亀山ゼミ個人発表
2011/07/05 小松美由紀
「わたし」と「みんな」を考える
2011/07/05 小松美由紀
「わたし」と「みんな」を考える
1. これまでの経緯
昨年は香山リカの著書を通じて、仕事はできないが趣味は楽しめる新型うつ(「ワガママうつ」)やモンスターペアレントなど、現代日本の人(心)に関する問題を考えた。そこで生じた「個人・社会の『寛容さ』が足りないのではないか」という発想は、私にとっては大きな収穫である。しかし、香山の「(想像力、配慮力、寛容力などの)劣化」という視点では、「空気を読む」という配慮を説明できなかった。
そこで、近頃ぼんやりと考えるようになった「わたし」と「みんな」という視点を、半ば強引に当てはめてみた。「空気を読む」のは「みんな」が絶対化されているからではないか。一方、クレーマーなどは「わたし」が絶対化されている状態なのではないか。以上の思い付きから私は、「わたし」と「みんな」を考えることが、現代を生きる上でのヒントになると感じ、今回のテーマとして設定した。
昨年は香山リカの著書を通じて、仕事はできないが趣味は楽しめる新型うつ(「ワガママうつ」)やモンスターペアレントなど、現代日本の人(心)に関する問題を考えた。そこで生じた「個人・社会の『寛容さ』が足りないのではないか」という発想は、私にとっては大きな収穫である。しかし、香山の「(想像力、配慮力、寛容力などの)劣化」という視点では、「空気を読む」という配慮を説明できなかった。
そこで、近頃ぼんやりと考えるようになった「わたし」と「みんな」という視点を、半ば強引に当てはめてみた。「空気を読む」のは「みんな」が絶対化されているからではないか。一方、クレーマーなどは「わたし」が絶対化されている状態なのではないか。以上の思い付きから私は、「わたし」と「みんな」を考えることが、現代を生きる上でのヒントになると感じ、今回のテーマとして設定した。
2. 「世間」のオキテ
暫定的ではあるが、「わたし」と「みんな」を簡単に定義してみる。「わたし」は一人の人間である。「みんな」は「わたし」が所属する集団を構成する人々の総称であり、「わたし」を含める場合と含めない場合がある。
日本における「わたし」と「みんな」を考える上で、佐藤直樹(2009)の「世間」という概念が参考になるだろう。佐藤によると、日本に伝統的に存在する「世間」は以下の4つのオキテから成るという。
①「贈与・互酬の関係」
もらったものに対する「お返し」の必要性を意味する。お中元やお歳暮といった典型的なもののほか、メールに即座に返信するという現象もこれに含まれる。
②「身分制」
序列意識のこと。先輩・後輩や長男・次男といった、欧米では意識されない「身分」が存在し、相手の「身分」によって人称を使い分けたり敬語を用いたりする必要がある。「世間」における「身分」がその人の存在の根拠になる。
③「共通の時間意識」
皆が一緒の時間を生きているという意識。「あの時はありがとうございました」「お世話になっています」「今後ともよろしく」という言葉は、それぞれ過去・現在・未来において同じ時間(世間)に生きている(いた)ことの確認である。この「共通の時間意識」が独特の「人間平等主義」を生み、それが同調圧力や妬みにつながる。
④「呪術性」
俗信・迷信のたぐいが多いことを意味する。日本人が「宗教的色彩」が濃い行事を行う一方で自分を「無宗教」だと思うのは、「世間」が「自然宗教」からでき上がっているからだ。
ちなみに佐藤によると、上記の「世間」は現在の欧米には存在しないという。800年ほど前に普及したキリスト教が「贈与・互酬の関係」「呪術性」を否定し、同時に「個人」という概念のもとになったからである。都市化も手伝い、「世間」は徐々に「個人」から成る「社会」へと変わっていった。逆に言うと、日本には欧米のような「個人」や「社会」が存在しないことになる。
暫定的ではあるが、「わたし」と「みんな」を簡単に定義してみる。「わたし」は一人の人間である。「みんな」は「わたし」が所属する集団を構成する人々の総称であり、「わたし」を含める場合と含めない場合がある。
日本における「わたし」と「みんな」を考える上で、佐藤直樹(2009)の「世間」という概念が参考になるだろう。佐藤によると、日本に伝統的に存在する「世間」は以下の4つのオキテから成るという。
①「贈与・互酬の関係」
もらったものに対する「お返し」の必要性を意味する。お中元やお歳暮といった典型的なもののほか、メールに即座に返信するという現象もこれに含まれる。
②「身分制」
序列意識のこと。先輩・後輩や長男・次男といった、欧米では意識されない「身分」が存在し、相手の「身分」によって人称を使い分けたり敬語を用いたりする必要がある。「世間」における「身分」がその人の存在の根拠になる。
③「共通の時間意識」
皆が一緒の時間を生きているという意識。「あの時はありがとうございました」「お世話になっています」「今後ともよろしく」という言葉は、それぞれ過去・現在・未来において同じ時間(世間)に生きている(いた)ことの確認である。この「共通の時間意識」が独特の「人間平等主義」を生み、それが同調圧力や妬みにつながる。
④「呪術性」
