こんなことわざがあるのを御存じだろうか-――
「日本人の妻をめとり、西洋館に住み、中国料理を食べる事こそ人生の至福である」
ギョウザやシュウマイ、ハルマキ・・・我々の食卓にもよくのぼり、誰もが親しみ好む中国料理。
横浜の中華街、神戸の南京町、サンフランシスコのチャイナタウン・・・中国料理は日本、アメリカのみならず、それぞれの風土に合わせて姿を変え、世界中に普及していった・・・
この世界無比といわれる脅威の料理の故郷―――中国・・・!!
かつて中国四千年の料理大系が未曾有の完成期に向かって隆盛を極め、幾多の超人的な料理人達がしのぎを削って闘った時代があった・・・
時は十九世紀―――清朝末期の動乱のさなか―――
帝都北京より遙か西南へ二千キロ―――
長江の源流ほとばしる霧深き‘天府の地‘からこの物語は始まる・・
四川省奥地の小さな村に、その日霧をはらって昇った太陽は―――
少年の熱き心に新しい朝を告げていた・・・
菜館・菊下朗。
カリン「マオ―――ッ、マオ――――ッ!?あれ――――・・・?どこ行っちゃったのかしら、あの子」
「・・・・・・!?」
女性、カリンが厨房を覗くと、様々な食材や皿が散らばっていた。
カリン「・・・・・ちょっとなによこれ―――ッ!?
「・・・・一晩で・・・よくこれだけ散らかせたものね」
「!!」
鍋を顔の上に敷いて、床で眠りこけている少年がいた。
カリン「・・・・もしもし?朝ですよ」
少年「ウッ・・・・!?」
カリンに鍋を叩かれ、少年、マオが飛び起きた。
マオ「・・・・・・!?姉ちゃん!!ヤツか!!ヤツが来たんだな!?チクショ―――――ッ、どっからでもかかってきやがれ、コノヤロ――――ッ。このマオが相手だ―――ッ」
カリン「なにねぼけてんの、あんたは。あの男が来るのは今日のお昼でしょ!!」
マオ「なにィ!?」
カリン「ほら、ちゃんと目を覚ましなさい。今日は大事な日なんだから、しっかり準備して待たなきゃ」
四川省随一の菜館(食堂)、国営『菊下楼』―――
代々、時の四川省最高の料理人が総料理長に任命されるこの国営菜館にはひとつの不文律がある・・・即ち料理長入れ替えの際に、新旧料理長による‘料理勝負‘が行われるのだ・・・!!
マオがカリンの作る朝食を食べる。
カリン「二十年前、この『菊下楼』料理長に任命された父さんは、先代との‘料理勝負‘を制して、その座を獲得・・・十一年前、父さんが死んで、今度は母さんが派遣されてきた新料理長を逆に破ってこの店を守ったわ・・・」
マオ「・・・・・」
カリン「母さんは・・・・‘四川料理の仙女‘とうたわれた、歴代屈指の名料理長だった・・・母さんの編み出した数々の菜譜は、この店の歴史を次々と塗り替えていったんだもの・・・」
マオ「母さんが亡くなって、一ヶ月・・・」
カリン「今日・・・ついに来るのね・・・新しい料理長候補が・・・マオ・・・あんたが自ら望んだ、この‘料理勝負‘・・・!!もし負けてしまったら、私達この店を出て行かなきゃならないのよ。心の準備は、大丈夫ね・・・!!」
マオ「・・・・・!!倒す・・・!!ヤツだけは・・・!!」
(た・・・たたきつぶす!!)「・・・・・!!」
カリン「はい、できたわ。母さんがよく作ってくれたスープ。これ飲んで元気出して!!」
マオ「はッ!!」
「・・・・・・・」(母さん・・・・・・!!)
マオがスープを飲んだ。
マオ「・・・・・!!――――あれ?」
マオが再度、スープを飲んだ。
マオ(八角、甘草、蜀椒、陳皮、菌香)「・・・・・・・」
「・・・・!!姉ちゃん。これ・・・仕上げに使う‘五香粉‘の配合が母さんのスープと違うよ。桂皮と丁香が入ってないもん」
カリン「え・・・・!?ホ、ホントに・・・・!?」
マオ「ハハハハハ、間違いないよ。母さんの味なら今でもはっきりと思い出せるんだ」
カリン「・・・・・さすがね、マオ。今度の勝負期待できそうじゃない」
「どーせあたし、味オンチだしィ・・・・・」
マオが表に出て、包丁を研ぎ出した。
マオ「・・・・・・」
(母さん・・・・僕だって分ってんだ・・・負けたら姉ちゃんとともに、路頭に迷っちゃうって・・・でも・・・)
(ガマンできないんだ!!母さんの味が―――ここで終わっちゃうなんて・・・・!!しかも新料理長候補があいつなんだよ、母さん・・・!!)
