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インド戦争(いんどせんそう、英:India War)は、統一歴179年2月から、
ソビエト共産主義共和国連邦
(以下新ソ連)・
ルークリア人民共和国
・
大中華と、
ルークリア国・
レグルス国家再生政府
との間で行われた戦争のことである。
開戦の直接のキッカケは、ルークリア国・ルークリア人民共和国国境の
ガンジサガールダム
を巡る戦闘がインド全域に拡大したことによる。この一連の紛争は、当初南北分裂したルークリア国家同士の境界線を巡る争いであったが、後に周辺諸国の思惑が交錯するものとなった。
呼称は一般的には広く
インド戦争が用いられるが、新ソ連政府は戦争状態を否定し続けたため公式記録では
179年ルークリア国境紛争と呼ばれる。また南ルークリアでは
パキスタン戦争・
ルークリア内戦を継続する戦争と位置付け
十年戦争と呼ぶ動きもある。
インド戦争 |
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開戦前の勢力図 |
戦争;インド戦争 |
年月日:統一歴179年 ~ 182年 |
場所:ルークリア国、ルークリア人民共和国、大中華、レグルス国家再生政府 |
結果:ルークリア国が大幅な領土割譲を強いられる。レグルス国家再生政府の崩壊。北ルークリア動乱の発生。 |
交戦勢力 |
ルークリア国 |
ルークリア人民共和国 |
レグルス国家再生政府 |
ソビエト共産主義共和国連邦
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大中華 |
指導者 |
ルークリア国皇帝 イレーナ・レヴィンスカヤ・ルクレフ |
ルークリア人民共和国国家評議会議長 アドラー・ホーネッカー |
レグルス国家再生政府全国指導者 アンドレイア・レヴィツェンスク† |
ソビエト共産主義共和国連邦大統領 オットー・ジェルジンスキー |
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大中華総統 王雨石 |
戦力 |
ルークリア国軍 160万人 |
ルークリア人民共和国人民解放軍 83万人 |
レグルス国家再生政府軍 20万人前後? |
ソビエト共産主義共和国連邦革命軍 56万人 |
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大中華軍 8万人 |
損害 |
戦死者 |
ルークリア国軍 不明 |
ルークリア人民共和国人民解放軍 83万人 |
レグルス国家再生政府軍 20万人前後? |
ソビエト共産主義共和国連邦革命軍 56万人 |
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大中華軍 9000人前後 |
民間人死者 |
ルークリア国 480万人 |
ルークリア人民共和国 66万人 |
レグルス国家再生政府 4000万人以上 |
ソビエト共産主義共和国連邦 3人 |
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大中華 1000人未満 |
背景
ルークリアの東西分裂
情勢
パキスタン戦争以降、インド亜大陸はルークリア国と、新ソ連が支持するルークリア人民共和国によって南北分裂状態にあった。これは
第三次東地中海戦争や
ガルシア内戦の結果、地中海政策で大きな成功を収めた新ソ連が返す刀でインド洋での勢力拡大を希求したことに要因があった。新ソ連は対
OFC、特に
大ヒトラント帝国を強く警戒しており、国内情勢のため身動きが取れない同国が対応するよりも早くOFCが勢力圏とするインド洋に楔を打ち込むことを望んでいた。この結果が
ペルシア侵攻・
パキスタン戦争・
ルークリア内戦における新ソ連の動きであり、新ソ連の意向を強く受けたルークリア人民共和国はルークリア国との対決姿勢を強めた。これに応える形でルークリア国も態度を硬化し、インドでは戦争一歩手前の緊張した状態が続いた。
ガンジサガールダム地帯
ガンジサガールダムはルークリア国領
プラデーシュ州に存在する重力ダムで、パキスタン戦争の結果ルークリア人民共和国との国境のすぐそばに位置することになった。ダムは116MWの発電能力を持ち、貯水池は漁業資源と農業用水を提供した。パキスタン戦争の終戦条約である
エスファハーン条約では電力・水資源は戦前と同じ割合で人民共和国領となった州にも供給されることが約束されていた。
しかしルークリア内戦が勃発するとルークリア人民共和国は新ソ連軍とともにルークリア国へ侵攻、協定は自動的に破棄された。ルークリア内戦ではルークリア人民共和国軍は大敗を喫し戦前のラインへの撤退が定められた。しかしルークリア人民共和国は介入中に行われたガンジサガールの
ラジャスタン州への併合宣言を根拠に停戦後もガンジサガールダム地帯への駐屯をつづけた。
これに対しルークリア国は内戦終結後新ソ連に対し複数回の抗議を行った。この動きに対し新ソ連はルークリア人民共和国側の問題であると返答を拒否し人民共和国に抗議するよう伝えたが、人民共和国を国家承認していないルークリア国には不可能であり、またこの回答を以てルークリア国は新ソ連・人民共和国に解決の意思なしと解釈した。
衝突への発展
対話による解決が不可能であると結論付けたルークリア国は軍事力による解決を志向した。ルークリア国はパキスタン戦争・ルークリア内戦で新ソ連軍に敗北を喫しているが、ルークリア国参謀本部は奇襲的に大戦力を投入し局所的な短期決戦に持ち込めば勝機は十分にあると考えた。ガンジサガールに駐留する部隊は新ソ連軍よりはるかに弱体な人民共和国軍であること、新ソ連が度重なる総力戦により継戦能力を失っており、占領を既成事実化すれば新ソ連は反撃できないとの考えがこの根拠とされた。
