補論 社会デザインの思想
―「個の知性によるデザイン」から「関係によるデザイン」へ―
1 はじめに―目的意識性とデザイン力―
○デザインという言葉
蜘蛛は人間を驚嘆させる複雑な巣を編み上げるが、それは人間が意識的にひとつの仕事をするとは異なり、本能に従って巣を編んでいるだけである(マルクス『資本論』)
⇒「伝統的なヨーロッパ的知」においては…
目的意識性をもって仕事をするという「知の営み」=人間にだけ備わっている能力
「目的意識性をもって仕事をする」=「デザインする」と置き換え可
(Ex. 仕事のプロセスをデザイン、作業方法をデザイン、経営デザインにしたがって労働デザインをする)
目的意識性をもって仕事をするという「知の営み」=人間にだけ備わっている能力
「目的意識性をもって仕事をする」=「デザインする」と置き換え可
(Ex. 仕事のプロセスをデザイン、作業方法をデザイン、経営デザインにしたがって労働デザインをする)
○「目的意識性」「デザイン能力」は人間だけに備わった能力か
- 死んだ子供の弔いをするヤマネズミ
- 釣りのおこぼれを狙うタヌキ
これらもまたひとつの「目的意識」「デザイン」であり、自然の生き物が本能だけで生きているとみなしたのは人間の傲慢(「知の交流」が成立しない以上確認はできないが)
? なぜ人間たちは「目的意識性」「デザイン能力」といったものを人間だけに備わっているとみなす見解に同意したのか
2 個体として捕らえられた人間における「知」の役割
日本では動物の擬人化とともに人間の擬動物化が存在(柳田國男)
日本の伝統的な自然の生き物の捉え方=人間と動物が同格
日本の伝統的な自然の生き物の捉え方=人間と動物が同格
? なぜ伝統的にヨーロッパでは人間だけに「知」の営みが備わっているとされ、日本では動物と人間は同格だとされたのか(「共同幻想」「精神の習慣」の違いはなぜか)
⇒「個体」のとらえ方の違い
デカルト哲学の特徴=人間の本質を独立した個体と捉える
⇒物事の本質を個体に還元してとらえる科学を信頼
デカルト哲学の特徴=人間の本質を独立した個体と捉える
⇒物事の本質を個体に還元してとらえる科学を信頼
人間を個体としてとらえる視点ゆえに、人間本質を個体に備わっている「知」の営みに求めた
「人間特有の」とは違う「知」の営みは存在する
「人間特有の」とは違う「知」の営みは存在する
3 人間の個体性と非個体性
日本の伝統的な精神の習慣では、人間は個体性に還元されるものではなかった
⇒人間は「私」(=自己や自我、個我)を持つことで主張や目的意識が生じ、それにより欲望=煩悩が生まれる=穢れ(cf. 群馬県片品村集落の伝統的な死者送りの儀式p.183)
⇔ヨーロッパの発想(「私」があるからこそ向上心をもち、文明を発展、肯定的)
日本における理想=「おのずから」のままに生きること
「自ずから然り」とは、すべてのものが結び合っていく動きのこと(「縁」)=「シゼン」
理想との矛盾は「悲しきもの」としてみつめる
⇔ヨーロッパの発想(「私」があるからこそ向上心をもち、文明を発展、肯定的)
日本における理想=「おのずから」のままに生きること
「自ずから然り」とは、すべてのものが結び合っていく動きのこと(「縁」)=「シゼン」
理想との矛盾は「悲しきもの」としてみつめる
伝統的な日本においては、人間とは
- 「自ずから然り」の存在=相互的な展開のなかにある人間(修行によって回復)
- 「私」をもつ人間=個体性の中にある人間
という「ふたつの本質のなかで苦しむ悲しき存在」
4 関係の破壊は人間の破壊
現代哲学の課題=「知」の営みが個体的に成立しているのか、関係的に成立しているのか
⇒日本の伝統的な発想とはちがい、「私」はあくまで肯定の対象であり、その「私」が関係のなかに成立するものとして一つの本質の中にとらえた
