廊下に出た瞬間、周りの空気がガラリとかわったことで、久信と修実は自分たちが郭の術中に囚われたことに気付いた。
「結界!?」
「閉じ込められたわね」
壁に触れてみると、壁のほんの数ミリ手前で何か淡く光るものに指が触れる。壁のような結界がこの廃墟のかべを内側からコーティングするようにして囲んでいるようだ。
汚れ、所々壊れている廃墟の通路には、今のところ久信が放った蛇しか動くものは見当たらない。
修実が周囲に注意を向けながら呟く。
「この結界の中の空気のにおいは知ってる……あの時私が閉じ込められたものと同じだわ」
「このやけに甘いにおいか」
久信は廃墟の埃っぽいにおいをものの数秒で塗り変えてしまった甘い、香を焚いたようなにおいを嗅ぐ。
淡く発光する壁に囲まれた瞬間に、においは建物の中に充満した。
郭が扱うこの結界は、普通の空間を塗り替える、異界化に近い種類の結界なのだろう。
……異界の中に隔離されたのだとしたら、この結界を壊すのは相当難しいな。
この規模の壁を壊そうとするならば、壁に対して集中しなければならない。そんなことをすれば、間違いなくその隙を郭に狙われてしまう。壁を壊しての脱出は控えるべきだろう。
術者である郭を倒すことができれば、外と空間を切り取っているこの壁も消えて結界も解除されるはず。
出会う傍から倒されているとはいえ、郭追跡を指示された蛇たちが一匹として外への脱出を試みていない点から考えて、彼はまだこの建物の中にいるはずだ。
「郭正吾! 居ることは分かっている! この蛇たちを見て思い出す者が居るはずだ! 答えろ!」
薄暗がりの中に声を投げかけると、大して期待をしていなかった応じる声が来た。
「小野家が封印を解いてきたか。余計な事をしてくれる」
殺気立った声。その声に続いて、建物のどこかで、重い金属が叩きつけられる音がした。
修実が小さく言う。
「蛇が、また殺されたわ」
再び訪れた無音に嫌なものを感じていると、修実が背中から言う。
「久くん。ここはいったん退いた方がいいかもしれないわ」
「でもこの結界を破ることだけに集中するのはかなり危ないんじゃないか?」
「私がこの結界を破るようにするから、久くんは周りを警戒して」
「そうだね。そうすればいくらか安全だね」
一度結界に囚われて悲惨な目にあった修実が言うのだから、脱出はできるだけ早い方がいい。とにかく、郭正吾が居る場所さえ分かっていれば問題はないのだ。すでに数多の蛇が郭正吾の位置を捉えている。ひとまずは彼をとり逃がすこともないだろう。
「分かった」
久信はこの建物に侵入した時に入った部屋へと引き返そうと通路の奥を見据えたまま後退りして、
修実を背負った背中が壁に触れた。
「え……?」
慌てて振り返ると、、結界の光が部屋と廊下の間を隔てていた通路を区切っていた。
つい先ほどまで壁に沿って展開されていた結界の範囲がより狭められている。その事実に、腹の底に冷たいものを感じる。
「くそっ」
壁をけりつけるが、その程度では結界はびくともしない。
「急いだ方がいいわね」
修実が言い、同時に久信の背後で瘴気が凝る気配がする。
久信は蛇を放って警戒を強めて郭の接近に備える。そんな久信の耳に、1つの唄が聞こえてきた。
「かーごめ かーごーめ――――」
「かごめかごめ!?」
廃墟に響き始めたのは、日本人ならば大抵の人間が知っているであろう、有名な童謡だ。
その唄がこのタイミングで聞こえてきたという、その意味を分からない久信ではない。
「郭の契約してる都市伝説はかごめかごめか!」
童謡、かごめかごめには、その歌詞や唄を用いた遊びに対して都市伝説がいくつか存在している。郭はそのうちのどれかと契約しているのだろう。
……かごめかごめで結界を形成できるような都市伝説……何があった?
