする啓蒙運動を推進した。
会員が結集できた条件
1. 三十代からから四十代の壮年で、活発な思想活動が展開でき、風采と才華が全盛な時期
2. ほとんどが下級士族の出身で低い身分と悪い経済的環境に育ったため、封建的な身分制度を批判し、反抗的態度を生じさせるとともに、理心出征の思想も植えつけられた
3. 当時最高の知識人であり、儒学を修め、そのあとに洋学に進み、その時点で西洋の科学技術から社会政治理論や哲学・倫理まで拡大して受容するという思想認識の深化的過程を体験した
4. ほとんどが徳川幕府の幕臣であり、福沢諭吉を除いて明治政府において新たな要職を担当し、加藤弘之を除いて欧米へ赴いて西洋近代の政治社会理論を学び、西洋社会文明を実地に考察している
一八七五(明治八)年六月、明治政府により改悪された「讒謗律」に明六社の活動が抵触することを余儀なくされ、同年に明六社は解散した。
「日本の啓蒙思想家たちは、民主主義の提唱より、むしろ儒学的見識をもって西洋の近代文明を理解したし、また、日本の啓蒙活動はヨーロッパの啓蒙思想を受け入れたというより、むしろ、主として十九世紀欧米の功利主義、実証主義と社会ダーウィニズムを導入したのである。」p.94
一八七三(明治六)年七月、森有礼の提唱により学術結社としての「明六社」が結成された。最初の会員は一西村茂樹、津田真道、西周、中村正直、加藤弘之、箕作秋坪、福沢諭吉、杉享二、箕作麟祥、森有礼の十名。機関誌『明六雑誌』。西洋列強への抵抗とブルジョア近代国家の建設を急務の課題とし、西洋の近代思想と社会文明の自覚的導入を基本とする啓蒙運動を推進した。
会員が結集できた条件
1. 三十代からから四十代の壮年で、活発な思想活動が展開でき、風采と才華が全盛な時期
2. ほとんどが下級士族の出身で低い身分と悪い経済的環境に育ったため、封建的な身分制度を批判し、反抗的態度を生じさせるとともに、理心出征の思想も植えつけられた
3. 当時最高の知識人であり、儒学を修め、そのあとに洋学に進み、その時点で西洋の科学技術から社会政治理論や哲学・倫理まで拡大して受容するという思想認識の深化的過程を体験した
4. ほとんどが徳川幕府の幕臣であり、福沢諭吉を除いて明治政府において新たな要職を担当し、加藤弘之を除いて欧米へ赴いて西洋近代の政治社会理論を学び、西洋社会文明を実地に考察している
一八七五(明治八)年六月、明治政府により改悪された「讒謗律」に明六社の活動が抵触することを余儀なくされ、同年に明六社は解散した。
「日本の啓蒙思想家たちは、民主主義の提唱より、むしろ儒学的見識をもって西洋の近代文明を理解したし、また、日本の啓蒙活動はヨーロッパの啓蒙思想を受け入れたというより、むしろ、主として十九世紀欧米の功利主義、実証主義と社会ダーウィニズムを導入したのである。」p.94
第四節 啓蒙思想の性格
「明治政府によって制定された『上から』の資本主義的近代化の路線にしたがって、思想啓蒙を通じて日本の近代化に貢献した。(中略)このような啓蒙思想は、積極的な向上精神に満ちており、歴史の進歩性を示すと同時に、妥協や保守的性格もふくんでいたため、歴史的制約を余儀なくされたのである。」p.94
一、 西周の「人生三宝」説
1. 人生三宝が各人の人生における幸福追求のための道徳の大本である。三宝とは、第一に健康、第二に知識、第三に富有であり、これらは人間の天稟の徳性である。この三宝に違反すると疾病・愚痴・貧乏の「三窮鬼」がやってくる。
2. 人々が自己の三宝を追及する際他人との交渉は避けられないが、そのとき他人の三宝を戕害しない等の例規にしたがって交われば「『まことにその盛をきわめ、いわゆる仁のいたり、義の尽くるなり』」p.96
3. 「人生三宝はまた『国を立て、政をなすの道』である。(中略)治国治人の道は三宝を尊重するにほかならない。」p.97
実質的には新しい社会観・国家観・哲学観に立ち、ベンサムやミルの功利主義的倫理学をその理論的基礎として、日本の社会的実践に応じて提出されたもの。政府の三大政策を推進するための道徳的スローガンとなった。
二、 森有礼の女性解放論
森有礼はイギリス及びアメリカに渡り、欧米の制度、文物に触れ、西洋文明の精髄をよく理解し、新しい日本文化の建設に熱心な知識人であった。封建的な女性観を批判し、夫婦平等論を唱え、「妻妾論」を『明六雑誌』に連載した。夫婦の交は人倫の大本であるが、当時の日本には夫婦関係の規範となる国法がない状態であると批判し、男の情義と女の貞淑の両者を問わない婚姻が文明開化の道を妨害するものとした。そして、本人の自由意思に基づく夫婦平等の子任官を提唱し、西洋の婚姻法を参照しながら「婚姻律案」の草案を提案した。