ルークリア参謀本部は179年1月10日に作戦計画を政府に提出し14日に承認された。作戦開始は一か月後の2月17日ガンジサガール周辺の部隊が秘密裏に動員され輸送が行われた。
一方新ソ連の諜報機関
内務省特別調査委委員部(SID)はパキスタン戦争以前からの諜報活動によってこの動きを動員数、開戦予定日まで含め完全に察知していた。SIDは新ソ連政府にこれを通報した。しかし新ソ連の反応は極めて鈍いものだった。ルークリア内戦の介入失敗によって新ソ連政府は当面のインド統一をあきらめており関心が低く、加えて汚職事件であるミケランジェロ・ゲートによって現職大臣が批判の矢面にさらされていたためそちらの対応に躍起になっていたためである。新ソ連政府は政府としての対応を放棄し、ルークリア人民共和国軍と在印新ソ連軍司令部に対応を一任した。
対応を丸投げされる形になった在印軍と人民共和国軍だったが、ここで両者は結託し新ソ連政府にも内密に奇襲先制攻撃を計画した。これは敵が集結する前に先制攻撃を仕掛ける方が望ましいという軍事的な理由以上に、新ソ連から軽視された部署として成果を出し存在感を示すという目的があった。
戦争の経過
ガンジサガールの戦い
179年5月21日、在印新ソ連・人民共和国連合軍がガンジサガールの軍事境界となっていた線を越え集結途上であったルークリア軍に対し先制攻撃を仕掛けた。新ソ連軍らの集結を認識しつつも自身が先制攻撃を加える側であるという意識があったルークリア軍は完全な奇襲を受けた形になった。連合軍は装甲戦力でもって混乱状態のルークリア軍を蹴散らし前線司令部が存在すると推定されたランプラ村へ南下した。
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地図左下にランプラ村。ガンジサガールダムから25kmの距離にある。 |
しかしながら連合軍の進行は予想以上に早く立て直したルークリア軍によって押しとどめられることになる。編成されたばかりのルークリア人民共和国軍の装甲部隊は練度や装備の運用能力が低く戦闘能力が急激に低下した。新ソ連軍部隊はその限りではなかったが、5月24日のブースでの戦闘後進撃を完全に停止することを余儀なくされた。
26日には立て直しを完了したルークリア軍による反撃が開始された。しかしこの攻撃もまた新ソ連の自走砲による阻止砲撃によって頓挫を余儀なくされた。ルークリア軍の砲兵戦力が新ソ連軍によって迅速に排除された一方で、ルークリア軍は自走砲の排除に失敗した。砲兵火力の有無はキルレシオに明確な結果を示し、連合軍の死者一人当たりルークリア軍は5人以上の戦死者を出した。
お互いに攻撃が失敗した後、戦線は小康状態になった。両陣営にとってより重大な戦線が形成されたためである。
デリーの戦い
双方が短期決戦を志向し、失敗したガンジサガールでの紛争は予期せぬ箇所に火種を生んだ。人民共和国・ルークリア国によって分断されていたデリーでは以前から人民共和国支持者と帝国派の市民の間での衝突が散発していたが、ガンジサガールでの事件が報じられると両者の対立は急速に激化した。市民は素朴な皇帝信仰や人民共和国の無神論に対し反発するものも多かったが、社会主義者や百合主義時代に迫害されていた男性市民など人民共和国に加担するものも少なくなかった。またデリーでの両国の境界線は他の地域と異なり都市の真ん中を貫いていたことから市民の多くは小道や地下通路から出入りを自由に行っており、これが市民同士の対立を激化させる要因となった。
デリーでの戦闘の直接の契機となったのは6月2日の百合主義者によるデモ行進だった。このデモ行進によって商売を邪魔された露店商人の男性がデモ隊と口論になり、男性は死亡した。この事件がデリー中で報道されるとデリー市民の間での対立は臨界に達し完全な無秩序に陥った。なおこのデモ行進は新ソ連の情報部によって煽られたものとする見解も存在するが、新ソ連政府が機密情報として開示を拒んでいるため真相は明らかではない。
無秩序に陥ったデリーに対しルークリア国軍・人民共和国軍はお互い治安の回復を名目に軍を投入した。
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戦場となったデリー 東西に分断されていたが市民は自由に行き来していた |
デリーへ進軍した両軍は対照的な戦術を取った。帝国軍は都市内部へ進出し人民共和国軍は都市外縁部の制圧を目指した。このためデリーの戦いの序盤では両軍の敵はもっぱらそれぞれの反体制側の市民だった。両軍は双方自陣営に友好的な市民に武器を与えゲリラに転じ、反対派のゲリラには徹底的に掃討を行った。このような両者の戦い方は市民間の対立をさらに深化させデリーの戦いをより凄惨なものにした。
この敵味方入り乱れる状況とデリーの複雑な地形は人民共和国軍の不利に働いた。人民共和国軍の士官の多くは促成栽培でマニュアルを叩きこまれただけの者が多く実戦経験に欠け柔軟な対応ができなかった。
開戦からおよそ2週間で両軍のデリーへの進出と布陣がおおむね完了した。当初の双方の予定通り人民共和国が外縁、帝国軍が都市中央に展開した。人民共和国は新ソ連から供与された重砲を駆使し、帝国軍は人海戦術でそれぞれ都市建造物の制圧を行った。
当初はデリーを巡る局所的な戦いだったが、戦いが激化するにつれデリーの戦いは両陣営の面子を巡るものへと変わっていった。特に内戦が明けたばかりの帝国側は民心を確保するためにもインド最大の都市デリーの保持にこだわった。デリーの完全な確保を目指す帝国軍はデリーへ増派を繰り返し数的不利に立たされた人民共和国軍は防戦に転じた。
