コンゴ戦争(英語:Congo War、フランス語:Guerre du Congo)はアフリカへの影響力を高めようと図った新ソ連及びその傀儡政権と現地勢力の間で起こった戦争である。戦争の前後とその最中にかけてコンゴ以外の地域でも武力衝突が相次いだため
第一次アフリカ大戦
になぞらえて
第二次アフリカ大戦とも呼ばれる。
180年代の
中央アフリカ帝国の動揺に便乗し、
新ソ連は中央アフリカ帝国領内の反体制派に援助を与え自身の影響圏の拡大を試みた。新ソ連はスーダン・チャドを勢力圏に収め、遂には中央アフリカ帝国の中核地域であったコンゴにも手を伸ばした。しかし新ソ連の支援したキヴ軍閥が各地で敗走を重ねたため、全面的な軍事介入を開始した。しかし新ソ連軍はジャングルやコンゴ・コマンドやコンゴ側のPMCに苦戦し、最終的に和平協定を結んで撤退することになった。新ソ連の撤退後も新ソ連の樹立したコンゴ人民共和国は抵抗を続け、コンゴ共和国軍がコンゴ人民共和国臨時首都のイシロを196年11月14日に陥落させるまで続いた。
新ソ連ではこの戦争の負担が無視できないほど膨れ上がったことで長年続いてきた共産党政権が倒れたほか、新ソ連が目標としてきた新ソ連中心の国際秩序(
パクス・ソヴィエティカ)にも大きなほころびが生じた。
戦場となったアフリカ諸国では泥沼のゲリラ戦と新ソ連の行った無差別爆撃によって近代的なインフラがことごとく破壊され、大量の犠牲者を出した。またこの戦争ではコンゴだけでなくルワンダ・ブルンジ・ウガンダといった周辺の国々も巻き込んでおり、そのいずれの国も多くの犠牲を出している。
目次
この紛争は中央アフリカ帝国危機と新ソ連のアフリカ進出の野心に端を発する。
172年にアフリカの広範な地域を領土に収め成立した中央アフリカ帝国は、急速な帝国の拡大と皇帝カンタンの進める強制的な近代化・西洋化への反発から急速に不安定化していった。新ソ連は以前からアフリカへの関心を強めていたが、中央アフリカの弱体化を見ると介入へ動き出した。新ソ連はまず中央アフリカ帝国の傀儡政権が置かれていたスーダンの共産主義勢力に武器を与え、北スーダンを掌握させた。更に182年に中央アフリカ帝国の消滅が宣言されると北スーダン政府と共に南スーダンにも侵攻、これを北スーダンに併合した。
スーダンを抑えた新ソ連は三つ巴の内戦状態に陥っていたコンゴにも介入を開始し、北東部のキヴ軍閥に多大な物資援助を与えた。しかしキヴ軍閥は
カタンガの戦い(185年)で大敗し滅亡の危機に瀕した。新ソ連はやむなく直接介入を決意し、9000人からなる
コンゴ平和維持軍を送り込んだ。新ソ連はキヴ軍閥を強制改造し忠実なコンゴ人民共和国政府に再編した上で停戦を呼び掛けた。しかし
ポーコ事件で新ソ連兵が虐殺されると新ソ連世論は激昂、一転強硬姿勢に舵を切る。新ソ連が対立姿勢を明らかにすると対立していたカタンガ政府・キンシャサ政府は反ソ統一政府を結成しこれに応じる姿勢を見せた。戦闘は泥沼化したが、187年末の
サテ攻勢の失敗によって統一政府側は大損害を被った。統一政府はゲリラ作戦部隊コンゴ・コマンドを編成し火消しに走ったが、新ソ連の
トール作戦によってコンゴ全域が人民共和国の支配下に入った。
しかしコンゴ人民共和国の杜撰な統治によって翌年にはコンゴコマンドの残党勢力が手を付けられないほどに拡大、コンゴは再び事実上の内戦状態に陥った。コンゴコマンドは大規模な攻勢作戦を展開し(ソト作戦)、キヴ州の支配権を握った。この勝利によってコンゴコマンドはルワンダから武器輸入が可能になり、コンゴコマンドの拡大に拍車がかかった。新ソ連は慌ててCOIN機によるゲリラ掃討戦を展開したが、国際市場から輸入された対空兵器によって大きな損害を被った。業を煮やした新ソ連軍は兵器供給源を絶つためルワンダ爆撃を開始した。これを受けてルワンダ政府はコンゴコマンドとの公式な提携を宣言し、同じく親ソ政権との戦いを続けるアフリカの反政府組織とともに
アフリカの盾を形成した。新ソ連はこれに対抗し親ソ派政権の間で
アフリカ民主連盟を結成させた。
新ソ連は増派を繰り返し最終的には30万人以上の兵士を送り込んだが、状況を打開することはできなかった。さらに新ソ連は武器供給を完全に停止させるためウガンダを経由してルワンダに侵攻し、更には化学兵器を投入したが、これは国際社会からの猛烈な批判にさらされた。最終的に新ソ連は現状維持を条件に和平を提案し、戦力の消耗と荒廃を極めたコンゴもこれを受け入れた。
192年、ダルフールでの反政府抗議が南スーダン黒人運動による武装蜂起に発展した。新ソ連は事件の背後にアフリカの盾の謀略があると断定し、シャイデマン大統領は三度目のコンゴ介入を決断した。新ソ連はコンゴ問題の最終解決を目指して40万を超える大軍を投入しコンゴの完全制圧を図った。第三次コンゴ戦役では新ソ連は惜しみなく戦力を投入しコンゴ軍を圧迫した。しかしこれだけの兵力を投入しながらも非対称戦は依然として困難なものであり、シャイデマン政権の期待した迅速な進撃は不可能であることが明らかになった。新ソ連はやむなく持久戦に転換し、住民の強制移転や"根絶やし"戦術による殲滅戦を展開した。
しかし新ソ連軍の行う対ゲリラ戦は新ソ連国民に大きなショックを与えた。新ソ連は前線に厳格な報道管制を敷き、人道NGO含めて一切の民間人の前線行きを認めなかったが、コンゴ軍側はそうではなかった。コンゴ軍に付き添った戦場ジャーナリストは新ソ連の凄惨な対ゲリラ戦を赤裸々に報じ、新ソ連国民は戦争の正義と勝利に疑念を抱くようになった。当初は極左勢力が展開していた反戦運動は徐々に一般市民や中道派も巻き込み社会現象に変わった。新ソ連政府は国民の厭戦感情の抑制に躍起になり、戦争の早期終結を図るようになった。
戦争終結を目指し発起したペネトレーション作戦はコンゴ最大の地下秘密工場オカの攻略を目的としたものだった。作戦終盤、シャイデマンの命令によってオカ工場に戦術核兵器が使用された。この核攻撃によってオカ工場は機能を喪失したものの、国際世論と国民感情は限界を迎えた。国際社会は新ソ連に対し経済制裁を発動し、国内の反政府運動は頂点に達した。政権は与党内や同盟諸国からも強烈な非難にさらされ、シャイデマンは完全にレームダック化した。直後に行われた新ソ連大統領選挙では与党連合が瓦解する中で最大野党SDPが圧勝し、「道徳による和平」を掲げたウェーゲナー政権が成立する。
ウェーゲナー政権は国内の強烈な反戦世論を鎮めるため、軍部の反対を押し切って地上軍の撤退を推し進めた。ウェーゲナーは戦争の
コンゴ化(Congonization)をスローガンに新ソ連軍とコンゴ軍の交代を目指した。また新ソ連はこれらの新ソ連軍撤退を交換材料にコンゴ政府とも和平交渉に向けた協議を進めたが、こちらは相互認識の不一致などから難航した。最終的に再活性化の兆しを見せていた反戦運動を受けウェーゲナー政権はコンゴの保持を完全に放棄することを決断、無条件での和平をコンゴ側に申し出るに至った。196年3月14日のラクナウ合意で新ソ連軍はすべて撤退することになり、同年5月に最後の新ソ連軍が撤収した。新ソ連の庇護を失ったコンゴ人民共和国は抵抗を続けたが、6か月の戦闘の末に臨時首都イシロが陥落したことで戦争は終結した。
新ソ連はこの戦争で大きく国際的威信を落とした。コンゴ戦争中新ソ連は他の国外紛争に関わる余裕を大きく失っており、パクス・ソヴィエティカは大きくほころんだ。戦争の原因となったアフリカへの野心はラクナウ合意で頓挫し、戦後のスーダンクーデター・カタンガ侵攻・北ローデシア内戦でアフリカにおける橋頭保もすべて失われた。新ソ連国内では新ソ連の対外軍事行動に抵抗を抱く『コンゴ・シンドローム』と呼ばれる現象が発生した。またコンゴでの失敗は国内でも大きな波紋を広げ、外政・軍政改革が始まるきっかけになった。
アフリカの植民地化・脱植民地化
120年代にかけて、アフリカは列強諸国の植民地化に晒された。一部の独立を保った国家を除いてアフリカ全域が列強によって分割、植民地化された。130年代になると独立運動や境界線を巡る紛争の激化に伴い植民地維持コストが高騰、宗主国各国は国家間機構に植民地維持を付託してその維持を図ったが、139年に終結した
アフリカ大戦を最後に列強のアフリカ支配は終焉を迎えた。
しかし植民地支配の終焉はすぐさまアフリカ人に幸福と解放をもたらしたわけではなかった。列強諸国は植民地の統治機構を丸ごと撤収させたため、アフリカの広範な地域が無政府状態に陥った。市場・統治機構を失ったアフリカの各地では旧来の部族社会が復興し、各地に小勢力が乱立する事態となった。
コンゴ王国の勃興
一見して植民地化以前に戻ったかに見えたアフリカだったが、全てが旧来の状態に復したわけではなかった。植民地時代に近代教育を受けた在地のエリート層は知識人階級を形成した。彼らは列強諸国による二度目のアフリカ侵略を懸念し、近代化とアフリカの連帯を訴えた。彼らの思想は
アフリカ主義として体系化され、特にコンゴを中心に広がりを見せた。アフリカ主義は部族社会の支配者層にも浸透したが、一方で既得権益層との衝突も招いた。
コンゴ川河口部に位置する
コンゴ王国とその君主、
アシール三世はアフリカ主義を受容した君主の一人であった。アシール三世は知識人と「統一された近代アフリカ国家」をスローガンに国内改革を進めた。アシール三世は既得権益層を武断でもって封じ込め、急激な近代化を推し進めた。海に面し対外貿易が可能な立地であったこと、旧植民地時代に開発が進められた地域であったこと、早期の粛清によって中央集権化に成功したことなどの要因によってコンゴ王国は急激に近代化した。コンゴ(いわゆるコンゴ地域ではなく、コンゴ王国領。旧コンゴとも)の街は西洋諸国の街並みと変わらないほどに発展を遂げた。しかしコンゴ王国、ひいてはアフリカ主義者の伸長は内陸部の旧来の部族国家・封建国家群にとっては憂慮すべき事態であった。彼らはコンゴ包囲網を形成しコンゴ王国を攻撃した。戦力差は5倍以上に達していたが、アシール三世の陣頭指揮と近代軍の働きによってコンゴ王国はこの包囲網を打ち破った。包囲網を破ったアシールはコンゴ王国の統一事業を開始し、164年にコンゴ地域を統一した。
中央アフリカ帝国の成立と崩壊
165年にアシール三世が急死すると、継承法により弟の
