恐怖のサンタ 日常編 18
沙希は、都市伝説である。
口裂け女。全国的に数多く存在する、最もポピュラーな都市伝説の一つ。
俊足と強力でその名を知られる彼女たちは、しかしあまりに知られすぎていた。
――「まあまあ」と答えれば、逃げられる。ポマードを投げつければ、逃げられる。
その他にも数多く、力と同時に、口裂け女は弱点を持っていた。
その名が知られれば知られるほど、その弱点もまた、知れ渡っていく。
確かに、口裂け女は足が速い。力も強い。
しかし、それ「だけ」なのだ。無数に存在する欠点を前に、彼女たちはあまりにも弱すぎた。
口裂け女。全国的に数多く存在する、最もポピュラーな都市伝説の一つ。
俊足と強力でその名を知られる彼女たちは、しかしあまりに知られすぎていた。
――「まあまあ」と答えれば、逃げられる。ポマードを投げつければ、逃げられる。
その他にも数多く、力と同時に、口裂け女は弱点を持っていた。
その名が知られれば知られるほど、その弱点もまた、知れ渡っていく。
確かに、口裂け女は足が速い。力も強い。
しかし、それ「だけ」なのだ。無数に存在する欠点を前に、彼女たちはあまりにも弱すぎた。
――――口裂け女は、やられ役。
そんな風評すら出始めたのは、一体いつの頃からだろう。
沙希は一度、その身を堕としたことがある。
仲間が欲しくて、友達が欲しくて、契約者が欲しくて。
しかしその全ての願いに、裏切られた事が、ある。
彼女は憎んだ。世界を、人間を、そして何より――同族を。
数をみだりに増やし、結果、己の地位を最下層にまで貶めた、同族。
にも関わらず、同族の中でも特に「無能」な沙希と違い、次々と仲間を、友達を、契約者を得ていく、同族。
彼女は憎んだ。呪った。僻んだ。恨んだ。そして何にもまして、嫉妬した。
しかし、憎む度、呪う度、僻む度、恨む度、嫉妬する度、彼女の中の「何か」が欠落していった。
――人を呪わば、穴二つ。
いつしか彼女の頭は、どこかしらの螺子が緩んでしまっていた。
有体に言ってしまえば、狂ってしまった。
仲間が欲しくて、友達が欲しくて、契約者が欲しくて。
しかしその全ての願いに、裏切られた事が、ある。
彼女は憎んだ。世界を、人間を、そして何より――同族を。
数をみだりに増やし、結果、己の地位を最下層にまで貶めた、同族。
にも関わらず、同族の中でも特に「無能」な沙希と違い、次々と仲間を、友達を、契約者を得ていく、同族。
彼女は憎んだ。呪った。僻んだ。恨んだ。そして何にもまして、嫉妬した。
しかし、憎む度、呪う度、僻む度、恨む度、嫉妬する度、彼女の中の「何か」が欠落していった。
――人を呪わば、穴二つ。
いつしか彼女の頭は、どこかしらの螺子が緩んでしまっていた。
有体に言ってしまえば、狂ってしまった。
人並みの幸せ、人並みの友達、人並みの人生。
「普通」は高みになく、されど低きにあるわけでもない。
最下層に、地の底に横たわる彼女にとって、それはあまりに高く、険しく、遠かった。
ただ、見上げ、望む事しかできない、理想の地。
その身を「同族殺し」と成してすら、未練を残した、夢。
望み、欲し、羨んで、しかし彼女は、諦めかけていた。
もう無理だ、と。気力すらなくしかけていた。
――――だから、そこに二つもの手が差し伸べられたのは、きっと偶然であり、幸運だったのだろう。
「普通」は高みになく、されど低きにあるわけでもない。
最下層に、地の底に横たわる彼女にとって、それはあまりに高く、険しく、遠かった。
ただ、見上げ、望む事しかできない、理想の地。
その身を「同族殺し」と成してすら、未練を残した、夢。
望み、欲し、羨んで、しかし彼女は、諦めかけていた。
もう無理だ、と。気力すらなくしかけていた。
――――だから、そこに二つもの手が差し伸べられたのは、きっと偶然であり、幸運だったのだろう。
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沙希には、恩がある。
途方もないほど大きな、莫大な、二つの恩。
その長い一生をかけても、返し終える事はできないかもしれない。
