三面鏡の少女 52
自宅兼仕事場、そんな場所であるマンションの一室にて
作家、安芸葉鳥(あき・はとり)は編集との打ち合わせの席で、唐突に呟いた
「世界が滅びてくれないかな」
余りにも唐突な言葉であったが、向かい合う女性編集者は苦笑を浮かべる
「何度目ですかそれ。世界が滅びても締め切りは延びませんよ」
「僕はね」
葉鳥は柔和な笑顔を浮かべ、使い古したルーズリーフ帳に走り書きを始める
「宇宙がとか、地球がとか……そんな大袈裟な範囲では滅びを実感できないと思うんだ」
走り書きには名前のようなものが散見している
「ドミノ倒し、みたいな感覚かな。結末とは大きくかけ離れたただ一手が切っ掛けとなり、無数の経過を巻き込みながら紆余曲折の末に最後の一枚まで倒し切る。倒れるドミノ牌の立場じゃそれを知る事はできない。それを上から眺めているからこそ、だとは思わない?」
走り書きは止まらない
癖のある文字で単語単語がずらずらと並べられ、一見しただけでは意味は全く判らない
「そして……世界というのは、人間一人一人が持ち合わせている。一人の人間が破滅していく様もまた、世界が滅びるという事だよね」
「先生は、そういう事がしたいんですか?」
「まさか」
葉鳥は走り書きの手を止めて、くすくすと笑う
「僕一人でそんな事、できるわけがないじゃないか。だから僕は、そんな妄想を形にした悪趣味な小説を沢山書いている」
「売れてますけどね、その悪趣味な小説」
「でもそれは所詮、妄想の産物さ。本物とは比べ物にならない」
女性編集者はその言葉に僅かに違和感を覚え、それがつい口から零れ落ちる
「比べられる本物を、ご存知なんですか?」
「そりゃあ生きていれば、人間関係は色々さ」
はぐらかされた
そう確信できる何かが女性編集者の胸の内に湧き上がる
「さて、それじゃあいくつかの案はまとまったし。来週辺りにはあらすじの形で出せると思う。その時にまた」
「あ、はい……それじゃあ何かありましたら編集部の方へ電話を入れて下さい」
「うん、それじゃまた」
メモや資料をてきぱきと片付けて、ぺこりと頭を下げてぱたぱたと玄関へ向かう女性編集者
その姿を見送り玄関の扉が閉まる音を確認して、葉鳥はソファーに身を預け両手を大きく広げる
「おいで、僕のドミノ牌」
言葉と共に部屋中に湧き上がる無数の蝶
どの図鑑にも載っていない、誰も見た事が無い、誰も見る事はできない、ある意味で葉鳥の妄想の産物のような存在
それ自体には何の力も無く、何に触れる事も出来ず、ただ葉鳥に見えるだけの能力
それ故に、どんな精密な感知能力を以ってしても存在を知られる事が無く、どんな力を以ってしても破壊される事はない
契約によって得た力ですら、葉鳥の意思で動く事と、羽ばたきで僅かに人の心を揺さ振る程度
その揺さ振りさえも、既に抱いている感情を僅かに、ほんの僅かに波立てる程度でしかない
個々では何の役にも立たないその力
集まったところで何の役にも立たないその力
それがこの男の意思によって動かされた時、それはまさしくドミノ倒しのように
些細で小さな一つを切っ掛けとして、大きな何かを崩壊させる
「さあ羽ばたこう、『バタフライ・エフェクト』。何時か何処かで誰かの世界を滅ぼすために」
作家、安芸葉鳥(あき・はとり)は編集との打ち合わせの席で、唐突に呟いた
「世界が滅びてくれないかな」
余りにも唐突な言葉であったが、向かい合う女性編集者は苦笑を浮かべる
「何度目ですかそれ。世界が滅びても締め切りは延びませんよ」
「僕はね」
葉鳥は柔和な笑顔を浮かべ、使い古したルーズリーフ帳に走り書きを始める
「宇宙がとか、地球がとか……そんな大袈裟な範囲では滅びを実感できないと思うんだ」
走り書きには名前のようなものが散見している
「ドミノ倒し、みたいな感覚かな。結末とは大きくかけ離れたただ一手が切っ掛けとなり、無数の経過を巻き込みながら紆余曲折の末に最後の一枚まで倒し切る。倒れるドミノ牌の立場じゃそれを知る事はできない。それを上から眺めているからこそ、だとは思わない?」
走り書きは止まらない
癖のある文字で単語単語がずらずらと並べられ、一見しただけでは意味は全く判らない
「そして……世界というのは、人間一人一人が持ち合わせている。一人の人間が破滅していく様もまた、世界が滅びるという事だよね」
「先生は、そういう事がしたいんですか?」
「まさか」
葉鳥は走り書きの手を止めて、くすくすと笑う
「僕一人でそんな事、できるわけがないじゃないか。だから僕は、そんな妄想を形にした悪趣味な小説を沢山書いている」
「売れてますけどね、その悪趣味な小説」
「でもそれは所詮、妄想の産物さ。本物とは比べ物にならない」
女性編集者はその言葉に僅かに違和感を覚え、それがつい口から零れ落ちる
「比べられる本物を、ご存知なんですか?」
「そりゃあ生きていれば、人間関係は色々さ」
はぐらかされた
そう確信できる何かが女性編集者の胸の内に湧き上がる
「さて、それじゃあいくつかの案はまとまったし。来週辺りにはあらすじの形で出せると思う。その時にまた」
「あ、はい……それじゃあ何かありましたら編集部の方へ電話を入れて下さい」
「うん、それじゃまた」