相手の都市伝説の正体が分かれば対処法も考えやすい。記憶の中からかごめかごめに関する都市伝説について思い出していると、修実が鋭い声で警告した。
「久くん! 左横!」
同時に久信の左横から蛇たちとは明らかに異質な気配が風切り音と共にやってきた。
「――!」
咄嗟に地面に身を投げた久信の上を、風切り音を上げる何かが通り過ぎた。
「……くっ」
「うしろのしょめん だーれっと……」
倒れ込みながら首を捻って頭上を見上げる。
そこには中肉中背に眼帯、郭正吾が居た。
先程久信の首があった位置を薙ぎ払ったのは、彼が手にしている手斧のようだ。
追撃が来る前に転がって郭から距離をはなそうとして、久信は自分が動けないことに気付いた。
修実に転がる際の衝撃を与えることを覚悟して、体を横転させかけ、体が仰向けになる手前、ちょうど横臥の形になった時、背が壁にぶつかってしまったようだ。倒れ込んだ際に壁際まで行ってしまったらしい。
ならばと腕をついて体を跳ねさせようとして、それもできない程近くで結界の光が久信の体の動きを止めた。
……なんだ?
目の前にいつの間にか結界があった。
……こんな所にまで結界があるのかよ!
完全に狭い箱に閉じ込められる形になって、体はどうやっても動かない。
……さっきかごめかごめの結界が完成した時か……!
修実が息を呑んだ音を聞きながら、久信は言う。
「――ッ、かごめかごめは籠、つまり牢屋にいる囚人についての唄っていう都市伝説があったな」
「はずれ」
横に振り抜いた手斧を引き戻して、郭は答える。
「これは遊郭という名の籠に囚われて延々抜け出せない鳥。つまりは売女共を憐れんで歌ったとされる都市伝説だ。女相手には特に強力な籠を宛がえるからな。人身売買には相応の役にたった」
「そっちか。ならこの甘ったるい香のにおいにも納得だ」
久信は自分を閉じ込めている籠を叩く。結界内に充満しているのは遊郭で焚かれる扇情的な香のにおいだったということだ。
「1人用の籠じゃあ遊郭なんて言えないんじゃないか?」
「多くの遊女を囲う籠はもうこの建物全体を覆っている。お前を閉じ込めているそれは個室だ。小野家の追っ手。よくもこのギリギリのタイミングで見つけてくれたものだな」
忌々しそうに郭の声が聞こえてくるが、久信も同じような気分だ。
蛇を出し続けて結界を内圧で破壊しようとしても、結界を破る前に溢れた蛇に自分が埋められるだけだろう。
現状、久信が頼る事ができるのは、背中で凝る修実の瘴気のみだ。
……修実姉に頼るしかないのか。
自分の無力さに忸怩たる思いを抱える久信の眼前で、郭が手斧を振り上げた。
「後ろの正面――」
「――!」
あと1フレーズもなく、郭が手にした斧が降ってくる。
結界の破壊は間に合わない。
修実が陥った状況もこのようなものだったことから、元より、彼はこうして閉じ込めた相手を刻むのが主な戦い方なのだろうと分かる。
完全に相手のペースにはまってしまった。
ろくに身動きができない棺と化した結界の中で、とにかく郭の攻撃を防ごうと、腕を斧の着地点に合わせて、少しでも被害を食い止めようとした久信は、背中からの強いゆさぶりで体が狭い棺の中でうつ伏せに近い状態に半転させられた。
「修実姉?!」
「……ッ」
背で全体重を使って強い揺り動かしたのは修実だった。
そして、
「――だあれ?」
久信の視線が届かない所で、郭の攻撃が振り下ろされた。