俗信・迷信のたぐいが多いことを意味する。日本人が「宗教的色彩」が濃い行事を行う一方で自分を「無宗教」だと思うのは、「世間」が「自然宗教」からでき上がっているからだ。
ちなみに佐藤によると、上記の「世間」は現在の欧米には存在しないという。800年ほど前に普及したキリスト教が「贈与・互酬の関係」「呪術性」を否定し、同時に「個人」という概念のもとになったからである。都市化も手伝い、「世間」は徐々に「個人」から成る「社会」へと変わっていった。逆に言うと、日本には欧米のような「個人」や「社会」が存在しないことになる。
3. 「世間」の暴走
「社会」と異なる「世間」という上記の枠組みには検討を加える必要があるだろう。しかし、日本における「みんな」は欧米における「みんな」とは違う、という点では私の思いと一致するので、ひとまず先に進むとする。
佐藤は10年ほど前(2000年頃)から、「世間」が暴走していると考えている。グローバル化に基づく「新自由主義」により、「世間」が生きづらくなっているというのだ。理由は次の2つだ。
①「広い世間」の一部解体と「狭い世間」の濃密化
「新自由主義」は欧米の「個人主義」を拡大し、一方で「広い世間」(≒地域の共同体)を解体してきた。ところが「個人」でない日本人は、おそらく、「広い世間」での存在根拠を失った分をカバーするため、「狭い世間」(職場、仲良しグループ)を濃密にした。その結果、「世間」への過剰同調が生じ、「優しい関係」(土井隆義,2004)を強いられることになった。
②成果主義と「世間」のミスマッチ
「新自由主義」によって成果主義が広まると、「世間」も成果を求めるようになった。それに必要以上に答えようとして過労死が起きるという。また、成果が出せず誰かに負けるのは「世間」に対して「恥」をかくことだ、という意識が、うつや引きこもり等の発症につながる。
「社会」と異なる「世間」という上記の枠組みには検討を加える必要があるだろう。しかし、日本における「みんな」は欧米における「みんな」とは違う、という点では私の思いと一致するので、ひとまず先に進むとする。
佐藤は10年ほど前(2000年頃)から、「世間」が暴走していると考えている。グローバル化に基づく「新自由主義」により、「世間」が生きづらくなっているというのだ。理由は次の2つだ。
①「広い世間」の一部解体と「狭い世間」の濃密化
「新自由主義」は欧米の「個人主義」を拡大し、一方で「広い世間」(≒地域の共同体)を解体してきた。ところが「個人」でない日本人は、おそらく、「広い世間」での存在根拠を失った分をカバーするため、「狭い世間」(職場、仲良しグループ)を濃密にした。その結果、「世間」への過剰同調が生じ、「優しい関係」(土井隆義,2004)を強いられることになった。
②成果主義と「世間」のミスマッチ
「新自由主義」によって成果主義が広まると、「世間」も成果を求めるようになった。それに必要以上に答えようとして過労死が起きるという。また、成果が出せず誰かに負けるのは「世間」に対して「恥」をかくことだ、という意識が、うつや引きこもり等の発症につながる。
4. その他
○responsibilityと責任の原義
responsibility:誰かからの求めや訴えに応じる用意があること → 「わたし」の自発性
責任:仕事を抱え込むように要求する、せきたてること → 「みんな」からの圧力
○〈わたし〉は〈みんな〉に戻れない?
〈わたし〉という存在を意識した時点で、〈わたし〉と〈みんな〉の間に距離が生じる。孤独感にとらわれた〈わたし〉が、“わたし”の母胎である〈みんな〉を求める時、そこには(〈わたし〉が思い描いている通りの)〈みんな〉はもういない。(仲正昌樹,2004)
→「わたし」は孤独な存在なのだろうか。→ 絶対的かつ相対的な「わたし」の必要性
(カント、ニーチェ、アーレント辺りが手掛かりになる?)(cf. 中道、対話、ロールプレイ)
【 「参考」文献 】
佐藤直樹『暴走する「世間」で生きのびるためのお作法』 講談社+α新書,2009
仲正昌樹『「みんな」のバカ!』光文社新書,2004
鷲田清一『わかりやすいはわかりにくい?』ちくま新書,2010
石川輝吉『カント 信じるための哲学』NHKブックス,2009
○responsibilityと責任の原義
responsibility:誰かからの求めや訴えに応じる用意があること → 「わたし」の自発性
責任:仕事を抱え込むように要求する、せきたてること → 「みんな」からの圧力
○〈わたし〉は〈みんな〉に戻れない?
〈わたし〉という存在を意識した時点で、〈わたし〉と〈みんな〉の間に距離が生じる。孤独感にとらわれた〈わたし〉が、“わたし”の母胎である〈みんな〉を求める時、そこには(〈わたし〉が思い描いている通りの)〈みんな〉はもういない。(仲正昌樹,2004)
→「わたし」は孤独な存在なのだろうか。→ 絶対的かつ相対的な「わたし」の必要性
(カント、ニーチェ、アーレント辺りが手掛かりになる?)(cf. 中道、対話、ロールプレイ)
【 「参考」文献 】
佐藤直樹『暴走する「世間」で生きのびるためのお作法』 講談社+α新書,2009
仲正昌樹『「みんな」のバカ!』光文社新書,2004
鷲田清一『わかりやすいはわかりにくい?』ちくま新書,2010
石川輝吉『カント 信じるための哲学』NHKブックス,2009