カンタン1世がその跡を継いだ。カンタンは兄の路線を継承し近代化と周辺地域の統合を推し進めた。カンタンの外征によってコンゴは中部アフリカの広範な地域を統合した。奇しくも同時期にかけて欧州諸国の弱体化、世界の緊張緩和が進んでおり、列強諸国はこの辺境地帯での侵略戦争を黙認した。外征の成功によってカンタンの名声は頂点に達し、172年にアフリク・ツェントル━中央アフリカの皇帝を自称した。これに合わせて国号を中央アフリカ帝国に改めた。
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中央アフリカ帝国の最大版図。薄緑色は独立色の強い地方政権 |
外征に合わせてカンタンは国土の全域に近代化政策を広めた。カンタンは近代化は広く受け入れられるだろうと考えていたが、実際には既得権益層と非旧コンゴ知識人の激しい反発にあった。特に公用語をフランス語に変更しようとする試みは、フランス語がほとんど普及していなかった内陸部で猛烈な反対を巻き起こした。教育、インフラの整備といった近代化事業も教会や現地商人の激しい抵抗に直面した。やむなくカンタンは近代化投資を旧コンゴに集中させたが、それはそれで旧コンゴ優遇だとしてアフリカ主義者たちの非難にさらされた。カンタンは兄に倣い反対者の粛清に乗り出したが、広大な版図において粛清は不徹底なものに終わり、帝国への反発を強めただけだった。また地方ではカンタンの関心が旧コンゴに向くにつれて地方権力者の力が高まり、その自立の度合いを高めていった。
最終的にカンタンは179年にアフリカ主義者の手によって暗殺された。指導者を失ったアフリカ帝国はその同様の度合いを急速に高め、帝国の解体が始まった。
新ソ連のアフリカ進出
新ソ連は
ジェルジンスキー政権以降、自らの影響圏の確立に心血を注いだ。当初この拡大への情熱は自ら生命線・利益線と呼んだ地中海・インド洋政策に振り向けられ、
アークランド懲罰戦争・
インド戦争によって一応の完成を見た。
安全保障体制の確立を見た新ソ連は次のその焦点をアフリカに向けた。新ソ連がアフリカを次の進出先に選んだのは、エジプト、東アフリカといった地中海・インド洋政策に影響しかねない地域をけん制する目的と、国内で成長を続ける産業界に市場と資源を供給するという二つの目的があった。
スーダン革命
帝国中央の動揺を受けて、最外縁部に位置するスーダンも混乱を避けることができなかった。カンタンの征服によってスーダンは独立性の強い
州に再編され、
スーダン州として帝国に組み込まれていた。黒人帝国である中央アフリカ帝国の元では南部の黒人の力が強く、権力構造も南部有利のものだった。これに対してアラブ人が多数を占める北スーダンでは黒人支配に対する反発が強まり、抵抗運動が続いていた。
新ソ連はそれらの抵抗勢力を足掛かりにアフリカへ進出しようと試みた。スーダンは新ソ連と位置的・民族的に近縁で、かつエジプトに圧力をかけるには絶好の位置関係にあった。新ソ連はアラブ人反乱勢力を
ヌビア共産党としてまとめ上げ、物資援助と資金提供を行った。
カンタンが暗殺されスーダン政府が中央との連絡が遮断されると、新ソ連はヌビア共産党に蜂起を促した。共産党は都市部でスーダン軍を攻撃し、
スーダン革命が始まった。都市部が共産党の手に落ちると地方も共産党に迎合した。劣勢を悟ったスーダン政府軍は南部への撤退を余儀なくされ、共産党は
北スーダン共和国の樹立を宣言した。
新ソ連政府はスーダンにおける中央アフリカ帝国の主権を黙認していた都合上即時の独立承認は行わなかったが、新ソ連は中央アフリカ政府に住民投票による独立の可否の採決を勧告した。当然北スーダンだけで見ればアラブ人が多数を占めており、この勧告は事実上北スーダンの独立を承認せよという要求に等しかった。また北スーダン政府はあらかじめこうなることを予見していたかのように投票の準備を行い、この条件を受諾した。合わせて新ソ連は投票監視と称して北スーダンに派兵し、武力による北スーダン奪還の選択肢を潰した。政府が混乱に陥り対外戦争など到底不可能であった中央アフリカ政府はこの要求を受け入れる以外の選択肢はなかった。
181年コンゴクーデター
北スーダンの分離を代償に新ソ連との全面衝突という最悪の事態は避けた中央アフリカだったが、この軟弱な態度は国内の反発を招いた。アフリカ主義に傾倒した軍部は、自らの領域すら守れない帝国政府を見放し、181年に帝国の再建を名目に首都キンシャサを制圧し新政権を樹立した。
しかし軍部のクーデターは帝国の崩壊を早めただけに終わった。新政権は地方政権に対し求心力を発揮できず、対し首都以外の軍はキンシャサ政府への合流を拒否した。むしろ以前から独立志向を強めていた各地の地方政権は帝国からの離脱を進め、ウバンギ・シャリ州の独立宣言を皮切りに、各地で自称中央政府の蜂起と分離独立反乱が始まった。国際社会は事態を
コンゴ内戦と呼称し、介入或いは不干渉を決定した。
中央アフリカ帝国の滅亡
内戦勃発直後混沌を極めていた情勢は1年後の182年に入るとおおよその情勢が明らかになった。内戦当初から首都と幼帝アビラス2世の身柄を抑えたキンシャサ政府が正統な中央アフリカ帝国政府とみなされていたが、182年のキンシャサ攻防戦の末にカタンガへの撤退を余儀なくされ、アビラス2世も死亡した。新たにキンシャサを占領した国粋派のコンゴ国民軍は中央アフリカ帝国の滅亡と
コンゴ国民共和国の樹立を宣言した。カタンガに逃れた旧帝国政府はカタンガの鉱産資源を元手に、北ローデシア政府と連携して持久戦の構えを見せた(
カタンガ軍閥)。また南部情勢が二分する一方で北東部は豪族や地方の有力者たちを集めた
キヴ軍閥の元で固まり、コンゴ情勢は三分されることになった。
また中央アフリカ帝国の滅亡が宣言は周辺諸国にも影響を波及させた。形式上帝国政府への忠誠を保っていた
ウガンダ県臨時政府は正式に独立を宣言し、帝国の再征服を恐れて形成された
ルワンダ・ブルンジ連合は脅威の消失によって解消された。また併せて新ソ連と北スーダンは中央アフリカ帝国の消滅による無主地化を理由に
南スーダンへ侵攻、これを北スーダン政府に併合した。北スーダン政府はこれを受けて
スーダン連邦を建国し、南スーダンの支配を正当化した。
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183年時点の勢力図。緑:国民共和国政府 赤:キヴ軍閥 黄色:カタンガ軍閥 |
介入の開始
南スーダンを抑えコンゴへの道が開けた新ソ連はコンゴ内戦にも介入を行った。エジプトへの圧力という目的はスーダンを占領した時点で達成されていたが、コンゴの豊富な鉱産資源は鉱物資源を欠く新ソ連経済にとって魅力的だった。新ソ連はキヴ軍閥と交渉し、これに支援を行った。既得権益層の連合体であるキヴ軍閥と社会主義国家新ソ連は相容れないはずだったが、物理的な距離の近さと、国粋主義者やアフリカ主義者より御しやすいだろうという打算の元で提携が行われた。
新ソ連から多数の武器・資金援助を取り付けたキヴ軍閥の軍は近代化され強化されたが、練度不足や資金横領によって必ずしも期待された戦果を挙げたわけではなかった。例えば北西部の支配権をめぐって183年に発生した
ムバンダカの戦いでは指揮系統が部族ごとにバラバラのキヴ軍が国民共和国軍に各個撃破されて敗北を喫している。それでも新ソ連はキヴ軍閥への支援を続け、184年にはキヴ軍閥は国民共和国を抑えコンゴで最大の戦力を有するようになる。
キヴ軍の拡充を見た新ソ連は軍事顧問を介してカタンガ軍閥への攻撃を支持した。新ソ連は鉱産資源の豊富なカタンガの一刻も早い制圧を望んでいた。キヴ軍閥内では一昨年占領された北西部の奪還を唱える声が強かったが、新ソ連は資金援助の停止をちらつかせたり幹部に賄賂を贈ることでカタンガ攻撃を決断させた。当初カタンガでの戦いは、国民共和国軍も同時にカタンガを攻撃していたことも併せてキヴ軍有利に動いた。しかしキヴ軍がダイヤモンド鉱山を占領すると戦利品の分配をめぐって同士討ちを始めたうえ、カタンガ軍は国外からPMCを雇って反攻に転じた。よく武装された民兵に過ぎないキヴ軍は一国の正規兵に匹敵する練度を誇るPMC軍に圧倒され、北東部に潰走した。
カンパラ停戦協定
カタンガでの大敗を受け新ソ連は次の手を打たなければならなかった。カタンガの戦いでキヴ軍閥は戦力の6割を失っており、放置すれば軍閥そのものが消滅する恐れがあった。新ソ連はやむなく更なる物資援助をキヴ軍閥に与えるとともに直接介入をちらつかせて停戦会議を開いた。中立国
ウガンダの首都
カンパラで開かれた
カンパラ停戦会議は形式上3勢力の代表による直接交渉ではあったが、その実新ソ連の強いプレゼンスの下で行われた。交渉はおおよそ新ソ連の希望通りに進み、186年2月7日に協定が発効、6か月間の停戦が約束された。
しかしカンパラ協定が結ばれた翌日、停戦ライン付近の都市
リサラ郊外でキヴ軍閥と国民共和国軍の間で戦闘が勃発した。双方が相手の停戦違反を主張したが、状況証拠から先に停戦を破ったのはキヴ軍閥の兵士であることは明らかだった。国民政府はキヴ軍閥の停戦違反を糾弾、カンパラ協定の無効化を宣言して北進を開始した。顔に泥を塗られた形となった新ソ連はキヴ軍閥を猛烈に非難しながらも2度目の停戦を提案した。しかし国民共和国はこれを聞き入れず、進軍を継続した。新ソ連はコンゴでの足場が本当に無くなってしまうと懸念し、やむなく直接介入に乗り出した。新ソ連軍はスーダン軍とともに「平和維持軍」を編成しコンゴ・スーダン境界を越境、キヴ軍閥領内に進駐した。新ソ連軍はキヴ軍閥首脳陣をカンパラ協定違反を理由に拘束、政府を再編して
コンゴ人民共和国を樹立させた。
全面衝突への発展
コンゴ人民共和国の設立後、新ソ連は両軍閥に対し停戦を要請、現状の既成事実化を図った。この時点でコンゴに展開した新ソ連軍は9000人程度に過ぎず、全面戦闘には耐えられなかった。しかし冷静な判断力があれば大国の軍隊をむやみに攻撃することはないだろうというのが新ソ連の計算だった。しかしながら新ソ連軍の脅威を現地軍は正確に判断してはいなかった。
4月23日、北東部の都市
ポーコで国民共和国軍1個連隊が新ソ連軍1個中隊を襲撃した。コンゴ側司令官
べス・バサラ大佐は彼我の兵力差のみを勘案して攻撃を命じており、国籍確認すら行っていなかった。新ソ連軍は10倍以上の数相手に奮戦し交換比1:8と奮戦したが、増援の到着前に降伏を余儀なくされた。余りの損害に憤ったバサラは降伏した新ソ連兵を虐殺した。この事実が発覚すると新ソ連世論は沸騰した。捕虜の虐殺はコンゴ内戦では日常的に行われていたが、新ソ連市民にとっては非常にショックな出来事だった。この
