人外と人間

ヤンマとアカネ 7 完結

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ヤンマとアカネ 7 859 ◆93FwBoL6s.様

 恐怖は進化の証だ。
 昆虫が巨大化することも二本足で直立することも脳が肥大化することも人間を捕食することもなければ、知らなかっただろう。原始的で初歩的な感情だが、感情は感情だ。六本足で地べたを這いずっているだけでは、感情すら覚えなかっただろう。
 昆虫人間は、驚異的な速度で進化している。世代を重ねるたびに容貌は人類に近付き、知性が向上し、身体能力は増大する。人類が七百万年掛けて到達した地点に、ほんの数十年で到達した種族を、人類に恐れるなという方がまず無理からぬ話だ。また、繁殖力も凄まじい。昆虫人間が一度の産卵で生み出す個体は人類を遙かに上回り、生命力も適応能力も強靱だった。たった数年のうちに世代を交代し、更に進化した個体を生み出していく。そして、彼らが主に捕食するのは他ならぬ人類だ。
 このままの勢いで行けば、地球上が昆虫人間に淘汰されるのは時間の問題だった。だからこそ、人類側も手を打ってきた。少女にウィルスを注入し、毒餌として廃棄都市に投棄した。だが、人類側の目論見は外れ、毒餌は喰われることはなかった。無数に蠢く昆虫人間の中にも、変わり者がいたからだ。黒と黄色の外骨格と澄んだ緑の双眸を持った、一匹のトンボである。彼が少女を助けなければ、少女は虫に喰われ、その虫も他の虫に喰われ、内臓を溶かす病気が廃棄都市に蔓延しただろう。だが、そうはならなかった。そのために、廃棄都市に生きる者全てが恐怖に駆られている。死への恐怖と、滅亡への恐怖と、そして。
 愛する者を失う恐怖に。


 シブヤ上空は、羽音に埋め尽くされていた。
 虫。虫。虫。虫。虫。虫。どの空を見ても昆虫人間が飛び回り、どの地面を見ても昆虫人間が駆け回り、逃げ場はなかった。数日前から、異変の兆しはあった。内臓を溶かす病気で死ぬ者が増えるに連れて、どの種族も目に見えて殺気立っていた。昆虫人間同士にも、それなりに交流はある。言葉と言うには原始的な音を発して、威嚇ではなく情報を交換することは少なくない。文化もなければ文明もないが、多少の知性は持っている。そのなけなしの知性を駆使し、昆虫人間達は恐怖の根源を探している。つまり、毒を振りまいた元凶を探しているのだ。廃棄都市にいるはずのない人間と、それを喰わずに愛玩するイカれた昆虫人間を。
 腕の中の、茜の震えが止まらない。ヤンマの外骨格に縋り付く手はべっとりと脂汗が滲んでいて、顔は青ざめ、唇は歪んでいた。可愛らしい顔立ちは怯えに引きつり、目元には涙も滲んでいる。ヤンマは中両足で彼女を抱き寄せながら、複眼で外を窺った。ビルの割れた窓から見える空は、相変わらず昆虫人間に支配されている。澄んだ青は見えず、無数の羽が煌めいているだけだ。事の異変を察知してあの家から逃げ出したはいいが、そこから先は考える余裕もなく、手近なビルに逃げ込んで息を殺していた。

「動くに動けねぇな」
「ごめんね、ヤンマ、私のせいで」
「お前は何もしちゃいねぇさ。謝るな」
「でも、ごめんね」

 茜は潤んだ瞳を上げ、ヤンマを見つめた。

「だから、謝るな。俺が悪いことした気分になってくるじゃねぇか」

 ヤンマは顎を開いて細長く黄色い舌を伸ばし、茜の目元に溢れた涙を舐め取った。

「ほとぼりが冷めるまで、大人しくしているしかねぇな。こんなんじゃ、逃げようにも逃げられねぇからな」
「うん。そうだね」
「まあ、逃げるっつっても、どこに逃げりゃいいかは解らねぇけどな」
「それは、大丈夫だと思う。廃棄されたのは、トウキョウだけじゃないから」
「そうなのか?」
「うん。軍の施設にいた頃に、色々と教えられたから」