「・・・・・」
マオの後ろに一人の男が立った。
マオ「!!」
?「へェ~~~ッ、変わんないねェ、この店も・・・・」
マオ「えっ・・・・」
?「あれから二年か・・・早いもんだぜ・・・」
マオ「・・・・・!!!」
?「!!!、元気そうじゃねぇか、小僧・・・!!」
マオ「ショ・・・ショウアン・・・!!・・・・!!!」
ショウアン「死んじまったんだってなァ・・・パイのババァ・・・」
マオ「・・・・!!か・・・母さんが・・・どこのどいつのせいで、死んだと思ってんだ、コラァ!!!」
マオが包丁を振りかぶったが、カリンに止められた。
マオ「!?」
カリン「だめよ!マオッ、決着は料理でつけるって約束したでしょ!!」
ショウアン「フン・・・相変わらず鉄鍋みてぇなガキだ。アッという間に熱くなりやがる・・・・」
マオ「・・・・・!!!」
「あんたが・・・『菊下楼』に弟子入りして以来・・・未熟な料理人一人、一人前にするために母さんがどれだけの心と時間を注ぎ込んだのか・・・忘れたとは言わせないぞ・・・!!」
パイ「そうそう、左手中指の第一関節を包丁にあてて。垂直切りは刀工全般の基本だからね」
ショウアン「よッ」
「よし!!」
マオ「父さんが早く死んじゃった分、一日も早く一人前になって店を手伝ってくれるよにと、母さんは寝る間も惜しんで、あんたに全てを伝えたんだ」
パイ「・・・・・うん!!合格!!」
ショウアン「パ・・・パイ先生・・・!!」
マオ「あんたは母さんの身を削るような指導で、四川省から‘特級厨師‘の称号さえ与えられたんじゃないか・・・・!!」
「・・・そして忘れもしない・・・あんたが二十歳の誕生日を迎えた日だった・・・」
ショウアン「免許皆伝か・・・こいつが欲しかったんだよ」
パイ「こ、この店にはあなたの力が必要なの。これからもよろしくね、ショウアン」
ショウアン「残念だったな。オレァこれ以上、あんたの下で働く気はねえんだよ」
パイ「え・・・!?」
パイ「か・・・考え直して!!あなたに出て行かれたらこの店は・・・!!」
ショウアン「放せっつってんだよ、コラァ!!」
パイ「ショウアン!!せ、せめて理由を聞かせて!!」
ショウアン「チッ、理由だとォ・・・!!あんたに教わることがもう無くなった!!それだけだ、ババァ!!!」
ショウアンがパイを殴り飛ばした。
カリン「か、母さん!!」
ショウアン「ケッ」
パイ「ショ、ショウアン・・・・・」
マオ「・・・・・!!・・・・!!」
ショウアン「はははははははは」
マオ「自分だけではなく・・・腕利きの料理人を三人も連れて、あんたは店を出て行ったんだッ!!」
カリン「か、母さん大変よ!!金庫が破られてるの!!国から支給された今年度の給金が丸ごと無くなってるわ!!」
パイ「・・・・・・!!!」
カリン「ショウアンが全部持って行ったんだわ!」
ショウアン「フン・・・十年も働いたんだぜ・・・‘退職金‘くらいもらって何が悪い」
マオ「!!な・・・なにを~~~~ッ。お、おまえは知らないんだ!!それから二年間借金返済に追われながら母さんがどれだけつらい思いでこの『菊下楼』の激務に耐えていたかを―――ッ」
客たち「どうしたんだろう『菊下楼』・・・」
「もう一週間も閉じたまんまだ・・・」
マオ「か・・・母さん!!やだよ母さん!!」
マオ「母さんは心労と過労に体をむしばまれ、失意の内に・・・!!わかってんのか――――っ、おまえのせいで母さんは死んだんだぞ――――ッ」
ショウアン「・・・・!!フン・・・とんだいいがかりだな・・・」
マオ「‘料理勝負‘で母さんのカタキをとってやる―――ッ。おまえも知ってるだろ―――ッ、これに負けるとどうなるか―――ッ」
ショウアン「巣の中でさえずってる雛鳥に、なにができる!!」
マオ「親鳥の恩を忘れた、アホウドリよりマシだ――――ッ」
ショウアン「・・・・!!」
?「双方控えよ!!」
マオ・ショウアン「「!!」」
豪勢な外套を着て、馬に乗った男が来た。
マオ「・・・・!!」
ショウアン「か・・・閣下・・・・!!」
ショウアンがかしづいた。
周りの人達がざわめきだした。
人々「おお・・・ついにリー提督が来られたか・・・」
「え?リー提督」
「おう・・・あの宮廷料理の司膳大監を長年務めていた、中央料理界の重鎮よ」
「あのお方こそ、今回の『菊下楼』料理勝負の厳正なる審判役さ」
「提督が課題を提示し、賞味して、勝敗を決めるんだ」
リー「・・・・・」
マオ「・・・・・!!」
(・・・こ、この人の舌が・・・僕と姉ちゃんの未来を握ってるんだ・・・!!)
