+ + +
――どこだ。
響かなくなると、たとえようもない不安に駆られる。
音は、間欠的に俺の頭に響いてくる。
それを頼りに、俺は娘が知っているであろう旋律を、夢中で奏で続けた。
この感覚は、何かに似ている。
なんだろう……?
そうだ、ドラムソロだ。
周囲のメロディ楽器、コード楽器の音が一切無くなるその空間は、
例えるなら海の真ん中に命綱無しで放りだされるような感覚だ。
けれど、そこに自分の居場所を刻むがごとく、スティックでスネアを叩き、バスを踏み、ライドを鳴らし、ハッツを閉じる。
そこに、「自分の音」だけで編まれた空間が、出来上がる。
自分の音で、自分を鼓舞する。
そしてさらに自分の音を叩き、紡ぎだす。
俺の鳴らすメロディは、高速のビ・バップフレーズ。
ハイテンポでスリリングに、俺の精神を高揚させる。
一歩間違えば破綻しそうな緊張感と、グルーヴに乗ってなんでも出来そうな錯覚。
それらが混在して、俺の脚を駆り立てる。
「アイリン! どこにいる!?」
脳裏に聴こえる音を頼りに、娘の元へ、走る。
銃声が聞こえてくる。
おそらく敵方の人間が、俺を見つけて発砲してきているのだろう。
――手前らなんぞの弾に、当たるかよ。
弾丸は、俺に着弾しない。
俺は音の強くなる方角へ、一心に走る。
+ + +
音が聴こえなくなった。
焦って腕時計を見て、そして理解した。
日が暮れたのだ。
日没までの時間を示す小窓は、日の出までの時間を示す表示に変わっている。
ペンダントと交換で、麻衣子から贈られた腕時計。
文字盤に小さな時計が付いていて、日没まで後何時間か分かるようになっている。
日没までの時間はリセットされ、新たに日の出までの時間を刻み始めていた。
アイリンの『音を送り込む能力』は、昼の能力。
日が暮れると使えなくなる。
それは、俺の『音を奏でる能力』も同じだ。
俺たちは互いに、相手に存在を知らせる手段を失ってしまったことになる。
となると……
日の出までの間、ここを離れずに身を隠しておく必要がある。
ここは、連中――FOGなる人物と『ドグマ』とかいう、今の俺からすれば敵対組織――の、お膝元であるらしい。
下手に動けば、たちまちやられてしまうだろう。
しかし俺は、そんな冷静な判断を出来る状態じゃなかった。
闇雲に、娘の手がかりを求めて、暗いコンビナートの中を歩き回る。
人の声と、人の足音が聞こえる。
探し物をしているような感じだ。
そしてその“探し物”は、この俺に違いない。
敵か、味方か……。
どちらであっても、捕まるわけにはいかない。
物陰に身を隠し、近づいたところで、俺は飛び出した。
掌に意識を集中させ、すかさず相手の頭を掴む。
手の、指の付け根あたりが一瞬きらめく。
手に掴んだ頭ごと、“吹っ飛ばす”イメージを、強く、念じる。
相手が、昏倒した。
目が覚めないことを確認し、俺はその場から走り去る。
日の出まで、あと8時間。
+ + +
+ + +
足が向かう先の方で、女の悲鳴のような、身の毛もよだつ鳴き声がした。
薄暗い通路の底で、大きな翼のような羽音も聞こえている。
思わず立ち止まり、様子を伺う。
闇の奥に、大きさは人の背丈ほどもあろうかというほど巨大な、カラスが2羽(2頭と言ったほうが適切か)、立っていた。
その胸元には、紫色の石がぼうっと輝いている。
――『キメラ』の一種か。
アルプ……とでも呼ぶのか。
ハーピー、あるいはハルピュイアともいう、怪鳥。
その片方が、嘴を、にやりと歪め(あり得ないことだが)、こちらに飛びかかってきた。
俺は手に意識を集中させ、カラスめがけて突き出した。
今まで同様、こいつも眠らせてやり過ごす手筈だった。
だがしかし。
カラスは、何の妨害も受けず、まっすぐに俺に飛びかかってきた。
俺の左手は、かすかな光を帯びてカラスの頭を掴む。
しかし、カラスは一向に攻撃を緩めない。
狂ったように、嘴から涎を垂らしながら、額や頬や鎖骨の辺りを抉る。
もう一頭も、俺の太ももを鷲掴みにし、爪を立てて、肉を毟る。
血が溢れ、それとともに体温が奪われていくのが分かる。
腕や脚をめちゃめちゃに振り回すが、二頭はまったく怯むことなく、俺を血塗れにする。
――なぜだ。なぜ、意識を飛ばすことが出来ない!?