ポーコ虐殺事件を受けて新ソ連は国民共和国政府をテロ組織に指定し、戦略爆撃軍団をスーダンに展開して旧コンゴに向け1週間にわたって報復爆撃を行った。
しかしこのコンゴ爆撃はかえって国際的同情をコンゴに集める結果になった。国際企業も進出していた旧コンゴへの爆撃の惨状は盛んに報道され、新ソ連に非難が集まった。
国際的な支持を得たと判断した国民共和国は5月20日に突如としてカタンガとの休戦を発表した。名目上侵略者新ソ連に対抗するためとされたが、本土爆撃によってカタンガと争う余裕がないという背景もあった。カタンガ軍閥もこの休戦を受け入れ、6月1日に両政府は
コンゴ反ソ統一政府の樹立を宣言した。
新ソ連は爆撃によってコンゴの継戦意志を奪おうとしたにもかかわらず、真逆の結果に終わった。露骨な挑発を受けた新ソ連は威信を保ち、国内の右派勢力を満足させるため大規模な介入に踏み切らざるを得なくなった。しかし物理的、精神的にコンゴは大軍を送りたい場所ではなく、加えて不安定な政治情勢下で正規軍を派兵するのは致命的な失点になりかねなかった。そこで新ソ連は最低限3万の正規軍とともに、官製PMCであるゾディアック・エンタープライズ(ZE)をコンゴに差し向けた。
ZEにとって今後派兵は初の大規模戦闘への参加であり、自身の存在意義を示す好機であった。ZEは新ソ連から支払われた多額の前払金でインドや新ソ連の貧困層から志願兵を募り、コンゴへと送り込んだ。ZEは新ソ連空軍と連携しつつ、慣れない密林や大規模戦闘に苦戦しつつも雑多な民兵相手によく戦った。進撃は非常に遅々としたものだったが、新ソ連政府としてはコンゴに正規軍を送り込むよりはるかに低コストで戦争を行えるので満足していた。
サテ攻勢
じりじりと後退を余儀なくされていた統一政府軍は戦力を集結し一挙に大攻勢に出る事を決断した。作戦総司令官
シモン・サテ大将の下で60万の大軍を編成した統一政府軍は187年1月13日に大攻勢を発動した。この攻撃は事前偵察によってある程度予見されていたが、規模が予測を上回った。またこの攻勢に際して政府軍はゲリラ・コマンドを多数戦線後方に投入しており、ZE部隊は各地で分断された。戦線300km以上押し込まれ、八ヶ月間の戦果が水泡に帰した。
しかし統一政府側の被害も甚大であった。なりふり構わない新ソ連軍の空襲や装備差、練度を考慮しない無停止攻勢によって兵力の大部分が消耗し、軍は機能不全に陥った。統一政府はこの攻勢でコンゴ人民共和国を完全に撃破することを目指していたが、その試みは攻勢限界によって失敗した。
作戦の失敗は国民政府にとって重大な打撃となった。軍事的喪失はもとより、作戦の主戦力を担った国民政府軍の消失によって統一政府内の政治的主導権がカタンガ軍閥派に移ろうとしていた。また攻勢を主導したサテも作戦中に新ソ連軍の空爆で戦死しており、軍の再建は困難であった。サテ攻勢以降、国民政府は正面戦争を避けゲリラ作戦による非対称戦に頼らざるを得なくなった。統一政府は攻勢で活躍したゲリラ部隊を中核にゲリラ部隊を編成し新ソ連の後方かく乱に回したが、それが統一政府軍の限界だった。
大損害を出して失敗したサテ攻勢だが、攻勢を受けた側のZEもまた大きな被害を受けていた。その損失の原因の多くは後方に浸透したゲリラコマンドによるものだった。ゲリラ作戦の対策は住民の宣撫、長期間にわたる駐屯と掃討戦などだが、それらはPMCの法的・物理的能力を超えるものだった。またサテ攻勢による戦力喪失も無視できるものではなかった。以上のZEの苦境と利益を上げ始めたコンゴ権益を勘案し、ZEと新ソ連政府間の間で交渉が行われた。新ソ連政府は正規軍の増派に同意し、新ソ連正規軍の部隊が本格的にコンゴに足を踏み入れた。
ゲリラ戦の戦果と限界
損害を受けたZEに代わって展開した新ソ連正規軍の活躍は目を見張るものがあった。より拡大した軍質差から今まで以上に統一政府軍は苦戦を強いられ、各地で敗北を続けた。例外としてカタンガのPMC部隊は新ソ連軍と対等以上に戦ったが、大局的を覆すには至らなかった。新ソ連を苦しめたのは主にジャングル地形とゲリラ部隊であった。
新ソ連軍は熱帯での戦いに不慣れで、適応に時間を要した。ギアナ、セイロンと熱帯雨林での戦闘を経験したことはあったが、このような巨大なジャングルでの戦闘は全く未知の経験だった。兵の士気低下やマラリアなどのトラブルが新ソ連軍を苦しめた。
ゲリラ作戦は国民政府の苦し紛れの策でしかなかったが、その効果は双方の予想を遥かに上回った。 広大なコンゴの熱帯で全てのゲリラの浸透を阻止することなど全く不可能である。ゲリラ部隊によるコンゴ人民共和国の全域で攻撃が繰り返された。ゲリラ作戦の成功を受け反ソ統一政府はゲリラ専門部隊、
コンゴコマンド(
CC)を組織し人民共和国領内での活動を活発化させた。 当初これらのコマンド作戦は新ソ連後方の補給線を狙ったものだったが、新ソ連が補給車列を装甲化しコンボイ輸送を開始すると、コンゴ人民共和国領内の村落・鉱山に焦点を変えた。コンゴの数多くの鉱山、集落を守ることは新ソ連軍を持ってしても物理的に不可能であった。新ソ連は鉱山の防衛を優先したが、それでも取りこぼしは多々あった。また集落も可能なら防衛する方針ではあったが、統一戦線と内通してコマンドと連携し新ソ連軍を攻撃するゲリラ村も少なくなかったことが一層事態を厄介なものにした。
しかしこれらのゲリラ作戦による純軍事的な損害は僅かなものだった。この時点ではゲリラ部隊の規模が小さく、戦術も未熟だった。無論厄介ではあったが、新ソ連は統一政府の破壊によって鎮静化可能であると判断していた。
統一政府の崩壊
4月16日、新ソ連はカタンガ地域の制圧を目指して攻撃を行った。国民統一政府の中核地帯である旧コンゴではなくカタンガを狙ったのは、サテ攻勢以降国民政府軍が弱体化し相対的にカタンガ傭兵の無力化が優先順位として上がったこと、そして旧コンゴが爆撃によって大ダメージを受けた統一政府の資金源が今や完全にカタンガの鉱山群に依存してることがその理由だった。このカタンガ侵攻作戦では新ソ連軍と傭兵軍の全面衝突となり、国際的な注目を浴びた。新ソ連軍は質・量ともに上回る戦力を叩きつけることでカタンガ軍を破砕し、敗走させることに成功した。合わせてカタンガ軍閥指導部も北ローデシア、ルワンダ、国民政府支配地域へ亡命あるいは脱出した。カタンガの陥落で新ソ連は事実上戦争に勝利したも同然であった。統一政府の財政基盤は完全に破壊され、抵抗能力は殆ど失われていた。この認識は国際的にも広く受け入れられ、それまでカタンガ軍閥を支援していた北ローデシアはカタンガ作戦に前後して新ソ連と接触、軋轢の多かった統一政府を見放し新たなパートナーとして新ソ連を選んだ。
新ソ連はこの見通しに基づいて統一政府に対しコンゴ人民共和国への平和的統合を勧告した。統一政府内でもこの事実上の降伏要求に対する対応の意見は別れたが、統一政府幹部に対する法的責任を問わないとする人民共和国側の発表によって大勢は統合への同意に傾いた。
しかし7月6日、交渉中は両軍停戦するという了解があったにもかかわらず、統一政府軍のゲリラが新ソ連支配下の鉱山を襲撃した。戦勝ムードの中で起こったこの襲撃に新ソ連軍の対応は遅れ、ゲリラによる略奪と虐殺を許した。そしてその犠牲者の中に鉱山の視察に訪れた新ソ連人とその家族が含まれていたことが進行中の会談を破綻に追い込んだ。この事件を受け新ソ連政府内で交渉は無意味とする意見が右派を中心に持ち上がり、大勢を占めた。また一方で統一政府内でもアフリカ主義・徹底抗戦を訴える旧カタンガ軍閥メンバーとCCが合同で国民政府要人を排除、休戦交渉を白紙に戻し戦争継続を宣言した。
以上の情勢を受けて新ソ連は統一政府を撃滅するための全面攻撃、
トール作戦を発動した。陸上からの全面攻撃に合わせ、海外からの武器輸入ルートを遮断すべく海上戦力がコンゴ沖に展開した。新ソ連はコンゴ川の完全封鎖を宣言し、以降河川を通過する全ての船舶を撃沈すると宣言した。この一連の作戦によってコンゴ統一政府は事実上崩壊、コンゴ人民共和国がコンゴの統一を宣言した。
人民共和国の失政
186年3月6日、新ソ連は進駐したコンゴ北部にコンゴ人民共和国を樹立した。その性質上人民共和国は軍事・統治・外交の全てを新ソ連に依存した
傀儡国家だった。人民共和国は体裁としてはキヴ軍閥が発展・成立した政府ではあったが、以前からキヴ軍閥の無能さを痛感していた新ソ連は軍閥幹部の一切を新政府に参入させなかった。代わりに政権中枢に置かれたのは中央アフリカ帝国時代から反乱を繰り返してきた社会主義結社
コンゴ人民解放戦線(CPLF)のメンバーだった。コンゴ人民共和国の初代大統領には新ソ連の指名によってCPLFの
アナトール・セコが据えられた。しかしセコは新ソ連の意向に沿わず、他の閣僚とも反りが合わなかったため、同年11月には大統領の地位を解任された。代わって大統領に就いた
パトリック・レミーは新ソ連に忠実な人物だった。
コンゴ人民共和国は新ソ連の戦争介入の正当性作りのために創設された国家であったため、当初は一切の実態を持ち合わせていなかった。戦争中は新ソ連もそれ以上の役割を求めることをしなかったため、コンゴ人民共和国政府は首都のニャンガラで会議と権力闘争を繰り返すだけの集団に過ぎなかった。しかし新ソ連正規軍が参戦し戦争勝利が目前に迫ると、新ソ連はコンゴ政府に戦後の統治を任せるためにコンゴ人民共和国に政治指導を行うようになる。新ソ連はインドでの経験を元にコンゴの統治機構の整備に努めたが、曲がりなりにも近代国家であったルークリアでの作業と異なり、コンゴの制度は旧弊な点があまりにも多かった(これは特に反動的なキヴ軍閥を元にしたためでもある)。そのため新ソ連は大規模な行政改革を行ったが、これが人民共和国の混乱を招いた。コンゴ人の殆どはこれらの近代的官僚制のノウハウを持ち合わせておらず、統治機構の効率性を著しく損なった。このため新ソ連が以後コンゴに指示した多くの宣撫政策・政治改革は失敗に終わることになる。
同様の理由で、戦後の治安維持を目的に創設された
コンゴ人民軍の実態も酷いものであった。新ソ連は北印での失敗の経験から軍の綱紀粛正を徹底的に試みたが、その結果は暗澹たるものだった。特に民兵時代の気風が抜けない下士官兵らの規律の乱れが深刻で、軍需物資の転売や脱走が横行した。また人民軍は十分な給料の支払いを受けられなかったので自らの生活のために徴税と称して集落を襲撃する部隊が相次いだ。
