ツーンド教(市民ヴァンジェ語:tsūng)とは、
ラヴァンジェ諸侯連合体の国民の一部が信仰する世界宗教の一つ。観察、認識、方法、実体を指す観識術具(dûk zhìng dūt fõn)を重視する。
概要
ツーンド(市民ヴァンジェ語:tsūng、
候式ヴァンジェ語:tsuund)とは、原語で「信じる事」を表す単語である。この単語が表すのは何かを信じるという行為そのものであり、現世における宗教のような何かを対象として信じる行為がこの宗教の根源にあるわけではない。ツーンド教には特定の神や精霊のような超自然的存在は実体的に捉えられているわけではなく、そういったものは抽象的に世界の基盤的性質に存在するとする。このため、他の宗教の信仰の対象を取り込んでしまいがちなのもこの信仰の特徴である。
根幹教義
ツーンド
ツーンドにおいて重要なのはまず「信じる」という行為自体である。これは世界において人間が動き出すためには何かを「信じる」ということが必要であることが前提とされていることに基盤をおいている。極端な論ではあるが、我々人間は「歩く」という一つの行為でさえも、その歩みを進める先に画鋲が無いことを信じて歩いている。このような「信じ」を日常的に素朴な領域に飲み込まれずに自覚することがツーンドの初手とされている。現世の近代人は誤解しやすいが、何かを信じるという能動的な行為からツーンドに入るのではなく、ツーンドは既に何かを信じていること(ツーンド教では原信仰/tsūng zõnと呼ぶ)を自覚し、検討するということに重点があるのである。
ツーンド教の信者は1)信じる対象、2)信じるという行為自体、3)世界の構造の3つの分析を通して形而上学的な領域における個人ごとの真の「信仰」に至ることによって生に制限のある人間としての「本来性」に基づき、その個人の本来、即ちその者のみに課せられた絶対的で唯一の使命を実現することを目指す。
観識術具
観識術具、すなわち「観察、認識、方法、実体」はツーンド教における根本概念である。ツーンドにおける分析対象に対する分析過程のカテゴリである。例えば、「信じる対象」を分析する際には、対象の観察、対象の認識、対象の方法(過程)、対象の実態(存在)が分析過程のカテゴリとして浮かび上がる。
これがカテゴリ化されているのは論者や宗派によって、分析の流れがまちまちであるからである。あくまでもツーンド教の根本教義は「生き方を検討する姿勢」でしかない。上記でも述べたが、ツーンド教は何らかの外来的な信仰を信じるわけではない。人間本来或いはその個人が持っている固有の「信じる」ということや対象を検討することを通して、個人の自己実現を達成することを目指す。
他者保留
ツーンドにおいては、自己のツーンドを分析する一方で他者を保留することも重要とされる。人間が素朴に生活する上で、ツーンドを実践するならば自己の保全のために他者との社会的共同が必要である。
他者をかなぐり捨てて自己の探究を行うことはできない。
このため、ツーンド教を実践する者は他者の信仰に対して直接的な否定を行わない。如何にそれが愚かに見えようとも、近代啓蒙的な意識を持たずに「その信仰が成立したのは、何らかの利益が信徒である個人それぞれに分散的に存在するためだ」という前提を持って、他者としての私(I)のツーンドの分析に望むということが重要視される。
このため、ツーンド教圏では感情的な宗教批判や神の否定は忌避され、教養や議論の力の無い極めてポピュリズム的で低俗な考えとして捉えられることが多い。
宗派
ヴェスリーン派
ヴェスリーン派はツーンド教のなかでも最も信仰されている派閥である。ヴェスリーンとは「徳」を表す侯式ヴァンジェ語であり、この派閥の特徴を如実に示している。
ヴェスリーン派は人間の原信仰のうち第一のものを「徳」とする。ここでの徳とは、(知っている)因果性を信じるということであり、ヴェスリーン派はこれを自覚することによって因果性以前の世界に意識を向けることで世における幸福や悲劇を受け入れる論理的な準備をすることが出来るようになるとされている。
徳概念とは
ここでの「徳」概念を更にわかりやすく説明するなら、例えば「良いことをすれば、自分に返ってくる」(
公正世界仮説
)という素朴な信念は「徳」の一つである。ヴェスリーン派では、これを自覚して対峙することになる。対峙の結果、「世界が公正に出来ているという証拠はない」だとか「良いことが返ってくるのは、同じように豊かになることに関してのみである」などの新たな「徳」が生まれる。ヴェスリーン派では、「徳」を連続的に解体していくことで本来性に近づいてゆく。
徳の解体
徳の解体に関してはヴェスリーン派内部でも複数の解釈があり、一定しない。
- 徳の解体は微分的なものであり、完全な徳の解体はありえない。ツーンドにおける本来性とは徳を断続的に解体し続けることである。
- 徳の解体には終着点やゴールのようなものがあり、完全な徳の解体は成し得る。ツーンドにおける本来性とは徳の解体の完了である。
マディル派
マディル派はヴェスリーン派に次ぐツーンド教の宗派である。マディルとは「目的がない」という意味の侯式ヴァンジェ語に基づく。マディル派はツーンドにおける人間の「本来性」が正しく立証されていないとして、否定する。このため、「本来性」があるかどうかは不明として、この議論を延長して生活空間における時間や空間を素朴的な認識=本質的ではない認知として否定的に捉える。
一方で、「今ここ」のツーンドに対する検討を通して、その素朴性を解体する。このためにマディル派における人間・個人・社会などは圧倒的に解体され、バラバラになってしまう。しかし、人間は死ぬまで生きることを課せられている。このため、解体された素朴性を認知し、それを個人がそれを知った上での自由意志で拾い上げ、アイデンティティとして身にまとうこととその解体を繰り返すことが個人の最大幸福に達する道であると信じる。
「今ここ」のみ ―― 非存在
マディル派の考察には、「今ここ」しかない。「今ここ」は現在やこの場所というわけではなく、ただ全ての存在の本質的な在り方としての時間や空間の否定である。根源的なこの点ですら、場所ですら、存在ですら無いそれ。それが人間以前であり、全ての存在はそこから恣意的に発生する。このようなそれを「純粋意識」と呼ぶ。
最終更新:2024年03月22日 20:21