いや、きっと出来ないのだろう。
恩は返す者と返される者。双方の認識があってこそ、機能するものだ。
しかし、返される者――あの二人に、「恩」の認識があるとは、沙希には思えなかった。
途方もないほど大きな、莫大な、二つの恩。
その長い一生をかけても、返し終える事はできないかもしれない。
いや、きっと出来ないのだろう。
恩は返す者と返される者。双方の認識があってこそ、機能するものだ。
しかし、返される者――あの二人に、「恩」の認識があるとは、沙希には思えなかった。
――――だから、これは自己満足の話。恩返しなんて殊勝なものでは、決してない。
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今日も「彼」は、畳の上で死体のように転がっている。
死んでいるわけではない。寝ているわけでも、きっとない。
なぜって、それは――
死んでいるわけではない。寝ているわけでも、きっとない。
なぜって、それは――
ぎしゃー
しゃぎー
しゃぎー
――「彼」の上には、子ライオンが二匹、乗っているからだ。
じゃれついているのではない。いや、子ライオンたちにとってはそのつもりなのかも知れないが、少なくとも「彼」にとっては違う。
ほぼ毎日、最早恒例となりつつあるマッサージの儀である。
子ライオンたちの適度な体重は、適度な刺激を「彼」の背に与えてくれる。
時折心地よさげな息を漏らす「彼」を、子ライオンたちを、沙希は一人、見つめていた。
ほぼ毎日、最早恒例となりつつあるマッサージの儀である。
子ライオンたちの適度な体重は、適度な刺激を「彼」の背に与えてくれる。
時折心地よさげな息を漏らす「彼」を、子ライオンたちを、沙希は一人、見つめていた。
――――いいなあ。
心の声は、しかし口から出る事はない。
マッサージを行うのは子ライオンたちの役割だ。沙希のものではない。
……以前に一度だけ、沙希は「彼」にマッサージをした事がある。
はりきっていた。「彼」の役に立てるかもしれない、と。
しかし、それがよくなかった。
力んだ彼女の、口裂け女の握力は、「彼」の筋肉のこりを、その「筋肉ごと」、握りつぶしてしまったのだ。
幸い「彼」の体は物の数秒で元に戻ったが、沙希は怯えてしまった。
「彼」が大丈夫だと言ってくれても、不安はぬぐえない。
マッサージを行うのは子ライオンたちの役割だ。沙希のものではない。
……以前に一度だけ、沙希は「彼」にマッサージをした事がある。
はりきっていた。「彼」の役に立てるかもしれない、と。
しかし、それがよくなかった。
力んだ彼女の、口裂け女の握力は、「彼」の筋肉のこりを、その「筋肉ごと」、握りつぶしてしまったのだ。
幸い「彼」の体は物の数秒で元に戻ったが、沙希は怯えてしまった。
「彼」が大丈夫だと言ってくれても、不安はぬぐえない。
沙希はまだ、臆病なのだ。
人と話すのも、接するのも、人との距離を測るのも、苦手。
「普通」に生きるには、彼女が「同族殺し」として過ごした期間は、少々長すぎた。
だから、沙希は今も、「彼」と子ライオンたちとを、手をこまねいて、見ているしかない。
人と話すのも、接するのも、人との距離を測るのも、苦手。
「普通」に生きるには、彼女が「同族殺し」として過ごした期間は、少々長すぎた。
だから、沙希は今も、「彼」と子ライオンたちとを、手をこまねいて、見ているしかない。
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「――――あれ?」
「彼」が声を上げたのは、夜も遅く、ようやく「彼」に風呂の順番が回った後だった。
冷蔵庫の前で、「彼」が固まっている。
――声を、かけようか。
迷った。「彼」の迷惑になるかもしれない。
冷蔵庫の前で、「彼」が固まっている。
――声を、かけようか。
迷った。「彼」の迷惑になるかもしれない。
「どうしたの? はるくん」
迷った一瞬で、先を越されてしまった。
「彼」の横に、良子が寄る。
上げかけた声を殺して、沙希はぼんやりと、それを見ていた。
見ているしか、なかった。