俺は焦った。
無我夢中でカラスを振りほどき、奥の通路へ走り出す。
「すでに意識が混濁している存在を、いくら意識低下させても無駄なのですよ……」
やや高い、男の声が聞こえた。
ぞっとするほど冷たい、そして嘲笑を含んだ声だった。
+ + +
「どこへ行かれるんです? えらくお急ぎのようですけれど……」
走りだそうとした行く手の先に、奇妙な形をした黒いシャツを着た男が、腕を組んで壁に凭れて立っていた。
細く、しかも笑っているような目つき。ひっつめて後ろで結んだ長い髪。
年齢がよく分からない。若者のような気もするし、ある程度年をくってスレた雰囲気もある。
一言でいえば、「道化師」のような雰囲気を纏った、不吉な感じのする男だった。
「ネズミが数匹、入り込んだようですねぇ……そういうのは、見つけ次第始末するのが鉄則です」
男が右手を振り、二頭のカラスが俺めがけて飛びかかってきた。
そのとき。
どこかから、煙が漂ってきたようだった。
視界が白く濁り、むせる。
その影響を著しく受けていたのは、この狂ったカラスたちだった。
煙を逃れるように俺の身体から離れ、煙の薄い方へ飛び去る。
「ゲホッ、おいお前たち、何をやっている!?」
男が、煙にむせながら甲高い声で叫んだ。
その機に乗じて、俺は連中から逃げ出した。
全身が、痛む。
カラスどもに体中キスされて、キスマークならぬ咬傷まみれになっているのだ。
血糊で身体があちこちべたつく。衣服についた血糊はもう固まり始めている。
よろけながら、通路を勘に任せて彷徨う。
不意に、また人影が現れた。
拳銃をこちらに向け、立っている。
――もう、これまでか。
そう思った瞬間、
「伏せろ!」
その声に、反射的に地面に這いつくばる。
前方の人影が、拳銃を撃つ。
俺のすぐ背後で、うぐっ、という声がした。
続いて、人が倒れる音。
「もう顔を上げていいぜ、」
聞き覚えのある声だ。
「運転手さん」
俺は、身体を起こして銃を撃った人物を見た。
眼鏡を掛けた若者が、バンダナをマスクのように巻いて立っていた。
+ + +
「歩けるか」
大丈夫だ、という代わりに俺は首を振り、歩き出した。
眼鏡の若者も、無言で一緒に歩き出す。
あたり一面が煙で覆われていて、白く霞んでいる。
不思議なことに、俺たちの周りだけが煙に巻かれずにクリアな空間を保っている。
給水塔が見えた。
理屈じゃない、直感で、俺は螺旋状の階段を登る。
上がったところにある小屋の扉を開ける。
「んー! んんー!!」
――ったく、いつの時代の刑事ドラマだ。
ステレオタイプな「猿轡」を噛まされ、
アイリンは、そこにいた。
「あ゛ーん、お父さーん!」
娘が、泣き腫らした顔で抱きついてくる。
良かった、無事で。
しかしそれも、今この場でだけの話。
ここから無事に逃げ果せなければ、何の意味もない。
「急げっ!」
眼鏡の若者が、短く叫ぶ。
すでに追っ手が追いついてきているのだ。
「お、お父さん……」
娘が、怯えきった顔で俺を見つめる。
小さな肩が、震えている。
かわいそうに。
怖かったな。
でも、もう大丈夫だ。
これは、悪い夢なんだ。
目が覚めれば、平和で退屈な、いつもどおりの朝がくる。
俺は指先に力を込め、娘の額をちょんと触った。
眠った娘を背負い、小屋を出る。
眼鏡の若者とともに、俺は走った。
+ + +