デリー失陥の危機にさらされた人民共和国軍は在印新ソ連軍と協議し新ソ連政府の事態非拡大方針を無視しデリー後方を攻撃しデリーを孤立させることを決定した。新ソ連軍機甲部隊は6月28日にデリー北部の防衛線を突破しデリー東部へ向け包囲機動を取った。新ソ連の事態不拡大方針を過信し機甲部隊の動きを無視していた帝国軍は奇襲される形となった。また攻撃開始直前に赤の城に置かれていた帝国軍司令部が偶然新ソ連軍の65㎝臼砲の直撃を受け壊滅していたことが混乱に拍車をかけた。帝国軍の対処は後手後手に回り、増援として送られてきた友軍を人民共和国軍と誤認し誤射するほどに混乱した。新ソ連軍はほとんど抵抗を受けずデリー後方のメラート・アリガールを攻略しデリーを包囲下に置いた。
包囲されたデリーには精鋭の第Ⅱ軍4万を始め民兵含む約25万の戦力が閉じ込められた。デリーの状況をようやく把握した帝国軍総司令部は解囲を図り北方軍の部隊を五月雨式に投入したがこれを見越した新ソ連軍は逆攻勢に出て帝国軍を各個撃破した。
取り残されたデリーの帝国軍は司令部を失い各個の判断で戦闘を続けていたが、組織抵抗能力を失っていた。しかし新ソ連軍と人民共和国軍はデリーの帝国派市民の根絶を目的として意図的に包囲網の殲滅を遅らせた。新ソ連は市内へ流入する食料を制限しデリーを飢餓状態に陥らせた。デリー包囲戦は9月9日の第Ⅺ機械化歩兵師団の降伏で正式に終了したが、その後もゲリラ鎮圧を名目に治安戦が行われた。60日の包囲戦で100万人以上のの市民が飢餓に追いやられ、その後の治安戦を含めるとデリーの戦い全体の死者数は300万人以上に及ぶとされている。
この戦いで帝国軍はデリーを失った以上に重い損失を受けた。デリーの戦いに投入された戦力が軒並み消滅或いは作戦行動不能に追いやられたことで北部の戦力に大きな穴が開くことになり、後の百合主義者の伸長や中華の介入を招いた。
ベルトマン和平工作
それまで局所的紛争とみなし対応を現地に一任していた新ソ連だが、人口2000万を抱える大都市デリーでの市街戦が発生したことで重い腰を上げ和平工作を開始した。新ソ連は本国からカール・ベルトマン駐印大使を帝国側に派遣し、即時停戦を求めた。この停戦の求めは一応受け入れられたが、双方ともに現地部隊、特に民兵は平然と停戦を無視し停戦は形骸化した。
そんな中でも休戦に向けた協議が行われることが決定されたが、具体的な協議はなかなか開始されなかった。原因は新ソ連側にあり、新ソ連内部では徹底攻撃派と和平派で分裂していたため協議の条件すら定まっていないのが原因だった。攻撃派は敵が軍隊の再編の真っ最中の今こそ帝国に全面攻撃を仕掛けルークリアを統一すべきだと主張した。対する和平派は戦争にかかるコストを憂慮した経済省の人間やインドを分裂したままにしたい革命省の人間が賛同した。この意見分裂によって新ソ連は有効な和平案を提案できず、和平会議は先延ばしされ続けた。
その最中にデリーでは新ソ連軍による大攻勢が実施されデリーが包囲されると帝国側は新ソ連側に和平の意図はないものと判断した。帝国側は一方的に会議の打ち切りを通達し和平の道は頓挫した。
なおベルトマンら新ソ連協議団はこの新ソ連軍の攻撃のことを知らされておらず、会議の打ち切り後に知らされたという。
和平工作の失敗を見て新ソ連は事態不拡大方針を破棄、積極的拡大を取ることとなった。
本格的戦争への転化
セイロン島侵攻
本格的な戦争となったことを認識した新ソ連は総力戦を宣言した。これに伴い軍は動員を開始したが、動員が完了するまでに可能な作戦行動を計画した。
攻撃目標となったのはパキスタン戦争の際と同様にセイロン島であった。この島はレグルス帝国が建設したインド洋最大の海軍拠点・造船所が存在することに加えインド洋交通の要衝であり、新ソ連のベンガル湾への進出を阻む要害でもあった。
セイロン島の奪取を狙う新ソ連軍はまず地中海艦隊をインド洋へ移動、作戦行動に入った。地中海艦隊のスエズ運河通過をキャッチした帝国海軍も艦隊をセイロンへ集結させこれを迎撃する構えを取った。帝国海軍は自軍の不利を把握しており現存艦隊主義に基づき迎撃は避けるべきであるとの認識も承知していたが、それ以上にセイロンは決して失陥できない拠点だった。両艦隊は10月16日にセイロン島で衝突した。
損害を負いつつも帝国海軍を破った新ソ連軍はセイロンへの上陸を開始した。パキスタン戦争でのセイロンのゲリラ戦に苦しめられた戦訓を活かし新ソ連軍は焼夷弾、枯葉剤、火炎放射器を大々的に投入しジャングルを破壊しながら進撃した。現地の帝国領邦
ティアラント公国軍は本国からの増援を期待し内陸持久戦を展開した。しかし同時期に行われた中華のカシミール占領への対処に対処するため本国は増援を拒んだ。ティアラント公国内では本国への撤退も検討されたが女公マリア=テレジア・ティアラントはこれを拒み徹底抗戦を宣言した。善政で知られ民衆の支持も厚かったティアラント公の宣言に市民も同調しセイロンでは激しい抵抗が繰り広げられた。
新ソ連軍は11月23日に行われた帝国軍の本土撤退をもって勝利を宣言したが、抵抗は戦中、戦後も続いた。
大中華の参戦
デリー包囲の報は全世界的に報道され新ソ連市民を歓喜させたが、同時にインドへの蚕食を狙う勢力へも行動を促した。
大中華は帝国軍の大敗を見てインドへの侵略を開始した。
まず180年2月5日に大中華・ルークリア帝国の緩衝国として存続してきた
カシミール藩王国へ進駐、同国の併合を宣言した。北部の戦力を失いヒマラヤへの影響力を失いつつあったルークリア帝国はこれに外交的抗議と警告を送るにとどまった。この弱腰な姿勢を見た大中華はさらなる侵略を計画した。大中華が拡大できる緩衝国はもはや無く、次の侵略が行われるとすればルークリア本土への攻撃に他ならなかった。しかし大中華は新ソ連のセイロン島攻撃とカシミールでの"勝利"を根拠に更なる侵略を決断した。