リー「ショウアン、マオ・・・おまえ達のいきさつ・・・知らぬ訳ではないが・・・私の役目はこの店の新料理長就任の手続きを済ませることだ・・・「敗者は国家より厨師の刺客を永久に剥奪される」、国営『菊下楼』の威信を保つ開店以来のこの掟に従い、料理勝負をととり行う。それでは、課題を発表する・・・!!」
マオ「・・・・・・」
(い、いよいよか・・・!!何だろう、肝心の課題は・・・!!毎回、料理人に無理なんだいふっかけてるって聞いてるけど・・・ホ、ホントは僕の作れる料理なんて両手の指で数えられちゃうんだ・・・!!)
リー「ショウアン、マオ・・・おまえ達には―――「麻婆豆腐」を作ってもらおう」
ショウアン「え・・・!?マ・・・」
マオ(マーボードウフ!?よっしゃ―――ッ、そ、それなら僕にも作れるよ―――ッ)
リー「ただし!!ただの麻婆豆腐ではない!!‘幻‘の麻婆豆腐だ!!」
マオ(ま・・・‘幻‘・・・!?)
リー「・・・今から十年も昔になるが・・・」
「まだ一兵卒だった頃、私は都からの伝令を携え、四川に向かって三日三晩ほとんど不眠不休で馬を走らせた・・・そして使命を果たした後、ある村はずれの料亭に倒れこんだのだ・・・」
リー(過去)「おい・・・まかせる、何か作ってくれ・・・」
リー「極限の疲労と空腹で胃が何も受けつけない私に出された料理はなんと・・・!!」
リー(過去)「マ・・・麻婆豆腐!?重すぎるぞ・・・!!」
リー「ところが―――不思議な麻婆豆腐だった・・・・」
リー(過去)「!!」
リー「疲れきった胃に優しく吸収されてゆくそのすばらしい味にマーボをすくう手も加速してゆき、のどを通らぬどころかアッという間に三杯もたいらげてしまった・・・!!」
「十年を経た今もなお、解明できぬあの‘食感‘・・・・それは―――言うなれば・・・豆腐と肉との絶妙なる‘味の競演‘!!それを伝える店も料理人さえももはや存在せぬ、あの‘幻‘の麻婆豆腐を私に再び味わわせてもらいたい!!」
「・・・・よいうか・・ショウアン、マオ。麻婆豆腐を作るときにこそ四川の料理人の真価が問われるのだ・・・・!!本場四川のそれは‘五味一体‘が極意といわれるが・・・‘幻‘の麻婆豆腐は、‘六味一体‘也!!」
マオ「・・・・・・!?」
(六味一体・・・・・!?)