⇒日本の伝統的な発想とはちがい、「私」はあくまで肯定の対象であり、その「私」が関係のなかに成立するものとして一つの本質の中にとらえた
? 関係の対象は何か
第一に他の人びと、第二に自然、さらに歴史、文化や信仰も含めた関係性
知性が関係性の中でとらえなおされ、その関係性の中に自然、歴史、文化、信仰までが入ってくる
⇒すべての文化は平等である(レヴィ=ストロース)
第一に他の人びと、第二に自然、さらに歴史、文化や信仰も含めた関係性
知性が関係性の中でとらえなおされ、その関係性の中に自然、歴史、文化、信仰までが入ってくる
⇒すべての文化は平等である(レヴィ=ストロース)
人間の本質が関係性にあるのなら、その関係の対象を破壊し、関係を結べなくなった人間も何かが破壊されたものとしてとらえざるをえない
5 社会デザインの可能性と不可能性
個体性の中に還元できる知性が外的な自然の破壊を嘆くというヨーロッパの「共同幻想」を否定するとき、自然の問題は外的対象としての自然破壊という問題に収まらず、「破壊された自己や我らが精神世界のほうがみえてくる」
? 人間が知性を働かせて「デザイン」すること自体もはや信用できない⇒「デザイン」とはなにか
(Cf. 「山の神」信仰p.191)
(Cf. 「山の神」信仰p.191)
誰かが知性を働かせてデザインしているのではないデザインのかたち
- 自然とともにある共有された精神文化が、村をデザインする
- 人と人の結び合った社会が、村をデザインする
- 地域の歴史や文化、信仰が村をデザインする
⇒「関係が関係を創造するように、時空が時空を創造するようにデザインされていく世界」
(ルーマンの描くシステムがシステムをつくりだす社会と一面で共通)
知性の力でデザインするのではなく、デザインすることのできる基盤を作ることが目的
⇒基盤=関係
(ルーマンの描くシステムがシステムをつくりだす社会と一面で共通)
知性の力でデザインするのではなく、デザインすることのできる基盤を作ることが目的
⇒基盤=関係
? 人間には関係をつくることができるのか
伝統的な村の自然と人間の関係
⇒自然とともに暮らした長い歴史がつくりだしたもので、意図してつくられたものではない
都市の人間における、川での釣りや里山整備の活動など、では自然のある部分と「つき合っている」ということを超えてはおらず、自然と人間の関係が生まれてはいない
伝統的な村の自然と人間の関係
⇒自然とともに暮らした長い歴史がつくりだしたもので、意図してつくられたものではない
都市の人間における、川での釣りや里山整備の活動など、では自然のある部分と「つき合っている」ということを超えてはおらず、自然と人間の関係が生まれてはいない
人間と人間の関係における社会デザインのを生み出すような関係
⇒長い時間をかけて生まれていった人と人の関係、人間の主体的な行為によってはつくりだせない
(cf. 埼玉県秩父地方に1965年ごろまであった出産の儀式p.194)
⇒長い時間をかけて生まれていった人と人の関係、人間の主体的な行為によってはつくりだせない
(cf. 埼玉県秩父地方に1965年ごろまであった出産の儀式p.194)
作れるのは「つき合い」だけであり、「つき合い」を重ねていくうちに生まれた、了解できる共有された時空が、関係をつくりだした
6 最後に―知性という幻想を超えて
個人の知性が歴史を進歩させる力になるという「共同幻想」に包まれた、学問にとっての幸福な時代終わり
⇒知性や個人の力に依存しない社会デザインを模索する課題に立ち向かわなくてはならない
⇒知性や個人の力に依存しない社会デザインを模索する課題に立ち向かわなくてはならない
○疑問・感想
- 「デザイン能力」と「目的意識性」は別物ではないか
- 「人間特有の」ではない「知」の営みとは何か
- 「関係」が「デザインする」という意味が良く分からない
- 「関係」は長い時間をかければ勝手に生まれるものなのか