攻撃の対象は大中華ルークリア国境東部の
アルナーチャルプラデーシュ州であった。この地域には中華系市民が多いだけでなく、この地域に帝国が建設中の要塞地帯が存在し完成する前に掌握したい中華軍の思惑もあった。大中華はこの段階で帝国との本格的な戦争は計画しておらず、帝国が反応する前に占領を既成事実化することを図った。
進駐は4月29日に開始された。電撃戦を企図した大中華軍は空軍と空挺部隊を大規模に投入し僅か36時間で一帯を占領した。大中華は占領を既成事実化すべくアルナーチャルプラデシュの
中華化を行った。進駐した中華親衛隊によって現地住民は殺害あるいは中華本土へ連行され、代わって移住すべく早速千人規模の先遣移住団が送り込まれた。またこの際大中華軍は初めての対外戦闘での圧勝と計画的な虐殺という異常な状況から戦争犯罪が頻発した。
中華占領地域からの脱走者の証言で大中華の蛮行が広まると帝国内では反中感情が急速に拡大した。これに加えて戦略的にはアルナーチャルプラデシュの失陥はアッサム州への連絡路の喪失も意味していた。これらの結果としてルークリア帝国は先に事実上戦争状態に入っていた新ソ連を差し置いて大中華に対し宣戦を布告した。
百合騎士団の困窮と暴発
ルークリア内戦の結果敗北した国家百合主義者は北部国境近くに
国家百合騎士団領ノルトラントを形成し半独立国家となっていた。これらの土地は生産性が低く食糧供給は帝国本国からの輸入に頼っていた。
新ソ連と大中華の侵攻はこの輸入経路を遮断した。食料備蓄は内戦の際に使い果たしたため飢餓が目前に迫った。短期的には奴隷である男への食糧供給を絞ることで対処ができたが、それは問題の先延ばしに過ぎなかった。
そのため国家百合騎士団は南部人民共和国領
パンジャーブへの侵攻を計画した。パンジャーブは非常に豊かな土地で当時インド全体の小麦の22%を生産していた。百合騎士団は180年3月20日に侵攻を開始した。
百合騎士団を敗残兵とみなしていた新ソ連と人民共和国は百合騎士団の戦力を過小評価し、自ら攻撃を仕掛けてくることはないと考えていた。百合騎士団は人民共和国の脆弱な防衛線を突破しパンジャーブ領内に進出した。百合騎士団は占領を達成すると占領統治もそこそこに占領地中の農作物倉庫を襲撃した。
倉庫の中身は根こそぎ奪われ、また刈り取りを待っていた農作物も占領地住民の強制労働によって早期収穫された。奪われた作物は次々と鉄道に積みこまれ騎士団領へ送られていった。
奇襲を受けた格好になった新ソ連は百合騎士団が食糧の強奪を行っていることを確認すると、パンジャーブ奪還の準備を進めるとともに大規模な爆撃を開始した。爆撃は百合騎士団までつながるすべての道路、鉄道、そして食糧倉庫が目標となった。この爆撃によって輸送中の食糧や百合騎士団のわずかな食糧備蓄が破壊された。特に輸送中だった合計500万トンの小麦の焼失は百合騎士団にとって痛恨の出来事だった。
パンジャーブ州は爆撃がひと段落し、他戦線が安定した6月15日に新ソ連軍によって奪還された。
食料供給を目的としたこの作戦の評価は散々なものである。食料は殆ど破壊され、作戦開始前よりむしろ備蓄は減少した。また新ソ連に百合騎士団の厳しい台所事情が露呈したことも大きな失敗とされる。
帝国軍の反撃
グジャラートの戦い
大中華と交戦状態に入った帝国は大中華との戦争に備えるため新ソ連との紛争を早期解決させなければならなかった。そのため帝国派は新ソ連にとってのインドにおける要衝グジャラートへの攻撃を決意した。
グジャラートは新ソ連本土と人民共和国を繋ぐ唯一の臨海地域で、新ソ連の事実上の植民地だった。そのためグジャラートの攻略は軍事的、政治的インパクトが期待でき、素早く新ソ連との戦いを終結させる鍵と期待された。
しかしこれを行う帝国軍には戦力が根本的に不足していた。デリーの大敗から帝国軍は立ち直っておらず、また中華方面にも戦力を引き抜かれていた。また補給も問題であった。もっとも近隣の兵站拠点としてはムンバイが好ましかったが、ムンバイは後背に西ガーツ山脈が存在し陸路は険しく、制海権を失った以上補給拠点として好ましくなかった。そこで次点としてインドールが攻勢発起点として選ばれた。しかしインドールは既にガンジザールへの補給拠点も兼ねており、しかもインドール周辺のインフラはムンバイほどよくはなかった。
しかし反攻は早期の中華への反攻を求める民意に答えるために政治的要請から強行されることになった。
攻勢の第一目標は新ソ連のインド支配の中枢、南アジア高等弁務官当局の存在するアフマダーバードの攻略。
第二目標としてその後方の港湾諸都市の攻略とされた。
作戦は当初順調に進んだ。防衛線を突破した帝国機甲師団はグジャラート南部の要地スーラトを無血開城させる。
これによりムンバイからの攻勢に備え南部に展開していた新ソ連軍を包囲しアフマダーバードへの道が開かれた。
にわかに危機に陥った新ソ連は周辺に存在する戦力を結集、断固阻止を試みた。そしてその中には人民共和国に供与されたばかりの駆逐戦車を装備した試験駆逐戦車部隊も存在した。そして偶然にもこの部隊はアフマダーバード前面のヴァドーダラーで帝国機甲部隊と交戦した。
結果、帝国機甲師団は対戦車装備を異常な規模で装備した防衛陣地に正面から突撃することになり、壊滅する。
更に後方の小都市ダマンに包囲された新ソ連軍は海岸からの支援を受けつつ抵抗を続け帝国派の戦力を釘付けにした。
帝国軍はこの段階で攻勢失敗を決定し早々に以前の境界まで撤退を開始した。この撤退は極めて整然と行われ、不用意に追撃した人民共和国軍は大損害を受けた。
アルナーチャルプラデシュ奪還作戦
帝国は国民が求める中華への報復のため早期反攻を計画していた。軍部もまた中華占領地への軍事作戦を目論んでいたが、あくまで威力偵察程度の作戦だった。しかしこの作戦は度重なる政治の介入によって規模の拡大を余儀なくされる。5回にわたる修正の後、威力偵察は全戦線での攻勢作戦へ変化していた。