+ + +
一体、追っ手というのは何人いれば気が済むのか。
行く先々で、ブラックスーツにサングラスを掛けた「追っ手」がわらわら出てくる映画があったが、あれは気持ち悪かった。
なにしろ、全員が同じ顔をしているのだ。
あの時、主人公はどのようにして危機を乗り切ったんだったか……。
その方法を思い出したところで、何の役にも立ちはしない。
現実の世界で俺は、通路にへたりこんで、たった一人で、
おそらく何十人はいるであろう「追っ手」の連中と、銃撃戦をやろうとしているのだ。
俺の手には、さぞかし強力な火器があると思うだろう。
俺だって、そうだったなら、何十倍も心強い。
けれど、俺の手にあるのは……
通路に落ちていた、ボロい傘ひとつだ。
その傘を、さっきまではライフル銃よろしく小脇に抱え、あまつさえ的を狙い撃つ仕草までやってのけた。
ああ、くそ。痛みで頭がボーッとする。
気を失っちまう前に、さっきまでのことを整理しておこう。
+ + +
タタタタ、とタイプライターを打つような、軽快な音が響く。
そして、すぐそばの壁や柱が蜂の巣になる。
「タイプライター」とはよく言ったものだ。
こんなにも血生臭くおそろしい「タイプライター」なんか、あるものか。
眼鏡の若者が、右だとか伏せろだとか、指示を飛ばしながら走って逃げていたので、かろうじて被弾をかわすことが出来ていた。
しかし、本当に「かろうじて」、だ。
トンプソン・サブマシンガンを掃射され、俺はついに脹脛に食らってしまった。
続いて、左脇腹を掠った。
もんどりうって転げる中、娘をしっかり抱いて俺は覚悟を決めた。
腕時計は、さっき確認した。
俺は近くに落ちていた傘を拾い、バンダナの若者に言った。
「娘を連れて、逃げてくれ。俺はここで追っ手を引きつける」
「バカ言ってんじゃねぇぞ! なんでオヤジが娘を他人に託すんだよ!? ここはオレが」
バンダナの若者は、拳銃を手に俺の背後に仁王立ちになった。
「俺は、もう走れない。どのみち、逃げ果せることは不可能だ……。
あんたは、なんだか分からないが“軍人”みたいなものを感じる。
あんたなら、娘を、アイリンを、無事にここから逃がしてくれる……だから、あんたに託すんだ」
「……」
「あんた、『クエレブレ』って呼ばれてるのか」
若者は、俺をちらりと一瞥し、
「余計なことを考える余裕があるんだな。その名前で呼ぶのは勘弁してくれ」
拳銃をしまうと、眠りこけたアイリンを抱き上げた。
「余裕が無いから、こんなくだらないことが気になっちまうんだ」
俺は腕時計を外し、娘の細い腕に巻きつけた。
「オレは……そうだな、『テツ』とでも覚えておけよ。あんたはそう呼んでくれなきゃ、返事しねぇぜ」
バンダナマスクを顎まで下ろし、怒ったように言った。
無精髭が、かすかにきらめいて見えた。
「頼んだぜ、テツ。こんどハイボールを奢らせてくれ」
俺は傘をつかみ、追っ手の来る方向に向き直った。
「絶対だぞ、忘れんなよ。オレは『白角』以外は認めねぇからな」
娘を抱き、彼は走り去った。
+ + +
+ + +
傘をライフルのかたちに構え、散弾銃の音を鳴らした。
「へ、こんな身体張ったギャグ、『SOUTH PARK』にも出てこねぇや。
傘を銃に見立てて、音だけのこけ脅しでモノホンの殺し屋どもに喧嘩を売ってるなんて、相当にアタマがイカれてる」