 茜は目元を拭ってから、ヤンマの屈強な上右足に腕を絡めた。

「トウキョウがダメになっちゃった後、チバとかカナガワとかサイタマとかグンマとか、その辺もコクレンの命令で廃棄されたんだって。そこに住んでいた人達は、海を渡って他の国に移住したの。だから、他の街も、トウキョウと似たような感じになってるはずだよ」
「だったら、逃げ場はあるってことか」

 ならば、まだ活路はある。ヤンマは複眼を上げ、昆虫人間の大群の切れ目を探した。高速飛行能力にはそれなりに自信がある。茜を抱えていたとしても、上手く風を掴めば振り切れないことはない。だが、シブヤを囲む昆虫人間の波が切れる気配すらなかった。昆虫人間という昆虫人間が、一族総出で出撃しているからだ。個体数の多い種族ならば、千どころか万を容易く超えているだろう。そういった種族が複数集まれば、あっという間に物凄い数になる。それだけ、どの昆虫人間も、茜の運んできた毒を恐れているのだ。ヤンマにも、その気持ちは解らないでもない。だが、恋に落ちてしまったことを自覚した今となっては、茜の毒など恐れるに足らない。
 だが、他の恐怖は感じていた。茜は弱い。昆虫人間の中でも特に脆弱な人型カゲロウよりも肌が薄く、筋力も弱く、戦う術を持たない。他の昆虫人間に捕らえられれば、一秒と持たずに殺される。ヤンマは己の戦闘能力にも自負を持っているが、この数は戦い抜けない。途中で力尽きて、茜を落としてしまうかもしれない。もしくは、他の昆虫人間に足を毟られて、茜を奪い取られて殺されるかもしれない。そう思ってしまったら、動けなくなった。このままではいずれ見つかって殺される、と解っているのに、四枚の羽は萎れてしまっていた。
 突然、全ての窓が羽音で震えた。ヤンマが茜を庇って身構えると、ばしゃあっ、と窓を砕きながら巨大な昆虫人間が外壁に取り付いた。人型カブトムシだった。黒光りするツノでコンクリートを打ち砕き、穴を一気に広げた人型カブトムシは、黒い複眼にヤンマと茜を捉えた。頭頂部だけでなく胸部からも先端の尖ったツノが生えているので、海を渡ってやってきたヘラクレスオオカブトと呼ばれる種族のようだ。

「こんなところにいやがったのか、逆賊め!」

 がちがちと口を打ち鳴らしながら、人型カブトムシは昆虫言語で叫んだ。ヤンマは羽を広げ、威嚇する。

「だからどうした! 俺は俺の思うように生きているだけだ!」
「その毒餌を俺に寄越せ。叩き潰してやる!」
「生憎、こいつは毒でも餌でもねぇ!」
「じゃあ、なんだって言うんだ」

 人型カブトムシはツノの先で天井を擦りながら、大股に歩み寄ってくる。

「人間なんざ、喰うだけの価値しかない生き物だ。そんなもんに情を寄せたところで、腹は膨れねぇんだぞ、田舎トンボ」
「お前如きにこいつの良さが解ってたまるかよ、ゴキブリモドキ」