最終的に攻勢に投入された帝国軍の戦力は14万人に上り、山岳の一地域を奪還するための戦力としては異例なほどの大規模だった。この大戦力は速やかに中華軍を排除するためのものだったが、その規模の大きさは却ってルークリア軍の行動を制限した。また山岳という地形は大兵力の投入には向かなかった。
攻撃を受けた中華軍は峠や狭隘な谷に布陣し効果的にルークリア軍を迎撃した。ルークリア軍は即席ながらも堅固な中華の防衛線とヒマラヤの過酷な環境に急速に消耗していった。よく訓練された兵士であっても数千メートルの山岳は困難な地形だった。
一方で中華の側も安泰ではなかった。中華にとって帝国がこれほど早く、大規模に奪還戦を仕掛けてくることは想像の埒外だった。中華はルークリアに対し八分の一以下の戦力で相対しなければならなかった。数で上回る相手に中華軍は良く戦ったが、徐々に戦線がほころび始め、兵力不足の中華にそれを補填する能力はなかった。一週間後には中華は大きく撤退し中華本土に続く最終防衛線まで後退することになった。撤退の際には中華軍の傷病兵は置き去りにされた。彼らは中華移住団とともに帝国派に報復として虐殺されることになった。
しかし帝国派にとってもこれが攻勢限界だった。充足率は度重なる無理な攻勢によって半分を切り、厳しい冬が到達しつつあった。中華の増援の来援とともに頼みの綱である数の優位すら怪しくなった帝国軍は潰走を開始した。
冬のヒマラヤ山脈で帝国兵士の多くが命を落とし最終的に生き残った兵士は全体の3割に過ぎなかったともされる。
生物兵器の使用
アルナーチャルプラデーシュの戦いの後、大中華は風船爆弾の実戦使用を行った。爆弾には小麦に感染する病原菌が搭載され、インドの穀物生産に大打撃を加えられる計算だった。
発射された風船は貿易風に乗ってチベットを進み、ヒマラヤ山脈に衝突して全てが失われた。この作戦は戦後ソ連系ジャーナリスト
イブン・エルヴィンの調査によって判明し諸外国の心胆を寒からしめるとともにヒマラヤ山脈の存在を忘れていた中華軍を馬鹿にする反中メディアによって度々取り上げられることになった。
自然休戦と決戦の発起
楊=ロマノフ覚書
ルークリア軍の攻勢の失敗後、前線の動きは停滞し自然休戦状態になった。しかしこれは戦争状態の解除を意味するものではなく、むしろ各国は更なる動員と次なる作戦に向け準備を整えていた。その一環として同じ側で戦うことになった新ソ連と大中華の間で会談が持たれた。
181年9月3日に昆明で行われた両国外相の密会では両国の戦争遂行のすり合わせが行われたが、結局この会談は成果を上げなかった。具体的な協力関係の妥結を期待した両国首脳の期待に反し、合意に達し明文化されたのは事変中の両国の軍事行動を妨害しないことのみであった。
両国の決裂には多くの理由があるが、以下は新ソ連の国際学者エヤレティ・ハンマールが論文『新ソ連・大中華のインド戦略』で述べた主な理由である。
●新ソ連が大中華のインド分割に否定的であったこと。 |
●新ソ連がこの戦争を総力戦と認識していたのに対し大中華は依然として局地紛争として認識していた認識の相違。 |
●上述の相違に由来する介入の姿勢を見せるレグルス国家再生政府へのスタンスの違い。 |
※エヤレティ・ハンマール『新ソ連・大中華のインド戦略』12-13頁
この会談の事実上の決裂は両国の相互不信を深め、あとの中華の早期離脱を招いたともいわれていわれている。
自然休戦は182年の春まで続いた。
アッサム侵攻
自然休戦期に大中華軍は次期攻勢に向けアルナーチャルプラデシュのインフラ強化を行った。これにはヒマラヤ越えの鉄道路線や飛行場の整備が含まれ、現地住民の厳しい強制労働によって行われた。
大中華がヒマラヤ山脈の防衛陣地を攻略するために用意した策は極めて単純明快だった。航空優勢による帝国軍の圧殺。ルークリアの貧弱な航空・防空能力からみて実行は可能であると判断された。
作戦はヒマラヤの雪が解けた180年5月6日に開始された。この空域における航空戦力比は実に5:1に達しており、ルークリアの脆弱な防空網は機能停止に追い込まれた。アッサムは依然として険しい地形ではあったが、抵抗する軍を事前に破壊し、移動を遮断したことで簡単に進撃することができた。
またこの戦いにはレグルス国家再生政府の外征軍であるレギオンも参加したが中華軍になすすべなく撃破されている。しかし国家再生政府の介入が実際に確認されたことは中華に国家再生政府による核攻撃の脅威を現実のものとして受け取らせることになった。
国家再生政府の介入
レグルス国家再生政府
レグルス帝国は149年に事実上滅亡したが、法的には政権は依然として植民地であったバングラディシュにて存続していた。この政府は152年の
アンドレイア・レヴィツェンスクのクーデターによって瓦解したが、政権を奪取したレヴィツェンスクは
アプソゴスイデオロギーの下で独裁政権を形成したが、依然としてレグルスの国号を保ちOFCにも残留し続けた。レヴィツェンスクは国境を閉ざし鎖国したが、対ルークリア関係では国防をほぼルークリアに依存するなど関係自体は接近させた。
パキスタン戦争では自国の安全を保障しているルークリアの危機に対し旧レグルス軍の核兵器を持ち出して新ソ連を脅迫、聞き入れられないとなると実際にテヘランに対し使用し新ソ連に和平を強制させた。
そしてルークリアを屈服させんとする新ソ連・大中華にとって国家再生政府の介入は起きるかどうかではなくいつ起きるかの問題だった。この点について両国の見解は一致していたが、核に対する報復手段を持たない大中華は弱腰であったのに対し新ソ連はルークリア問題と国家再生政府問題の一挙解決を企図していた。