郭がふるった手斧は彼自身が作ったかごめかごめの結界をどういう原理かすり抜けて、反転して郭と向かい合うことになった修実ごと久信を断ち切りにかかった。
思い金属がぶつかる鈍い音と共に、久信の体に丸太で殴打されたかのような衝撃が叩きつけられた。
「――ぐっ!」
骨がきしむ一撃に、杯の中の空気が強制的に吐き出され、肺が酸素を求めて熱くなる。何かと思考が回るようになるまでにかかったのはほんの数秒程度だろう。
それだけの時間をかけて、ようやく久信は自分が手斧を振り下ろされたにもかかわらず生きている、ということを疑問に思う余裕を得た。
「え? 生きて……?」
「久くんを、私と同じにはしませんよ……郭さん」
そう告げる修実の声で、久信は修実が攻撃を受けてくれたのだと理解した。
体を蛇の鱗で効果する能力を使ったのだろう。彼女が盾になってくれたおかげで久信は衝撃に苦しむだけで済んだのだ。
「……修実姉」
呟いて首を捻るが、郭の顔が見えるだけで、今の一撃を受けた修実がどうなているのかは分からない。
郭は手斧を三度、振りかぶっていた。
その目は久信ではなく、修実を見ている。
「やっぱり生きてたのか! あの町を潰したんだって? さすがに町や組織に裏切られたことは理解したんだな」
修実は先の一撃の影響の見られない、しっかりとした声で応答した。
「信じたくはありませんでした。皆が私を殺そうとするなんて」
「お前が悪いんだ。実家に帰ろうなんてな。あれだけ共犯意識が根付いていた町でそんなことを宣言するから、事実の発覚を恐れた連中がよってたかって襲い掛かるんだ」
「それは、貴方もですね」
「当然だ。あそこで俺がどれだけ儲けてきたと思う」
「――郭! お前はそんな理由で、お前たちは修実姉を!」
郭はせせら笑いを浮かべた。
「お前はこいつの封印を解いた奴……ああ、お前はこの女の弟だな?」
郭は合点がいったというように嗤う。
「そうだ、監視役から見聞きした。たしか、姉と違って凡才の能力者なんだってな」
嘲るように言って、郭は続ける。
「それでもまあ、お前も血筋と契約する都市伝説っていう珍しいモンの契約者だからな。高く売れる」
「そのような事を私が赦すわけがないでしょう」
「おお怖い怖い」
郭が大仰に手斧をぶらぶらと振った。
「勇ましく言うじゃないか。両手両足切り落とされて血と小便と小うるさい悲鳴垂れ流してたメスの台詞とは思えないな」
言葉と共に、郭は手斧を振り下ろして、久信の口から出かかった非難を潰した。
「結局お前があの後半狂乱で反撃してきたせいで町1つ丸ごと結界で包まなけりゃならなくなった。蛇に片目をこうして喰われちまったしな。ああ、あれは痛かった。
おかげで逃げる手はずを整えるのにこんなに苦労する羽目になったよ!」
手斧がまた叩きつけられる。
「あの封印の中でダルマ女の都市伝説にでもなって失血から持ち直して生き延びたってところか?
まだ蛇神憑きの能力を使えてるってことは、完全には都市伝説化はしてないってことか? ああ、町は弟くんと一緒に仲良く潰したのか?」
手斧が次々と振り下ろされる。
一発一発が十分な重みを持った攻撃は、久信の骨に悲鳴を上げさせる。何本か、もう折れているかもしれない。
クッション役の自分でこれなのだ。郭に向き合って直接攻撃を受けている修実はもっとひどい状況なのではないだろうか。
……チクショウ!
