父と娘 > 1


信号が、青に変わった。
一歩早く、娘が駆け出して、横断歩道を渡る――

おい走るな、と言おうとした矢先。
コツン、とつまづいた。

「あ」

続けて、ばたんと地面に倒れる。

――やっちまった。

案の定、それを契機に、娘が泣き出した。


「ちっ、泣くなら転ぶなっての」
俺はうんざりしながらも娘を抱え上げ、横断歩道を渡った。

4歳の娘は、まだびーびー泣いている。
こうなったら、いくら手馴れたおばちゃんがあやしたところで効果はない。
俺はそのことを経験的に知っている。


日の傾き具合を確かめてから、意識を集中させる。

クラクション、風がビルを掠める音、ショップの店頭で呼びかける売り子の声。

その場に存在するあらゆる音が、次第にまとまりを持ち、シンフォニーを奏でる。
リズムに乗って、整列した音があたりを包む。

娘はすぐに泣き止み、きゃっきゃ笑っている。

――ゲンキンなヤツだ、誰に似たんだろうな?


+ + +


スーパーで買物を済ませ、家路に付く途中だった。

ビルのオーロラビジョンでは、海の向こうの東洋の国の学者が、なにやら解説していた。

俺は足を止め、画面に見入っていた。
それが、例の「能力」に関することでなかったら、さっさと帰宅して、娘のために晩ご飯をつくっているところだった。

しかし――

「ヒルマ博士、か」

例の「能力」の研究では、第一人者だ。といっても、一般にはまだあまり知られていない。

俺だって、この「能力」に気づかなかったら一生縁の無い人物だっただろう。


あの、「掏り替え子の日」からまもなく、彼は「能力」の存在に気づき、研究を進めていたと言う。

2000年2月21日。

俺にとっては、複雑な思いの日だ。
隕石が衝突したまさにその日に、妻は死に、娘は生まれた。


妻の死因は出産に伴う多量の失血で、隕石とは直接関係が無いのだが、
俺は、あれが全ての災厄を運んできた忌々しいものに思えてしょうがない。

あの日以後、人々は様々な能力を手にすることになったようだが……
俺にとっては、そんなことはどうでもよかった。

しかし皮肉にも、俺の「能力」はなかなか生活の役に立ってはいるのだった。

その場に存在するありとあらゆる音を、意図的に鳴らしたり消したりし、音楽を奏でることができる。

その能力に気がついたのは、娘が生まれて1年ほどたった後だった。


+ + +


「この通りだ……なんでもする。どうか、仕事をくれないか」

俺は昔の友人に土下座をして頼み込んだ。

「おい、そんな真似よしてくれ。奥さんを喪って、心中察するよ……けど」

友人はちらりと傍らにあるベビーカーを見た。

「託児所が無いんだ」

「助手席に、乗せていく。世話は自分でするよ……形振り構っちゃいられないんだ」

「バカ言うな! まだ赤ん坊だろ?」


隕石が衝突したあと、俺は娘を連れて祖国に帰った。

タクシー会社をやっている友人の元で、運転手として生計を立てていくしかなかった。

ベビーカーを押して営業所へ行く。
助手席にチャイルドシートを付け、娘を乗せる。
それで後部座席に客を乗せるという、ムチャクチャな仕事をしていた。

当然、泣き出したりもする。

>「おい、なんだこのタクシーは! 赤ん坊なんか載せてんのか。つまみ出せ、オレは赤ん坊の泣き声が嫌いなんだ」
>「こんな小さい子を連れ回して。非常識なんじゃないの?」

俺は男だし、赤ん坊をあやす術など何一つ心得ちゃいない。
なにか面白がらせようと思い、リズムに乗せてハンドルをボールペンで叩いたのがきっかけだった。


娘は、リズムや音楽が聞こえるとピタリと泣き止んだ。

以来、俺は娘の機嫌が悪くなりそうになると、指を鳴らしたり口笛を吹いたりした。

しかし、客を乗せて運転している最中にそんなことはできない。

ある日、気難しそうなやくざ者を載せていた時だ。

娘が、グズりだした。

――まずいな。

客は、明らかにイラついている。
今にも懐から拳銃でも出しそうな気配だ。
しかも悪いことに、渋滞していてクラクションがあちこちで鳴っていた。

――鳴らすなら、せめて音楽奏でるみたいに鳴ってくれねぇかな……

祈るような気持ちでそう考えていたとき。

けたたましく鳴っていたクラクションが、次第に形を揃えて、秩序だってきた。
耳をすまして、良く聴くと、それは明らかに意図をもって鳴っているかのようだった。

奏でられた「音楽」は耳障りが良く、娘はまるでそれにうっとりと身を委ねているように、静かになっていた。

後ろの客は、ため息を一つ吐くと座席に沈み込んで寝に入った様子だった。


それ以来、ことあるごとに俺はその「能力」を試してみた。

耳に入る音を、いったんすべて引き受けて、イメージする音列に並べる……

そのとおりに、その場の音たちは、鳴ってくれた。


娘は、それをいつでも喜んだ。

この「能力」のおかげで、娘をあやすことは容易になった。
欲を言えば、料理が美味しくできる能力とか、掃除が一瞬でできる能力なども欲しかったのだが。


シンヤ=ヒルマ博士によれば、「能力」は一人に「2つ」授けられているのだという。

「昼の能力」と、「夜の能力」。

2つを同時に繰り出すことは、自然科学的に、不可能だ。
つまり、昼間・夜間それぞれの時間に於いて、人は一つの「能力」しか発揮できないのである。

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最終更新:2010年06月15日 22:45
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