このような状態ではあったが、187年10月31日にコンゴ統一政府が無条件降伏したために新ソ連軍は撤退せざるを得なくなった。新ソ連の行政顧問は残留することができたが、国内からの反対を考えて軍の長期駐留は裂けなければならなかった。コンゴ人民共和国は突如としてコンゴ全体を自らの脆弱な能力で統治しなければならなかった。そこで新ソ連は現地の治安維持にZEを用いることにした。ZEはコンゴ人民共和国に雇用され、国内の治安維持を行うことになった。ZEは先のサテ攻勢から回復しきってはいなかったが、コンゴ人民軍よりも何倍も信頼がおける存在だった。
それでもなお、コンゴの統治は劣悪であった。レミー政権は縁故主義と汚職に溢れ、コンゴに進出した新ソ連企業と完全に癒着した。レミー政権は新ソ連企業の多数進出した東部鉱山地帯を優遇し、統治権を事実上企業に明け渡すことさえした。反対に戦争の荒廃から復興しきれていない西部地域には見向きもせず放置し続けた。レミー政権下でCC残党軍は何の抵抗を受けることもなく勢力を拡大し、南西部一帯を占拠することに成功した。それでもレミーは新ソ連の不興を買うことを厭いこの報告を握りつぶしたため、CCの拡大はいよいよ制御不能になった。
ソト作戦
レミー政権下で着々と勢力を拡大したCCは遂に東部地域への攻撃を開始した。188年10月10日に始まったこの攻撃の焦点は東部中央、キヴ地域であった。既に地方集落に浸透していたゲリラの四方八方からの攻撃によって人民軍は戦闘力を失い、ZEも各都市を維持するのが精いっぱいの状況に陥った。人民共和国からの修正された報告とコンゴからの利益を享受していた新ソ連政府はこの攻撃に驚愕し、始めてコンゴ統治の実態を知った。
この攻撃でCCは人民共和国の支配地域を大きく南北に分断することに成功した。それだけでなく、以前からCCへの非公式な支援を繰り返していたルワンダとの接続を開くことに成功した。ルワンダ内部にはカタンガ攻勢で敗走した旧カタンガ軍閥のメンバーが根拠地を築いており、ルワンダ政府と秘密裏に連携を取っていた。CCはこの連絡路を通してルワンダが国際市場から入手した武器を入手することができるようになり、CCはより大胆に行動することができるようになった。
二度目の派兵
状況が現地で制御不能に陥ると新ソ連はやむなく2度目の派兵に踏み切った。新ソ連はヘリ部隊と空軍を派兵しコンパクトかつ速やかにゲリラを撃破しようと試みた。この戦術はギアナやセイロンでも対反政府組織戦に用いられ、人命リスクの低さに対して高いパフォーマンスを示していた。しかしCCはそれらの反政府勢力とは異なり、外部から近代兵器を導入できる状態にあった。
新ソ連の空爆が始まるとCCはルワンダを通して対空装備を購入し新ソ連の迎撃を行なった。特に低空飛行するヘリは格好の的であり、被害が続出した。耐えかねた新ソ連は空爆を戦略爆撃機による絨毯爆撃に切り替えたが、ジャングルに潜むゲリラに対してはコストパフォーマンスが非常に劣悪であった。また新ソ連はZEに多額の出資を行ってカタンガ=キヴの連絡を回復しようと試みたが、CCは正面衝突を避け、時には「中立国」ルワンダや、軍事的に脆弱で国境を守る能力を持たないウガンダ領内に入り込んで身を隠した。CCのこれらの努力によって新ソ連の対ゲリラ戦は全く効果を上げることができなかった。新ソ連は地上軍の投入に消極的であったが、空爆戦略の挫折とZE・人民軍の能力不足のために地上軍を増派しなければならなかった。新ソ連軍の増援は190年まで五月雨式に行われ、ピーク時には30万人に達した。これらの増援を支えるためコンゴ、南スーダンでは軍事鉄道が敷設されたが、これらの建設費は国際援助の元で外交費から賄われた。またこれらの増援の情報は南スーダンの反体制派を通してCC側に筒抜けだった。
アフリカの盾の結成
全く効果の上がらない対ゲリラ戦に業を煮やした新ソ連は189年3月1日にCCへの武器供給を遮断するためルワンダ爆撃を開始、空中封鎖によってルワンダの全ての対外貿易路を遮断する作戦に打って出た。この作戦によってルワンダの対外交通は全て遮断されCCへの武器供給はほぼ完全に停止したが、同時にルワンダの生活水準は急落した。ルワンダの主権を無視したこの暴挙は国際的な非難にさらされた。CCは新たな武器供給ルートの確保を余儀なくされ、コンゴ川を用いた新たなルートを建設した。この新ルートは第二次コンゴ戦役の終わりまで新ソ連に発見されることはなかった。
ルワンダ爆撃を受けてルワンダ政府はCCをコンゴを代表する政府として世界で初めて承認した。ルワンダ大統領
パウル・ムセベニはCC指導者
アン・グミンと会談の場を設け、両者が新ソ連の帝国主義侵略に対する「
アフリカの盾」となることを宣言した。このアフリカの盾は以降反ソ連合陣営を表す名称として用いらた。アフリカの盾には後にチャド民族反共運動やスーダン黒人同盟といった親ソ政権への闘争を繰り広げていた反政府組織もこれに加わり、コンゴの争いは中央アフリカ全体を巻き込む巨大な紛争へ発展して行った。新ソ連を「帝国主義的侵略者」として名指しで批判したこのアフリカの盾宣言は新ソ連のコンゴ介入に対する道義的糾弾でもあり、これをきっかけに戦争を盲目的に支持していた人々の間で戦争への疑問が高まるようになり、後には反戦運動が高揚することになる。
このアフリカの盾声明に対抗して新ソ連ではジェルジンスキー大統領による議会演説が行われ、アフリカの盾を「死の商人の手先」と表現し、「(彼らの)権益のために戦う資本主義の走狗」と非難した。合わせて反政府組織のアフリカの盾加入に対抗しアフリカの親ソ政権を連合し
アフリカ民主連盟を設立、アフリカの盾と対峙させた。
第二次シャイデマン政権
190年1月、新ソ連で大統領選挙が行われヴァルター・シャイデマン政権は2期目に突入した。低迷する政権支持率を補うため共産党は新右翼と呼ばれる対外強硬派との連携を選び、FSAとの連立を行った。以降新ソ連の外交政策は強硬路線を進むことになり、アフリカ介入もより激しさを増していくことになる。
レミー大統領暗殺
戦争が新ソ連とアフリカの盾の対決に移行するにつれてコンゴ人民共和国は再び蚊帳の外に置かれることになった。政府内では権力闘争が激しさを増し、専横を極めるレミー政権に対する批判が日増しに高まっていった。これに対してレミーは国家憲兵隊を組織し反体制派を次々と収監することで対抗した。両派の衝突は日増しに激化し、189年末にはレミー政権に対するクーデターが計画されるようになる。
新ソ連は
SIDによる監視を通してこの報告を受けていたが、大統領選挙が迫っていた政府はこの報告を無視した。190年1月にはシャイデマン政権の続投が決定するが、既にクーデター計画は阻止不可能な段階に達していたこと、レミー政権の腐敗が今回の戦争を招いたという見解から新ソ連はクーデターに関与しないことが決定された。
2月9日にコンゴ人民軍が大統領府を襲撃、クーデターが発生した。クーデターの首謀者は反レミー派筆頭のドゥヴォス・ベンゲラで、ZEを重用するレミー政権によって冷遇された人民軍もクーデターに参加した。レミーは大統領府内のセーフルームで射殺され、国家憲兵隊司令官のジョセフ・ムノンゴは新ソ連へ亡命した。新政権首班にはベンゲラが就き、新ソ連もこれを承認した。新ソ連はベンゲラの新体制がレミー体制の残滓を一掃することを期待した。
しかしベンゲラの新政府の清浄さも長続きしなかった。ベンゲラ政権の汚職はレミー政権ほどひどいものではなかったが、ベンゲラは自らの出身氏族をやたらと重用して国内の反発を招いた。そのためクーデター政権以降も政府は安定せず、権力闘争が継続することになる。
ウガンダ・ルワンダ侵攻
第二期シャイデマン政権は2月14日に領内のCCの排除と武器供給ルートの完全遮断を目的に
ウガンダ・ルワンダに侵攻した。侵攻は189年の6月から検討されていたが、国内外の反発を考慮して延期されていた。しかし大統領選挙が終わり国内基盤が固まったこと、CCの活動が鎮静化の傾向を見せないことから侵攻が行われた。
侵攻は成功裏に推移し、新ソ連軍は脆弱なウガンダ・ルワンダ国軍を排除して両国を占領した。しかし当初の目的の一つであったCCの排除は一定の成果を上げたものの、武器供給ルートの遮断は失敗に終わった。既にルワンダルートは新ソ連自らの爆撃で遮断されており、ルワンダ侵攻は前提からして間違ったものだった。現地調査の結果この事実に行きついた新ソ連は別の武器ルートの存在をようやく知ることになった。
中立国への軍事侵攻は国際社会の轟轟たる非難に晒された。以前から交戦状態にあったルワンダへの侵攻は一定の正当性があると認められはしたものの、完全な中立国であったウガンダへの侵攻は別だった。特にアフリカ諸国の心象に与えた影響は甚大で、ウガンダ侵攻によってそれまで中立を保っていたアフリカ諸国がアフリカの盾側に着く原因になった。これらの国々はCCへの武器援助を開始し、皮肉にもCCへの武器流入の遮断は事実上不可能になってしまった。
新ソ連は領内のCC秘密基地の掃討を完了すると、ルワンダからはルワンダ民主共和国政府を建設して撤退した。ウガンダへの駐留はその後も行われたが、後に撤退することになった。
ペンデュラム作戦
190年にかけて第二次コンゴ戦役はピークを迎えた。新ソ連はコンゴの北部と東部、更にはウガンダとルワンダを占領下に置いたが、ウガンダ侵攻以降高揚しつつある反戦運動に足を引っ張られ更なる地上軍の増派は困難なものになりつつあった。そのため新ソ連は地上からの制圧を断念し、派兵当初の空爆戦略を再開した。
5月21日にシャイデマンはコンゴ全域に対する戦略爆撃の再開を許可した。翌22日に新ソ連空軍は
ペンデュラム作戦を発動し、200日以上続く無差別爆撃作戦が開始された。新ソ連空軍は目についた地上構造物をすべて焼き払う絨毯爆撃を採用し、以降8000機以上の航空機と13万tに及ぶ爆弾が投入された。この作戦によってCCは軍事施設を多数喪失し、攻勢を行うための物資集積を行うことが不可能になった。また同時に軍民問わず攻撃が行われたため電力や水道などのインフラストラクチャーも重大な打撃を受け、市民生活にも甚大な被害を与えた。
