朝比奈隆は基本的にはイタリア語のテキストに忠実に訳しています。ただ、音楽に合わせるために訳語変えているところもあります。対訳で難しいのは、繰り返しの場面です。繰り返しが同じ訳の場合は、省略してありますが、同じテキストで訳語が異なるときは、訳をつけておきました。例えば第1幕でケルビーノが歌うアリア『自分で自分が分からない』では Ogni donna mi fa palpitar という言葉が3回続けて出てきます直訳は「どんな女でも胸を高鳴らせる」という意味ですが、それを朝比奈は「なぜだかわからない 女を見ればすぐに この胸はどきどき」と3回の繰り返しを効果的に訳しています。また重唱で、同じイタリア語なのに役によって訳語が違うという箇所もよくあります。そういう場面は、役ごとに訳をつけておきました。例を挙げると、第2幕でアントニオが壊れた植木鉢を手に出て来て、Ascoltate, Ascoltate! 「き、聞いてくだされ」というと、もともとは伯爵夫人、スザンナ、伯爵、フィガロの4人が揃って Via, parla, di', su, Via, parla, di', su.というのですが、朝比奈訳では、伯爵夫人、スザンナ、伯爵は「そのわけを 話しなさい」とそのままの訳ですが、フィガロには「気のきかぬ 老いぼれめ。」と歌わせています。フィガロがみんなの気持ちを代弁しているといったところでしょうか。