結界の床面を爪でひっかいて、久信は満足に動くことも叶わない自分を歯がゆく思う。
こんな体たらくで足止めくらいにはなると思っていた自分が情けない。
「血と契約する都市伝説との契約者。体の構成を変化させる能力の持ち主の体の一部。更に都市伝説化した契約者そのもの。これだけあれば、俺は一生遊んで暮らせるかもな」
大振りの一撃が振り下ろされ、久信の意識が途切れかかった。
「ぐう……ッ!」
「――あ、ッく!」
修実の切羽詰まった悲鳴を聞きながら、久信は自分に力があったなら、と強く思う。
修実姉をこんなに苦しめるなんてこともなかったのに。
飛びそうになる意識を怒りで繋ぎ止める久信に、郭の言葉が入り込む。
「修実ちゃんは小さいころからずっと便利な道具として使わせてもらって、こんなになったあとも商品として役にたってくれるんだから、本当に馬鹿な子だなあ」
久信の怒りに燃料を雪ぐ一言と共に送られてきた一撃は、これまでとは違う、横殴りの一撃だった。
修実が体を捻ってなんとか手斧を久信に当てられることは防いだものの、修実と久信を繋いでいた蛇が切断され、横殴りの衝撃によって修実の体が久信の背中からほんのわずかに離れてしまった。
そして、
「かーごめかーごーめー」
かごめかごめの童謡が唄われ、修実の体を掴み直そうとしていた久信の手が、新たに出来上がった結界の壁に阻まれてしまった。
郭のかごめかごめの結界は、大きな籠の中をいくつかの小部屋に分けて、多くの者を別々に捕える事ができるようになっているようだ。
一度に大量の人さらいをする際に、捕まえた対象の逃亡を防ぐ上で役に立ちそうな能力だ。
姉と分断されたという事実が久信の中で受け入れられるまでの短い時間の中で、頭が現実逃避気味にそんな事を考える。
「じゃあ、まあ先に何もできない弟君の方から死んでもらおうか」
背の上から聞こえる宣告に、久信は今度こそ、死を覚悟した。
「うしろのしょーめん――」
「久くん!」
唄のフレーズに重なって修実の声が聞こえる。
……ああ、
「だーれ?」
この下種を倒せるだけの力が……。
唄の終わりと共に、手斧が空気を切る音が聞こえる。結界の外、久信が首を捻っても見ることができない位置から処刑の刃が迫り、
それから数秒の間を置いてもまだ、久信の命は続いていた。
「……?」
今回は、先程修実が盾になってくれた時のような衝撃すらも久信には伝わってこない。何がどうなってしまったのか確認しようと限界まで首を捻ろうとして、肩が何の妨げもなく動くことに気付いた。
「え……?」
いつの間にか結界がなくなっていた。
まさか結界がなくなっていると思っていなかった久信の体は勢い余って廃墟の汚れた床の上を転がる。
回転して天井の方を見ることができるようになった久信の視界は、自分を狙っていたはずの郭の手斧がどうなったのかを捉えた。
手斧は、止められていた。
分厚い刃の部分を、二つの手が、しっかりとつかんでいる。その手は、それが繋がる腕は、刃に触れている指先は、白くて、たおやかで、優美で、その線の細さは女性の腕のそれで――
確かに蛇のものと思しき鱗が浮かんでいた。
「結界!?」
「閉じ込められたわね」
壁に触れてみると、壁のほんの数ミリ手前で何か淡く光るものに指が触れる。壁のような結界がこの廃墟のかべを内側からコーティングするようにして囲んでいるようだ。
汚れ、所々壊れている廃墟の通路には、今のところ久信が放った蛇しか動くものは見当たらない。
修実が周囲に注意を向けながら呟く。
「この結界の中の空気のにおいは知ってる……あの時私が閉じ込められたものと同じだわ」
「このやけに甘いにおいか」
久信は廃墟の埃っぽいにおいをものの数秒で塗り変えてしまった甘い、香を焚いたようなにおいを嗅ぐ。
淡く発光する壁に囲まれた瞬間に、においは建物の中に充満した。
郭が扱うこの結界は、普通の空間を塗り替える、異界化に近い種類の結界なのだろう。
……異界の中に隔離されたのだとしたら、この結界を壊すのは相当難しいな。