しかしこの絨毯爆撃は新ソ連にとっては非常にコスパの悪い戦略でもあった。CCの軍事施設は殆どが入念にカモフラージュされていたため、完全に破壊するためには大量の爆弾を投下せざるを得なかった。加えて、8月頃からはアフリカの中立国で訓練したアフリカの盾の兵士や
国際義勇兵が輸入戦闘機を駆って爆撃機の迎撃を開始した。新ソ連は護衛戦闘機や
コンバットボックスを編成することで対策し、11月頃にはコンゴ側の迎撃機が枯渇したが、それ以降も散発的な迎撃が続き撃墜が続出した。有効な目標に対する攻撃が難しくなったのを受け新ソ連は枯葉剤によるジャングルの破壊を新たな作戦目標に加えた。天然記念物や絶滅危惧種の多数生息するコンゴの大森林への枯葉剤散布は世界中の環境団体から激しい非難を受けた。
化学兵器の投入
ペンデュラム作戦は一定の成果を上げたものの、そのパフォーマンスはバウ劇作戦が長引くにつれて低下していった。空爆作戦において爆撃機の喪失もゼロとはいかず、空軍内でも無意味な作戦に対する苦情が相次いだ。作戦司令を務めた
戦略爆撃軍団の
エミール・シェーファー空軍大将は12月に「海に石を投げるような無意味な作戦」と作戦を非難し司令職を解任された。
とはいえ貴重なパイロットの喪失は新ソ連政府も問題視するところであり、
国家安全保障本部で対応が協議された。喧々諤々の議論の末、政権最強硬派で新右翼の最先鋒として知られるFSAのジョン・ハーレイ・マクレガーの提案が採択された。マクレガーの提案は新たに
爆撃機が一機撃ち落とされるたびに化学兵器によって集落を一つ破壊する事であった。この宣言はいよいよ国際的に暴挙と見なされ、関税制裁を伴う実効的制裁が新ソ連に課せられ始めた。この非難を受け1カ月後の191年2月8日に化学報復は中止されたが、それまでに29の集落が化学兵器によって壊滅した。
また化学兵器の投下こそ中止されたが、化学報復と同時に開始していた前線での化学兵器の使用は中止されなかった。この前線での化学兵器使用もやはり非難されたものの、化学兵器空爆を止めた事から化学空爆ほどは問題視されなかった。国際法上はCC/コンゴ共和国は化学兵器禁止条約に署名しておらず、前線での化学兵器使用を禁じる法的根拠は存在しなかった。現在では化学報復と中止は本命の化学兵器の前線使用を認めさせるためのドアインザフェイス戦略であったとみなされている。
化学報復を考案したマクレガーは作戦中止にあたって国家安全保障本部理事を辞任に追い込まれたが、戦後に理事職に復した。そもそもこの戦略を考案したのがマクレガーであると言われており、当人の辞任まで戦略の範疇だったと考えられている。
新ソ連の方針転換
190年の終わりごろにかけて、新ソ連内部でも休戦に向けた動きが生じていた。これには無差別爆撃に対する非難が新ソ連国内でも起こり始めた上、本来の戦争目標であったコンゴ利権が戦争によって満足に利益を上げていないという状況があった。この休戦派の動きは191年の化学兵器使用による関税制裁を受けて主戦派を上回り、1月29日の閣議で休戦に向けて動くことが政権の方針に定まった。
カタンガの分離
情勢の既成事実化を目指した新ソ連はまずカタンガの処理を急いだ。この時点でカタンガは北部領土と分断されて久しく、このの磐石化は必須であった。新ソ連はコンゴ人民共和国政府の反対を押し切って
カタンガ自治共和国の設立を宣言し、領内自治とコンゴからの独立を問う投票を行わせた。この投票に使われた用紙には「コンゴ人民共和国から離脱する事を望むか?」とだけ書かれており、反コンゴ人民共和国の市民がCCへの加入を意味するものだと勘違いして投票する事例が多数見受けられた。この文章は新ソ連があえて誤解を招くように作ったものだとされている。最終的に新ソ連は独立派が2/3に達したとして
カタンガ民主共和国の独立を承認する旨を宣言した。カタンガ民主共和国はコンゴ内戦における局外中立を宣言したが、カタンガの独立はアフリカ民主連盟諸国と新ソ連、及び新ソ連と連携していた北ローデシアが承認するにとどまった。
ニャンザ休戦会議
カタンガの独立に合わせて、新ソ連は内戦の停戦へ向けて本格的に動き出した。新ソ連は軍部隊に進撃を停止させ、アフリカの盾に対して停戦を呼びかけた。アフリカの盾は新ソ連が依然としてウガンダを占領し爆撃を続けていることを指摘した上でこの一方的な呼びかけを拒絶したが、新ソ連はウガンダからの撤退、都市部への爆撃を一時的停止を約束し、実際に実行された。国際社会では新ソ連が平和に目覚めたのかと錯覚する動きも見られたが、ウガンダ占領も空爆もコストに見合わなくなってきたという現実的な打算によるものに過ぎなかった。とはいえアフリカの盾は新ソ連が爆撃を停止してウガンダからも撤退した以上、交渉のテーブルに着くことには同意せざるを得なくなった。またどちらにせよ化学兵器と空爆によってCCも大きく疲弊しており、休戦自体が時間の問題ではあった。
ブルンジ領
ニャンザで行われた休戦交渉で持ち出されたアフリカ民主連盟側の条件は次の通りであった。
1.双方の捕虜交換
2.現時点のラインでの停戦
3.カタンガ共和国の独立の承認
4.境界上に幅30kmの非武装地帯を設ける事
この要求に対し、アフリカの盾は第一項目については同意したものの、それ以外については難色を示した。新ソ連の全面的な化学攻撃によって前線突破は到底不可能となったため、2.は現状では受け入れざるを得なくないとしても、カタンガの独立を公に認めるのはハードルがあまりに大きかった。また30kmのDMZはあまりに広すぎるとしてアフリカの盾は反対したが、境界線を越えて侵入するゲリラを殊更に恐れていた民主連盟側はこれを絶対条件として譲歩の姿勢を見せなかった。四ヶ月にわたる交渉の末、カタンガの独立承認は条項から削除され、また新たにコンゴから化学兵器を取り除くことが定められた。そしてアフリカの盾側はこの譲歩の代償に30kmのDMZを受け入れるに至った。
191年6月27日、
ニャンザ休戦協定が発効し両陣営の敵対行動は停止した。
休戦中の動き
ニャンザ合意は期間を指定しない無期限の休戦協定であった。そのため両陣営が少なくとも数年間は休戦が続くものと見て行動を開始した。
コンゴ共和国は休戦後まず自国の状態を確認しなければならなかった。半年間の空爆によって近代インフラの大部分が破壊され、国家としての機能は危機的な状態にあった。コンゴ共和国は国際援助とアフリカ諸国の協力を受けながら国家の再建を進めなければならなかった。
新ソ連はコンゴ人民共和国の改革を進めた。紛争が再発した時必ずしも新ソ連が十分な支援を行えるわけではないことが明らかになり、現地で対処する能力を与える必要性を痛感したためであり、また人民共和国の失政が第二次コンゴ戦役をもたらした反省でもあった。新ソ連政府は権力闘争に明け暮れていたベンゲラに圧力を掛け解任し、最も親ソ的な政治家であった
シリル・ルンデラを大統領に据えた。政権の各部門には最高顧問として新ソ連の官僚が送り込まれ、コンゴ人民共和国は完全に新ソ連の傀儡政権としての様相を呈した。
また新ソ連はコンゴからの撤退を予定よりも遅らせた。本来は戦争が終わり次第軍は引き上げなければならなかったが、前回コンゴ人民軍とZE単独ではCCの拡大を抑えられなかったため、5年かけて段階的に撤退させることとした。
ダルフール反乱
スーダン連邦は第一次コンゴ戦役に派兵したが、第二次コンゴ戦役には出兵しなかった。これはスーダン国内の安定をまず望んだ新ソ連の意向によるもので、スーダンもこれを受け入れ内部改革を進めた。スーダン連邦はコンゴ人民共和国に比べるとはるかに安定した政府であり、新ソ連はアフリカの優等生として称賛した。
しかしスーダン政府は時間がたつにつれてそのアラブ至上主義的な性質を明らかにしていく。元々スーダン連邦はその誕生経緯からアラブ系が非常に強い政府ではあったが、誕生当初は内治を優先して露骨な弾圧・抑圧政策を取ってはいなかった。しかしアフリカの盾結成に合わせてスーダン黒人同盟の活動が活発化するとスーダン内部で反黒人感情が高まり、190年頃からアラブ至上主義が連邦政府内で高揚する。スーダン連邦は192年4月に公用語令を発し、学校教育を含むすべての公的な場での言語使用をアラブ語に限定した。これは非アラブ系住民が多数を占める地域の強烈な反発に遭い、特にダルフールでは
ダルフール学生同盟を始めとする団体の抗議活動が広がった。この抗議に対して連邦政府は武力をもって応じた。
5月29日にスーダン連邦警察はエル・ファーシルで起こった抗議運動に対して発砲した。現地の抗議運動は暴動に転換し、スーダン警察によって鎮圧されたが、このニュースはダルフール中に拡散した。ダルフール中で抗議が暴力に陥り、スーダン政府は戒厳令と軍による鎮圧を行わざるを得なくなった。
紛争再開
スーダン軍がダルフールに移動したことを確認したスーダン黒人同盟(SBA)は南スーダンで武装蜂起を開始した。SBAはアフリカの盾に加盟しておりニャンザ合意にも署名していたため、この行動は明確な協定違反であった。新ソ連は再び休戦が破られたことに憤慨し、アフリカの盾に対して「最も強力な非難」を発した。
しかしアフリカの盾、特にコンゴにとって南スーダンの蜂起は全く寝耳に水の事態であった。SBAは蜂起にあたってアフリカの盾の許可を一切求めておらず、突然の新ソ連の脅迫に驚愕する他なかった。アフリカの盾にとって新ソ連との戦争再開は全く意図したものではなく、荒廃した国土の復興をようやく始めたばかりであったコンゴは到底2度目の戦争を許容できる状態ではなかった。コンゴ政府は新ソ連とアフリカ民主連盟に対し即時の停戦と和平交渉を訴えた。
しかし新ソ連の指導部はコンゴ側のこうした状況を全く理解していなかった。シャイデマンと新右翼らはダルフール、南スーダンと立て続けに起こった反乱は全てアフリカの盾の仕組んだ事であり、コンゴの新ソ連軍を孤立させるための策略であったと断定した。事実、即時停戦を行えば依然コンゴに駐留している新ソ連軍10万人は補給を絶たれ孤立する危機にあった。
新ソ連政府はコンゴの停戦要求を謀略として一蹴、コンゴ全体に報復爆撃を行った。
新ソ連軍再侵攻
コンゴ都市部を破壊した一連の報復爆撃の後、シャイデマンはアフリカの盾諸国をテロ国家と認定した。新ソ連では正規手順の宣戦布告に議会の2/3の賛成が必要であったが、テロ国家に対する軍事作戦という形式をとることで議会の承認を迂回することが可能だった。この事実上の宣戦布告の後、新ソ連議会では過半数の賛成によって前回を上回る大部隊のアフリカ派遣が確定し、エルドア・ハウザー安保本部理事は「1年でコンゴ全域を掌握できる」と豪語した。