「彼」の横に、良子が寄る。
上げかけた声を殺して、沙希はぼんやりと、それを見ていた。
見ているしか、なかった。
「いや、コーヒー牛乳がないなーって」
入浴後のコーヒー牛乳は、「彼」の日課だ。
「普通」の中でも「極普通」を自認する「彼」は、定番所を外さない。
「普通」の中でも「極普通」を自認する「彼」は、定番所を外さない。
「あれ? まだ買い置きがあったはずなんだけど……」
「んー。俺も昨日は二本見た気がするんだけどなぁ」
「んー。俺も昨日は二本見た気がするんだけどなぁ」
――そういえば、と。
沙希には一つ、思い当たる事があった。
今日の夕方。仕事から帰ってきたとき、空の牛乳瓶が流しに置かれていたような、気がする。
その時、家にいたのは、子ライオン二匹と――
沙希には一つ、思い当たる事があった。
今日の夕方。仕事から帰ってきたとき、空の牛乳瓶が流しに置かれていたような、気がする。
その時、家にいたのは、子ライオン二匹と――
「待てーっ!」
ぎしゃー
しゃー
しゃー
――今、その二匹を追い回している、佑香だったろうか。
先ほど皿洗いをした時には、既に瓶は流しから消えていた。
佑香が飲んだのだとしたら、こっそり捨てたのかもしれないし、その前に誰かが気づかずに片付けてしまったのかもしれない。
先ほど皿洗いをした時には、既に瓶は流しから消えていた。
佑香が飲んだのだとしたら、こっそり捨てたのかもしれないし、その前に誰かが気づかずに片付けてしまったのかもしれない。
……いや、事の真相に関しては比較的重要ではないのだ。
問題は、やや肩を落として居間に戻ってきた「彼」の方であると、沙希は思う。
役に立ちたい。しかし、何もないところからコーヒー牛乳を取り出せるような便利な能力を、沙希は持ち合わせていない。
では、と、沙希は再び思う。
何かあるところからなら、沙希でもコーヒー牛乳を手に入れることが出来る。
詰まるところ、買ってしまえばいいのだ。
問題は、やや肩を落として居間に戻ってきた「彼」の方であると、沙希は思う。
役に立ちたい。しかし、何もないところからコーヒー牛乳を取り出せるような便利な能力を、沙希は持ち合わせていない。
では、と、沙希は再び思う。
何かあるところからなら、沙希でもコーヒー牛乳を手に入れることが出来る。
詰まるところ、買ってしまえばいいのだ。
密かに決心をして、沙希は他の誰の注意も引かないよう、そっと立ち上がった。
口を覆うためのマスクをつけようかつけまいか、少し悩む。
今日まで、外へ出る際にマスクをつけなかったことは、ない。
……しかし、いつまでも、マスクに頼るわけにも、いかない。
臆病な己を、いつまでもマスクで覆い隠すわけには、いかないのだ。
悩んで、そして、沙希は何もつけずに、歩みを進めた。
――――だって、「彼女」は何も、つけていなかったから。
口を覆うためのマスクをつけようかつけまいか、少し悩む。
今日まで、外へ出る際にマスクをつけなかったことは、ない。
……しかし、いつまでも、マスクに頼るわけにも、いかない。
臆病な己を、いつまでもマスクで覆い隠すわけには、いかないのだ。
悩んで、そして、沙希は何もつけずに、歩みを進めた。
――――だって、「彼女」は何も、つけていなかったから。
ごろ寝した「彼」の死角を通り、ついに捕まってしまった、捕まえてしまった子ライオン二匹と佑香の横を通り
沙希はそのまま、玄関へと――
沙希はそのまま、玄関へと――
「沙希ちゃん、お出かけ?」
――最後の刺客を、忘れていた。
あれから台所にとどまっていたのか、良子が横からやってくる。
あれから台所にとどまっていたのか、良子が横からやってくる。
「ええと、その、ぇっと……ちょっと夜風を、辺りに」
「うん、分かった」
「うん、分かった」
いつも以上にしどろもどろの弁明に、良子が笑って答える。
今日だけは、己の不器用さを褒めてもいいかもしれないと、沙希は思った。
今日だけは、己の不器用さを褒めてもいいかもしれないと、沙希は思った。
「夜はやっぱり物騒だから、気をつけてね?」
「ぁ、はい……気をつけます」
「ぁ、はい……気をつけます」