 人型カブトムシ一体ぐらいなら、倒せないこともない。ヤンマは茜を背後に守りながら、上両足を広げ、三本の爪をぎちりと軋ませた。だが、人型カブトムシは構えなかった。床が震えるほど力強く下両足を踏み締めると、ぶぅん、と空気を唸らせながらツノを振り下ろした。頭頂部から生えたツノがコンクリートに埋まり、中に埋められていた太い鉄骨が飴細工のように曲がり、ビル全体が盛大に揺さぶられた。足元を支えていた床が砕け、割れ、抜けていく。ヤンマはすかさず茜を抱えると、人型カブトムシの肩を蹴って倒してから、穴から脱した。人型カブトムシは敏捷に反転し、ヤンマの左下足を掴もうと爪を伸ばしてきたが、それが掠る前にヤンマは羽ばたいてビルから遠ざかった。数秒後、劣化していた上に大打撃を与えられたせいでビルの天井が抜け落ちた。人型カブトムシは圧殺されたらしく、水っぽい破裂音がした。
 その様子を複眼の端で捉えながら、ヤンマは降下した。他の昆虫人間が争乱に気を取られている隙に、距離を取っておかなければ。だが、数十メートル滑空したところで行く手を塞がれてしまった。同族の中でも最も近しい種族、人型トンボがヤンマと茜を取り囲んでいた。仕方なく、ヤンマはひび割れたアスファルトに足を付けた。下手な飛び方をすれば、振り切るどころかすぐに捕らえられて殺されるだろう。
 びいいいん。びいいいん。びいいいん。びいいいん。色取り取りの複眼が二人を映し、威嚇のためにがちがちがちと顎を鳴らしている。ヤンマは彼らをぐるりと見渡し、苛立ちに任せて顎を擦り合わせた。彼らは顎を打ち鳴らす音を止めると、ヤンマを見下ろし、口々に罵った。

「一族の恥め」
「恥曝しめ」
「気違いめ」
「裏切り者め」
「穢れめ」
「死ね」
「死ね」
「死ね」
「死ね」
「死ね」
「殺せ」
「殺せ」
「殺せ」
「殺せ」
「殺せ」
「喰え! 喰え! お前が喰え! 毒を喰え! 毒を喰え!」

 毒を喰え。毒を喰え。毒を喰え。毒を喰え。誰かが言い出した言葉が伝染し、人型トンボは毒を喰えとヤンマにがなり立ててくる。その言葉は病よりも素早く昆虫人間達に行き渡り、人型トンボの輪の回りに他の種族が輪を作り、更にその上にも輪が作られた。
 毒を喰え。毒を喰え。毒を喰え。毒を喰え。皆、揃って叫ぶ。毒を運んだ餌を愛でる昆虫人間を蔑み、恐れ、怯え、憎むが故に。茜は昆虫言語は解らないのだが、ただならぬ様子を察しているらしく、がちがちと歯を鳴らすほど震えてヤンマにしがみ付いてきた。羽音という羽音、声という声、虫という虫が二人を囲んでいた。最早空は一欠片も見えず、日光も無数の羽の隙間から零れるのみだ。

「…離して、ヤンマ」

 茜は震える手でヤンマの胸を押して足を解かせると、後退して距離を置いた。

「茜?」

 ヤンマが茜に近付こうとすると、茜は首を横に振った。

「もう、いいよ」
「何言ってやがる、まだ諦めるには早すぎるだろ!」
「だから、もう、いいの」

 茜は懸命に怯えを殺し、引きつった笑顔を浮かべてみせた。

「もう、充分だから。私、ヤンマと一緒にいられて、本当に幸せだった。生活していくのは大変だったけど、毎日が楽しかった」
「茜…」
「私のこと、好きだって言ってくれて嬉しかった。だから、思い残すことなんてないの」

 茜は胸の前で両手を組み、膝を付いた。

「お願い、ヤンマ。私を食べて」

 喰え。喰え。喰え。喰え。喰え。怒濤のように同族の声は押し寄せ、憎悪を孕んだ恐怖は膨れ上がり、羽音は鳴り止まない。ヤンマは項垂れて膝を付いている茜と、飛び回りながら喚き続ける同族を見比べた。ここで喰っておけば、茜は誰にも殺されない。ヤンマの胃袋で消化され、ヤンマの一部となり、ヤンマの傍にいることになる。ヤンマが死に、誰かに喰われるその時まで、ずっと。
 ヤンマは歩み出し、茜に歩み寄った。その前に膝を付き、寝かせた爪先で茜の顎を持ち上げ、先程と同じように涙を舐めてやる。茜は意を決し、ぎゅっと瞼を閉じた。ヤンマは最大限に顎を開いて背中を曲げ、茜に覆い被さると、一筋の唾液が茜の頬を濡らした。事の次第を見守るためか、昆虫人間達の声は止んでいた。羽音だけが聞こえる中で、ヤンマは舌先で茜の髪を持ち上げ、囓った。