シャイデマン政権がこのような強烈な対応に打って出た背景の一つには1年後に控えた大統領選挙があった。政権は先の停戦合意がアフリカの盾を付け上がらせたとする極右と、コンゴへの介入がそもそも誤りだったとする左派の板挟みに遭い、先の紛争中の経済制裁に伴う不況と合わせて支持率の低迷に直面していた。そのため政権はコンゴにおける電撃的な勝利による支持率の回復を狙った。
この第三次コンゴ派兵には新ソ連軍だけでなく、
北ルークリア
軍も帯同した。この派兵は新ソ連の要望によるもので、今後の新ソ連の対外派兵を支援させるための実戦演習としての側面があった。北ルークリア軍は新ソ連の期待以上の働きを見せる場面もあったが、綱紀粛正に課題を残し、コンゴ人民軍の乱暴な"対ゲリラ戦"に感化され度々トラブルを引き起こした。新ソ連は北ルークリア軍の統制を度々試みる一方で、これらの戦争犯罪は隠蔽する方針を取ったため、不祥事が減ることはなかった。
スーダン戦役
アフリカに派遣された新ソ連軍の最初の任務は南スーダンの反乱軍の鎮圧だった。スーダンに送り込まれた新ソ連軍ははコンゴの友軍が空輸で持ちこたえている間に南スーダンを平定しコンゴへの連絡を再開する必要があった。新ソ連軍は鉄道沿線を中心に軍量による虱潰しの制圧作戦を展開し、早々に都市部とインフラ沿いから黒人同盟軍を放逐した。南スーダンにおける反乱は南スーダン南端の都市
イエイ市の解放で一定の終結を見た。
その間コンゴ人民共和国に展開した新ソ連軍は定期的にスーダンから飛来する輸送機による補給と航空支援を受けながら遅滞戦闘を続けており、おおよそコンゴ川以北の戦線で持ち堪えることに成功していた。
初期の新ソ連の戦略
南スーダンを突破した新ソ連はコンゴ領内に侵入し、人民共和国領土に向けて攻撃を行なった。第三次コンゴ戦役では新ソ連は貧弱かつ攻撃に脆弱な地上インフラに信頼が置けないという第二次コンゴ戦役の教訓を生かして輸送ヘリを大量投入した。これらの空中機動部隊はジャングルにおける機動力の飛躍的な向上に寄与した一方で新ソ連軍はこの機動力の発揮に固執し、対ゲリラ戦の定石である歩兵の"駐屯"を軽視する結果になった。反面それらの高度な装備を満足に運用できなかった北ルークリア軍は徒歩行軍を余儀なくされたが、対ゲリラ戦という点では彼らの方が効果的に働いたとする見方がある。
新ソ連軍は初期の攻勢によってコンゴ北部を奪還したが、状況は必ずしも好ましいとは言えなかった。新ソ連は42万人に達する大軍を展開、コンゴゲリラの速やかな圧殺を望んだが、兵站上の問題によって徐々にこれが不可能であることを認識した。大統領選挙を二年後に控えた政権は後方に部隊を配置することで攻勢圧力が低下することを懸念し、サーチ・アンド・デストロイ戦略とゲリラ村の破壊・現地民の強制疎開によってゲリラを殲滅することを企図したが、地図に未記載の多数の村落の存在がこれらの作戦の効果を著しく制限した。最終的に新ソ連軍は第二次戦役の様に多数の部隊を後方に配置して徹底的にゲリラを駆逐する戦略を取らざるを得なくなったが、それでもゲリラの被害をゼロにする事は不可能だった。
正面突破を断念した新ソ連はコンゴ軍の戦力誘引を目的に上陸作戦を展開した。193年1月2日に海上機動軍団はコンゴ川河口の都市
ミュアンダに侵攻、
河口戦線を形成した。河口戦線の目的はコンゴ川河口近くの大都市キンシャサの占領であったが、河口近くと言っても400km近い距離があり、またコンゴ川下流のスタンリーフォールズと呼ばれる急流地帯、そして何よりも港湾能力の欠如に悩まされて進撃は非常にゆっくりとしたものであった。そもそも海上機動軍団は文字通り海上での機動と上陸作戦を目的とした部隊であり、河川での戦いや上陸後の戦闘は副次的な役割に過ぎなかったが、陸軍は遠隔地の河口戦線への陸軍派兵を渋り、海上機動軍団はいたずらに消耗を重ねた。
反戦運動
また新ソ連の対ゲリラ戦略は、一連の戦争のほとんどの側面と同様に非常に血生臭いものであった。相手がゲリラである以上民間人への被害は仕方ないと割り切って新ソ連は容疑者全てを殺害する方針を取ったが、これは第二次戦役でも激しい非難に晒されていた。これを承知していた新ソ連は第三次戦役中前線で厳格な報道管制を敷き、戦争の実態の隠蔽に努めた。しかし戦争の実態は口伝えや、前線からの手紙によって徐々に新ソ連国内に伝わっていった。また新ソ連は
ユマニテユニを始めとする国際NGOであってもコンゴへの渡航を禁じたが、アフリカの盾側はこれを拒まなかったためにそちら側から新ソ連のやり方が公に晒された。
戦争の実態が明らかになるにつれて、新ソ連国内では反戦運動が活発化した。新ソ連国民は三度目のコンゴ派兵に疑問を抱き始めており、特に193年度の予算審議会で軍事費が大きく増大した事は市民の不興を買った。FSAと共産党は増加分を国債発行で補い市民生活への負担を避ける事を説明したが、尚も反戦活動は止まらなかった。後方で厭戦感情が拡大すると同時に、前線でも進撃の停滞や慣れないジャングルの環境に露骨な士気の低下が見られるようになった。新ソ連軍では後方の基地に本土のチェーン店や簡易的な歓楽街を設けて士気の維持に努めたが、兵士の厭戦感情の増大は日増しに明らかになっていった。
ペネトレーション作戦
オカ工場は第一次コンゴ戦役後にCCがサンクール川沿いに建設した地下秘密工場である。当初は小さな秘密基地で簡易的な弾薬生産能力を有するに過ぎなかったが、次々と生産設備が持ち込まれその規模を拡大していった。第二次コンゴ戦役後には反ソ闘争の切り札として大規模に増強が行われた。工場の地上部は発見を恐れてカモフラージュされたトーチカが配備されるにとどまったが、地下にはPMCの指導を受けて建設された地下陣地が縦横に張り巡らされ、さながら要塞の様相を呈した。
CCは長らくこの工場の隠蔽に努めていたが、規模の拡大に伴う人・物資の出入りを完全に隠蔽することは不可能だった。SIDは物資の流れ、航空偵察の結果からオカのおおよその位置と生産規模をほぼ正確に特定した。SIDはコンゴの国力から考えて同規模の生産設備を複数準備することはできないと断定し、オカが有力な戦略目標になると結論付けた。
この報告書を受け取った政権はオカ攻撃に一気に傾いた。オカはその立地上コンゴ川・オマミ川という大河川を突破し、まともな幹線道路もない地域を500km以上進撃しなければ辿り着くことができず、軍からも投機的すぎるとの意見が上がった。しかし次第に強まる停戦圧力に、政権では一挙に戦争を終結に導く"特効薬"を求める感情が高まっていた。シャイデマンはアフリカ軍集団司令のヴァン・ハフナー大将と議論し、作戦は実行可能であると結論付けた。193年8月13日、国家安全保障本部はアフリカ軍集団に対しオカを攻略せよとする命令を下した。作戦名は「ペネトレーション」とされ、コンゴに投入された新ソ連軍の殆どが作戦に動員された。
一方同時期にかけて航空偵察の増加や新ソ連の戦力移動の報告からコンゴもオカが発見されたことと、新ソ連軍が大規模攻勢を準備していることを把握していた。コンゴ軍はオカ要塞の地上部分にも露骨な築城を開始し、輸入した高級対空兵装による対空陣地を形成した。
9月12日、新ソ連軍はペネトレーション作戦を発動しオカ工場攻略に向けて大攻勢を開始した。突破の先鋒となったのはラムを備えた特殊工兵車両、
衝角戦車であった。これらの車両は新ソ連でしばしば試作されてきた対トーチカ用衝角車両をベースに発展した密林伐開用の工兵車両であった。新ソ連軍は自然の要害に阻まれつつも強固に前進し、11月1日に先鋒がオカの防衛線へ到達した。新ソ連軍は当初オカ要塞の規模を測りかねており、五月雨式に攻撃を行い、想像以上に堅固な防御陣地に弾き返された。多くの新ソ連兵士にとって、今次戦争でこれほどの防御陣地を相手にした事はなく、それを想定した装備も保持していなかった。新ソ連軍の多くは非対称戦に備えた軽武装に転換しており、要塞戦のような大規模戦闘は考慮の埒外であった。新ソ連は厄介な地下陣地に対し大型爆弾による攻撃を加えたが、熱帯雨林にカモフラージュされた陣地に対する攻撃誘導は困難を極めた。その為途中からは枯葉剤やナパーム弾を用いた爆撃に切り替えたが、これはまた対空射撃陣地の前に損失を出し、空軍はこれらの対処に手一杯とならざるを得なかった。
新ソ連は二度に渡る攻勢の失敗を受けて、一度後方からの戦力集中に切り替え、その後第三次攻勢を行った。第三次攻勢では新ソ連軍はオカ要塞の地上出入り口を多数発見し、また2つの防衛線を攻略することに成功した。続く第四次攻勢はオカの戦いで最も激しい戦闘となった。地上出入り口から侵入する新ソ連軍に対し、これを山場と見たコンゴ軍は切り札であるPMC部隊を投入した。要塞内部の攻防は部屋一つ一つを奪い合う熾烈な攻防となった。
新ソ連軍が攻勢限界に達しつつあると判断したコンゴ軍は反撃に出た。コンゴ軍はオカ要塞を攻撃する新ソ連軍の両側面に10㎞以上に渡って10万に迫る伏兵を展開し、これらの部隊による挟撃でオカ攻略部隊を両翼包囲せんと試みた。この反撃を受けて、新ソ連軍はオカ要塞への攻撃を中止、挟撃部隊の対処を優先せざるを得なくなった。このコンゴ軍の攻撃は新ソ連軍の激しい反撃に遭い大損害を出して失敗したが、新ソ連軍のオカ要塞攻略という戦略的意図を挫くことには成功した。
原爆投下
第四次攻勢の失敗によって新ソ連軍内ではオカ要塞の攻略、少なくとも数ヶ月以内の攻略は不可能ではないかという空気が蔓延した。オカに取り付いた新ソ連軍は当面の物資を使い切っていたが、一方でその補給は大部分を空輸に頼っていた。そして空輸はすでにパンク状態に近く、鉄道敷設は軟弱な地盤に阻まれて完成を見ていなかった。
しかしこの停滞は、シャイデマンら政権幹部にとっては受け入れられるものではなかった。既に選挙が半年後に迫っている以上、終戦か、少なくとも目に見える戦果が必要だった。焦った新ソ連政府はコンゴに対し事実上の無条件降伏を要求する最後通牒を突きつけ、これが受け入れられなかった場合「最も強力かつ絶対的な実力を行使する」と明言した。コンゴ政府はこの要求が選挙の近い新ソ連政府のハッタリであると見做しており、既に戦争支持を失いつつあり、攻勢作戦さえも頓挫した新ソ連政府にその様な行動は取れないと考えていた。
しかし新ソ連政府はコンゴの想像を上回った。シャイデマンはオカ要塞に対する