あちらさんの焦りを誘うつもりで、この国の警察のパトカーの音をフェードインさせた。
少しずつ、コンビナートの路地に明るみが差して来る。
もう少しすれば、夜明けだということが分かるだろう。
さっきから、銃声がしなくなった。
様子を見ているのか……。
一人の人影が、向こうから歩いてくる。
銀色の長髪。トレンチコートを着崩して、帽子を胸のあたりに抱えながら。
「Mr.Anderson」
コートの男は、流暢な――というより、おそらくこっちが母語なのだろう――で、俺に呼びかけた。
「Why? 貴方はワレワレに楯突くのか? まったく利益の無いコトでス」
「誘拐は立派な犯罪だ」
「友好的に、チカラを提供して貰えさエすレば、いいことでス。
拒むヒトには、心肺停止状態になってモらいましタ。イタシカタナイことでス」
「テメェらは、ひとを殺して能力を奪っているそうだな」
「オゥプス……ッ! 情報操作とは、オソロシイものでス。
いいデスカ、よ~く考えてクダサイ、ミスター・アンダーソン。
この、バッフorエグザ。一体、どれだけのヒトが、ユウコウカツヨウしていると思いマスか?
ほんのひとつまみのヒトタチに過ぎないデショう。
これは、Chanceなのデス。
この腐り切った世の中……
文化を守ると言いながら、一方で作者が死んでいることをいいことに原作レイプを繰り返すテレビ、
その腐ったテレビに言論を操作されている一般市民、自分で正しい情報を求めることもしない、
ただ垂れ流された情報を鵜呑みにして知ったような口を利くだけ、そしてマニフェスト詐欺を堂々とやってのける政権与党、
テレビは女優気取りの半人前女子アナ、ニュースもろくに読めないのに偉そうにコメントなぞを吐いてのける、
そんな連中が支持するヒットチャート、オリジナルを過小評価する一方で、カバーした芸人崩れを
『アーティスト』などと褒めそやして持ち上げる、パクったとしても元ネタを知らない人間が多いからバレない、
CDは売れない本は売れない、本当に気概のある創作者ほど冷や飯を食わされている、
そして今度は仕分け、美術館も博物館も潰されかねない、文化を育てる努力を蔑ろにしておいて、
いまさら『生きる力』だの『母国を愛する心』だの、ちゃんちゃらおかしい。
……こんな世の中をchangeする、またとないChanceにアナタは」
「あんたの言うことは半分以上理解できないが」
俺は傘を杖替わりにして立ち上がり、
「つまるところ、俺が求めているのは――」
背中に激痛が走った。
何が起きたか、すぐに分かった。
当然予測できたことだし、そうなるであろう予感もしていた。
しかし、背後……?
あの、若者が俺を撃ったのか?
そんな疑念は、ハナクソ程度のものだ。
土壇場まで、誰かを疑ったままってのは、嫌なものだ。
俺は、テツを信じているし、だからこそ彼にアイリンを預けた。
誰だか知らないが……腕が立つことは確かだな。
正確に心臓を撃ち抜いている。
気管に、食道に、血液が溢れて逆流する。
額に衝撃が穿たれた。
今度は前から撃たれたか。
たぶんフォグの仲間どもだろう。
頭蓋が揺さぶられ、視界はもはや像を捉えてはいない。
――俺は、バカな男だ。
前から浴びせられる銃弾。
こんなも
登場キャラクター
最終更新:2010年07月16日 09:04