靴を履き、鍵を開け、ノブを握る。
ひやりとした金属の感触が、ほてった肌に心地よかった。
ひやりとした金属の感触が、ほてった肌に心地よかった。
「すぐに……戻ります、から」
「うん。行ってらっしゃい」
「うん。行ってらっしゃい」
ノブを回す。薄く開いたドアと壁の隙間から、冷気が漏れこんでくる。
この家には煤で汚れた中古のストーブしかない。
一度冷え込んでしまったら、また暖めるのは大変だろう。
沙希は手早く、ドアを閉ようと――
この家には煤で汚れた中古のストーブしかない。
一度冷え込んでしまったら、また暖めるのは大変だろう。
沙希は手早く、ドアを閉ようと――
「……あ、そうだ。沙希ちゃん、鍵はちゃんと持った?」
「ぁの、その、はい、持ってます」
「良かった」
「ぁの、その、はい、持ってます」
「良かった」
にこにこと、良子が微笑むと、沙希の表情も幾分か、明るくなる。
「それじゃ、行ってらっしゃい」
「はい、行ってきます」
「はい、行ってきます」
二度目の挨拶。心もち、流暢に話せた気がする。
軽く会釈をして、沙希はドアを閉めた。
軽く会釈をして、沙希はドアを閉めた。
外に立つと、冬の風が、一層身にしみる。
あまり寒さに強い方ではない。
早く近くのコンビニへ行って帰ってこようと、沙希はアパートの階段を下りながら、思った。
あまり寒さに強い方ではない。
早く近くのコンビニへ行って帰ってこようと、沙希はアパートの階段を下りながら、思った。
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「あー、すんません。コーヒー牛乳、売り切れちゃってますわ」
「え…………」
「え…………」
アパートから北へ100メートルほどにある小さなコンビニ。
アルバイトなのかちょっと雑な口調の店員の言葉に、沙希は当惑した。
アルバイトなのかちょっと雑な口調の店員の言葉に、沙希は当惑した。
「あ、ぇと、そうです……か」
「すんません、マジで。ここちっちゃいでしょ? だから普段からあんま品揃えよくないんすよね。この先もうちょっと行った所にスーパーありますから、そっち行ったらどうっすか?」
「すんません、マジで。ここちっちゃいでしょ? だから普段からあんま品揃えよくないんすよね。この先もうちょっと行った所にスーパーありますから、そっち行ったらどうっすか?」
ちょっと雑な口調の店員は、しかし親切に話しかけてくれる。
普段なら気味悪がられる口を見ても動じないあたり、大分「慣れている」のだろう。
普段なら気味悪がられる口を見ても動じないあたり、大分「慣れている」のだろう。
「はい、あの、その、ありがとう、ございました」
礼を言うと、こっちが悪いんすから、と笑って沙希に返してくれる。
本当にいい店員だったと、コンビニを出てから、沙希は思った。
本当にいい店員だったと、コンビニを出てから、沙希は思った。
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「コーヒー牛乳?」
「えぇと、はい……そうです」
「えぇと、はい……そうです」
コンビニからさらに西へ70メートルほど行った地点。
先ほどのコンビによりは大きなスーパーの中で、沙希はまた、店員に尋ねていた。
先ほどのコンビによりは大きなスーパーの中で、沙希はまた、店員に尋ねていた。
忙しそうに商品を並べ替える店員は、沙希に背を向け、商品棚に向かったまま、答える。
「ええと、飲み物の棚にありませんでしたかね?」
「ぁ、いえ、すいません……それがどこにあるかが、分からなくて……」
「ぁ、いえ、すいません……それがどこにあるかが、分からなくて……」
家から近いこのスーパー。しかし沙希は、ほとんど入ったことがなかった。
野菜にしろ、肉にしろ、魚にしろ、ここより安いスーパーや、商店街の店がある。
極貧とまではいかないにしろ、貧乏の部類に入る沙希たちにとって、このスーパーは財布の敵だった。
野菜にしろ、肉にしろ、魚にしろ、ここより安いスーパーや、商店街の店がある。