リー「期限は明日の正午、‘六味一体‘の麻婆豆腐、それが課題だ!!よく考えよ・・・答えはおまえ達自身の中にあるかもしれぬぞ・・・!!」
マオ「?」
マオ「十年前・・・極限まで衰弱したリー提督の体を、優しく力強く回復させた‘幻‘の麻婆豆腐・・・「豆腐と肉との絶妙なる味の競演」、そして‘六味一体‘・・・・・!!」
「麻婆豆腐を決定づける、絶対にはずせないいくつかの‘味‘(ポイント)のことを確か以前母さんに聞いたことがある。とにかく材料はここに全部そろってるんだ。‘幻‘の麻婆豆腐・・・どこの何で料理人が作ったのか知らないけど・・・`六味一体‘ってやつに挑戦だ!!」
カリン「まず挽き肉ね!!」
マオ「その通り!」
「よし!挽き肉は炒まった!!ニンニクのみじん切りに豆包み、一味唐辛子、テンメンジャン。そして!!四川料理の‘命‘!!豆板醤!!このトウガラシの辛さがまず‘一味‘・・・辣‘(ラー)!!」
マオ「色よくなるまで炒めて、‘湯‘を加えたらいよいよ・・・豆腐だ!!」
カリン「あ!!あたし、この豆腐入れた瞬間好きなのッ!!」
マオ「いいよねっ、‘主役‘の登場!!って感じで」
「酒と調味料で味をととのえる」
「弱火で少し煮上げて、醤油を入れた後、ニンニクの若葉をのせる」
カリン「あ・・・ニンニクの若葉の香りが・・・これもマーボの楽しみのひとつよね・・・」
マオ「うん・・・この香りが二つめの‘味‘――-‘香‘(シャン)!!」
マオ「姉ちゃん見て見て!!トウガラシの「赤」と豆腐の「白」の対照美、それからのニンニクの若葉の「緑」!!」
カリン「赤・白・緑か・・・確かに見事な配色ね!!」
マオ「これで三つめ、‘色‘(スー)!!」
マオ「水溶き片栗粉でとろみをつけたら、いよいよ仕上げだ!!」
「油を鍋肌から回し入れ、強火で一気にあおる!!」
カリン「・・・・・マ・・・マオ・・・!!ちょっとやりすぎよ!!鍋が完全に焦げちゃってるわ!!」
マオ「これくらいでとうどいいのさ」
カリン「えっ!?」
マオ「マーボは仕上げで鍋が焦げるまで熱くしたとき初めて、最高の味と香りを引き出せるんだ。それが―――熱のうま味、‘湯火‘(タン)!!」
マオ「よし今だ!!油が浮いてきた!!」
「最後はたっぷりのサンショウ・・・サンショウのしびれるような辛み―――つまり‘麻‘(マー)!!これで完成ッ!!」
カリン「わ―――い、できたできた―――っ」
マオ「おいしそうだね――――、食べよう食べよう」
マオとカリンが出来上がった麻婆豆腐を食べる。
カリン「・・・・おいしいじゃないマオ―――ッ」
マオ「うん、我ながらよくできたよ―――ッ」
カリン「・・・・・でも結局これってフツーのマーボトーフだよね」
マオ「うん」
カリン「・・・・・ねえ、ホントに‘六味‘あった?」
マオ「え・・・・?」
マオ・カリン「・・・・・!!」
カリン「か・・・数えなさい!マオッ」
マオ「え・・・えっと・・えっと・・・・・‘辣‘・・・‘香・・・‘色‘・・・湯火‘・・・‘麻‘・・・それに・・――――・・!!」
「‘辣‘・・・‘香・・・‘色‘・・・湯火‘・・・‘麻‘・・・うわ―――っ」
(やっぱり‘五味‘しかないよ―――ッ、残りの‘一味‘は何なんだ―――ッ)
マオ「空が白みだしてきた・・・・・ここまでか・・・・はァ~~~~」
カリン「・・・・マオ・・・麻婆豆腐っていえばさァ・・・・あたしもまだ小さかった頃だけど・・・・やたら毎日マーボを食べさせられてた時期がなかったっけ・・・?・・・そう思い出したわ!!母さんがうまくいったとか失敗したとか言いながらやけにいっぱい作ってたのよ」
「・・・・・でも・・・不思議だったなァ・・・・あんなに毎日食べてたのに全然飽きなかったのよねぇ・・・・・・!!」
マオ「・・・・・!!」
パイ「ごめんね、カリン、マオ・・・・今日もお昼、例のマーボなのよ・・・!!」
カリン「いいよいいよ、あたしこれ大好き――――♡」
マオ「ボクも――――」
マオ(・・・そうだ、あの頃は・・・・お昼ごはんをすごく楽しみにしてたんだ・・・・!!)
マオ「いただきまーす」
昔のマオは。麻婆豆腐を噛みしめながら食べていて―――
今のマオがその感触を思い返す。
マオ「・・・・!!」
「!!・・・・‘豆腐と肉の味の競演‘ってもしかして・・・・・・・うーん・・・・」
カリン「?」
マオ「ねえ・・・姉ちゃん、母さんの麻婆豆腐って肉がさっぱりしてたから、すごく食べやすかったよねぇ・・・ほら挽き肉がさ、どの粒々もひっかかるところが無くて、サクッサクッと歯でかみ切れたじゃないか・・・・・!!」
カリン「そ、そこまで思い出せないよォ・・・・!!なんであんな昔の味をそんなに憶えてるの・・・・!!?」
マオ「・・・・・・」
カリン「・・・・・でも、もしそれが本当ならあの挽き肉は、牛肉の挽き方が普通と違ってたとか・・・・そうじゃなきゃ豚とか鳥の肉だったのかなァ」
マオ「試してみよう!!」
マオ「・・・・・ちがう・・・くそ―――ッ」
(待てよ!?提督は・・・他に・・・何か他に言ってなかったか――――・・・!?)
