車種名 | ER3 |
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クラス | B |
最高出力 | 300ps |
車体重量 | 1230kg |
パワーウェイトレシオ | 4.1 |
吸気形式 | ターボ |
駆動方式 | F4 |
入手金額 | |
0-100km/h加速 | xxx sec. |
最高速度 | 177km/h |
メモ | 大型エアロとPCCSで完全武装。 悲願のWRC制覇を掴んだ第一世代エボの最終型 |
記事は編集中です。
概要
元ネタ解説

↑市販モデル

↑WRC グループA仕様
三菱・ランサーGSRエボリューションⅢ (CE9A)
グループB廃止後、WRCは下位カテゴリーのグループAの規定に移行する。グループAは市販車から大きな改造を施すことが禁じられており、即ち市販車に近いレースカーが争う舞台となっていた。ラリーにおいてはクワトロを皮切りに4WDマシンが常識となっており、ホモロゲーション取得のためにはほぼラリーカーと言えるスポーティな4WDマシンを売り捌かねばならなかったのである。そこで三菱が送り出したのがE39A型ギャランVR-4。当時の最新技術をふんだんに盛り込んだスポーツセダンは、篠塚健次郎らのドライブによって6戦を優勝する等、その戦闘力の高さを見せつける。
しかし、ギャランはとある問題を抱えていた。デカいのだ。全長は4560mm。大きいということはすなわち取り回しが悪いということ。三菱にとって、より小型で軽量、パワフルなマシンを開発するのがWRC勝利に対しての急務となっていたのだ。
そこで、ギャランVR-4から引き継いだ2Lターボエンジン、4G63と4WDシステムを小型セダンに押し込んで誕生したのがランサーエボリューション、通常ランエボである。全長は4310mm、ギャランと比較すれば一回り小柄なマシンとなった。奇しくも同時期、スバルはギャランに近い車格のレガシィからより小型なセダン「インプレッサ」にレガシィのエンジンEJ20と4WDシステムを押し込んだラリーウェポン、インプレッサWRXを送り出す。生い立ちの似た2台は良きライバルとして、互いに刺激し合いながらWRCの舞台で進化を遂げていくこととなる。海外に目を向けるとフォードがシエラサファイアRS4x4という4.5m級のセダンのシステムを小型車エスコートに押し込んだエスコートRSコスワースを発表。こちらもWRCでのフォード復活の立役者となっており、WRCのグループA時代、日本車黄金期に真っ向勝負を挑んだダークホースのようなマシンでもある。生まれた場所こそ違えどこの3台はある意味で精神的兄弟とも言えるかもしれない。さらにWRカーに規定が移行したのちには東欧の雄、シュコダがCセグメントセダンのオクタヴィアを投入。しかしやはりギャラン、レガシィ、シエラと同様にボディが大柄であったため、そのシステムを後継のラリーカーであり、より小型なファビアに搭載して戦闘力向上を図っている。このように、大きなセダンのシステムをより小型の車に押し込むという手法はラリーの現場では稀によくあることなのである。
さて、この車両「エボリューションⅢ」がいるということは当然「エボリューション」「エボリューションⅡ」が存在する。これらのCD/CE系ランサーの3代をまとめて「第一世代エボ」と呼ぶ。エボⅠは先述の通りギャランのパーツをランサーGSRに押し込んだだけのホモロゲ取得の間に合わせ仕様であったようだ。そのため挙動も非常にアンダーステア気味だったとのこと。ところが、広告を積極的に打たなかったにも関わらず2500台が3日で完売してしまい、最終的に7000台以上が販売されることになる。
エボⅠでの問題点を洗い出し、足回りの改良などを重点的に行って改善をしたマシンがエボⅡ。エンジンも250馬力から260馬力へと10馬力の上乗せに成功した。
そして、第一世代エボの完成系と言えるのがこのエボⅢである。特筆すべき点は大型リアスポイラーや開口部の大きなフロントバンパーによるダイナミックなスタイリングであろう。エンジンは同じく4G63、パワーはさらに10馬力の上乗せを実現し270馬力となった。また、ターボラグの解消を目的としてPCCS、二次エア供給システム(アンチラグシステム)が搭載された。これの名称は「ミスファイアリングシステム」としても通るがこちらはスバルの呼称であることも注釈しておく。
ラリーフィールドでの1世代エボの活躍は1993年から。エボⅠのクセの強さに当初は苦戦していたようだが、アクロポリスラリーにてM.ビアシオンのエスコート、C.サインツ.セナモールのデルタHFに続き、A.シュヴァルツが3位表彰台を獲得。最終戦RACラリーではJ.カンクネンのセリカGT-Fourに敗れるもK.エリクソンが2位を獲得。シーズンを通して成熟が進む。94年、95年シーズンは進化したエボⅡが参戦。95年ラリー・スウェーデンでエリクソンが悲願の初優勝を遂げる。さらに三菱といえばこの人、なT.マキネンも2位を獲得し、ここからエボの快進撃が始まる。
95年シーズン中盤、エボⅢが実戦投入。急速に戦闘力を増したランエボは、96年になるとマキネンと共に本領を発揮。本社の予算縮小の煽りを受け1台体制での出場を余儀なくされるも、チームはマキネンのタイトル獲得に戦力を集中させる。彼もまた安定した走りで応え、9戦中5勝を挙げる。ランエボはフォードのサインツ、トヨタのカンクネン、スバルのC.マクレーやかつての同僚エリクソンといった並いる強豪を打ち破り、マキネンに悲願のドライバーズタイトル獲得をもたらした。これは三菱車による初のタイトル獲得ともなっている。