戦術核兵器の使用許可に署名した(
プライム・ナイフ作戦)。12月24日、オカ工場中心部に対し新ソ連空軍のMl-39によって3ktの戦術核弾頭が投下され、地表で起爆した。核弾頭は半径数kmにわたって地上の熱帯雨林を薙ぎ倒し地下構造物に不可逆的なダメージを与えた。オカ要塞の兵士の多くは外縁部の地下部分にいたため直接的な損害は避けられたが、オカの地下工場はもはや稼働不可能となった。
この核兵器使用はコンゴ側の従軍記者によって直ちに全世界に拡散した。当初各国政府は判断を留保したが、新ソ連が核兵器を使用したことが明らかになると一斉に新ソ連を非難した。この一連の非難声明にはコンゴ人民共和国、スーダン連邦といった新ソ連の同盟諸国も含まれていた。シャイデマン政権はこの核兵器の使用を軍上層部と政権幹部のみで決断しており、同盟国や議会への根回しすら行なっていなかった。共戦国の領土への同意無き原爆投下は、当然投下された側のコンゴ人民共和国や他の新ソ連影響圏下の国々に強い危機感を抱かせた。
原爆投下の影響は国内にも及んだ。新ソ連市民はシャイデマンのなりふり構わない姿勢に政権への反発を強め、反戦・反政権活動はいよいよ手がつけられないほどに拡大した。シャイデマン政権の支持率は一桁代に達し、政権与党内からもシャイデマンに対する非難が続出した。
国内外の強烈な反発を受け、シャイデマンは194年1月5日に開いた会見で次の大統領選の辞退を明らかにした。
ウェーゲナー政権
3月に行われた行われた大統領選では、FSA・共産党連立が互いに戦争責任を押し付けあい、有力なリーダーシップ不在の中で候補者の選出に難航する一方で、「道徳による和平」を訴えたSDPの
ランプレヒト・ウェーゲナーが大きく支持を集めた。12日の本投票ではウェーゲナーが他の候補者に倍以上の得票を集め、5月8日にウェーゲナーは大統領に就任した。ウェーゲナー政権は新ソ連初の非共産系政府であり、国民は戦争終結に期待した。
ウェーゲナー大統領は自らの公約の実行と国民の不満を鎮静化させるため、コンゴに展開していた新ソ連軍の撤収を始めた。軍部は一度撤退を始めれば国民は更なる撤退を求め最終的には完全撤退を強いられるとしてこのウェーゲナーの動きに強く反対した。しかしウェーゲナーはこれら反対派の軍人を閑職に追い込むなどして撤退を行わせた。
また軍の撤退を進める一方で、ウェーゲナーは外交ルートを通じてコンゴとの和平に向けた協議を開始した。新ソ連全体として、オカが消滅した以上コンゴにも戦争継続を行う余力はないというのが見解であった。しかしここには重大な誤認が潜んでいた。オカは確かにコンゴにとって重要な武器の入手ルートではあったが、決して唯一のルートではなかった。しかしコンゴ政府はさも自らも追い詰められているかの様に装う事で時間を稼ぎ、反ソ国際世論と新ソ連内部の反戦世論の高まりによる新ソ連の完全撤退を図った。この意図を見抜けなかった新ソ連による和平協議の試みは難航し、暗礁に乗り上げた。
コンゴ化
新ソ連世論はコンゴからの完全な撤退を望んでいたが、ウェーゲナーは必ずしもコンゴからの撤退は想定していなかった。ウェーゲナーの計画は未完に終わっていたコンゴ人民共和国の自立化と戦争のアフリカ化だった。ウェーゲナーはこの戦争の最大の問題は新ソ連があまりに踏み込みすぎた事だと考えており、当事者を矢面に立たせ新ソ連はそのバックに立つことで事態を矮小化しつつ権益を最大限引き出せると考えていた。
この"コンゴ化"プロセスは具体的に
- 1.新ソ連軍撤退という目に見える成果を上げる事で国民の反戦感情を宥めること。
- 2.新ソ連軍の撤退そのものを交渉の材料とすること。
- 3.事態を新ソ連による侵略戦争からコンゴ人同士の争いに転嫁することで国際的非難をかわすこと。
が目的だった。
しかしコンゴ化プロセスは最初から大きな疑念が抱かれれるものだった。コンゴ化プロセスは現状新ソ連軍が担っている役割をコンゴ軍(とゾディアックent)に置き換えるものだったが、そもそもインドやキヴでの経験からして現地軍を使えるものに編成するのは10年単位の時間が必要な事である。またコンゴ軍は武器供給源を絶たれている(新ソ連は知る由もないが、この理解は誤りである)とはいえ、依然大兵力を抱えており、これと対峙する軍隊の整備は困難を極めることは明白だった。
それに対処するウェーゲナーの計画は新ソ連の撤退とコンゴの非武装化をトレードさせることだった。この非武装化はコンゴ軍の部分的な解散やDMZの再設置、兵器取引の明示化など多岐に渡ったが、ウェーゲナーは少なくともコンゴ側が完全にこれを受け入れる筈がないため、事実上新ソ連軍は無制限に駐屯を続けられるだろうと考えていた。
しかしこのコンゴ化プロセスを最も強烈に阻んだのは国内世論だった。コンゴが和平交渉を引き延ばし続ける中で、新政権に対して批判を控えていた反戦活動が再開し始めていた。またSDPの中からも新ソ連軍の早期撤退を求める声が上がり始めていた。これは主に長引くコンゴ戦争にリソースを割かれすぎたせいで新ソ連を中核とした国際秩序そのものに綻びが生じ始めていた危機感によるものだった。加えてウェーゲナーと親しいシンクタンクはウェーゲナーの計画による新ソ連軍の駐屯が長期的には無視できない負担となる事を指摘した。
最終的にこれらの声に押されたウェーゲナーはコンゴ化のプロセスを加速せざるを得なくなり、和平交渉への材料として使うよりも早いペースで新ソ連軍の撤退を進めなければならなくなった。
マカンザの戦い
195年9月、コンゴ人民軍はコンゴ川沿いの都市
マカンザを奪取すべく攻勢を開始した。この作戦はこれまでと同様新ソ連空軍の支援を受けていたが、陸上戦力の主力は人民軍であった。この攻勢作戦は予定より早く撤退することを強いられている新ソ連軍の代替を人民軍がなせるかどうかを図る試金石だった。
当初作戦は順調に進行したが、人民軍はマカンザ前面で強力な抵抗線に遭遇した。新ソ連空軍の支援を得て人民軍はこれを突破しマカンザ市街へ突入したが、翌日コンゴ共和国軍が逆襲を開始した。共和国軍の攻撃を受けた人民軍は指揮統制を喪失、新ソ連の予想よりも早く統制を失った。9月末には新ソ連軍の支援を受けて残存兵力がマカンザ前面の陣地を放棄して撤退し、作戦は完全に失敗した。この作戦の失敗によって新ソ連はコンゴ化政策の失敗を認識し、本格的な和平交渉の開始を決断した。
和平協定への調印
コンゴ化計画が挫折したウェーゲナーはコンゴの保持を断念、11月5日にコンゴ政府と無条件の対話を求める談話を発した。これを受けてコンゴ共和国はこの声明を受け入れ、南ルークリア領
ラクナウでの和平交渉を開始した。新ソ連で
12月危機と呼ばれる重大な政治スキャンダルが勃発し三か月間交渉が停止されたこともあったが、危機の解決後に交渉は再開された。196年3月3日にはコンゴの
ジャン・シンガと新ソ連の
クラウス・エーダー両外相が協定案に合意し、一週間後の3月14日には新ソ連のウェーゲナー大統領と、元CC指導者でコンゴ共和国特別外交顧問として送り出されたアン・グミンの間で和平協定が調印された。
ここで結ばれたラクナウ合意にはその後スーダン連邦、ウガンダ、ルワンダといった両陣営の交戦国が加わり、事実上の和平協定となった。しかしこの協定で見捨てられることになったコンゴ人民共和国は調印に反対し、会議中に人民共和国の代表は憤慨して退席した。
新ソ連軍の撤退
ラクナウ協定によって「新ソ連軍の8か月以内の撤退」、「コンゴ共和国をコンゴ唯一の正統政府として認めること」、「両軍捕虜の解放」が定められた。
協定調印の後、アフリカ派遣軍は新ソ連資本とともにコンゴからの撤退を開始した。既にそれまでのコンゴ化政策の一環で新ソ連軍は13万人まで減少しており、民間資本の脱出に手間取りはしたものの、8か月の期間が設けられた撤退は2か月後の5月22日に終了した。同日、最後の新ソ連軍がコンゴを去ったことを受けてウェーゲナーは議会でコンゴ戦争の終結を宣言した。
継続戦争
ラクナウ和平協定後もコンゴ人民共和国は合意への参加を拒絶し、新ソ連を裏切り者と非難、徹底抗戦の構えを見せた。コンゴ共和国軍は新ソ連軍の撤退までは人民共和国への攻撃を控えたが、5月23日には攻撃を再開した。人民軍は新ソ連の予想以上の能力を発揮して抵抗し、隠居していたシャイデマンをして「その能力を5年前に発揮してくれればよかった」と言わしめたが、大軍に押しつぶされるようにしてじりじりと後退していった。11月には移転先の首都
イシロが陥落し、コンゴ人民共和国の組織的抵抗は終結した。生き残りは新ソ連への亡命か逮捕、あるいはゲリラとしての潜伏を余儀なくされた。
スーダン危機
ラクナウ和平協定によって新ソ連は国際社会における評判をある程度回復することに成功したが、この事実上同盟国を見放した外交は特にアフリカ民主連盟諸国に強烈な不信感を抱かせた。特に領内で勝手に核を使われた挙句のこの仕打ちであった事から、次は我が身と恐れたスーダン連邦内では親ソ政権への反発が強まった。196年12月27日、スーダン首都
ハルツームで反ソグループによるクーデターが発生、新政権は新ソ連軍の完全な国外退去を求めた。これはコンゴから撤退してきた部隊だけでなく、ダルフールや南スーダンの反乱軍を鎮圧中であった新ソ連軍も含まれていた。
この一方的な要求はスーダンと新ソ連の間の緊張を高めたが、ウェーゲナーはこの要求を受け入れることに同意した。クーデター政権を容認した上にその要求を黙って受け入れたこの決定は右派をはじめ非難の的になったが、これはウェーゲナーが既にアフリカへの関与よりもより重大な地域におけるプレゼンスの回復に焦点を当てていた事と、新ソ連軍が残留しようがしまいがスーダン連邦という国家自体がもはや長続きしないだろうという計算の上の決断だった。事実このクーデターから3か月後の197年2月には南スーダンの騒乱が再び発生し、スーダンは長く続く内戦に突入する事になる。
コンゴ人民共和国の消滅によってコンゴ戦争は終結したが、依然として戦争の遺産はコンゴに残っていた。第二次コンゴ戦役中に独立を宣言したカタンガ民主共和国はコンゴ戦争の終結後も北ローデシアの支援を受けて事実上の独立を保っていた。その領内にはカタンガの企業や北ローデシア政府が雇用した多数の傭兵が展開しており、実際カタンガと北ローデシアの戦力は疲弊したコンゴ国軍が相手にするには手強い相手であると認識されていた。