「これだけで充分だ」

 ヤンマは茜の髪を嚥下し、顎を閉じた。茜は慎重に瞼を上げ、恋人を見上げた。

「ヤンマ…」
「言ったはずだ。俺はお前が好きだ。好きだから、喰えるわけねぇだろうが」

 ヤンマは上中両足で茜を抱え上げ、硬く抱き締めると、猛った。

「俺は茜を守る! お前らが何をごちゃごちゃぬかそうが、俺にはどうでもいいんだよ!」

 茜はヤンマに力一杯抱き付き、昆虫人間の羽音に負けない声量で叫んだ。

「好き、好き、大好き!」
「そこまで言われちゃ、負ける気がしないぜ! どこからでも掛かってきやがれ、腑抜け共!」

 茜を抱えたヤンマが飛び立つと、昆虫人間の群れは堰を切ったように雪崩れ込んできたが、ヤンマは下両足を駆使して戦った。頭部を砕き、腹部を貫き、背面部を潰し、複眼を抉り、足を千切り、触覚を捻り、内臓を引き裂き、十、二十、三十、四十と倒していく。足場の弱い空中での立ち回りは、人型トンボと言えども不得手な分野だが、茜を守るために力を振るうヤンマに敵はいなかった。体液の飛沫が散り、外骨格や羽が乱れ飛ぶ中、茜は激しく動き回るヤンマから振り落とされまいと、渾身の力で抱き付いていた。ヤンマも手当たり次第に昆虫人間を蹴散らしながらも、茜の重みを忘れることは一瞬もなく、茜に届きかけた爪や顎は全て叩き折った。
 鬼を冠する名の通り、鬼と化したヤンマが動きを止めたのは、昆虫人間の体液の海と外骨格の山が大量に出来上がった頃だった。辛うじて生き残った昆虫人間達は散り散りに逃げていったので羽音も激減し、辺りには不気味な静寂と生臭い死臭だけが残留した。羽以外の全身を粘ついた体液に塗り潰されたヤンマは、昆虫人間の死体が転がっていないビルの上に降りると、茜の体の戒めを解いた。茜もまた昆虫人間の体液に汚れていたが、それに構うこともなく、すぐさまヤンマに抱き付いた。ヤンマも、彼女を柔らかく抱き締める。

「ヤンマァアアアア!」

 ぼろぼろと涙を流す茜に、ヤンマは体液で表面が潤った複眼を寄せた。

「茜…」

 涙が流せていたら、自分も流れていただろう。ヤンマはしゃくり上げる茜の背を叩いてやりながら、この上なく安堵していた。これで、もう二度と昆虫人間の世界には戻れない。だが、茜も人間の世界には戻れない。それでもいい、とヤンマは確信していた。茜さえ傍にいるなら、どこに行こうか構わない。ヤンマは顎に滴る体液を拭ってから、顎を開き、かかとを上げている茜に顔を寄せた。すると、聞き慣れたリズムの羽音が鼓膜を叩いた。ヤンマが素早く茜を背後に隠して振り返ると、水色の人型トンボが浮遊していた。

「あーにきぃー!」
「良いところだったのに何しに来やがったこの野郎! つうかお前は参戦してなかったのかよ、さっきのに!」

 ヤンマが昆虫言語で怒りをぶちまけると、シオカラは気まずげに顎をきりきりと擦った。

「つーか、集団行動なんてマジダリィしー、兄貴はマジパネェっすから勝てるわけねぇしー…」
「ちったぁ根性見せろよ。適当にウロチョロするしか能がねぇのか、お前は」
「だって、戦うのってマジウザイし」
「じゃ、なんで今更来やがったんだ。消耗した俺を殺す気か? お前如きに負けるわけがねぇけどな」