この規模の壁を壊そうとするならば、壁に対して集中しなければならない。そんなことをすれば、間違いなくその隙を郭に狙われてしまう。壁を壊しての脱出は控えるべきだろう。
術者である郭を倒すことができれば、外と空間を切り取っているこの壁も消えて結界も解除されるはず。
出会う傍から倒されているとはいえ、郭追跡を指示された蛇たちが一匹として外への脱出を試みていない点から考えて、彼はまだこの建物の中にいるはずだ。
「郭正吾! 居ることは分かっている! この蛇たちを見て思い出す者が居るはずだ! 答えろ!」
薄暗がりの中に声を投げかけると、大して期待をしていなかった応じる声が来た。
「小野家が封印を解いてきたか。余計な事をしてくれる」
殺気立った声。その声に続いて、建物のどこかで、重い金属が叩きつけられる音がした。
修実が小さく言う。
「蛇が、また殺されたわ」
再び訪れた無音に嫌なものを感じていると、修実が背中から言う。
「久くん。ここはいったん退いた方がいいかもしれないわ」
「でもこの結界を破ることだけに集中するのはかなり危ないんじゃないか?」
「私がこの結界を破るようにするから、久くんは周りを警戒して」
「そうだね。そうすればいくらか安全だね」
一度結界に囚われて悲惨な目にあった修実が言うのだから、脱出はできるだけ早い方がいい。とにかく、郭正吾が居る場所さえ分かっていれば問題はないのだ。すでに数多の蛇が郭正吾の位置を捉えている。ひとまずは彼をとり逃がすこともないだろう。
「分かった」
久信はこの建物に侵入した時に入った部屋へと引き返そうと通路の奥を見据えたまま後退りして、
修実を背負った背中が壁に触れた。
「え……?」
慌てて振り返ると、、結界の光が部屋と廊下の間を隔てていた通路を区切っていた。
つい先ほどまで壁に沿って展開されていた結界の範囲がより狭められている。その事実に、腹の底に冷たいものを感じる。
「くそっ」
壁をけりつけるが、その程度では結界はびくともしない。
「急いだ方がいいわね」
修実が言い、同時に久信の背後で瘴気が凝る気配がする。
久信は蛇を放って警戒を強めて郭の接近に備える。そんな久信の耳に、1つの唄が聞こえてきた。
「かーごめ かーごーめ――――」
「かごめかごめ!?」
廃墟に響き始めたのは、日本人ならば大抵の人間が知っているであろう、有名な童謡だ。
その唄がこのタイミングで聞こえてきたという、その意味を分からない久信ではない。
「郭の契約してる都市伝説はかごめかごめか!」
童謡、かごめかごめには、その歌詞や唄を用いた遊びに対して都市伝説がいくつか存在している。郭はそのうちのどれかと契約しているのだろう。
……かごめかごめで結界を形成できるような都市伝説……何があった?
相手の都市伝説の正体が分かれば対処法も考えやすい。記憶の中からかごめかごめに関する都市伝説について思い出していると、修実が鋭い声で警告した。
「久くん! 左横!」
同時に久信の左横から蛇たちとは明らかに異質な気配が風切り音と共にやってきた。
「――!」
咄嗟に地面に身を投げた久信の上を、風切り音を上げる何かが通り過ぎた。
「……くっ」
「うしろのしょめん だーれっと……」
倒れ込みながら首を捻って頭上を見上げる。
そこには中肉中背に眼帯、郭正吾が居た。
先程久信の首があった位置を薙ぎ払ったのは、彼が手にしている手斧のようだ。
追撃が来る前に転がって郭から距離をはなそうとして、久信は自分が動けないことに気付いた。
修実に転がる際の衝撃を与えることを覚悟して、体を横転させかけ、体が仰向けになる手前、ちょうど横臥の形になった時、背が壁にぶつかってしまったようだ。倒れ込んだ際に壁際まで行ってしまったらしい。
ならばと腕をついて体を跳ねさせようとして、それもできない程近くで結界の光が久信の体の動きを止めた。
……なんだ?
目の前にいつの間にか結界があった。
……こんな所にまで結界があるのかよ!
完全に狭い箱に閉じ込められる形になって、体はどうやっても動かない。
……さっきかごめかごめの結界が完成した時か……!