リー「答えは、おまえ達自身の中にあるかもしれぬぞ・・・!!」
マオ「!?」
(僕自身の中にあるもの・・・・!?何だ・・・・!?提督は一体何のことを言って・・・・)
「!!」
(ん・・・・!?そうか・・・・!!そうだよ・・・・!!僕自身の中にあるものなんて、やっぱり母さんの味の記憶だけだよ・・・!!よし、思い出せ!!もう一度だ・・・・!!)
(山椒、ニンニク、長ネギ。母さんのあの麻婆豆腐を構成してた)
(ニガリ、そら豆、小麦。全ての素材にさかのぼれば・・・・・
(鶏脚、生姜、唐辛子。そうだ・・・!!わかるはずだ・・・・!!)
(考えるんだマオ!!)
そしてマオが立ち上がった。
カリン「!?」
マオ「姉ちゃん!!‘年鑑‘は!?」
カリン「え・・・・?ほら四川省で刊行してる農業とか牧畜とかの一年のことが全部記録してあるヤツだよ。毎年、成都から店に送られてきてたじゃないか」
カリン「ああ・・・・!!『四川省産業年鑑』のこと?」
マオ「それそれ!!昔のヤツ、何冊か出してよ!!」
マオが年鑑を読み返す。
マオ「・・・・・・!!!」
(や、やっぱりそうだ・・・・!!あの年は・・・・!!!)
カリン「・・・・どうしたの・・・?」
マオ「姉ちゃん、全部・・・思い出したよ・・・」
カリン「え・・・?」
マオ「麻婆豆腐はこの地方じゃ何より人気の高い料理だ。だから母さんは店の菜譜からはずしたことは一度もなかった。でも今‘年鑑‘を調べてみたら、材料がなくて麻婆豆腐を作れないはずの年があったんだよ。その年のマーボこそ、幻のマーボだったんだよ!!姉ちゃん!!やっぱり母さんはすごいよっ!!六番目の‘味‘わかったぞ――――ッ」
マオが外に飛び出した。
カリン「あッ、ちょっとこんな時間からどこ行くのよ、マオ――――ッ」
そして、正午になり、菊下楼で料理勝負が始まろうとしていた。
リー「これより『菊下楼』‘料理勝負‘、審査に入る。ショウアン、マオ、準備はよいな!!」
ショウアン「ははッ・・・!!」
ショウアンとマオが料理の皿を机に置いた。
マオ「・・・・」
リー「・・・四川の麻婆豆腐は・・・麻・辣・色・香・湯火の‘五味一体‘・・・・では二人にきこう。‘幻‘の麻婆豆腐、六番目の味の決め手は何だ」
マオ「・・・・!!」
ショウアン「それは・・・」
マオ「それは・・・」
ショウアン・マオ「「‘スー‘にございます!!」」
リー「!!」
ショウアン(な、なにィ・・・・!?こいつ・・・・!!)
マオ(え・・・・!!ショウアンも気づいてたんだ・・・!!)
リー「好・・・両名ともよくぞ気づいた・・・‘スー‘とはすなわち「サクッとした歯さわり」・・・私が求めた六つ目の味は、まさしく‘スー‘である」
ショウアン(フフフ、思った通りだ。麻婆豆腐はそもそも歯ざわりに難のある料理。‘五味‘以外の‘味‘を「歯ざわり」に求めるのは当然のことだ)
リー「二人の麻婆豆腐、とくと賞味させてもらおう」
リーの部下が料理の蓋を取り、二人の作った麻婆豆腐が露わになった。
観客たち「おおッ!!」
「どっちもうまそうだな!!」
「右のマオのも、左のショウアンのも!!」
「立方体の小さな豆腐、それを浮かべるみじん切りの牛肉」
「濃緑色鮮やかなニンニクの若葉のぶつ切りに、香り高い粉サンショウ。そして――――」
「周囲にはつややかに浮かぶトウガラシ油」
「ああ・・・マーボはオレたちの生きる活力源だよ!!」
「お・・・すでに提督の審査は始まってるみたいだぞ・・・!!」
「あぁ、二つの皿を食い入るように観察してるよ」
マオ「・・・・・」
観客たち「‘香り‘の方も一緒にみてるのさ」
「あ、今度は両方のスープだけを・・・!!」
リー「・・・・・うむ!!麻・辣・色・香・湯火の五味において両名ともに見事!!まずは両者互角と見る!!」
観客たち「‘五味‘全部互角か・・・!!」
「マオのヤツ頑張ったな!!」
「すると勝負の分かれ目はやはり」
「第六の味―――‘スー‘か!!」
ショウアン「・・・・!!」
リー「ではショウアンの方から、全体の味を見せてもらおう」
リーがレンゲでショウアンのマーボを食べていく。
リー「・・・・・」
「・・・・!!」
リーはレンゲで豆腐を掬いだした。
リー「・・・・フム・・」
観客たち「て、提督が味についてふれる前に」
「豆腐だけ小皿に分けて・・・」
「一体なにをやってるんだ・・・!?」
ショウアン(フ・・・さすがはリー提督・・・わかっておられる・・・!!)