介入
アッサムへの侵攻を受け、182年2月19日に国家再生政府はパキスタン戦争以来の外交声明を送った。即時停戦、さもなければしかるべき手段での報復という極めて短文なメッセージだったが、意図は明らかであった。
大中華はこのメッセージを受け停戦の意向を固めた。もとより核武装国家である国家再生政府への対応策は大中華にはなく、このあたりが潮時だと考えたためである。大中華は速やかに帝国に対し終戦協定の締結を迫った。
当初の和平案はアッサムまでの全占領地の併合だったが、協議の末にアルナーチャルプラデシュとブータンの併合で合意された。アッサム攻勢で化学兵器を使用され民族浄化まで受けた帝国としては苦渋の決断だったが、国内での厭戦感情も増大しつつあり締結に臨まざるを得なかった。
その一方、新ソ連はこの宣言を黙殺した。
ベンガル戦役
ベンガル侵攻計画
自然休戦中、新ソ連軍は4つの計画を有していた。
1つはムンバイへの局所的な攻勢。これは大戦力を用意せずとも容易に達成できたが、政治的インパクトは不十分だった。
2つ目の計画はインド南部の要衝マドラスへの上陸作戦である。セイロン島の陥落に伴って新ソ連軍はその作戦行動圏をベンガル湾まで拡大しており、マドラスもまた攻撃範囲内だった。またマドラスはセイロンからの航空支援も十分に受けることができる目標だった。
第三案はガンジス平原を通ってベンガルまで打通する作戦計画だった。これは新ソ連軍の大部分を投入する作戦で、実行にはすさまじい労力と資源が必要だったが達成されれカルカッタに避難したルークリア政府を破壊することすら期待できた。
第三案より実現性が高く同様の効果を得られるとされたのが第四案で、ベンガル湾へ上陸しカルカッタ・国家再生政府を直接攻撃する案であった。
検討の末選ばれたのは第四案だった。これは海軍の主張が通った形であるとともに、その背景には人民共和国での反ソ感情の高揚があった。新ソ連はこれを抑えるため短期的に劇的な勝利を抑える必要があったのである。
なおこの反ソ感情の高揚の原因は白百合騎士団によって行われたパンジャーブへの攻撃だった。人民共和国の重要な穀倉地帯であったパンジャーブへの攻撃で、人民共和国の農業市場を支配する新ソ連企業
UACは備蓄食料の多くを失っていたが、収支を維持するため更なる輸出を必要としていた。これは必然的にインド市場に回るはずだった食料も輸出に回されることになり、インドでは飢餓が迫りつつあった。飢餓の恐れの情報は新ソ連によってコントロールされていたが、漏洩は時間の問題だった。新ソ連がインド人を飢餓に追い込み人口を減少させようとしているという陰謀論が蔓延し、反ソ感情が急速に高まった。これを受け未だに輸出を続けようとするUACに対し
南アジア高等弁務官区は港を封鎖し食糧配給を実施したが、事態は悪化し続けた。この事態を抑えるために新ソ連は対印一撃論とでもいうべき理論に従い、首都カルカッタを直撃しこれを制圧、早期終結に持ち込む算段を立てたのである。
サザンカ作戦
ベンガル侵攻に先立ち新ソ連は国家再生政府の核兵器を破壊しなければならなかった。SIDは国家再生政府の核弾頭を20発前後と見積もっていた。新ソ連では国家再生政府の核兵器を無力化する計画はパキスタン戦争後から検討されており、その計画は3段階に分かれていた。
第一段階でXEISなどの特殊部隊を国家再生政府に侵入させ、基地の核兵器を破壊する。潜入には特殊潜航艇が投入され、ガンジスデルタを遡上して基地に侵入するものとされた。第二段階で先制核攻撃が行われることになった。弾道弾・戦略爆撃機によって指揮系統を含む核戦力を完全に破壊することが目指された。以上の二段階が失敗した場合、三段階目が発動されることとされた。国家再生政府の保有する音速爆撃機、弾道弾の迎撃が目標であり、対空核兵器の使用も許可されていた。
新ソ連政府はこの計画を実行するにあたって撃ち漏らしがありうることは十分に想定していたが、コラテラルダメージとして容認できると考えていたことが230年の機密開示に伴って明らかになった。
サザンカ作戦はカルカッタ上陸作戦に先立ち6月3日に開始された。
作戦開始に伴って新ソ連全土で報復核攻撃に備え戒厳令が布告され、すべての市民は理由も説明されぬまま防空壕・シェルターへ避難させられた。この際の混乱で死んだ3人の民間人がこの戦争における新ソ連民間人唯一の死者とされている。XEISは世界で最も厳重とさえ言われていた国家再生政府の軍事拠点に侵入し、目標とされていた7つの核弾頭のうち6つを破壊することに成功した。しかし残りの一発が破壊される前にXEISの侵入は露見し、サザンカ作戦は第二段階に移った。
新ソ連は弾道弾と戦略爆撃機を投入しバングラディシュに核攻撃を行った。この攻撃は歴史上例を見ない密度の物だった。推定50発近い核弾頭が狭いバングラディシュに投下された。この攻撃でベンガル人の1/3にあたる4000万人以上が死亡し、ベンガルデルタは致命的な核汚染にさらされた。
全弾着弾から36時間、国家再生政府からの報復攻撃はなかった。全ての核弾頭は発射前に地上撃破された。
サザンカ作戦は統一歴の記録上始めて敵国の完全破壊を目的とした核攻撃であったことに加え、歴史上唯一的核戦力の破壊に成功した先制核攻撃だった。一部の国際学者はこの「成果」が特に新ソ連指導部に成功体験として強烈に記憶され、その後の核兵器の使用のハードルを著しく下げることになったと指摘している。
ベンガル上陸作戦
国家再生政府の脅威を未然に排除した新ソ連はついにカルカッタへの上陸作戦を開始した。
新ソ連がこの上陸作戦に用意した戦力は実に12万人、その内3万5000人が第一陣として上陸を行う予定だった。海上戦力はさらに強力であり、
レーニンを筆頭とする戦艦18隻、保有する航空母艦全てに当たる5隻の空母、外洋航行可能な輸送艦群など新ソ連海軍の全力がベンガル湾に集結していた。