 ヤンマが体液に汚れた爪を開いてみせると、シオカラは飛び退いた。

「いやいやいやいや、マジ違うっすから! マジ戦うつもりないっすから! サーセン!」
「だったら、何だってんだ」
「いやー、その…」

 シオカラは言葉を濁していたが、ダークブルーの複眼に茜を映した。

「生体兵器十七番。現時刻を以て、第一次作戦を終了とする」
「え…?」

 突然、シオカラが人間の言葉で喋ったので、茜は目を丸めた。シオカラは、明瞭な発音で続ける。

「我らの求めていた実験の成果とは程遠い結果だが、PGウィルスの有効性は実証出来た。PGウィルスが人間に与える作用も検証出来た。PGウィルスは人間の肉体に損傷は与えないが、脳を損傷させることが解った。一連の行動を観察していたが、生体兵器十七番は狂っている。この個体に搭載した情報収集端末によって、我らはお前達を観察していた。だが、やはり、昆虫人間が人類に害を成すことは否めない事実だ。昆虫人間に対する決定打と思われていたPGウィルスも、人間の脳を冒すのであれば却下せざるを得ない。実に無駄な時間を浪費してしまった。そして、生体兵器十七番も回収するべきではないと判断する。これはお前をトウキョウに投棄した時に既に決定していた事項だが、軍紀に則って報告させてもらった。これより十六時間後に、第二次作戦に移行する。以上、通信終わり」

 ぶつり、と機械的なノイズの後、シオカラは沈黙した。きちきちきちきち、と他の昆虫人間と変わらぬ音を発し、首を回している。通信が途切れたため、底上げされていた知性を失ったらしい。シオカラは辺りを見回していたが、己の縄張りに向けて飛び去った。ヤンマはシオカラが平坦に並べ立てた面倒な言葉の今一つ意味は解らなかったが、その意味を全て理解した茜は後退った。

「それって、もしかして…」
「茜、あいつは何を言ったんだ!」

 ヤンマが問い正すと、茜は両腕を掻き抱いた。

「トウキョウごと、私もヤンマも他の虫達も爆撃して焼いちゃうつもりなんだよ!」
「バクゲキってなんだよ」
「でっかい飛行機が来て、一杯爆弾を落とすの。ああ、やっぱり私のせいだ! 私なんかがいるから、こうなっちゃうんだ!」
「落ち着け! そんなわけねぇだろうが! シオカラが言ったことは良く解らんが、その前に逃げりゃいいだけのことだろ!」
「でも…」
「俺に人間の都合は解らねぇし、他の人間共がお前が押し付けたことも解らん。だが、これだけは誰よりも解る」

 ヤンマは茜の両肩を掴み、向き直らせた。

「俺は茜を死なせたくない」

 茜は涙を溜めた瞳を見開いていたが、小さく頷いた。ヤンマは茜を抱き締めると、ビルの屋上を蹴り、体液の海の上を滑空した。まずは家に帰ろう。ありったけの荷物を掻き集めて、逃げられるだけ逃げよう。未だ騒がしい空を飛び、ヤンマは家を目指した。昆虫人間達は、先程までの態度とは打って変わり、ヤンマの姿を見ただけで飛び去って道を空けてくれたので飛びやすかった。茜はヤンマに身を委ね、これから訪れるであろう出来事を思い描いて悲観していた。シブヤには、茜も思い入れがあるからだ。だが、機を逃せば何もかもが無駄になる。茜が授けてくれた感情も、茜のために振るった力も、殺さざるを得なかった同族の命も。
 だから、今は飛ぶしかない。