極貧とまではいかないにしろ、貧乏の部類に入る沙希たちにとって、このスーパーは財布の敵だった。
「あーはいはい、そっちですか。どうやって説明しようかな……」
商品を並べながら、店員が唸る。
「すいません。ついてきてもらっても大丈夫ですか?」
「はい」
「お探し中なのは、飲み物の棚――――」
「はい」
「お探し中なのは、飲み物の棚――――」
一旦区切りをつけることにしたのか、手に持った商品を箱に戻して、店員がこちらを振り返り――
「――――です、よ……ね?」
――顔を、少しだけ、引きつらせた。
その目は沙希の口に固定されている。
……ああ、やっぱり「普通」の人の反応は、これなんだろう。
なぜか、胸にちくりとした痛みがある。
覚悟をしてから、家を出たのだ。
だからきっと、これは悲しみではない、きっと、違う。
その目は沙希の口に固定されている。
……ああ、やっぱり「普通」の人の反応は、これなんだろう。
なぜか、胸にちくりとした痛みがある。
覚悟をしてから、家を出たのだ。
だからきっと、これは悲しみではない、きっと、違う。
「ちょ、ちょっと、俺……じゃない、私は忙しいんで、他の店員、呼んで来ますね」
逃げるように、店員が立ち去る。
沙希はその後姿を目で追うような事はせず、箱に入れられた商品の群れを、ただ、見ていた。
沙希はその後姿を目で追うような事はせず、箱に入れられた商品の群れを、ただ、見ていた。
*****************************************
――足速に、アパートへと帰る。
手には、スーパーの袋と、その中に入った紙パックのコーヒー牛乳。
――足速に、階段を上る。
止まったら、何かが溢れてきそうだったから。
――二階の廊下を走り、ドアの前で止まる。
……早く「彼」に、買ってきたものを渡そう。
――鍵を回す。ドアが開く。
渡してしまえば、こんな気持ちは、きっと……
手には、スーパーの袋と、その中に入った紙パックのコーヒー牛乳。
――足速に、階段を上る。
止まったら、何かが溢れてきそうだったから。
――二階の廊下を走り、ドアの前で止まる。
……早く「彼」に、買ってきたものを渡そう。
――鍵を回す。ドアが開く。
渡してしまえば、こんな気持ちは、きっと……
「――あ、沙希。お帰り」
俯きがちに玄関に入ると、「彼」が出迎えてくれた。
――――その手に、茶褐色の液体の入った、瓶を持って。
「ぁ、はい、その、ただいま、です」
咄嗟に、手に持った袋を、後ろでに隠す。
「えぇと、その、コーヒー牛乳、は……?」
「ああこれ? ちょっと一っ走り、あっちのコンビニに行ったんだけど――」
「ああこれ? ちょっと一っ走り、あっちのコンビニに行ったんだけど――」
――――ああ、そういえば、もう一軒、南にもあった、ような。
俯いていた顔を上げ、「彼」の指差す方角を、見ようとして
……「彼」と目が、あった。
……「彼」と目が、あった。
「――どうした」
「彼」の声から、のんびりとした響きが、消える。
「…………え?」
突然真剣みを帯びた声に、沙希が戸惑う。
戸惑っている間に、「彼」は、沙希の目の前まで来ていた。
戸惑っている間に、「彼」は、沙希の目の前まで来ていた。
「何か、あったか?」
真剣な声。しかし表情は、柔らかい。
「えぇと、その、あの…………?」
「顔。ちょっと厳しいからさ」
「顔。ちょっと厳しいからさ」
言われて、台所の一角にかかっている小さな丸鏡を見る。
しかし沙希には、いつも通りの顔のようにしか、見えなかった。
しかし沙希には、いつも通りの顔のようにしか、見えなかった。
「私には、そう見えませんが……」
「けど、俺にはそう見える」
「けど、俺にはそう見える」
柔和な顔のまま、「彼」が近づく。
もう一度、真剣みを帯びたまま、しかし少しやわらかな色合いを混ぜて、「彼」はもう一度、言った。
もう一度、真剣みを帯びたまま、しかし少しやわらかな色合いを混ぜて、「彼」はもう一度、言った。
「どうした。何か、あったか?」
「何か」なら、あった。
この数十分で、十二分に。
しかし……しかし、これは、「彼」に言うべき事柄、なのだろうか?