三、 加藤弘之の「天賦人権」論
加藤弘之(一八三六-一九一六)の思想の基本的性格
1. 収支政府の立場に立ち、自覚的に現実政治に参与した。
2. 天賦人権論を基礎とする国家学説の普及をしたが、加藤の天賦人権論の理解はフランス啓蒙思想家たちによって提出されていた天賦人権論のある部分の内容や意義を欠いたもので、脆弱性がある啓蒙思想だった。「彼は、国家の起源を『人の天性』に帰したとき、『人の天性』が人間の自然的な本性であるという問題を説明もしないし、また国民の自由権を主張する際、そのなかに個人は国家に絶対的にしたがうものという前提をふくんでいたのである。」pp.107-108
3. 加藤の早期思想について、自然法的唯物論を徹底的に堅持せず、政治観・国家観全体は史的唯心論に基づくものであった。
四、 福沢諭吉の文明開化論
1 啓蒙運動の旗手
二十七、八歳(一八六三年ごろ)から四六,七歳までのあいだ…啓蒙思想期 「文明」
西洋文明を目標とし、近代的資本主義の社会制度とブルジョア的な人文・社会科学の思想を広め、国民の知恵を啓発し、観念を更新し、民衆の智と徳の水準を向上させた。『西洋事情』(西洋の社会制度に関心を寄せ、通俗読本として広く読まれた)、『学問のすすめ』(福沢自身の思想と理論を表明した、近代日本の思想家としての真正の標識、独立自尊が中核的思想である。文化の重点:東洋の伝統的な倫理型→近代の知識型)
2 文明開化の社会歴史観
『文明論之概略』の要約
第一に、文明の概念を規定していること。「文明とは人の安楽と品位との進歩を云ふ」「文明とは結局、人の智徳の進歩と云て可なり」p.111
第二に、文明は発展するものであり、相対的なものであるとすること。
第三に、社会発展の原因を分析したこと。「文明開化の物質的基礎としての技術と工業の発展を高く評価し、近代資本主義社会の技術的発展を文明開化の主要な原因であるとみなした。」p.113
第四に、文明のを実現するための方法を提起したこと。「先ず人心を改革して、次で政令に及ぼし、終に有形の物に至る可し」p.113
日本近代化の初期、福沢の文明論は指導綱領的な役割を果たした。
3 近代中国思想史における福沢諭吉思想の焼印
福沢の思想は、近代中国の先進的な知識人のルート、著作の中国語への翻訳・出版のルートで中国に伝え広められた。
中国に及ぼした福沢の思想のプラス面の影響
第一に文明開化理論をくみ取り、それをもって中国の国民を覚醒啓発し、中国の変法と自立の運動を推進したこと
第二に、教育思想を吸収し、近代中国の教育改革を推進したこと
「福沢諭吉は日本の資本主義的近代化のプログラマーであり、理論面からその発展のために枠組みを構築し、そしてまた実践面からその実施のための方策を提出したのである。(中略)今日、彼の思想はわれわれに日本近代史(あるいは近代化)が包含している種々の問題をあらためて考え、つまびらかにする資料を提供してくれている。そのために、福沢思想はアジアにとってなお現代的意義があるといえよう。」p.116
「明治政府によって制定された『上から』の資本主義的近代化の路線にしたがって、思想啓蒙を通じて日本の近代化に貢献した。(中略)このような啓蒙思想は、積極的な向上精神に満ちており、歴史の進歩性を示すと同時に、妥協や保守的性格もふくんでいたため、歴史的制約を余儀なくされたのである。」p.94
一、 西周の「人生三宝」説
1. 人生三宝が各人の人生における幸福追求のための道徳の大本である。三宝とは、第一に健康、第二に知識、第三に富有であり、これらは人間の天稟の徳性である。この三宝に違反すると疾病・愚痴・貧乏の「三窮鬼」がやってくる。
2. 人々が自己の三宝を追及する際他人との交渉は避けられないが、そのとき他人の三宝を戕害しない等の例規にしたがって交われば「『まことにその盛をきわめ、いわゆる仁のいたり、義の尽くるなり』」p.96
3. 「人生三宝はまた『国を立て、政をなすの道』である。(中略)治国治人の道は三宝を尊重するにほかならない。」p.97
実質的には新しい社会観・国家観・哲学観に立ち、ベンサムやミルの功利主義的倫理学をその理論的基礎として、日本の社会的実践に応じて提出されたもの。政府の三大政策を推進するための道徳的スローガンとなった。
二、 森有礼の女性解放論