観客たち「あッ!!」
「こ・・・これは!!」
ショウアンの豆腐は五個、縦に重ねられた。
観客たち「ご・・・五個縦に重ねて崩れない!!」
「おお・・・豆腐が余程しっかりしてる証拠だ・・・!!」
リー「ふむ・・・見事な豆腐の弾力・・・そして歯さわりだ・・・・しかもそれだけではない・・・!!」
リーがレンゲで重ねた豆腐を二つに切ると、中から液体が溢れてきた。
リー「よく下ごしらえしてある豆腐だな、ショウアン」
ショウアン「は・・・!!閣下、豆腐と肉を‘競演‘させるためには、豆腐の弾力を肉に近づける必要を感じ、その結果実現する豆腐の‘スー‘こそ、‘第六味‘と確信いたしました」
「サイの目に切った後の豆腐をショウガのしぼり汁と塩を加えた湯に通し、豆腐のくさみをとった上で塩により十分な張りと弾力を、各サイの目の表面に万遍なく与えたのです」
「使った豆腐は、やわらかく水分の多い絹ごし豆腐・・・!!表面をしめてある上に中身の水分はそのままになっています。つまり中までは熱が伝わらず、やわらかく冷たいままなのです」
「即ちその効果は・・・舌の上で豆腐の熱さを堪能したのち、歯ざわり(スー)を・・さらにその直後にくるやわらかみ(ネン)さえも楽しみ、中からこぼれた冷たい水分は熱を中和し、食道と胃を優しく保護するのです」
リー「・・・豆腐と肉との高次元な‘競演‘、そして胃に優しい‘温度差の中和‘―――見事な麻マーボだ・・・!!」
観客たち「勝負あったな・・・!!」
「そうか、‘スー‘ってのは豆腐の歯ざわりのことだったのか!!」
「それにしてもマオ・・・・母親の仕込んだ料理人に倒されるというのも皮肉だな」
ショウアン(小僧・・・おまえも終わりだな・・・!!)
カリン(‘スー‘が豆腐のことだったなんて・・・!!マオはちゃんと気づいたのかしら・・・!!)
リーが水で口をゆすぐ。
観客たち「提督が口をゆすいでいる・・・!!」
「マオの麻婆豆腐を食う準備だな・・・!!」
カリン「ちょっとマオ!!あんたの豆腐は大丈夫なの!?」
マオ「と・・・豆腐か・・・!!考えもしなかった・・・!!でも・・・・僕の考えが正しければ・・・!!」
カリン「え・・・!?」
観客たち「いよいよ・・・マオのマーボだ!!」
「・・・・・」
リーがレンゲに掬ったマオのマーボを息で冷ましてから、食べた。
リー「・・・・・・」
マオ「・・・・・」
リーがマオのマーボを噛みしめ、味わい―――
リー「・・・・・・」
「・・・・・・・!!」
「!!こ、これは!!」
マオ(やった!!)
リー「・・・・・・!!!・・・・・!!」
リーが一心不乱にマオの麻婆を食べ続ける。
リー「・・・・・」
マオ「・・・・」
リー「・・・・!!」
観客たち「うおお、て、提督が・・・」
「小皿に移さず、直接大皿からすくって食べてる!!」
「おお・・・!!どうしたんだ、提督は―――ッ」
「無言のままマオの麻婆を、加速度的に食べ続けて・・・!!」
リー「・・・・・・」
そして、リーはマオのマーボを全て食べ尽くした。
観客たち「!!」
「ぜ・・・全部イッキに・・・」
「食っちまったよ・・・!!」
リーが茶を飲んだ。
リー「・・・・!!ふ―――・・・」
「・・・・・・」
ショウアン「・・・て・・・提督・・・・!?」
リー「二人の麻婆豆腐・・・しかと吟味させてもらった」
「私は六番目の味として‘スー‘を求め、両名ともそれを見付けることには成功した・・・その‘スー‘をショウアンは豆腐に求め、一方マオは別の方向に求めた」
「確かにショウアンの豆腐の‘スー‘(歯ざわり)でも、‘六味一体‘は見事に実現できる。だが‘幻‘の麻婆豆腐の‘スー‘は、豆腐に非ず!!」
ショウアン「!?」
(‘スー‘は豆腐のことではない!?)