しかしこの目論見は北ローデシアの崩壊によって脆くも崩れ去った。197年2月22日、北ローデシア内の反政府秘密結社
ザンビア秘密戦線が首都
ルサカの政府機関を襲撃した。その数日後には秘密戦線が全国で蜂起を開始した。ルサカの政府は首都からの脱出を余儀なくされ、北ローデシアは内戦状態に陥った。
アフリカで最も安定した国家の一つと謳われた北ローデシアがこうも容易に崩れ去った原因は言うまでもなくザンビア秘密戦線にあった。このゲリラ組織は白人支配を続ける旧植民地国家の残滓たる北ローデシアにおいて長年にわたって抵抗運動を続けてきたが、北ローデシア政府の激しい弾圧によって182年頃には地下に潜ることを余儀なくされた。
しかし地下に潜った秘密戦線は
ランゲ・マクワという卓越した指導者と、コンゴ戦争という好機を得た。マクワは北ローデシア政府との正面衝突を避け、力を蓄える方針を示した。そしてコンゴ内戦に伴い北ローデシア内で武器の流通が加速すると、マクワは秘密裏にそれらの物資を調達した。この調達にあたっては北ローデシアが黒人を宥めるために設置した黒人雇用枠に付いた黒人公務員や、多額の賄賂、コンゴに夢中の北ローデシア政府の無関心、そして北ローデシアのルーズな物品管理が利用された。その結果北ローデシアでは秘密戦線の勢いは静かに、しかし確実に増大するに至った。
またアフリカの盾結成にあたっては戦線も秘密裏にメッセンジャーを送り込んでいた。戦線はアフリカの盾と水面下の取引を行い、第二次コンゴ内戦では北ローデシアからカタンガを通してコンゴに武器を輸送し続けた。この武器供給ルートは主にカタンガを突っ切るルートと
タンガニーカ湖を利用したルートがあった。どちらのルートも民間の商隊・漁師を装い、カタンガ政府の統治への無関心と新ソ連の盲点を突いて多数の武器をコンゴに流し続けた。これらのルートはいずれも脆弱なもので、勘づかれてしまえば二度と使用不可能なものだったが、新ソ連がこれを発見することはついに無かった。
コンゴ戦争が終結すると今度はこの武器取引の向きが180度変化した。コンゴ政府はカタンガを守る北ローデシア政府を瓦解させるべく、大量の武器の余剰在庫を秘密戦線に放出した。その中にはかつて北ローデシアからコンゴに輸送された武器も少なからず含まれていた。武器と支援を得た秘密戦線は一斉蜂起に至った。北ローデシア政府は国家非常事態を宣言し官憲・軍を動員して鎮圧を図ったが、黒人のガス抜きのために採用された黒人兵たちはすぐに脱走し機能不全に陥った。北ローデシア政府はやむなくカタンガからPMCを含む戦力を引き抜かざるを得なくなった。
北ローデシアの弱体化を見たコンゴは満を持してカタンガへ侵攻した。カタンガ政府はこの後に及び最早なりふり構わずカタンガ人ナショナリズムを訴え、或いは強制動員によって兵力を無理やり捻出して抵抗を図った。カタンガの抵抗は次第にコンゴ軍によって押し潰されていったが、双方が年少兵を動員して過酷な戦場に投入したこの戦いは報道によって国際社会に大きな波紋を広げた。
カタンガ侵攻と北ローデシア内戦に新ソ連は反乱軍及びコンゴに対して遺憾の意を示したが、それ以上の反応を示すことはなかった。ウェーゲナーはカタンガが独立を維持し続けられればそこから利益を得られるだろうと期待していたが、北ローデシアが早々に内戦に陥ったことでカタンガを見放したとされる。
紛争はまずカタンガ政府が瓦解し、コンゴはカタンガの再統合を宣言した。これに前後して新ソ連は
カタンガの邦人救出を実施したが、現地新ソ連企業が求め続けた武力行使は一切拒み続けた。カタンガに進出した新ソ連企業はカタンガ侵攻での蛮行を受け国際的ボイコットの的になっており、今更庇う程の価値があるとは見做されなくなっていた。
カタンガがあっさりと平定されたのに対して、北ローデシアの安定化は酷く困難なものになった。当初は秘密戦線が事を有利に運び、北東部の都市部を除き北ローデシア政府の支配地域は失われた。しかし北ローデシアが行った苦し紛れの暗殺によってマクワが死去、秘密戦線は後継者を巡り分裂しはじめた。最終的に
テラー・ングニカが主導権を握ったが、強権的かつ部族主義的、純黒人至上主義者のテラーの支配は秘密戦線を大きく動揺させた。特に白人と混血した黒人らはテラーに激しく反発し、秘密戦線は求心力を大きく損なった。その中で北ローデシアは国名をザンビア・北ローデシアに改め黒人に譲歩の姿勢を見せる事で彼らの吸収を目指した。このように政府軍と秘密戦線の戦いは混乱と激化の一途を辿り、現在に至るまで北ローデシアでは紛争が続いている。
コンゴ・シンドローム
新ソ連はこの戦争で延べ200万人以上を動員し、7万2741人の戦死者と27万人以上の負傷者を出した。また新ソ連は一連の戦争遂行に2700億テーベの予算を費やし、それとほぼ同額の資産(
経済制裁に伴う機会損失・インフレーション分)を失った。これは戦争終結時の新ソ連のGDPの十分の一にあたり、この戦争が新ソ連にとってどれだけの負担だったかを伺うことができる。
この戦争では、これまで新ソ連が戦争のたびに掲げてきた大義に初めて新ソ連国民が疑問を呈した戦争であった。シャイデマン政権はこの疑問に答えることができず徒に戦争をエスカレーションさせ続けた末にその地位を失うことになった。
戦時中、新ソ連では初めて大規模な反戦運動が組織され、政府の掲げる大義と実態の乖離に対する批判を政府に浴びせかけた。シャイデマンの後を継いだウェーゲナーも反戦運動をなだめながらも戦争継続を図ったが、国民の厭戦感情に耐えきれず戦争継続を断念せざるを得なかった。
また、シャイデマンが最後に行った核攻撃は新ソ連にとって重大な意味を持った。それまで新ソ連は核兵器の運用に積極的な国家として知られており、実際に
パキスタン戦争と
インド戦争という二つの戦争では核兵器を運用することで戦争に勝利した。しかしコンゴ戦争では大統領が選挙戦に勝利するという個人的な理由で核兵器を使用し、その上戦争にも勝利することができなかった。この経験は新ソ連世論における核使用のハードルを著しく高め、現在に至るまで新ソ連は核兵器の実戦使用を行っていない。
ただしシャイデマンの核兵器使用以降も、新ソ連の核発射の権限は依然として大統領の専権事項であり続けている。SDPはこの制度の改革を訴えたが、今日に至るまで修正は行われていない。このことについて政治学者のクロード・モーリスは「(新ソ連の)核使用を抑制しているのは単に世論の問題であって、制度やシステムではない。究極的に言えば核使用のハードルは193年から何も変わってはいない」と評している。
コンゴでの経験は新ソ連社会に
コンゴ・シンドロームと呼ばれる後遺症を残した。新ソ連の世論は極端に戦争を厭うようになり、それを受けて政治家も戦争反対を口々に唱えるようになった。それに伴って新ソ連の外交政策も積極性を欠くようになり、戦時中に大きく揺らいだ
パクス・ソビエティカの崩壊を加速させることになった。
新ソ連の外交政策への影響
コンゴ戦争は新ソ連の国際的な評判を大きく傷つけた。コンゴへの枯葉剤投下、NC兵器の使用、残虐なゲリラ戦、同盟国を見捨てての撤退といった行為が新ソ連の国際的名声を損ない、
バグダッド協力機構を代表する国際組織での新ソ連の指導力に疑問が呈されるようになった。
更に新ソ連はコンゴ戦争に深入りしたことで国際情勢に関与する余裕を失った。元新ソ連副大統領のペーター・フランク・ジャックはコンゴ戦争に費やされた膨大な戦力と予算があれば新ソ連は80年代・90年代のより重大な外交事件に影響力を行使できたはずであると戦後のインタビューで答えている。
新ソ連はコンゴ戦争の前後での一連の事象について一切の謝罪・賠償を行っていない。コンゴ政府と市民団体、環境団体は枯葉剤散布、対人地雷、ナパーム、化学兵器の使用による人的被害・環境被害に対する謝罪と賠償を求めているが、新ソ連政府は一切応じていない。この強硬な対応の要因の一つにはコンゴ戦争の帰還兵や新右翼が結成した
コンゴ戦争名誉委員会を始めとする帰還兵・在郷軍人会の強い影響が指摘されている。
164年:アシール3世がコンゴ王国の下でコンゴ地域を統一
165年:アシール3世崩御。カンタン1世が即位。
172年:カンタン1世が中央アフリカ皇帝に即位
179年:カンタン1世暗殺
181年:スーダン革命、181年コンゴクーデター、コンゴ内戦
182年:中央アフリカ帝国滅亡、コンゴ国民共和国樹立、スーダン連邦成立、新ソ連キヴ軍閥への支援を開始
183年:ムバンダカの戦い
185年:カタンガの戦い開始
186年:カンパラ停戦協定(2月7日)、リサラ事件(2月8日)、コンゴ人民共和国成立(3月6日)、ポーコ事件(4月23日)、コンゴ反ソ統一政府樹立(6月1日)
187年:サテ攻勢開始(1月16日)、カタンガ攻勢開始(4月16日)、トール作戦(8月)、コンゴ統一政府無条件降伏(10月31日)
188年:ソト作戦開始(10月10日)
189年:ルワンダ爆撃開始(3月1日)、アフリカの盾結成(3月)、アフリカ民主連盟結成(4月)、
190年:レミー大統領暗殺(2月9日)、ルワンダ・ウガンダ侵攻(2月14日)
191年:新ソ連軍が化学兵器の運用を開始(1月)、カタンガ民主共和国独立、休戦交渉開始、ルワンダ・ウガンダから新ソ連軍撤退、ニャンザ休戦協定発効(6月27日)
192年:ダルフール反乱、第三次コンゴ戦役開始
193年:ミュアンダ上陸作戦、ペネトレーション作戦開始、オカ工場に戦術核兵器投下
194年:ランプレヒト・ウェーゲナーが大統領就任(5月)
195年:マカンザの戦い
196年:ラクナウ合意(3月14日)、新ソ連軍コンゴから完全撤退(5月)、コンゴ人民共和国降伏(11月)
- ノイマン・ドレスラー『歴史の再生 新旧ソ連の社会帝国主義』(イラク・アーカイブ、197年)
- レナード・エリオン『ダイヤモンド戦争』(イラク・アーカイブ、189年)
- リチャード・モントフォード『コンゴ』(クレストワークス、191年)
- マシュー・アルブレヒト『コンゴ戦争秘録』(クレストワークス、193年)
- ハリソン・ウェインライト『アフリカ戦線』(ハルシオン・プレス、192年)
- ダグラス・ソーン『化学爆撃』(人民新報社、191年)
- グスタフ・マルカート『コンゴ戦争における宣伝戦』(ダマスカス出版、201年)
- ルシアン・クロスファイア『勝者なき戦争』(カムデン・ロー、197年)
最終更新:2025年07月17日 06:07