森有礼はイギリス及びアメリカに渡り、欧米の制度、文物に触れ、西洋文明の精髄をよく理解し、新しい日本文化の建設に熱心な知識人であった。封建的な女性観を批判し、夫婦平等論を唱え、「妻妾論」を『明六雑誌』に連載した。夫婦の交は人倫の大本であるが、当時の日本には夫婦関係の規範となる国法がない状態であると批判し、男の情義と女の貞淑の両者を問わない婚姻が文明開化の道を妨害するものとした。そして、本人の自由意思に基づく夫婦平等の子任官を提唱し、西洋の婚姻法を参照しながら「婚姻律案」の草案を提案した。
三、 加藤弘之の「天賦人権」論
加藤弘之(一八三六-一九一六)の思想の基本的性格
1. 収支政府の立場に立ち、自覚的に現実政治に参与した。
2. 天賦人権論を基礎とする国家学説の普及をしたが、加藤の天賦人権論の理解はフランス啓蒙思想家たちによって提出されていた天賦人権論のある部分の内容や意義を欠いたもので、脆弱性がある啓蒙思想だった。「彼は、国家の起源を『人の天性』に帰したとき、『人の天性』が人間の自然的な本性であるという問題を説明もしないし、また国民の自由権を主張する際、そのなかに個人は国家に絶対的にしたがうものという前提をふくんでいたのである。」pp.107-108
3. 加藤の早期思想について、自然法的唯物論を徹底的に堅持せず、政治観・国家観全体は史的唯心論に基づくものであった。
四、 福沢諭吉の文明開化論
1 啓蒙運動の旗手
二十七、八歳(一八六三年ごろ)から四六,七歳までのあいだ…啓蒙思想期 「文明」
西洋文明を目標とし、近代的資本主義の社会制度とブルジョア的な人文・社会科学の思想を広め、国民の知恵を啓発し、観念を更新し、民衆の智と徳の水準を向上させた。『西洋事情』(西洋の社会制度に関心を寄せ、通俗読本として広く読まれた)、『学問のすすめ』(福沢自身の思想と理論を表明した、近代日本の思想家としての真正の標識、独立自尊が中核的思想である。文化の重点:東洋の伝統的な倫理型→近代の知識型)
2 文明開化の社会歴史観
『文明論之概略』の要約
第一に、文明の概念を規定していること。「文明とは人の安楽と品位との進歩を云ふ」「文明とは結局、人の智徳の進歩と云て可なり」p.111
第二に、文明は発展するものであり、相対的なものであるとすること。
第三に、社会発展の原因を分析したこと。「文明開化の物質的基礎としての技術と工業の発展を高く評価し、近代資本主義社会の技術的発展を文明開化の主要な原因であるとみなした。」p.113
第四に、文明のを実現するための方法を提起したこと。「先ず人心を改革して、次で政令に及ぼし、終に有形の物に至る可し」p.113
日本近代化の初期、福沢の文明論は指導綱領的な役割を果たした。
3 近代中国思想史における福沢諭吉思想の焼印
福沢の思想は、近代中国の先進的な知識人のルート、著作の中国語への翻訳・出版のルートで中国に伝え広められた。
中国に及ぼした福沢の思想のプラス面の影響
第一に文明開化理論をくみ取り、それをもって中国の国民を覚醒啓発し、中国の変法と自立の運動を推進したこと
第二に、教育思想を吸収し、近代中国の教育改革を推進したこと
「福沢諭吉は日本の資本主義的近代化のプログラマーであり、理論面からその発展のために枠組みを構築し、そしてまた実践面からその実施のための方策を提出したのである。(中略)今日、彼の思想はわれわれに日本近代史(あるいは近代化)が包含している種々の問題をあらためて考え、つまびらかにする資料を提供してくれている。そのために、福沢思想はアジアにとってなお現代的意義があるといえよう。」p.116
感想・疑問点
1. 国家体制の革命、資本主義工業化、侵略性、近代的天皇制における国家的課題についての儒学の非連続性を述べているが、その一方で昌益思想のような庶民の影響を捉え、現代的に評価できると考えているように思える。
2. 森有礼の婚姻観は、契約や神への宣誓はどのように取り扱っていたのか気になる。
3. 福沢諭吉の近代思想は、卞崇道の近代の見方によればアジアの思想的伝統を破壊する一面をもつように考えられる。
1. 国家体制の革命、資本主義工業化、侵略性、近代的天皇制における国家的課題についての儒学の非連続性を述べているが、その一方で昌益思想のような庶民の影響を捉え、現代的に評価できると考えているように思える。
2. 森有礼の婚姻観は、契約や神への宣誓はどのように取り扱っていたのか気になる。
3. 福沢諭吉の近代思想は、卞崇道の近代の見方によればアジアの思想的伝統を破壊する一面をもつように考えられる。