対する帝国軍だが、洋上戦力は大きく不足していた。原因はいくつかある。まずこれほどの大艦隊を正面から防げるだけの戦力はセイロン沖で失われていた。セイロン沖の敗戦によって帝国海軍の無傷の船は全体の1/3にまで削られていた。加えて石油不足が深刻化し、いまだ健在の艦も出動できる状態になかった。ルークリアの当時の主要な石油精製所、備蓄所はもれなく人民共和国領にあり、代替施設の建造は進んでいなかった。
それに比べれば陸軍はまだ頼りになる状況だった。改革途上で、デリーでの大敗もあったとはいえ陸軍の大半はいまだ健在だった。アッサム攻勢に対応していた陸軍も新ソ連との決戦に向け再配置を進めていた。
しかし帝国首脳部は新ソ連の上陸がカルカッタなのかマドラスなのか、遂に決断することができなかった。新ソ連軍は上陸に先立ち
SP作戦と呼ばれる大規模欺瞞作戦を展開しており、それが実を結んだ形になった。この結果帝国軍は大きく戦力が分散した状態で決戦を迎えることになる。
なお空軍については特に記述できることはない。もともと少ないルークリア空軍はアッサムで壊滅していた。
このような陣容で決戦の火ぶたは落とされた。
サザンカ作戦から3週間後の6月24日、新ソ連の大艦隊がカルカッタ沖に出現した。戦艦群による制圧射撃の後、上陸部隊が進発した。上陸部隊の切り札はこの戦いで初投入となる水陸両用戦車T-380であった。
T-380は上陸用舟艇に先行してビーチに揚陸、持ち前の砲と装甲で機関銃陣地を制圧していった。T-380は戦車としてみると軽戦車程度としての能力しかなく、対戦車兵器と出会うと脆かったが上陸作戦時には頼れる味方として兵士たちに好まれた。
また上陸後も河川の多いベンガル地方ではそのまま運用され内陸へ進んでいった。
上陸を受けた帝国軍も当然無防備ではなかった。背後に首都を抱えたカルカッタの帝国軍は水際防衛で新ソ連軍に臨んだ。特に激しい戦闘が行われたのが
マンダルマニビーチだった。ビーチから一歩奥まった箇所に防御陣地を築いた帝国軍と正面突破を図る新ソ連軍が衝突した。
カルカッタに近く最も長大なマンダルマニには即席ながらもしっかりとした防御陣地が築かれていたことが激戦を引き起こした。特に巧妙に配置された対戦車砲は舟艇や水陸両用戦車を効果的に破壊していった。新ソ連軍は艦砲射撃で推定位置もろとも吹き飛ばすしか取れる手段がなかった。
しかし上陸作戦自体は新ソ連の勝利という形に終わった。新ソ連軍はビーチに橋頭保を確保し、前進する準備を整えた。
カルカッタへの侵攻
激戦の末ビーチを確保した新ソ連軍は目標へ向けた前進の準備を整えた。
この時点で是が非でも確保しなければならなかったのはカルカッタ周辺で最大の外港である
ハルディア、続けて戦略大目標であるカルカッタであった。新ソ連軍はハルディアに殺到した。明日の自分たちの食事のためにもハルディアは是が非でも落とさなければならなかった。一方ハルディアを守る帝国軍は少なかった。主力は水際防衛に当たり、新ソ連軍の砲撃と突撃によって失われていた。
しかしハルディアを守る帝国軍にとって良い点もあった。ハルディアは河口を少し遡上した土地にありビーチで猛威を振るった艦砲射撃は使えないはずだったからだ。またハルディアが新ソ連が上陸したビーチのある場所と河川を一本挟んでいたことも防衛有利だった。アッサムから帰還する部隊を増援として期待することもできた。
これに対して新ソ連は強襲をもって答えた。戦艦を座礁の危険を冒してでも前進させ火力支援を行い、空母航空隊は不眠不休のローテーションで阻止攻撃をつづけた。それでもなおハルディアへの攻撃は困難を極めた。艦砲射撃も港を狙うわけにはいかず、渡河攻撃は困難を極めた。
戦局を打開したのはサザンカ作戦を成功させベンガル地方で友軍との合流を狙っていたXEISの兵士たちだった。
XEISのいくつかの部隊はサザンカ作戦終了後、友軍と合流できず潜伏を続けていた。その中で新ソ連軍上陸の報を聞いた彼らはハルディアまで移動、都市の中に浸透し斬首作戦を決行した。作戦はXEISの現地部隊だけで決められただけの計画だったが、驚くべき成功を収めた。帝国兵の偽装をしたXEISの隊員は帝国軍の司令部に侵入、司令部要員を悉く殺害または捕虜にする大戦果を挙げた。
この結果司令部を失ったハルディア防衛隊は急速に瓦解、カルカッタの最終防衛線は崩壊した。7月1日にハルディアに入城した新ソ連軍はその後抵抗を受けることなく前進、翌日カルカッタは無防備都市を宣言し新ソ連に下った。
ビハール決戦
ハルディア、カルカッタを占領した新ソ連軍は洋上の大部隊をベンガル地方に揚陸することに成功した。帝国軍にとっては突如として第二戦線が出現したことと同義であり、首都陥落のショックと合わさって混乱は避けられなかった。
首都移転の混乱で政府機能が事実上機能を停止する中で、帝国軍は新ソ連軍を食い止めるため最後の作戦を立案した。インド戦争の終わりを飾る最大の決戦、ビハール会戦の始まりだった。
ビハール会戦はカルカッタを攻略しヒンドゥスタン平原をそって西進する新ソ連軍と東進し新ソ連軍をベンガル湾に突き落とさんとする帝国軍の衝突だった。最初に接敵した部隊は帝国新ソ連両軍の先鋒を担っていた戦車旅団・連隊であった。バースで衝突した両部隊は互いに偵察に徹し、大会戦は地味な始まりとなった。
バースでの交戦から2日、7月7日両軍の主力がバース南部で衝突した。帝国派の機械化歩兵と新ソ連の機甲師団が正面から激突したのである。戦局は当然、新ソ連の有利に進んだ。しかし帝国軍はさらに増援を送り込むとともに南方に機甲旅団を展開し側面攻撃を狙った。これを察知した新ソ連軍は第三装甲師団から機甲連隊を派遣、インド戦争最大の戦車戦であるバインド戦車戦が始まった。