修実が息を呑んだ音を聞きながら、久信は言う。
「――ッ、かごめかごめは籠、つまり牢屋にいる囚人についての唄っていう都市伝説があったな」
「はずれ」
横に振り抜いた手斧を引き戻して、郭は答える。
「これは遊郭という名の籠に囚われて延々抜け出せない鳥。つまりは売女共を憐れんで歌ったとされる都市伝説だ。女相手には特に強力な籠を宛がえるからな。人身売買には相応の役にたった」
「そっちか。ならこの甘ったるい香のにおいにも納得だ」
久信は自分を閉じ込めている籠を叩く。結界内に充満しているのは遊郭で焚かれる扇情的な香のにおいだったということだ。
「1人用の籠じゃあ遊郭なんて言えないんじゃないか?」
「多くの遊女を囲う籠はもうこの建物全体を覆っている。お前を閉じ込めているそれは個室だ。小野家の追っ手。よくもこのギリギリのタイミングで見つけてくれたものだな」
忌々しそうに郭の声が聞こえてくるが、久信も同じような気分だ。
蛇を出し続けて結界を内圧で破壊しようとしても、結界を破る前に溢れた蛇に自分が埋められるだけだろう。
現状、久信が頼る事ができるのは、背中で凝る修実の瘴気のみだ。
……修実姉に頼るしかないのか。
自分の無力さに忸怩たる思いを抱える久信の眼前で、郭が手斧を振り上げた。
「後ろの正面――」
「――!」
あと1フレーズもなく、郭が手にした斧が降ってくる。
結界の破壊は間に合わない。
修実が陥った状況もこのようなものだったことから、元より、彼はこうして閉じ込めた相手を刻むのが主な戦い方なのだろうと分かる。
完全に相手のペースにはまってしまった。
ろくに身動きができない棺と化した結界の中で、とにかく郭の攻撃を防ごうと、腕を斧の着地点に合わせて、少しでも被害を食い止めようとした久信は、背中からの強いゆさぶりで体が狭い棺の中でうつ伏せに近い状態に半転させられた。
「修実姉?!」
「……ッ」
背で全体重を使って強い揺り動かしたのは修実だった。
そして、
「――だあれ?」
久信の視線が届かない所で、郭の攻撃が振り下ろされた。
郭がふるった手斧は彼自身が作ったかごめかごめの結界をどういう原理かすり抜けて、反転して郭と向かい合うことになった修実ごと久信を断ち切りにかかった。
思い金属がぶつかる鈍い音と共に、久信の体に丸太で殴打されたかのような衝撃が叩きつけられた。
「――ぐっ!」
骨がきしむ一撃に、杯の中の空気が強制的に吐き出され、肺が酸素を求めて熱くなる。何かと思考が回るようになるまでにかかったのはほんの数秒程度だろう。
それだけの時間をかけて、ようやく久信は自分が手斧を振り下ろされたにもかかわらず生きている、ということを疑問に思う余裕を得た。
「え? 生きて……?」
「久くんを、私と同じにはしませんよ……郭さん」
そう告げる修実の声で、久信は修実が攻撃を受けてくれたのだと理解した。
体を蛇の鱗で効果する能力を使ったのだろう。彼女が盾になってくれたおかげで久信は衝撃に苦しむだけで済んだのだ。
「……修実姉」
呟いて首を捻るが、郭の顔が見えるだけで、今の一撃を受けた修実がどうなているのかは分からない。
郭は手斧を三度、振りかぶっていた。
その目は久信ではなく、修実を見ている。
「やっぱり生きてたのか! あの町を潰したんだって? さすがに町や組織に裏切られたことは理解したんだな」
修実は先の一撃の影響の見られない、しっかりとした声で応答した。
「信じたくはありませんでした。皆が私を殺そうとするなんて」
「お前が悪いんだ。実家に帰ろうなんてな。あれだけ共犯意識が根付いていた町でそんなことを宣言するから、事実の発覚を恐れた連中がよってたかって襲い掛かるんだ」
「それは、貴方もですね」
「当然だ。あそこで俺がどれだけ儲けてきたと思う」
「――郭! お前はそんな理由で、お前たちは修実姉を!」
郭はせせら笑いを浮かべた。
「お前はこいつの封印を解いた奴……ああ、お前はこの女の弟だな?」
郭は合点がいったというように嗤う。
「そうだ、監視役から見聞きした。たしか、姉と違って凡才の能力者なんだってな」
嘲るように言って、郭は続ける。
「それでもまあ、お前も血筋と契約する都市伝説っていう珍しいモンの契約者だからな。高く売れる」
「そのような事を私が赦すわけがないでしょう」
「おお怖い怖い」
郭が大仰に手斧をぶらぶらと振った。
「勇ましく言うじゃないか。両手両足切り落とされて血と小便と小うるさい悲鳴垂れ流してたメスの台詞とは思えないな」
言葉と共に、郭は手斧を振り下ろして、久信の口から出かかった非難を潰した。
「結局お前があの後半狂乱で反撃してきたせいで町1つ丸ごと結界で包まなけりゃならなくなった。蛇に片目をこうして喰われちまったしな。ああ、あれは痛かった。
おかげで逃げる手はずを整えるのにこんなに苦労する羽目になったよ!」
手斧がまた叩きつけられる。
「あの封印の中でダルマ女の都市伝説にでもなって失血から持ち直して生き延びたってところか?