「か・・・閣下・・・!!それでは・・・!!」
リー「いかにも・・・おまえが作ったのは、‘幻‘の麻婆豆腐ではない!!確かに優れた豆腐の処理で食べる者をうならせるが、それだけのことだ・・・」
「こういった豆腐の下ごしらえをする料理人は、ショウアンのみならず広い中国には何千何万といるだろう」
「そして私は口にした瞬間わかったのだ。マオが作った麻婆豆腐こそ、この世に二つとない、あの‘幻‘の麻婆豆腐なのだと・・・!!」
カリン「・・・・!!」
スー「そしてその‘スー‘の真実は・・・」
「挽き肉だ!!」
ショウアン「!!」
(ひ・・・挽き肉・・・!?)
リー「肉の‘スー‘―――歯ざわりこそ、第六の‘味‘だったのだ・・・」
観客たち「・・・なんだ・・・?」
「提督・・・今度はなにを・・・・?」
「!!」
「それぞれの挽き肉だけを小皿に・・・!!」
ショウアン(いや・・・たとえ‘スー‘が肉だとしても、オレの選んだ最高の肉が弾力で劣るはずがない・・・!!)
リー「両者の挽き肉―――その歯ざわりの違いを―――刺客と聴覚で確かめるがいい・・・・まず・・・ショウアンの挽き肉だ・・・・」
ショウアン「・・・・・」
リーがレンゲでショウアンの挽き肉を強く押すと、その挽き肉はグニャリと潰れた。
観客「!!」
ショウアン「・・・・・・?」
リー「次に・・・・マオの挽き肉・・・・よく見よ・・・・」
リーがマオの挽き肉をレンゲで強く押す。
リー「・・・・」
マオ「・・・・!!」
ショウアン「!!」
挽き肉はカチンと二つに割れ、片方の挽き肉がショウアンの頬に当たった。
ショウアン「!!」
観客たち「き・・・聞こえたか・・・!?」
「ああ・・・確かに今、レンゲが皿に当たって「カチン」て・・・・マオの挽き肉が切れたからだ」
「ショウアンの挽き肉は切れてない・・・つぶれただけなんだよ・・・!!」
ショウアン「どういうことだ?」
リー「・・・不思議な肉だ・・・」
リーがマオの挽き肉をもう一度割った。
リー「いかなる肉であれどんなに丹念に挽いたところで、必ず‘筋‘が残るはず・・・」
「また・・・どれだけ炒めても挽き肉全体・・・そして挽き肉ひと粒ひつ粒において―――必ず焼きムラができるはずだ」
「ところがマオの肉はこのように、火が均一に通り筋が残っておらぬゆえ、実になめらかな歯ざわりとなる・・・・聞かせてもらおうかマオ・・・一体この肉は・・・・!?」
マオ「・・・提督。それは、肉ではございません」
リー「!?な・・・なにィ!?に・・・肉ではない・・・!?」
リーが驚愕のあまり、立ち上がった。
ショウアン「・・・!?」
(肉ではない‘肉‘!?)
リー「どういうことだ!?」
マオ「その秘密は、これです」
マオの手には、小さな粒が乗っていった。
リー「?」
観客「なんだありゃ」
ショウアン「?」
マオ「皆さん、厨房にどうぞ」
マオに連れられて、リーとショウアン、観客たちが厨房に向かった。
リー「・・・この中か・・・」
マオ「はい」
マオが鍋の蓋を外した。
リー「!?」
その鍋の中には、大豆が詰められていた。
リー「な・・・なんと!!大豆か・・・!!」
マオ「大豆は、畑の肉と申します」
リー「・・・・・」
観客たち「だ・・・大豆!?」
「大豆か!?」
「まさか信じられん!!」
リー「さきほどの‘肉‘が――――大豆だとは・・・!!で、この大豆をどう調理するのだ!?」
マオ「まず水につけた大豆をスープでゆでます」
「次にそれを砕いて、つぶして・・・そして‘醤‘で濃いめに味付けするのです。この‘醤‘の水分と味が‘肉汁‘のうまみを演出します」
ショウアン「・・・・ちょっと待て・・・そんなうまみなど鍋の中で煮れば全てマーボの中に流れ出てしまい、‘肉‘らしい食感などまるで残らぬではないか」
リー「そうだ・・・第一、砕いて味つけしたくらいでは、肉の代わりになどならんだろう」
マオ「その通りです。だから最後に油でさっと揚げて、‘醤‘のうまみをとじこめ、同時に適度な固さを加えて歯ごたえも肉に近づけるのです。そうしてできたのが――――これです!!」
リー「・・・・なるほど・・・」
マオ「一見挽き肉みたいでしょ?」
ショウアン(大豆の挽き肉か・・・)
ショウアンが大豆の挽き肉を食べてみた。
ショウアン「・・・・・・!!」
「ううッ!!こ、この味は確か・・・!!」
リー「気づいたようだなショウアン」
ショウアン「はッ!!」
リー「‘幻‘の麻婆豆腐を作った料理人こそ、‘四川料理の仙女‘とうたわれた『菊下楼』先代楼里長パイ―――即ち、おまえの恩師でありマオの母親だ・・・だからこそおまえ達にこの課題を出した」
マオ「・・・!!」
ショウアン(パ・・・パイ師の麻婆豆腐・・・!!!)