この戦いは両軍の最新戦車同士の衝突…とはならなかった。帝国派は最新鋭のVMT-5を投入したが、新ソ連は兵站の関係もあって使い慣れたT-27を投入した。VMT-5はT-27に対しあらゆる性能で勝っていたが、戦車戦の技能では歴戦の新ソ連側に優位があった。戦車戦は性能差で押し切ろうとする帝国派と肉薄戦を仕掛ける新ソ連という構図になった。
3度の正面衝突の結果、両軍は互いに数百台近い戦車を失い攻勢能力を失った。キルレシオでは新ソ連軍が1.5と優位に立ったが、決定的な勝利を得ることはできなかった。
さらに7月10日にベンガル一帯で雨季が始まった。泥濘は両軍主力の装甲戦力の足を取り機能不全に陥らせた。これにはバインドよりさらに南方から迂回するため進撃を行っていた新ソ連の戦闘団も巻き込まれ、ビハール会戦は終局を迎えた。
ビハール会戦は新ソ連の戦術的勝利、両軍ともに戦略目標未達成という形で終わった。どちらも相手の撃破を企図していたのも関わらずそれを達成することはできなかった。新ソ連はルークリア軍相手に優勢を保ち続けたが、遂に突破を果たすことはできなかった。
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T-27G型 熟練兵の駆るT-27は無類の強さを誇った |
VMT-5 当時の帝国軍の最新鋭戦車だった |
和平交渉の開始
新ソ連軍の排除に失敗したルークリア人民共和国は遂に国内の厭戦感情に耐えかね8月1日に新ソ連に停戦交渉を持ち出した。新ソ連は当初この交渉を拒み続けていたが、新ソ連にとってももう戦争を継続できる状態ではなかった。ルークリア人民共和国内部の反ソ暴動はもはや制御不能な段階に達しつつあり、速やかに対応しなければインド全域を失う可能性があった。またこれ以上の戦争は本格的に新ソ連の体力を奪いかねないという懸念もあった。新ソ連は停戦交渉を受けることを決断した。
ビハール会戦の結果、双方は妥協して遂に数百万人以上の死者を出した戦いの停戦交渉が開始される。交渉は戦争前から人民共和国と帝国の境界線近くにあったマノハル・ターナー市で行われた。
交渉に出向いたのは人民共和国、帝国の外務相、新ソ連の事務次官であった。新ソ連が次官クラスしか出席させなかった事はこの戦争の勝者が誰なのかを如実に示していた。
交渉は基本的に新ソ連・人民共和国有利に進み、帝国は大規模な境界線の押上げを認めざるを得なかった。
戦いの舞台となったデリー、ガンジサガール周辺、そしてセイロン島と周辺の島々が帝国の手から離れた。
一方で帝国が何としてでも取り返したいカルカッタ周辺の返還交渉は驚くほどすんなり進んだ。新ソ連としてはカルカッタ周辺に大した価値を見出しておらず、ビハール会戦の膠着後は飛地が増えても管理が面倒になるだけだとして長期的な占領は視野に入れていなかった。それでも帝国はこの撤退の費用の支払いをしなければならず、事実上の賠償金となった。
マノハル・ターナー休戦協定と軍事境界線は以後国境紛争を挟みつつも固定され、帝国の瓦解と
第五インターナショナルの加盟後は事実上の国境として固定される。
戦後
182年9月23日に三か国によって休戦協定が発効した。休戦の発効によって人民共和国と帝国はお互いの間での平和を享受することができたが、それは内部の混乱と向き合う必要があることを意味した。
ルークリア人民共和国では戦後反ソ感情が暴発し
北ルークリア動乱が発生した。南ルークリアへの再統合を求めた民衆の運動は、しかし帝国がこれを黙殺したことで早々に頓挫、人民共和国軍と新ソ連軍の介入を受け粉砕された。以後北ルークリアでは187年まで軍政が敷かれることになる。
ルークリア帝国では戦時中の食糧統制をきっかけに財閥を形成していたエーヴェルト社が没落しベルンカステル社の一強体制が築かれた。また戦後の民主化の中で北ルークリアの影響を受けた左派が躍進、政治的混乱の末に南ルークリアは君主制を廃し社会主義化することとなる。
この戦争で最も大きな損害を受けたのはレグルスであった。国土の全域は核兵器で破壊され、中央政府は失われた。戦後南ルークリアはこの地域に進駐した。ルークリアへの再統合が計画されていたが、在ルークリアレグルス人の働きかけによってレグルス復古派の手によって
レグルス国民国が建設され新たな道を歩むことになる。
対照的に新ソ連はこの戦争の大きな受益者であった。南ルークリアを撃破しセイロン島を抑えたことでインド洋における新ソ連の地位は飛躍的に高まった。北ルークリア動乱も鎮圧されたことで新ソ連のインド洋における地位は確固たるものになった。この戦勝と
アークランド懲罰戦争における二つの勝利は新ソ連の超大国としての地位を確固たるものにしたと言える。
大中華はこの戦争の結果、ルークリア国境のカシミール、アルナーチャルプラデシュとブータンを併合した。
この戦争は人口過密地域の南アジアで戦われたことで両陣営合わせて多大な犠牲者を出した。統計にもよるが戦争を通じた死者は
5000万人以上に達するといわれる。このうち4000万人は新ソ連による核攻撃による死者である。
このような大規模な死者を出した戦争であるにもかかわらず、非難を殆ど行わなかった国際社会の姿勢が現在では批判されることがある。(
要出典)
またこの戦争では多くのジェノサイド行為が行われた。前述の核攻撃に加え、デリーの戦いでは人民共和国軍の特殊行動群が治安維持の名目で多くの市民を殺傷した。また大中華の占領地では中華民族主義の下で多くのインド系住民が誘拐と殺害の対象になり、統一歴2世紀を代表する
民族浄化として記録されている。またセイロン島では戦中戦後にかけて新ソ連に対する抵抗運動が行われたが、新ソ連がこれに対して行った政策・作戦は多くがセイロン人の絶滅を図るものだとして非難されている。
最終更新:2024年07月17日 11:02