まだ蛇神憑きの能力を使えてるってことは、完全には都市伝説化はしてないってことか? ああ、町は弟くんと一緒に仲良く潰したのか?」
手斧が次々と振り下ろされる。
一発一発が十分な重みを持った攻撃は、久信の骨に悲鳴を上げさせる。何本か、もう折れているかもしれない。
クッション役の自分でこれなのだ。郭に向き合って直接攻撃を受けている修実はもっとひどい状況なのではないだろうか。
……チクショウ!
結界の床面を爪でひっかいて、久信は満足に動くことも叶わない自分を歯がゆく思う。
こんな体たらくで足止めくらいにはなると思っていた自分が情けない。
「血と契約する都市伝説との契約者。体の構成を変化させる能力の持ち主の体の一部。更に都市伝説化した契約者そのもの。これだけあれば、俺は一生遊んで暮らせるかもな」
大振りの一撃が振り下ろされ、久信の意識が途切れかかった。
「ぐう……ッ!」
「――あ、ッく!」
修実の切羽詰まった悲鳴を聞きながら、久信は自分に力があったなら、と強く思う。
修実姉をこんなに苦しめるなんてこともなかったのに。
飛びそうになる意識を怒りで繋ぎ止める久信に、郭の言葉が入り込む。
「修実ちゃんは小さいころからずっと便利な道具として使わせてもらって、こんなになったあとも商品として役にたってくれるんだから、本当に馬鹿な子だなあ」
久信の怒りに燃料を雪ぐ一言と共に送られてきた一撃は、これまでとは違う、横殴りの一撃だった。
修実が体を捻ってなんとか手斧を久信に当てられることは防いだものの、修実と久信を繋いでいた蛇が切断され、横殴りの衝撃によって修実の体が久信の背中からほんのわずかに離れてしまった。
そして、
「かーごめかーごーめー」
かごめかごめの童謡が唄われ、修実の体を掴み直そうとしていた久信の手が、新たに出来上がった結界の壁に阻まれてしまった。
郭のかごめかごめの結界は、大きな籠の中をいくつかの小部屋に分けて、多くの者を別々に捕える事ができるようになっているようだ。
一度に大量の人さらいをする際に、捕まえた対象の逃亡を防ぐ上で役に立ちそうな能力だ。
姉と分断されたという事実が久信の中で受け入れられるまでの短い時間の中で、頭が現実逃避気味にそんな事を考える。
「じゃあ、まあ先に何もできない弟君の方から死んでもらおうか」
背の上から聞こえる宣告に、久信は今度こそ、死を覚悟した。
「うしろのしょーめん――」
「久くん!」
唄のフレーズに重なって修実の声が聞こえる。
……ああ、
「だーれ?」
この下種を倒せるだけの力が……。
唄の終わりと共に、手斧が空気を切る音が聞こえる。結界の外、久信が首を捻っても見ることができない位置から処刑の刃が迫り、
それから数秒の間を置いてもまだ、久信の命は続いていた。
「……?」
今回は、先程修実が盾になってくれた時のような衝撃すらも久信には伝わってこない。何がどうなってしまったのか確認しようと限界まで首を捻ろうとして、肩が何の妨げもなく動くことに気付いた。
「え……?」
いつの間にか結界がなくなっていた。
まさか結界がなくなっていると思っていなかった久信の体は勢い余って廃墟の汚れた床の上を転がる。
回転して天井の方を見ることができるようになった久信の視界は、自分を狙っていたはずの郭の手斧がどうなったのかを捉えた。
手斧は、止められていた。
分厚い刃の部分を、二つの手が、しっかりとつかんでいる。その手は、それが繋がる腕は、刃に触れている指先は、白くて、たおやかで、優美で、その線の細さは女性の腕のそれで――
確かに蛇のものと思しき鱗が浮かんでいた。