リー「・・・しかし・・よくぞ気づいたなマオ・・・・」
マオ「‘課題‘から・・・‘幻‘のマーボは母の料理ではないかと思い、提督が来られた頃の『産業年鑑』を調べたところ、‘今からちょうど十年前・・・この付近一帯に牛の疫病が流行って肉が手に入らず、麻婆豆腐を作れない年があったことが分ったんです」
リー「そうか・・・私が来たのはこの年だったのか・・・・」
マオ「麻婆豆腐はみんなが何より楽しみにしてる菜譜・・・母は・・・全く別の素材でマーボを作ろうと試行錯誤していました・・・・その試作をあの頃僕たちもよく食べさせられたんです。当時の味の記憶をたどっていき、僕はその素材を大豆と確信しました。すみやかに優しくタンパク質を補給してくれる、この‘大豆マーボ‘こそ提督も十年前に召し上がった‘幻‘の麻婆豆腐だったんです」
リー「・・・・するとマオ、おまえは幼児の頃食べた味から自力でこの素材を解明したのか・・・・!!」
マオ「はい・・・母さんの味は一度でも食べたものなら、全部憶えています・・・・」
リー「・・・・・そうか・・・ショウアン・・・無論おまえにもこの味は受け継がれていたはずだな・・・」
ショウアン「は・・・・はは・・・・・!!」
(た・・・確かにマオの母親のパイ師の味だ・・・ただ十年も昔の‘幻‘のようにはかない味の記憶をたどり、大豆とまではつきとめるとは・・・!!この小僧・・何というヤツだ!)
リー「ショウアンのマーボも確かに見事であった。しかし・・・この勝負の結果、もはやわかっていような・・・!!」
ショウアン「・・・・・!!!」
リー「・・・・第六の‘味‘―――‘スー‘・・・・・十年もの間ずっと不思議に思っておった・・・・挽き肉のしつこさがないさわやかな口あたり・・・この上なく繊細な‘肉‘の舌ざわり・・・豆腐と肉が調和し、舌の上ですばらしい曲を奏でる‘幻‘の麻婆豆腐・・・!!よくぞ解明した!!見事だマオ!!」
マオ「やったよ姉ちゃん、やっぱり母さんの味だったんだ!!」
カリン「キャ―――ッ、マオ―――ッ」
観客たち「信じられねーよ、マオ――――!!」
「マオ――――ッ、おまえすごいヤツだったんだな――――ッ」
「それっ、新料理長殿、肩車してさしあげよう」
ショウアン「・・・・・」
(『菊下楼』料理長の栄誉が転がりこむはずが、厨師の資格永久剥奪とは・・・!!だが・・・断じてこのままでは終わらんぞ・・・!!おぼえてろよマオ!!)
リー「マオ、このすばらしい‘大豆マーボ‘、皆にもふるまってやれ」
観客たち「や、やった!!」
「食べていいんですか!!」
観客たち「牛肉に勝るとも劣らぬうまさだ・・・・!!」
「ああ、しかもさっぱりしてるからいくらでも食えちゃうよ」
「パイさんの味か・・・しかし惜しい人を亡くしたな」
部下「・・・・わずか十三歳の総料理長誕生というわけですか・・・・しかし閣下・・・僭越ながら、あのあどけない少年に四川省随一の菜館は荷が重すぎるのでは・・・」
リー「フッ、そうかな?」
リー(古来、すぐれた料理人は味の記憶・心像だけで全ての構成素材にまでさかのぼれるといわれる・・・私ですら解けなかった‘大豆肉‘を、十年も前の味の記憶からよみがえらせたあの少年には、四川省随一の菜館さえ役不足かもしれぬわ・・・・・!!)
(続く)
(つづく)
最終更新:2019年03月19日 20:31