 かつて暮らしていた街が、爆音と共に崩壊していく。
 轟音。爆音。衝撃。火柱。断末魔。海から吹き付ける風に乗って運ばれてくる焦げ臭い匂いには、無数の死の残滓が混じっていた。人のいない街の民家の屋根に座ったヤンマは、涙を堪える茜を支えてやりながら、複眼の一つ一つに終末の光景を焼き付けていた。
 死への恐怖故に二人に襲い掛かってきた昆虫人間達との戦いを終え、束の間の平穏を味わう間もなく、二人は逃げ出す準備をした。今まで茜が掻き集めた食糧や、必要最低限の衣服や日用品を手当たり次第にバッグに詰めて、ヤンマは彼女を抱えてトウキョウを脱した。どこに行くのか、どこを目指すべきなのか、どちらも解らなかった。だが、今は死ぬ時ではないと思っていたから脇目も振らずに逃げた。
 日が暮れた頃、トウキョウに爆弾の雨が降った。西の海から飛んできた巨大な爆撃機が、炎を生む鉄塊を廃棄都市に落としていった。それがようやく収まったのは、深夜だった。だが、爆撃機が飛び去っても轟音は止まず、激しい炎の影響で何かが爆発しているようだった。昆虫人間は、ただでさえ火に弱い。いかに屈強な外骨格を持っていたとしても、火を付けられてしまえば、呆気なく焼け焦げて死んでしまう。だから、あの街に残っていた昆虫人間達はほとんど死んだだろう。けれど、自分でも意外に思えるほど悲しくはなく、空しいだけだった。所詮、虫は虫だからだろう。そう結論付けたヤンマは、度重なる壮絶な出来事に疲れ果てて、うとうとしている茜を引き寄せて胸に収めた。

「ん、あ…」

 茜は閉じかけていた瞼を開き、目を擦った。

「眠いんなら、寝ててもいいぞ」

 ヤンマが言うと、茜はヤンマに寄り掛かった。

「疲れたけど、そういう気分じゃない」
「そうか。だが、無理はすんなよ」
「うん」

 茜は、家並みの遙か先で赤々と燃えている都市を見つめ、瞬きした。

「ねえ、ヤンマ」
「なんだ」
「私って、頭がおかしいと思う?」
「シオカラの言っていたことか」
「あの子って、そういう名前だったんだ。でも、あの子も、もう…」
「あいつのことは気にするな。でもって、言われたことも気にするな。茜の頭がおかしいってんなら、俺の頭はもっとおかしい」
「そう、かな」
「つうか、虫も人間もどっちもおかしいんだろうぜ。俺にはそうとしか思えねぇ」
「だったら、私はどうすればいいのかな」
「俺の傍にいろ。俺も茜の傍にいる。俺達には、それしかねぇだろ」
「うん、そうだね。夜が明けたら、もっと遠くに行こうね。誰にも邪魔されないぐらい、遠くに」
「茜さえいれば、俺はどこに行ったっていい。愛してるぜ、茜」

 ヤンマは爪先で茜の顎を持ち上げ、顔を寄せた。

「ヤンマ、愛してる」

 茜はヤンマの顔を両手で挟み、引き寄せた。無数の昆虫人間と廃棄都市を焦がす炎に照らされながら、二人は深く口付けた。数多の命を踏み台にして、越えてはいけない壁を越えて、受けるべき裁きから逃れて、それでも生きていられるのは業の深さ故か。罪だと言うなら、全てが罪だろう。誰にも許されることでもなければ、決して理解されることでもない。けれど、ヤンマと茜は幸せだった。
 恐怖が進化の証なら、恋と愛は過ちの証だろう。愛するべきではない者を愛し、愛されるべきではない者に愛されたのだから。恋は甘い蜜に、愛は苦い毒に似ている。一度でも恋を味わえば最後、それが毒に変わり、全身に回ろうとも逃れることは出来ない。
 命を落とす、その時まで。


 それから、二人は旅立った。
 ヤンマは茜を抱いて、澄んだ羽で風を切り裂きながら飛んだ。
 二人を阻むものも、隔てるものも、拒むものもなく、ただひたすらに遠くへと。

 どこまでも、どこまでも。







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