メモや資料をてきぱきと片付けて、ぺこりと頭を下げてぱたぱたと玄関へ向かう女性編集者
その姿を見送り玄関の扉が閉まる音を確認して、葉鳥はソファーに身を預け両手を大きく広げる
「おいで、僕のドミノ牌」
言葉と共に部屋中に湧き上がる無数の蝶
どの図鑑にも載っていない、誰も見た事が無い、誰も見る事はできない、ある意味で葉鳥の妄想の産物のような存在
それ自体には何の力も無く、何に触れる事も出来ず、ただ葉鳥に見えるだけの能力
それ故に、どんな精密な感知能力を以ってしても存在を知られる事が無く、どんな力を以ってしても破壊される事はない
契約によって得た力ですら、葉鳥の意思で動く事と、羽ばたきで僅かに人の心を揺さ振る程度
その揺さ振りさえも、既に抱いている感情を僅かに、ほんの僅かに波立てる程度でしかない
個々では何の役にも立たないその力
集まったところで何の役にも立たないその力
それがこの男の意思によって動かされた時、それはまさしくドミノ倒しのように
些細で小さな一つを切っ掛けとして、大きな何かを崩壊させる
「さあ羽ばたこう、『バタフライ・エフェクト』。何時か何処かで誰かの世界を滅ぼすために」
―――
とある少女が、散歩中の犬に視線を向ける
犬がその視線に気が付いて、じゃれつくように吠えた
自転車に乗った男がその吠え声に気を取られ、僅かにハンドルの動きがぶれる
それに気がついた学生が歩道の端へと身を寄せて
それを見た乗用車が僅かにスピードを落とし
その僅かな減速で信号に引っ掛かる
数十秒の待ち時間が僅かな苛立ちを生み
ほんの一瞬だけ発進速度が増してしまい
驚いた歩行者の老人に、車への不信が微かに生まれ――
そんな微かな感情の波が、次から次へと何処かへ何かへ繋がれていき
勢い良く他の牌を巻き込み倒し続けた『微かな感情の揺らぎ』のドミノ倒しはやがて
犬がその視線に気が付いて、じゃれつくように吠えた
自転車に乗った男がその吠え声に気を取られ、僅かにハンドルの動きがぶれる
それに気がついた学生が歩道の端へと身を寄せて
それを見た乗用車が僅かにスピードを落とし
その僅かな減速で信号に引っ掛かる
数十秒の待ち時間が僅かな苛立ちを生み
ほんの一瞬だけ発進速度が増してしまい
驚いた歩行者の老人に、車への不信が微かに生まれ――
そんな微かな感情の波が、次から次へと何処かへ何かへ繋がれていき
勢い良く他の牌を巻き込み倒し続けた『微かな感情の揺らぎ』のドミノ倒しはやがて
「え?」
歩道を歩いていた女性編集者は、何が起こったのか全く理解できなかった
彼女が現状を理解する前に、眼前まで迫っていた無人のトラックによって撥ね飛ばされていた
この事故の原因は、運転手のサイドブレーキの引き忘れであったが、そこに至るまでの数千数万に及ぶ塵のような紆余曲折は誰も辿る事は出来なかった
歩道を歩いていた女性編集者は、何が起こったのか全く理解できなかった
彼女が現状を理解する前に、眼前まで迫っていた無人のトラックによって撥ね飛ばされていた
この事故の原因は、運転手のサイドブレーキの引き忘れであったが、そこに至るまでの数千数万に及ぶ塵のような紆余曲折は誰も辿る事は出来なかった
―――
数年後のある日
葉鳥は唐突にとてつもない不快感に襲われる
日々楽しんでいるドミノ倒しの最中に、途中の牌を一つ抜き取られてしまった、そんな感覚
一人の少女に向かい倒れ続けるはずだったドミノは、それっきり動かなくなってしまう
その不快感はやがて興味へと変わり、葉鳥はそれまでただ並べ倒していただけの牌一つ一つを丹念に調べ直し、それらが至る最後の一枚である少女について調べ上げ
「逢瀬佳奈美」
その名前を知り、顔を知り、人間関係を知り、家族構成を知る
「ああ、なるほど」
葉鳥は楽しそうに、とても楽しそうに微笑んだ
今まではただなんとなく呆気なく滅ぼしてきた『世界』を
初めて、滅ぼしたい目標として見定めたのだ
たった一つ、逢瀬佳奈美という牌を倒すために
彼女を守る様々な強固なる牌を倒すために
より勢い良く、より多くの、より大きな牌を巻き込んで倒すために
葉鳥はありとあらゆるものを巻き込む巨大なドミノ倒しを築く計画を、その脳内で静かに構築し始めていた
葉鳥は唐突にとてつもない不快感に襲われる
日々楽しんでいるドミノ倒しの最中に、途中の牌を一つ抜き取られてしまった、そんな感覚
一人の少女に向かい倒れ続けるはずだったドミノは、それっきり動かなくなってしまう
その不快感はやがて興味へと変わり、葉鳥はそれまでただ並べ倒していただけの牌一つ一つを丹念に調べ直し、それらが至る最後の一枚である少女について調べ上げ
「逢瀬佳奈美」
その名前を知り、顔を知り、人間関係を知り、家族構成を知る
「ああ、なるほど」
葉鳥は楽しそうに、とても楽しそうに微笑んだ
今まではただなんとなく呆気なく滅ぼしてきた『世界』を
初めて、滅ぼしたい目標として見定めたのだ
たった一つ、逢瀬佳奈美という牌を倒すために
彼女を守る様々な強固なる牌を倒すために
より勢い良く、より多くの、より大きな牌を巻き込んで倒すために
葉鳥はありとあらゆるものを巻き込む巨大なドミノ倒しを築く計画を、その脳内で静かに構築し始めていた