ランエボはこの後第二世代CN/CP系にバトンタッチ。280馬力を達成したエボⅣ、ワイドボディとなったエボⅤ、Ⅵとさらにエボリューションを続け、マキネンと共に怒涛の4連覇を達成。98年にはついにマニュファクチャラーとドライバーのダブルタイトルをもぎ取った。ランエボはインプレッサと並びグループA最強格と名高い、紛れもない名車である。そして、エボⅢは三菱とマキネンの初優勝マシンとして、歴代でも特に人気の高いモデルとなっている。
しかし、ギャランはとある問題を抱えていた。デカいのだ。全長は4560mm。大きいということはすなわち取り回しが悪いということ。三菱にとって、より小型で軽量、パワフルなマシンを開発するのがWRC勝利に対しての急務となっていたのだ。
そこで、ギャランVR-4から引き継いだ2Lターボエンジン、4G63と4WDシステムを小型セダンに押し込んで誕生したのがランサーエボリューション、通常ランエボである。全長は4310mm、ギャランと比較すれば一回り小柄なマシンとなった。奇しくも同時期、スバルはギャランに近い車格のレガシィからより小型なセダン「インプレッサ」にレガシィのエンジンEJ20と4WDシステムを押し込んだラリーウェポン、インプレッサWRXを送り出す。生い立ちの似た2台は良きライバルとして、互いに刺激し合いながらWRCの舞台で進化を遂げていくこととなる。海外に目を向けるとフォードがシエラサファイアRS4x4という4.5m級のセダンのシステムを小型車エスコートに押し込んだエスコートRSコスワースを発表。こちらもWRCでのフォード復活の立役者となっており、WRCのグループA時代、日本車黄金期に真っ向勝負を挑んだダークホースのようなマシンでもある。生まれた場所こそ違えどこの3台はある意味で精神的兄弟とも言えるかもしれない。さらにWRカーに規定が移行したのちには東欧の雄、シュコダがCセグメントセダンのオクタヴィアを投入。しかしやはりギャラン、レガシィ、シエラと同様にボディが大柄であったため、そのシステムを後継のラリーカーであり、より小型なファビアに搭載して戦闘力向上を図っている。このように、大きなセダンのシステムをより小型の車に押し込むという手法はラリーの現場では稀によくあることなのである。
さて、この車両「エボリューションⅢ」がいるということは当然「エボリューション」「エボリューションⅡ」が存在する。これらのCD/CE系ランサーの3代をまとめて「第一世代エボ」と呼ぶ。エボⅠは先述の通りギャランのパーツをランサーGSRに押し込んだだけのホモロゲ取得の間に合わせ仕様であったようだ。そのため挙動も非常にアンダーステア気味だったとのこと。ところが、広告を積極的に打たなかったにも関わらず2500台が3日で完売してしまい、最終的に7000台以上が販売されることになる。
エボⅠでの問題点を洗い出し、足回りの改良などを重点的に行って改善をしたマシンがエボⅡ。エンジンも250馬力から260馬力へと10馬力の上乗せに成功した。
そして、第一世代エボの完成系と言えるのがこのエボⅢである。特筆すべき点は大型リアスポイラーや開口部の大きなフロントバンパーによるダイナミックなスタイリングであろう。エンジンは同じく4G63、パワーはさらに10馬力の上乗せを実現し270馬力となった。また、ターボラグの解消を目的としてPCCS、二次エア供給システム(アンチラグシステム)が搭載された。これの名称は「ミスファイアリングシステム」としても通るがこちらはスバルの呼称であることも注釈しておく。
ラリーフィールドでの1世代エボの活躍は1993年から。エボⅠのクセの強さに当初は苦戦していたようだが、アクロポリスラリーにてM.ビアシオンのエスコート、C.サインツ.セナモールのデルタHFに続き、A.シュヴァルツが3位表彰台を獲得。最終戦RACラリーではJ.カンクネンのセリカGT-Fourに敗れるもK.エリクソンが2位を獲得。シーズンを通して成熟が進む。94年、95年シーズンは進化したエボⅡが参戦。95年ラリー・スウェーデンでエリクソンが悲願の初優勝を遂げる。さらに三菱といえばこの人、なT.マキネンも2位を獲得し、ここからエボの快進撃が始まる。
95年シーズン中盤、エボⅢが実戦投入。急速に戦闘力を増したランエボは、96年になるとマキネンと共に本領を発揮。本社の予算縮小の煽りを受け1台体制での出場を余儀なくされるも、チームはマキネンのタイトル獲得に戦力を集中させる。彼もまた安定した走りで応え、9戦中5勝を挙げる。ランエボはフォードのサインツ、トヨタのカンクネン、スバルのC.マクレーやかつての同僚エリクソンといった並いる強豪を打ち破り、マキネンに悲願のドライバーズタイトル獲得をもたらした。これは三菱車による初のタイトル獲得ともなっている。
ランエボはこの後第二世代CN/CP系にバトンタッチ。280馬力を達成したエボⅣ、ワイドボディとなったエボⅤ、Ⅵとさらにエボリューションを続け、マキネンと共に怒涛の4連覇を達成。98年にはついにマニュファクチャラーとドライバーのダブルタイトルをもぎ取った。ランエボはインプレッサと並びグループA最強格と名高い、紛れもない名車である。そして、エボⅢは三菱とマキネンの初優勝マシンとして、歴代でも特に人気の高いモデルとなっている。
余談であるが、漫画「頭文字D」では須藤京一の愛車として登場する。「ランエボ使いこそ峠のキングだ」というセリフがあるように、峠やラリーの舞台である急勾配やタイトコーナーの連続するコースにおいては小回りの良さと加速力で旧車と侮る事は出来ない速さを垣間見る事が出来る。