また、「彼」に、迷惑をかけるような、ことに――――
この数十分で、十二分に。
しかし……しかし、これは、「彼」に言うべき事柄、なのだろうか?
また、「彼」に、迷惑をかけるような、ことに――――
「大丈夫だから」
どこまでも……どこまでも、優しい顔で、「彼」が微笑む。
――――いつの間にか、後ろ手に隠していたはずの袋は、元の位置に、戻っていた。
*****************************************
「――――ごめんな」
全てを、本当に全てを沙希が話し終えた後に言った「彼」の一言は、それだった。
「ぁ、いぇ、でも、その……」
「ほんっと、すまなかった!」
「ほんっと、すまなかった!」
うろたえる沙希を前に、「彼」が頭を下げる。
家の他の住人は既に寝ているのか、それともテレビでも見ているのか、こちらの騒ぎに気づく様子はない。
家の他の住人は既に寝ているのか、それともテレビでも見ているのか、こちらの騒ぎに気づく様子はない。
「あの、顔を、その、ぇっと、上げて……私は別に、平気で――――」
「平気なんて言うな」
「平気なんて言うな」
声に怒りの色はない。ないにも関わらず、その声を聞くと、沙希の体が震えた。
「彼」は顔を上げた。怒りはない。しかし若干の悲しみが、そこにはあった。
……違う、と沙希は思う。
私は、そんな顔を、させたかった。わけじゃ――――
「彼」は顔を上げた。怒りはない。しかし若干の悲しみが、そこにはあった。
……違う、と沙希は思う。
私は、そんな顔を、させたかった。わけじゃ――――
「本当にごめん、でも…………ありがとうな」
ぽん、と、沙希の頭に手が乗った。
何かを言い出そうとした沙希の口が、その途中で固まる。
堅く、大きな手。
あの時、彼女を地獄の底から引き上げてくれた、手。
その手の先で、「彼」は笑っていた。
悲しみの色は抜けない。それでも、「彼」の顔は、笑っていた。
何かを言い出そうとした沙希の口が、その途中で固まる。
堅く、大きな手。
あの時、彼女を地獄の底から引き上げてくれた、手。
その手の先で、「彼」は笑っていた。
悲しみの色は抜けない。それでも、「彼」の顔は、笑っていた。
――――そう、それで、いい。
身体の震えが、止まる。
「彼」が笑ってくれている。なら、ここで沙希の取るべき行動は、決まっている。
買いに行こうと決意したときから、言いたいと思っていたこと。
状況は想像と違うけれど、それでも、いいだろう。
身体の震えが、止まる。
「彼」が笑ってくれている。なら、ここで沙希の取るべき行動は、決まっている。
買いに行こうと決意したときから、言いたいと思っていたこと。
状況は想像と違うけれど、それでも、いいだろう。
「その、えぇと…………どういたし、まして」
そう言った沙希の顔は、まだ少し強張っていたけれど、それでも間違いなく、笑顔だった。
*****************************************
――――沙希には、恩がある。
一生かけても返せないだろう、大きな、大きな恩。
……返せるはずも、ない。
返そうとしたそばから、恩は、感謝は、積み重なっていくのだから。
一生かけても返せないだろう、大きな、大きな恩。
……返せるはずも、ない。
返そうとしたそばから、恩は、感謝は、積み重なっていくのだから。
――――だから、これは自己満足の話。恩返しなんて殊勝なものでは、決して、ない。
【Continued...】